浜サフランが咲いている水のない浜辺を友達と歩いていて、二人とももうそんなに喋ることはないのでお互いに無言で、着ている服がださいこととかを話そうかとも思ったけれども僕もおんなじでファッションセンスなんかないからもしかしたら僕の方がださいのかもしれなくて、それで何にも喋れなかった。
「水のない浜辺」は数年前までは水があったのだけれども、爆弾が落ちてきて干上がってしまって、今では水がなくても生きていける貝類だけがほそぼそと生きているだけの浜辺になってしまった。
僕と友人はその浜辺で潮干狩りをしてあんまり体によくはない重金属を大量に溜め込んだ貝を食べて生きていて、それで最近は少しずつ二人とも体の色が青くなってきたような気がして、お互いに顔が青いな青いなとずっと言い合っているのだった。
青というのは死人の色だというようなことを、民俗学者が言っている本を読んだことがあったから、僕らは少しずつ死人に近づいていっているのだろうと思っていた。
水のない浜辺の真ん中には巨大なシロナガスクジラの死骸があって、それはそのうちに腐敗ガスのせいで爆発するだろうと言われていた。けれども役所も予算がないものだからクジラを沖合へ持って行って沈めることもできないでいて、立ち入り禁止のロープとカラーコーンでふさいでおくことぐらいしか出来なかった。
僕らはよくその傍までふざけて近づいていって度胸試しをしたものだった。でも、クジラが本当に爆発してしまったら骨とかが飛んできて危ないし、本当は近づいてはいけないのだけれども、子供たちはみんな平気だった。
夜、クジラの腐った肉から燐が吹き出して燃える青白い鬼火を友達たちと見るのが好きだったけれども、その子供たちもみんな均等に一人ずつ亡くなっていっていまではこの隣にいる友達一人になってしまった。僕はとても寂しいのだけれども、でも、寂しいというのを口に出していったら天の神様がもっと、僕を寂しくしてくるのかもしれないから(僕は神様を意地の悪い存在だと考えていた)、そんなふうに滅多なことを口に出していうこともできなかった。
クジラの死骸はもう何年も爆発もせず腐りもせず、いつまでも水のない浜辺の真ん中で横たわり続けていた。
「なんとなく、今日クジラ、爆発しそうな気がすんな」
隣を歩きながら友達がいう。僕はそんなことはないんじゃなかろうかと思って、何の根拠で? と聞いたけれども、友人はなんとなく、と答えて、でも彼の言うことはけっこう当たって、友達の一人が高波にさらわれて小さく白い点になってしまった時も、腸炎ビブリオに罹ってこの世から居なくなってしまった時も、だいたい彼の予言は当たったのだった。昔、彼の高祖父に当たる人が、御嶽講で中座をやっていたというから、その先祖返りなのかもしれないと僕は思っていた。
「爆発しないクジラは爆発しないよきっと、いつまでも、僕はあれはもうミイラになってしまっていると思うんだよ。この環境で、ずっと湿度のない、乾いた風が南から吹いてきて……」
「今日だと思うんだ、たぶん」
友人は繰り返し言った。何の根拠もないのだろうけれどもそれは彼にとっては本当のことみたいだった。
それで僕らは浜辺に座ってクジラの爆発するところを見ようと言うことになって、友達が持ってきたレジャーシートを敷いて、水を汲んで持ってきていつでも飲めるようにして、それから四角形に切り抜いたベーコンに砂糖をまぶして固めたものをラップで一個一個包んでいったものを紙皿の上に乗せていつでも食べられるようにしておいた。そういうお菓子作りは友人が得意で、食べられなさそうでなんとか食べられる缶詰を缶詰倉庫からみつくろってきてなんとか口に放り込んでもまずくはないような料理にしてくれるのが本当に得意なのだった。
日が傾いてきたけれどもクジラはまだ爆発しないで水のない浜辺の真ん中でひっそりとしていた。声の出ないように進化したカモメが空を飛んでいて時折クジラの肉をついばんではあんまり美味しくないのかそのまま飛んでいってしまった。
僕は退屈してきて友人に、いつになったら爆発するのだろうと尋ねるけれども、友人は「今日だということしか分からん」と言ってベーコンの包装をぱりぱりと剥がしながら口に運んでいた。僕はバケツに入れた水を飲んだ。水は水銀の匂いがした。
そのうちに夕方になった。水のない浜辺は入り江になっているその出口の辺りにある二つの岩の間に日が沈んでいって、砂がオレンジ色に火のついたような色になってきれいで、僕は友人に火が付いたようだねえと言ってベーコンの最後の一個を口に運んだ。友人はそうだねえと言いながらベーコンに手を伸ばして、ベーコンがないのに気づき、最後の一個を食べられてしまったことが悔しくて仕方がないみたいな顔をしていた。
「また缶詰倉庫へ行って缶詰を取ってくりゃいいよ」と僕は言うけれども、友人は「缶詰倉庫は最近きな臭い連中がいるから行きたくないんだよね」と言う。きな臭い連中というのはどうもよその国のやくざみたいな連中らしかったのだけれども、とうとう僕らの缶詰倉庫まで手を出さなくちゃいけないくらい食べ物がなくなってきたということなのかもしれなかった。
紫色のネギの缶詰も青い青ヘビの粉末の缶詰ももうないのだった。
日が沈んでしまって夜になってきて、六月だったから寒いことはないけれども眠くなってきて、ここで寝ていい? と友人に訪ねると、浜サフランが咲いてるから、ここで寝たら中毒になって死んでしまうよと物騒なことをいうので寝ることができない。
クジラなんて爆発するまい。その頃には僕はもうそう確信していて、それでもここで友人と一緒に待っているのは、単に友人ががっかりするところを見たいというだけだったのだけれども、それももう限界に近く、早く帰って寝たいという気持ちがどんどん湧いてきて、僕は友人に「もう帰っていい?」と聞くと友人は神妙な顔をして「だめだ」と言う。
「おれと一緒にクジラの爆発するところを見るんだ」
一体なぜ? 友人は壊れて砂に半ば埋まっている自動販売機を蹴っ飛ばして、賞味期限の切れていないジュース缶を僕にくれた。そうまでして僕と一緒にクジラの爆発するところを見たい理由ってなんだよと思ったけれども深くは聞かなかった。
深夜になって、沖の方ではイカ釣り漁が始まって明かりが灯されて水平線が真っ白になって、僕はうとうととしているとクジラの腐敗ガスに灯って燃える鬼火が出はじめたのでそれを目に焼き付けて眠気を抑えた。音もなく燃える鬼火はともすると目の錯覚かな? ぐらいの弱弱しい炎で、風が少し出てきたら燐の火は吹き消されて見えなくなってしまうくらいなのだけれども、でもあとからあとからガスは湧きだしてくるのか燃えていくのだった。
鬼火を見ながら、友人がぽつりと、「飼っていた金魚が死んでさ」といった。それだけだった。友人はそれから長いこと口を噤んで話そうとしなかった。口に出すことのできない何かが胸まで出かかって詰まっているみたいだった。
一時間ぐらいしてから、「もう行こうか」、と友人が言い、僕は「爆発するところを見ないでいいの?」と言うと、友人は「金魚が死んだから、そのお弔いをするために、ずっとクジラを見ていたんだけど、でも爆発しないみたいだから」と言った。
金魚のお弔いをすることと、クジラの爆発を待つことと、何の関係があるのか僕は分からなかったけれども、友人の中ではあるのだろう。たぶん。
ぜんぜん関係のなさそうなものをくっつけられるのは人間の特権で、彼の中でその二つが、どういうわけか有機的に絡まって、ごっちゃになってしまったことは、それはとくだん僕には責められることではないのだった。
帰り道、夜更けの町では二十日風邪で死んだ人たちを慰める慰霊の火があちこちで燃えていて、その火が空に反映して少し明るく、その明かりの下には何人かの人がいて、夜更けには似つかわしくないほどにあちこちから、人の気配がしたけれども、僕らはそのどれも素通りしてアパートのほうへ戻っていった。
友人のアパートは東の方にあって、僕のは駅の方にあるから、僕らは十字路で別れて部屋に帰っていった。
でもなんだか、いつかクジラが爆発する日まで、僕は友人にしょっちゅう呼び出されるんじゃないかって気がしていた。
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オリジナル小説です