海市(かいし)って知ってるかい?
知らないか、そんじゃ、蜃気楼は?
海の上に出る幻だろって……はいご名答、そして、海市もまた、蜃気楼みたいなもんだ。
何?勿体ぶってないで、最初から人が理解できる言葉を選べ。
いやいやいや、仰せご尤もなれど、「みたいなもんだ」って言っただろ、そこが素人さんのあかさたなって奴だ。
浅はかさだろうって……そう言っちまうと角が立つから、ちょっとしたお茶目で返しただけさね。
別に馬鹿にしてる訳じゃないんだから、怒りなさんなよ、世の中全員が玄人様じゃ、どうやって人は銭を稼ぐってんだい、あんたは何かの玄人であたしゃ何かの素人、その逆もあり、それで良いじゃねぇかい。
世の中完璧な円ばかりじゃどうにもなりゃしねぇ、お互い凸凹してるから、嫌々ながらも、割れ鍋綴蓋こきまぜて、世間様って奴は回るもんだ……。
何、流石に元坊主だ、説教と誤魔化しが上手ぇだと?ちょっ、つまんねぇ事を思い出させるねぇ。
っと、話を戻すぜ、海市と蜃気楼は良く似てる……似てるんだけど、やっぱりちょいと違う。
元坊主と言われたついでだが、言葉の使い分けって奴は、実は殊の外神経を使うもんだ。
でな、字面を見てみなよ、片っぽは蜃気の「楼」で、片っぽは海の「市」なのさ。
そうそう、楼閣はずべーんと高い建物、片や俺らに馴染みの市(いち)さ。
つまりな、浮かぶ建物が違うんだな、これがよ。
触れられない幻じゃ、どっちだって同じだろ?
まぁそうさなぁ、触れなきゃ……そうなんだよな。
それじゃ、こう考えてみな。
その海市の中に入れて、市として物が商われているとしたら。
……どうだい?
「中に入って、物が買える海市のう……」
「実に興味ありまするな、いかなる怪しか、はたまた天地自然の不可思議なるか」
「幻術に関わる事なれば、変面術の使い手には、その芸に資する事があるやもしれぬな」
くすりと笑って、仙狸が少し低い位置にあるカクの顔に視線を落とす。
潮風に、前髪と尻尾をなぶらせながら、心地よさげに目を細めている姿が実に愛らしい。
「とはいえ、主殿から頼まれたのは、妖しのものが関わって居らぬかの調べじゃでな、余り好奇心を優先させるでは無いぞ」
「このカク、しかと心得たり、仙狸殿はお目付けとして、実際の調べは、このカクに万事お任せだい」
「ふふ、元気が良いのう、頼りにしておるぞ」
言うと本人は気を悪くするかもしれないが、この祖母と孫の関係を思わせるような会話を交わしているのは、片や濃い臙脂の紬をしっとりと着こなした美女で、もう片方は、活発そうな唐様の衣を纏った少女であった。
「しかし、こんな鄙びた漁村で、何が起きておるんじゃ……」
仙狸が、どこか憂いを帯びた視線を辺りに投げる。
何も、起きておらねば良いのじゃが。
「何か気になるんだよ、この話」
主が街の呑み屋で、学僧崩れとも、山師ともつかない、怪しげな二人の会話を漏れ聞いて来た話。
それだけなら、山師が語る、いかがわしい噂話で終わった話だったが、程なくして、式姫達も街や市で、似たような話を多く聞きこんでくるようになった。
珊瑚の上質な髪飾りが、凄く安く売っててさ、これどうしたのってオジさんに聞いて来たんだけど。
最近、仏に飾る宝飾を扱う商人の動きが活発よ……何か良質な真珠や螺鈿の原材料の貝が採れる場所が見つかったとか何とか。
吉祥天や烏天狗が、美麗な簪を手に語る言葉に、周囲の式姫も、似たような話を聞いて来たと口を開く。
主や式姫達が、そんな風に、あちこちで聞き及んできた話を纏めると、こんな感じになるそうな。
ある日、漁村に鉄で出来た二枚貝のような船が流れ着く。
密閉されたそれの中には、不思議な、異国人のような美しい娘が乗っている。
その彼女の誘いに乗って、村の男たちが夜に沖に漕ぎ出すと、彼らも知らぬ広い島が現れ、そこには街があり、人で賑わう市が立つのだと。
そこでは真珠や珊瑚を始めとする、海の財宝が、信じられない程に安く売られているのだと。
漁村に戻り、翌日、半信半疑でそれを街に持って行った男たちは、それが高値で飛ぶように売れる様を見る事となる。
本物……しかも上質な。
だが、夜を待ちかねて、再度その市に行こうとしても、それは既に、影も形も無く……。
「それが、蜃気楼なら、やけに景気の良い蛤ねぇ……」
あきれた様子で呟くおゆきに、鞍馬が顔を向ける。
「全くだ、まぁ、確かに妖の身には無用の長物ではあるがね」
だが、無用の長物だけに、逆に売るなどと言う発想も出るまいが。
「龍になれば、今度は光り物をせっせとため込むようになるし、案外先んじて功徳を稼いでるんだったりして」
「寡聞にして、そんな心得と頭の良い大蛤君の事は聞いた事も無いな」
ここに居る一同にとっては、蜃気楼は蜃(しん)つまり、長年生きて、蛟(みずち)になりかかっている大蛤が時折吐きだす気に映し出された幻である事は、常識の範疇。
だが、美女が現れて誘うだの、その海の上に現れる幻で市が立ち、人が乗り込めて、あまつさえ取引までもが行われているとなると、完全に彼女たちの知識と理解の外である。
「仙狸殿、かような話を聞いた事は?」
こういう時、長きに渡り人の身近で生きて来た仙狸の知見は、往々にして彼女より長命な式姫よりも、頼りになる事がある。
蜥蜴丸の言葉に、仙狸が少し考え込んだのち、首を振った。
「蜃気楼では無いが、西の国で似たような話があると聞いた覚えはある」
かつて繁栄を極め、驕り高ぶったが故に、神の怒りを買って、海に沈められた街が有ったそうな。
その住人は成仏する事も叶わず、水底で彷徨い続ける。
だが、年に一度、夜の間だけ、その街は水底から姿を現す。
その一晩だけの間に、その街で誰か、現世の人が買い物をしてくれた時。
その時こそ、彼らは罪を許され、その壮麗な都は水底から浮上し、再び世界に姿を現す。
「その伝だと、今回の市は救われてて然るべきよね」
そしてずっとそこにあり続ける筈。
だが、この話は、彼女たちが把握しているだけでも、三か所での発生が確認されている。
おゆきの言葉に、仙狸は肩を竦めた。
「わっちも唐の国に居った時に、西方からの旅人より聞いただけじゃ、詳細や真偽の程までは……な」
それまで、彼女たちの議論を黙って聞いていた主が、口を開いた。
「皆の話を聞いて、これが普通に見られる蜃気楼じゃなさそうってのは良く判った」
一同が頷くのを見つつ、男は言葉を続けた。
「常には無いって事は、何か妙な力か意思が働いてる兆候の気がする。今は、ようやく海の通商路が復活して、物資輸送が安定化してきた矢先だし、海の異変は早めに対応したい……皆が忙しいのは承知の上だが、調査を頼む」
主の言葉に、鞍馬が静かに頷く。
「良い判断だと思うし、私も賛成だが……さて主君、誰に行ってもらう?」
皆、余り暇では無いぞ。
「それなんだがよ……」
男が苦笑を浮かべた。
「今回はあくまで調査だけを目的としたい……なんで、最近働きづめの式姫に、骨休めがてらで行ってきてほしいんだ」
あの辺には良い湯治場もある、往復含めて半月くらいゆっくりしてくりゃ良い。
そう言いながら、主の視線が、一人の方に向いたのを見て、幾つか頷く頭があった。
「なるほど、世慣れていて人当たりも柔らかく冷静沈着で見聞も広い、聞きこみや調査にはうってつけの人選だ」
「私も賛成よ、最近働き過ぎだし、ゆっくりしてらっしゃいな」
唖然としながら、その言葉を聞いていた彼女に、旅費だと言いながら財布を差し出して、男はにまっと笑った。
「ってわけだ、悪いけど頼むよ、仙狸」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/949139
海市と蜃気楼の使い分けに関しては、私のオリジナルで、実際には厳密な区別は無い模様です、ご注意下さい。