小夜を担ぎ上げた猿神が森に駆け込む。
それを見た童子切に、一瞬の逡巡が生まれた。
どうする。
あの少女を助けるか。
それとも、見捨ててこの場を去るか。
今から彼女を追ったとしよう。
その道の果てを、熟練の戦士である童子切の理性は二つしか指し示さない。
一つ、彼女の救出は間に合わず、封を解かれた青行灯と戦う。
一つ、救出は間に合うが、彼女を庇って、青行灯と戦う。
つまり、どの道、あの少女の命は絶望的。
そんな絶望的な代物に賭けて、己が滅ぶ事はないではないか。
彼女は、己の存在を賭けてまで、守らねばならぬ存在なのか?
何の得が有ると言うのだ。
自分は刀。
冷徹にして犀利なる、戦場を生きるための道具。
その本質が囁く。
生き残れ。
己で己を守れぬ者は……結局、死ぬしかないのだ。
「そうですよね」
それが……恐らく正しいのだろう。
耳元で風がびゅうと唸る。
枝を蹴る音、葉が擦れる音。
小夜の頬や腕を時折、鞭のように枝が、ぴしりと叩く。
痛い。
だけど、小夜は悲鳴を上げたりせず、ぐっと声を飲み込んだ。
さっき、生まれて初めて、死を間近にする程の、怖い思いをして判った事が一つある。
声を出すと、悲鳴を上げると、その分力が抜ける。
怖いを飲み込め。
目を閉じると、闇の中で恐怖は余計増すだけ。
どれ程怖くても、目を開いて、今起きている事を見ろ。
そして。
視界が急に開けた。
高い木の上から、猿神がひょうと飛ぶ。
淡い月明かりの中に、しらと輝く、白木の社。
村人が……私が。
あの女に、青行灯という妖怪に騙されていた、それは証。
怒りが心の中で滾(たぎ)るのを、小夜は感じ……少し笑った。
少なくとも……自分はまだ、あの妖怪に囚われてはいない。
その社の前に立つ、青白い炎を纏って奴は居た。
こちらを見上げてにんまりと笑う。
その顔を、小夜は睨みつけた。
絶対に、諦めない。
地に下りた猿神が、思ったより丁重に小夜を降ろした。
その前に、奴が立つ。
「お早いお帰りじゃったな、小夜姫、次の旦那は少しは生娘に優しくするように言い含めて置いたで、ゆるりと楽しまれるが良いぞ」
「一つ聞かせなさい」
青行灯の淫猥な軽口に乗らず、昂然と顔を上げて、小夜は逆に質問を返した。
その、怖気ぬ様子を不興気に、だが若干の興をそそられた様子で、青行灯は笑った。
「何じゃな?」
「父上は……貴女は父上を一体どうしたのです?」
「ああ、あれ……」
興味も無さげに。
人では無く、物、それもがらくたを扱うような声で。
「妾からは何もしておらぬ」
「嘘!」
「嘘では無い、あれは、自分で物語に囚われ、自分で魂を失っただけ」
「物語?」
「そう、物語」
昔は良かったと。
自分は本当なら、こんな所には居ない筈だと。
こんな、痩せこけた土地で、しなびた大根を齧って終わる人間では無いと。
「あの男が、今を認められずに紡ぎあげた夢物語、その夢を愛し、現実を拒絶し……」
にたりと青行灯が笑う。
「その夢の為に、娘を人身御供に差し出したのよ……畜生の妻としてねぇ」
ほほほと笑う青行灯の声を聞く、小夜の目に、涙が一筋伝った。
「……父上」
小夜には判った。
この言葉には、少なくとも嘘は無い。
この妖怪が現れる前から、父は、この山里を嫌っていた。
そして、そこで生まれた小夜も。
じいに教わって、こっそりと、この小さな手を泥で汚して、育て、初めて生った野菜で、食事を作った時。
それを投げ捨て、踏みにじった、あの、憎悪に満ちた父の顔が。
「おう……おう、我が娘が……爪の間に泥を残して、手に豆を作って、大根なぞ」
悲しや……侘しや……惨めな……惨めな。
慟哭する父の背を見て、小夜はその時、泣く事も出来なかった。
美味しく出来たのに。
喜んでくれると……思ったのに。
頑張ったなと、褒めてくれると。
そして、判った。
小夜がこうして、手ずから膳を差し出すまで、この人は、私の手に泥が残っていた事も、マメを作っていた事も、そう、彼女の事を、何も見ては居なかったのだと。
ただ、小夜が舞を覚え、和歌を諳んじ、作法を完璧にこなして見せた時。
小夜では無い、彼女の背後に映る都の雅の幻で、己を慰める為だけの、道具だったのだと。
だからこそ、小夜が差し出した大根飯は、その幻想を、彼の夢を、完膚なきまで打ち砕き、彼に現実を突きつけたのだ。
お前は、今やその辺の農夫と選ぶところは無い、草深い山里に逼塞(ひっそく)する、ただの人だと。
故に、父はあのような憎悪の目を私に向けた。
その、幼さに似ない、怜悧な頭脳故に……不幸にも、小夜には、そこまで父の憎悪が理解できてしまった。
『お方様』を見出し、生活も服も食べる物も良くなって来て、小夜にも笑み掛ける事の増えて来た父だったが、その目の奥には、常に氷塊の如き冷たさが有った。
判っていた。
気が付いていた。
だけど、私も結局……現実を見る事は、出来なかった。
「まぁ、そなたの父には感謝はしておりますよ、益体も無き夢ながら、あれほど一人で語れる男も居らなんだでな」
九十九の夢語り。
都の姿を影絵に映す、あの行灯の灯りの中で。
その尽きぬ怨嗟と憧憬を、雅な知識と言葉に練り込んで。
「妾にささげた物語を、喰らわせて貰った」
語るその言葉と共に、その夢の中で発酵し、蕩けた魂を喰らって。
「真、美味であった……が」
妾が、完全にこの世界に戻るには、あの男の魂一つでは、まだ足りなんだ。
あと一夜分。
「故に、そなたの嘆きと絶望を喰らいたくてね」
「何故?」
何故、私や父上を……弄ぶの。
「恨むなら、この妾を、この社に閉じ込めた、そなたの祖父を恨むのね」
「おじい様が、あなたを閉じ込めた?」
何も知らぬげな小夜に、青行灯は蔑んだような目を向けた。
「妾は力を失い、あの行灯の中で眠っておった……まだ京が盛んであった時代に、陰陽師と、忌々しき式姫どもに敗北してね。その行灯を、代々受け継いで封じて来たお主の一族の務めとして、あやつは、この寂びれた神社に妾を封じた」
そういう事。
私の家は、この妖怪にとって、代々宿敵……ならば、彼女の恨みも判らぬでも無い。
それは得心が行った……だが、小夜には、それより気になる言葉が有った。
「式姫」
それは、この妖怪が、あのお侍さまを呼んでいた言葉。
「そなたも見たであろうよ、あの女」
「あの……お侍さま?」
「侍?」
馬鹿な事を。
そう青行灯は鼻で笑った。
「人の身、しかも女性(にょしょう)で、猿神三体を斬って、息も乱さぬ者など、いかな豪傑と言えど、居るものかや」
「それは……」
「あれこそが式姫」
優美な外見に相違して、その身に鬼神の強さ纏う。
「嘘……」
「あの女も、人では無い」
やめて。
(相も変らぬ悪趣味ですね)
(お久しぶりですね、ねぇ青行灯)
何故、あのお侍さまが、この妖を知って……いや、旧知のような言葉を発したのか。
小夜が心の裡で、うち消そうとして、どうしても消せなかった。
彼女に聞けなかった疑問の答え。
「妾と同じ」
聞きたくない。
「化け物じゃ」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
童子切の昔語り。