ホワイトノイズ発生機にホワノイ君という名前を付けて話し相手にしていた。
ホワイトノイズと言うのはテレビの砂嵐のようなザーッと言う音のことで、何かに集中するときや、騒音をかき消す目的で流すものである。ホワノイ君はそのホワイトノイズを発生させる装置で、十五センチぐらいの白い色をしたプラスチックの円筒形をしており、いくつかのボタンを操作することで砂嵐の音の高低や音量の大小を操作することができる優れものだった。
隣家の物音の一々に気が立ってしまうような私にとってホワノイ君はありがたく、毎日のように作動させてはホワイトノイズを流していた。砂嵐の音に耳を澄ましていると、自分が音の粒子になって部屋のどこかに消えていくような気がしていた。
その日は朝から氷雨が降っていて表は煙っていた。すぐそばにある団地の給水塔のてっぺんも霞んで見えなくなって、自分がどこか霧深い地方に投宿しているような気分になった。
こういう日は雨音があるからホワノイ君を作動させなくても騒音が気になることは少ないのだけれども、習慣だったからスイッチを押す。今日はいやな隣の課の上司に七面倒くさい話をしに行かなければならず、そのプレッシャーのせいか朝早くに目が覚めてしまい、ホワノイ君にでも話しかけないとやっていられない気分だった。
「遠くの鳥がゆっくり動いているようにみえるよホワノイ君」
私は歯を磨きながらホワノイ君に話しかけた。
「子供の頃なぜ月はずっと追いかけてくるのかと思って祖父に尋ねたことがあるんだ。祖父は『月には「桂男」がいるからね』と言ったよ。桂男って何だろうね」というとホワノイ君は、ホワイトノイズの波長の合間から「そうだねえ」と相槌を打ってくれる。
最初の頃、ホワノイ君の声はみんな私がそらで作った心の中の声だったのだけれども、最近はホワイトノイズの合間にホワノイ君の声が聞こえてくるような気が本当にし始めていた(それはむろん、私がホワノイ君の声を無意識のうちに作れるようになった、というだけなのだけれども)。このまま、だんだんとホワノイ君の声を無意識のうちに考えるのが上手くなったら、その時私は夢うつつのような気持で毎日を過ごすことができるようになるのではないかと思っていた。
「霧はいつまで出ているんだろうねえ」とホワノイ君に尋ねる。
「霧はいつまでも出ているのだよ」とホワノイ君は答える。なんだか、そんなことは私は微塵も思っていなかったので、おや、と思って聞き返すと、ホワノイ君は言う。
「あらゆる騒音をかき消すため、あらゆる公共施設からホワイトノイズが垂れ流されるようになった後、人々が次に考え出したのは視覚のマスキングだった。世界中にあんまり、見たくないものや汚いものや過激なものややかましいものや派手なものが増えすぎた結果、人々は静けさと水墨画のような視界だけを求めるようになった。虫の鳴いている静かな秋の河原、屋根の上に少しずつ雪の積もっていく冬の夜、明け方の死んだような凪の海。霧のように見えるモザイクプロセスを視覚素子へ介入させることに成功した結果、人々は雲海の中に佇む自分を発見した。もはや視覚に届くのはすべて靄の向こう側のように曖昧な世界で、そこでは誰もあなたの視神経を過剰に刺激するようなことはないんだ」
「そうなんだ」
ホワノイ君はなんだか難しいことを言った。そんなことを、私は無意識のうちにでも考えたことはないのだけれども、でも寝ている間に見る夢だって私の考えないような場面が次々に立ち現れてくるのだから、今のホワノイ君の発言だって、どこかで私が見聞きしたニュースの引き写しかもしれないじゃないか。
私はネクタイを絞め、壁にかけてあるスーツを着た。安物の、固いぱりぱりとした生地のワイシャツの襟が、首にピンク色の痣を付けるのを感じながらも、でも私は新しいワイシャツを買おうとはしなかった。もうずっと、新しいワイシャツを買ったことはなかった。
「扉を開けたら外の世界がみんな存在しなくなっているんじゃないかって思ったことはない?」
その声はとても遠くから聞こえるようで、私は安物の腕時計の金属の冷たさを感じながら振り返った。
「そんなのいつも思っているよホワノイ君」
「そんなら、君の願いはかなったぜ」
玄関のドアを開けた。唐突に、大量の霧が部屋の中へ流れ込んできて、私は泡立てすぎたシャンプーが顔を覆って息ができなくなった時みたいに思わず息を吸い込んでドアを閉めた。ひんやりした空気が肺の中に沁み込む。
「何処かでとうとう――」とホワノイ君が言う。それはまるで入眠時に見る幻覚のようにあいまいで、どこからが自分の考えでどこからが幻覚なのかが分からなかった――視覚システムの改竄に成功したんだ。これは僕ら、君ら、いつも世界との間に距離を置いている人たち、みんなの宿願だ。なお、これは全人類共通の現在進行形の現象だよ。もう人々はお互いを認識できないし、どこに何があるのかも分からなくなったんだ。僕たちは家から出なくてもいいんだぜ。
ホワノイ君が言う。振り返って、それからもう一度ドアを開けると、その向こうには霧が広がっているのが見える。目地の果てまで何も見えず、アパートの共同廊下の灯りも、廊下の天井から垂れ下がっている30センチにもなるコンクリートの溶けたつららも見えなかった。
一歩、二歩、廊下に踏み出して、闇雲に手を振りながら、そこにあるはずのステンレスの欄干に手を伸ばす。あった。欄干は確かにそこにあったけれども、私の目には何も見えなかった。外光を吸い込んで膨らんだ霧は、光を乱反射してあたり一面が真っ白の雲の中のようだった。
どこか遠くで、鳥の鳴き声のような悲鳴が聞こえたような気がしたけれども、それもすぐにホワイトノイズにかき消されて聞こえなくなった。あたりは静かで、凪の朝の海みたいに、何にも変化はなかった。
私は踵を返して一歩、二歩、盲人になったように手を伸ばしながら、自分の部屋の扉に触れて、そこにまだ扉があるのを知って安心した気持ちになった。
部屋に戻った。ドアを開閉した時に中に吸い込まれた霧が天井まで上っていき、ゆっくりと消えていくのを見ながら、私は靴を脱いで三和土から上がった。ホワノイ君の置いてある寝室まで行って、椅子に座ってホワノイ君と向き合う。
「これで安心して二度寝できるし、君はいつまでも僕とおしゃべりできるぜ」
ホワノイ君はどこか誇らしげに言った。まるで、君がこの霧を引き起こした真犯人みたいに、手柄を勝ち誇るように言った。でもなんだか、それは本当のことのように思えた。
「そうだねホワノイ君」
私はスーツを脱いで、布団を敷き直して、それからカーテンを閉めた。カーテンを閉めてもまだ外の仄明かりが入ってきて、それが部屋の中に残っている霧をかすかに照らしている。明るすぎて眠れないような気もしたけれども、霧の明るさは目を不当に傷めつけはしないような気がしたから、目を瞑ると落ち着いた気持ちになった。
私はホワノイ君の音を聞きながら、だんだんと眠りに落ちていった。
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オリジナル小説です