No.940991

遊びの達人へ

今生康宏さん

別に命日でもなんでもないんですが、祖父のことを思い出したので
脚色なしです。今思うとあの爺さんはマジでやべーやつだな……

2018-02-11 13:27:24 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:482   閲覧ユーザー数:482

遊びの達人へ

 

 

 

 朝、髭を剃っている時にふと、棚の上にあるビニール袋に入った、埃まみれのぬいぐるみが目に留まった。

 格別、可愛いという訳ではないライオンとウサギのぬいぐるみだ。

 それは本当に乱雑に置かれている。飾るのではなく、一応、最低限の埃の防止策として、ビニール袋にゴミのように詰め込まれて、ただそこに置かれている。

 普通ならもう、処分されてしまっていてもおかしくはないはずだ。今から約二十年前、祖父によって私にプレゼントされた、その当時も“どうでもいいもの”と感じていたぬいぐるみは。

 確か、パチンコでそこそこ勝った祖父が買ってきたもので、母が「可愛くないぬいぐるみ」と言っていたことを覚えている。私も、あまり気に入らなかった。

 そんなものがなぜ、今も転がされているのか。たぶんそれは、唯一の祖父の残滓だからだと思う。

 

 私の祖父は、俗に言う「どうしようもない人」だった。

 一応、定年までは働いていたようだが(私が生まれた時にはもう、隠居の身だった)、現役時代からカラオケ、スナック、パチンコ、競輪。競馬も少しやっていたか。

 酒も飲むし、タバコも吸うし、やたらとグルメで、珍しいものを買ってきては、器用に調理して食べていた。

 暴飲暴食に遊び呆け、かつては太っていた祖父が糖尿病になり、どんどんやせ細って、私が生まれた時にはガイコツのような体になっていたことは、半ば必定だった。

 ただ、子ども好きな爺さんで、母の幼い頃も。そして、新たに生まれた私も。祖父によって大いに可愛がられた。

 私が実際に知っている祖父は、歳の割にオシャレで、グルメで、タバコをよく吸う、とにかく面白い爺さんだった。過去はよく知らないが、今になって思えば、当時のプレイボーイが年老いたらこうなる、という姿の典型だったのかもしれない。

 金色の、今にして思えば悪趣味な車に乗って、私をどこかしらへ連れ出して、そこで色々な経験をさせてくれた。

 美味しいものだったり、変わった衣装だったり、工場のようなよくわからないところにまで連れ出された。プレイボーイだった祖父は、とにかく顔が広く、車で一日で帰ってこれる距離に、知らない人はいないんじゃないか、とも思った。

 そうそう、祖父の武勇伝のひとつに、一晩飲み交わしただけの見ず知らずの他人を自宅に泊めた、というエピソードがある。祖母や母は、ちゃんとした友達だと思って受け入れたらしいが、後になって知り合ったばかりだと教えられた。よく何かを盗むような人じゃなかったことだ。

 私は、家には本当に休むためだけに帰ってきているような生活で、あまり関わり合いのなかった父以外の肉親をみんな大好きでいたが、結局のところはお爺ちゃんっ子と言ってもいい幼少期を過ごしたのだと思う。

 ただ、小学校に上がると、祖父母との交流の頻度は減り、意識して会いに行かないと会えないような距離ができていた。それは別に、特別なことではないと思う。

 むしろ、祖父母が車や電車で行かなければ、会いに行けない距離にいる家族の方が多いことだろう。

 

 ある日、祖父が入院することになった。

 糖尿病の薬をロクに飲まなかったという祖父が、合併症により体を崩してしまうということもまた、当然のことだったと思う。

 私は心配するにはしたが、テレビドラマなどの影響で、老人は病院にいるもの、という意識があったので、あまり切羽詰ったものだとは思わなかった。

 今にして思えば、それが死出の旅路の第一歩だったのだが、またいずれ帰ってくるし、どうでもいいや、ぐらいの意識であった記憶がある。

 ただ、人が一人入院するということは、家族が世話をしてやる必要がある、決して楽なことではない。

 祖母と母は病院を往復するようになり、私は家で一人でいるのが普通になった。そして、土日のどちらかには、祖父の御見舞に行くようになる。

 その時、母が提案したのか、私から言ったのか。手紙を持っていくことになった。

 小学校、小学生というのは不思議な空間で、学校を休んだ児童には、簡単な寄せ書きのようなものを書くことになっていた。長期の入院の場合は、しっかりとした色紙に各々が寄せ書きをする。全治に二ヶ月ほどかかる入院のあった児童には、千羽鶴を折った記憶もある。

 それが嬉しいのか、「重い」のか、未だによくわからないが、とにかく何か書く、というのが私にとっての正義であると感じていたはずだ。

 そこで私は、毎週手紙を書き始めた。

 きっとそれが初めての「誰かにあてた文章」だったように思う。寄せ書きやなんやは、完全に義務感から、そうしないといけないから、と書いていた。

 もっとも、この祖父への手紙も、数通書いた後は、義務感からのルーティンワーク化していたのも事実だ。

 とにかく、この私の「誰かのための文章」のルーツといえる手紙は、学校であったことや、最近あった面白かったことなどを書いていた。十通以上書いていたものなので、一通一通の内容はとてもじゃないが覚えていないが、あまり「早くよくなってください」だとか「帰ってきてくれるのを待っています」のような内容は、書いていた印象がない。

 きっと、手紙の最後の方には決まり文句のようにして書いていたと思うが、それは決して手紙の主題ではなかったはずだ。

 それは母か誰かに指導されていたのかもしれないし、自分から、あまり暗い内容は書かないでおこう、と小学二年生の身でも配慮ができたのかもしれない。

 現時点での私からするとそれは、もう決して長くはない祖父に、暴力のように「早くよくなれ」と言うのではなく、「ぼくは大丈夫だから、安心して」という気持ちを伝えることができていたように思える。

 実際、祖父がその手紙をどのように読んでいたのかはわからない。

 オシャレでプレイボーイな祖父は、ベッドの上でも気取り屋で、手紙を渡した瞬間は大喜びしてくれるが、次の瞬間にはもう「宝箱」に入れて、私の前で手紙を読むことはしなかった。

 

 しばらくして、祖父は帰ってきた。

 私はよくなったんだ、と安心していたが、祖父の死後になって、祖父は家に帰りたい、と嘆き、暴れたことがあったということを聞かされた。

 私の知る祖父は陽気で、気分屋なところもあったが、あまり怒りや悲しみという感情を表に出すことはしなかったと思う。だから、祖父にそんな面があることを知らなかった。

 だからその帰宅はきっと、最期を家で迎えるためのものだったのだろう。

 形はどうあれ、日常が戻ってきた。車はもう、処分してしまった。

 祖父はタバコの量が減って、さすがにきちんと薬を飲むようになったが、それは延命措置のひとつだったのだろう。

 祖父は私に「高校生になり、大学生になり、成人式を迎えるまで見届けるぞ」と、元気な時に言ってくれた。私も、きっとその通りになると思っていた。だから、祖父が家にいる状況を楽観視していた。

 短期間だが、祖父が病院に入ることがあった。

 すぐにまた戻ってきた。

 その頃の祖父は、完全にタバコをやめて、日々をぼんやりと過ごすようになっていた。

 足である車もないのだから、家の中でテレビを見て、大好きな相撲を見て、年甲斐もなく若い女の子を見てデレデレする。

 今までの祖父が活動的過ぎたのだから、これぐらいが普通だと私は思った。

 少しして。祖父の死は、学校の二時間目の後の休み時間に伝えられた。

 当時は肉親の間でも情報が錯綜していて、先生は私に「入院された」と伝えた。しかし、実際には朝、祖父は死んでしまったという。

 死ぬ直前の夜、祖父は祖母に「手を繋いでくれ」と言ったという。

 プレイボーイの祖父が、どうして祖母と結婚して、一応は家庭を築くようになったのか、よくは知らない。

 昔の祖母の写真なども見たことがないから、彼女がとんでもない美人だったのかもしれないし、肝っ玉母さんの典型のような性格に惹かれたのかもしれない。

 しかし、最期の祖父の願いは、最愛の人の手を繋ぐことだった。

 祖母は、暑苦しいから、と断ったという。夏の日だった。

 そして翌朝、祖父は祖母に看取られて逝った。

 祖母は常々、爺さんなんて大嫌いだ、と言っていた。それは決してウソではなく、祖父の死後、祖母は祖父の所持品をほうぼうに売り払い、売れないものは全て捨ててしまった。

 カメラ、大工道具、洋服に釣具。散髪用品まで。多趣味な祖父はいくつもの高価な道具を持っていて、それはそれなりの値段で売れたらしい。

 中には、捨てようとしたものを、ぜひ買い取らせてください、と言う若者までいた。確かカメラだったと思うが、数千円で買う程度ならボロ儲けなほどの品だったのかもしれない。

 それでも、祖母はしばらく「私が爺さんを殺した」と言っていた。あの夜、祖父の手を繋いでいれば、まだ彼は生きていたのかもしれない、と。

 その願いは、それ以前にはないものだったという。その夜だけ、自身の死を悟ってか、祖母の温もりを求めていた。

 しばらく祖母は罪の意識に囚われていたが、一度墓参りをすると、気持ちに整理が付いたようだった。

 

 そういう訳で、祖父の遺品はもう、どこにもない。

 当時はよかった品も、きっと売り払われた先で消費され、なくなっていることだろう。

 写真の類も「祖父嫌い」な祖母の手で全て捨てられているはずだ。

 ただ、あのひとつ千円もしないであろう、ふたつのぬいぐるみ。

 あれだけが、祖父の記憶である。

 母も、あれを捨てようと言ったことは一度もなかったと思う。仮に言い出しても、私がそれを許さないと思う。

 今になって、よく祖父の思い出話を母とする。

 私にとっての祖父、母にとっての父。彼のことに関して、ようやく母は決着が付いたのかもしれない。

 そして、今になってわかる武勇伝は数多く、とにかくあの祖父は、愉快な爺さんだったという確証が持てた。

 遊び呆けた祖父を、祖母は嫌っている。今も祖母は元気で、いくらか足や腰を悪くした程度で、内臓系は元気。見た目には実年齢のわからない、骨太なおばあさんだ。

 祖父は私の成人を見届けると言って、実際は十歳の時点で死んでしまった。祖母は元気で、余裕でスーツ姿になった私を見届けてくれている。

 もう、祖父の知る私より、祖父の知らない私の方が長く生きていることになっている。

 

 今になってわかる遊びの達人、私の祖父。

 私は果たして、彼ほど上手に人生を楽しめるのだろうか?……今は、娯楽こそ多い時代だが、決して彼ほど楽しくはやれていない気がする。

 だから私は、今になって、祖父に今の私を知らせる手紙を書きたいと思った。

 結局それは、ただの「やりたい」という願望だけで、実際には成し遂げられないのかもしれない。

 もう今は、紙とペンを使って手紙を書くというのが、特別なことになっているのだから。

 ――祖父が今の時代も元気なら、ハイテクを使いこなす小粋な爺さんだったのだろうか。

 私が持ってきたゲームボーイを勝手にやっていた祖父を思い出し、スマホでもタブレットでも、なんでも使いこなす祖父の姿を想像するのは容易いことに気づいた。

 

 

 

 偉大なる遊びの達人。ぼくはとりあえず元気にやっています。


 
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