それは、酒に渇(かつ)えていたが故の一時の気の迷いだったのか。
それとも、その顔に友の面影を見た故だったのか。
童子切には、今もって良く判らない。
だが、こうして冴えた月を眺めながら、一人酒を酌んでいると、その澄んだ面に、彼女の顔が時折浮かぶ。
人の定命を思えば、今はもう、この世には居ないだろうが……。
あの魂は、今、この風にでも乗って、世界を自由に飛び回っているのだろうか。
それとも、土に還り、彼女の好きだった大根でも、楽しそうに育んでいるのだろうか。
そんな事を思う童子切の耳が、かさりと霜枯れた草を踏む音を聞きつけた。
ゆったりとしていながら、どこか強さと軽やかさを感じさせる、猛獣の気配を宿しだした足音。
腕は順調に上がっているようですねー。
何より、と呟きながら、童子切は特にそちらには気を向けずに、大杯を口に運んだ。
猪口で飲むのも嫌いではないが、月の美しい夜には、やはり月を水面に捉える、この杯が良い。
杯が空になる頃合いで、足音の主が、こんな冬の夜に相応しい、静かな声を掛けて来た。
「良いか、童子切?」
「お酒とおつまみを持ってきてくれるような、気の利いた酔客は、常に歓迎しますよー」
こちらにどうぞ、と、ぽんと縁台を叩いた童子切の傍らに歩み寄ってくる彼の手には、手桶が提げられていた。
「そうか?一人で寛いでるようなら、これだけ置いて帰ろうと思ったんだが」
「こんな寒い日に、外で呑むような酔狂人が居ないから、一人で呑んでただけですよー」
あっはっはと笑う童子切に、彼は持参した手桶を二人の間に置いて、中から徳利を取り上げた。
「ま、暖かいうちに一杯やってくれ」
「何よりのご馳走です」
燗の付いた酒から、ほわりと立つ湯気が鼻をくすぐる。
良い酒だ、それに、燗の具合も丁度いい。
「持つべきは、酒の呑みようを心得た主ですね」
「その程度しか俺には取柄もねぇしな、戦果てたら、この庭解放して、酒場の親父にでも収まるか」
「あっはっは、それは実に良いですねー、紅葉さんと一緒に毎日通いますよ」
「そいつは勘弁してくれ、初日で店の酒を呑みつくされて廃業する未来しか見えん」
「それは、無いとは言えませんねー」
「そこで否定しないのが、お前さんの良い所だな」
笑みを浮かべた主が、自分の杯を手にするのに、童子切が自然な手つきで酒を注ぐ。
「寒いのはどうも好きになれんが……」
手元の杯から立ち上る香気に目を細める。
「寒ければこそ、燗酒旨し」
「意のままにならぬ事を嘆くよりは、意のままにならぬ事を楽しんでこそ酒呑みという物ですよー」
「違ぇねぇ」
「では、寒さのくれた、燗酒と名月に」
乾杯。
静かに杯を干す、主の横顔をちらりと見やる。
何故だろう。
この人と酒を酌んでいると、不思議とあの少女の事を思い出す。
顔立ちや物言いに、似た所があるとも思えないし、何よりあの娘は酒など口にした事も無かった……。
まぁ、強いて共通点を言うなら。
「ふふ」
「ん、珍しくご機嫌そうだな」
「私はお酒飲んでれば、大体はご機嫌ですよー」
「ああ、うん、確かにそうなんだが」
ちびりと口に含み、湯気になって馥と立ち上るそれが、鼻腔をくすぐるのを楽しみながら、男は月を見上げた。
「何か、普段より少しだけ良い機嫌に見えたんでな」
……よく見てらっしゃること。
「そうですねー、ちょっと昔を思い出していたんですよ」
「いい思い出みたいだな」
いい思い出……。
「そう……見えましたか?」
「……俺にはな」
「そうですか」
傍らには、気心の知れた呑み友達。
手には、美酒。
そして、ピンと張りつめた冬の空気が、酒の味をより研ぎ澄ます。
これ以上、別段何も要らない生なれど。
ふと上げた目に、白銀の光がしらと輝く。
空には、夜空が斬れてしまいそうな程に、細く冴えた月。
足りぬ物は、ただ一つ。
「ねぇ、主殿」
「うん?」
「私の昔語り、少し聞いて頂けますか?」
私には、未だに判断が付かない。
あれが良い事だったのか、それとも、何の意味も無い事だったのか。
浮世の営みに、白黒が付かない事など、百も承知ではあるが……。
この人が、あの事をどう思うのかは、聞いてみたい気がした。
男が返事の代わりに、続きを促す様に、童子切の杯に酒を注ぐ。
それを受けて、童子切は杯を口元に運んだ。
酒の面に浮かぶのは、揺れて歪む銀色の三日月。
「その人は、私の二人目の主でした」
それは、ほんのひと時の縁。
「今思うと、それが本当に有った事なのか」
いや……むしろ。
「それは、一炊の夢のような」
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
童子切の昔語り。