5章 網間に語られる物語
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本当に大切な思い出。
それはいつまでも語り継いだり、懐かしんだりするものではなく、宝箱にしまい込み、静かに大きな錠前を付けて、触れないようにする。そして、何かの事故がきっかけで思い出して、そのきらめきに酔う。
そういうものなのではないかと思います。
私は、あの人生最大の日のことを、過剰に思い出すことはありませんでした。
思い出すだけで恥ずかしい、というのもありますし、それ以上に、もう振り返る必要などなかったのです。
「未来、ちょっといい?」
「はい、どうされました?」
私たちは元から、毎週末に会う関係でしたが、更に新しいことを始めるようになりました。
ずっと進めているボイスドラマの収録、およびその指導が一区切りついた後、常はさんは私を手招きします。そして……。
「んっ……」
「ふぁぁっ……んちゅぅっ…………」
それが当然のことであるようにして、唇を重ね合わせました。
唇の薄皮一枚を通して、常葉さんの体温が伝わります。
手や足で触れ合う以外で人の体温を感じることなんて、そうそうありません。これが許されるのは、本当に愛し合う二人だけ……。
いつもよりも高くなった常葉さんの体の温度を感じることに私は、他の行為では絶対に得られない充足感を味わっていました。
「常葉さん。私たち、もうすっかり……ですね」
「だって、仕方がないじゃない。……あんたのこと、好きなんだから」
「はい。はいっ……私も常葉さんのことが好きです」
繰り返し過ぎて、もうこんな言葉は陳腐化してしまっています。でも、それでも、言い足りないのです。何度だって伝えたい。自分が飽きて、常葉さんが飽きるほど言っても、それでもまだ足りない。
これが、恋というものなのでしょうか。恋と変ってやっぱり、よく似ているのでしょうね。
ただまあ、そうやって恋に溺れる訳にはいかんのですよ。私たちはお芝居が理由で巡り合いましたが、きっかけをきっかけのまま終わらせることはできません。常葉さんを声優として成功させる。そこまでが私に課せられたミッションです。
「少し休憩したら、再開しましょう。今日で最後まで終わらせたいですね」
「そうね……これでやっと、あたしたちの作品が完成する……」
結局、このドラマの公開予定は予定のままで終わり、二人の間だけのものになりました。
その理由は、あまりに常葉さんが下手過ぎたから……というネガティブなものではなく、むしろこれをとことん習作、たたき台として、次に録るドラマこそを公開する作品にするためでした。
実際のところ、最初は上手くいかなかったですが、慣れてくると常葉さんの演技はモノになって来ていました。果てしなく上から見下ろすようで悪いですが、中々のものです。
「完成と言っても、まだ第一歩ですよ。まだまだ二人で演じたい台本は山ほどありますから」
「もちろん、望むところよ。あたしには何もかも、絶対量が足りないのがわかった。とにかく場数を踏んで、練習をして、もっともっと上手くなるから」
「はい、お願いします。私もできる限りの協力をさせてもらいますよ、いつまでだって」
そう言いながらも、永遠なんてものはないのだろう。私はそうわかっています。
私たちは互いのことを想っています。それはもう、疑いようのない共有している事実です。
しかし、実際のところ私は、どこまで常葉さんの傍にいることができるのか?それはわかりません。だからこそ、有限だとわかっているこの時間を少しでも近い距離で一緒にいたいのです。
「常葉さん」
「どうしたの?」
「後一回だけ、いいですか?」
「もうっ……結構、甘えん坊よね、あんたって」
「ふふっ、常葉さんには負けますよ」
そしてまた、私たちは唇を重ね合わせました。
キスをしている時、時間が止まったようだ、と表現する文章は割りと見る気がします。ただ、私はそれとは逆に、このまま時間が止まってくれることを願うのでした。
「……大好き」
それから私は、口癖のようにそう言います。
最近になって思うのですが、私たちは実は、ロクに手をつないだこともありません。ハグをしたのだって、あの時が初めてでしょう。
たくさんの段階をすっ飛ばして、日常的にキスをする仲になってしまったのです。
それには少しだけ不安がある一方で、他の人とは違う体験をしている。時間をかけて関係を育まなくとも、私たちはここまで来れた。そんな自信にもなります。
キスの後。私たちはまた自分たちのなすべきことに戻りました。
常葉さんと見つめ合っている時間が、私は大好きです。しかし、それだけではいけないということも、私たちにはわかっています。自分にとって理想的な時間だけを求め続けても、前に進むことはできません。
そもそも、今の二人の関係性だって……変わることを恐れ続けていては、決して至れないものでした。それぞれの想いを秘め続けて……その結果、私は常葉さんを傷つけていました。あんな話にならなければ、何もわからず、変わらず、なあなあの時間が今も続いていたはずです。
それは、体に毒を溜め込みながら生き続けるような、決して健全だとは言えない時間でしょう。そんな、鈍痛に苛まれ続けるような時間を続けるぐらいんら、一度限りの痛みを知って、その上で新しい二人の形を作っていけばいい。私たちがした選択……いえ、自分たちはあの瞬間、何かを選んだという実感はありませんでした。結果として、こうなったのです。でも、それが悪いものじゃないという確信もまた、私たちの中にはありました。
「ねぇ、また遊びに行かない?ドラマの完成祝いってことで」
「いいですけど……そうですね、次は私が行き先を決めてもいいですか?」
「あんたが行きたいところなんてあるの?」
「あの後、できまして。ぜひ、常葉さんを連れていきたいところがあるのですよ」
「……変な店じゃないでしょうね?」
「変な店、とは?」
私はものすっごいにこにこ顔で聞き返していました。
「その、なに?たとえばメイド喫茶とか、コスプレ喫茶とか、執事喫茶とか……」
「どうしてもれなく喫茶店系なのですか。まあ、常葉さんがコスプレするのは興味がありますが、人のコスプレに興味はないですよ。もうちょっと普通なところです」
「じゃあ、どこ?未来って今の仕事以外に好きなことってないって言うし」
「ふふっ、他の人にしてみれば、なんでもないところかもしれませんけどね。私にとっては常葉さんと一緒に行けたらいいな、というところなのですよ。まあ、お金がかかるようなところではないので、安心してください。その時にお教えしましょう。さ、後もう少しです。がんばってくださいね」
「ええ!あたしの本当の力を見せてあげるわ!!」
収録は、最後のシーンに移っていきました。
決して結ばれない二人の、笑顔の別れ。
……ふと、考えてしまいます。私たちもこうして引き裂かれるようなことがあれば、どんな顔をして別れるのでしょうか?
私はたぶん、やっぱり泣いてしまうと思います。……私は決して、強い人間ではありません。笑顔で別れたくとも、ギリギリまで笑っていても。常葉さんが私に背を向けて歩き出した時、泣いてしまうに違いありません。その場に崩れ落ち、みっともなく駄々をこねて、きっと常葉さんを困らせてしまいます。そんな自分の姿が見えてしまって……私は、ぎゅっと常葉さんの手を握ってしまっていました。
「えっ……?」
私は、プロです。今はボイスドラマという、本来のナレーション業とは違うことをしていますが、プロとして自分の仕事には誇りを持っているので、仕事中に私情を挟むことはありえません。でも、私は常葉さんの手をぎゅうぎゅう握っています。
「み、未来、どうしたの?大丈夫?」
「常葉さん。私、常葉さんのことが好きです」
「な、何回言えば気が済むのよ。あたしも好きよ。そう何度も確かめなくても、あんたのことが大好きなんだから」
「そ、そうですよね。ごめんなさい、なんだかこう、くらくらっと来てしまいました。こんなの、初めてなのですが」
「めまいでもしたの?」
「そういうことじゃないですよ。ただ、常葉さんが好きすぎて感極まっちゃったって言うか……」
「バカ」
「えへへっ、バカですね」
「本当、バーカ」
「二回は言い過ぎですよ、もう。……中断させてしまってごめんなさい。続けましょう?」
私は絶対、人を好きになっても自分の本分を見失わないつもりだったのですけどね。……本当、人ってわからないものです。恋って恐ろしいですよ。
録音の後は、二人で聴いて最終チェックを行います。
「……やっぱり、あたしってまだまだね」
「いえ。十分ですよ。私には常葉さんの魅力がこれ以上がないほど現れていて……いいお芝居だと思いました」
「本当に?やっぱり、あたしにこの女の子は合わないもの。……昔はお上品な女の子役もやっていたんだけどね」
「でも、気品にあふれているのは確かでしたよ?これをできるのはやっぱり、常葉さんだけです。技巧的には確かに未完成です。でも、自らの個性を出すことはできています。上辺だけ小奇麗な演技より、この方がずっといいですよ」
「そういうものかしら……でも、うん。そう言われてみたら、ちょっと自信も持てて来たかも。……未来はこれ、あの声優さんの物真似よね?別に未来の声質に近い訳でもないのに……」
「むしろ遠いからこそ、似せようとがんばれるのですよ。むしろ自分に近い方が、思い切り演じられなくて難しいと思います。ほら、私の物真似のレパートリーに落ち着いた女性の声って少ないでしょう?素の自分に近いので、中々できなくって」
「なるほど……物真似も難しいものなのね」
「ええ、小手先のテクニックでやっているものですけどね。……なので、下手でも個性的な常葉さんが眩しく感じられるのですよ」
「あたしは素の未来の喋りも好きだけどね」
「じゃあ、私は常葉さんの喋りがもっともーっと大好きです」
「……バーカ」
「えへへっ」
そんなこんなで、今日という日も流れていくのです。
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