劉備軍に送った呂布の引き渡し要求を行った使者が、丸ぼうず、丸裸で帰ってきた。
これはすなわち、劉備軍がこちらの要求を飲まなかったということ。
つまり、こちらから劉備勢力に攻め込む大義名分を手に入れたということだ。
蓮華様はすぐ様に徐州への進軍を決定。我々孫呉は、徐州へと進軍を開始した。
「冥琳。……留守をお願いね」
出発する日の朝。北郷はやさしく私にそう言った。
「……あぁ。北郷も蓮華様を頼むぞ?」
今回の遠征に私は参加できなかった。子どものこともあるが、その他に私の体についての問題もあったためだ。
1ヵ月前に城の医者に診察を受けた時に、肺が少し弱っているといわれ、その後、肺などに特に詳しい医者に診てもらうことになった。
私はそんなこと必要ないと言ったのだが、肺の話を聞いた北郷が、どうしても、と言って医者を連れて来たのだった。
雪蓮が死ぬ少し前から、肺に違和感はあった。ただ、妊娠したとわかってからは、その違和感はあまり感じなくなっていた。
「……この時期にわかって幸いでした。周瑜様は肺病にかかっておいでです。この時期に発見できなければ、手遅れだったかもしれません」
北郷が連れて来た医者に、私はそう言われた。
その医者の話によれば、私のかかっている肺病は、通常なら肺に違和感が起こってから数カ月で、手の施しようがないほど病状が進展してしまうのだが、今回は私の妊娠が発覚し、その後、体に無理をかけないように生活していたため、そこまで病状が進まなかったのではないか、ということだった。
(北郷の子を宿していなかったら、この命はなかった……ということか)
説明を聞いたあと、私はそう思った。
その後私はその医者の治療を受けることになった。
ただ、私が身重であるということもあり、あまり強い薬が使えないため、治療には少し時間がかかるということだった。
そうしたこともあり、今回の徐州への遠征には参加することができなかった。
「あぁ。わかってる」
北郷は私の言葉にそう答えた。
「それと、もし曹操が動いたら……頼むぞ?」
私が今回の戦に参加できないため、北郷と穏、そして亞莎とはもしもの時の策などについて、事前に話し合っていた。
「あぁ。大丈夫。だから冥琳は心配しないで、しっかり病気を治してくれ。子どものこともあるから、無理しないでくれよ?」
北郷はそう言ってそっと私を抱きしめ、やさしく私に口づけをしてから、昼に迫った徐州への出立の準備へと向かった。
私はその後、蓮華様たちに挨拶をして回り、昼ごろに、少し大きくなって来たお腹に手を置きながら、出立していく北郷を、蓮華様たちを見送った。
「ねぇ。冥琳。赤ちゃんがお腹にいるって、どんな感じ??」
北郷たちが建業を出てからしばらくしたころ、中庭でお茶を飲みながら子育てに関する本を読んでいると、ご一緒にお茶をしていた小蓮様そう尋ねてこられた。
「そうですね……」
私は手にしていた本を机に置き、小蓮様への回答を考えた。
「とても不思議な感覚です。自分の体の中に自分ではない部分があるのですから。……ただ」
「ただ?」
小蓮様は私の次の言葉を、身を乗り出して待っていらっしゃった。
「ただ、とても幸せな気分ですよ。自分が愛した男の子をこの身に孕むということは……」
そう言う私の顔は、知らず知らずの内に緩んでいた。
「そっかぁ。……いいなぁ。シャオも早く一刀の子ども、ほしいなぁ」
私の言葉を聞いた小蓮様は、そう言いながらご自分のお腹に手を置かれていた。
「うぅー……。一刀早く帰ってこないかなぁ……」
小蓮様はそう言うと、ご自分の足をぶらぶらと揺らした。
「そうですね。ですが、今は皆が無事に帰って来てくれることを祈りましょう。今回の敵はたとえこちらより少数とはいえ、手ごわいですから……」
「ぶー。シャオも一緒に行けばよかったー。お城で待ってるだけなんてタイクツー」
そういって少しむくれた顔は、雪蓮に似ていた。
「ふふ。そうおっしゃらないでください。小蓮様には小蓮様にしかできぬことがあるのです」
そう言って小蓮様をなだめるのは、なんだかすごく懐かしいような感覚がした。
「ぶー……。ねぇ冥琳。体の具合はどうなの?その、肺の病気……なんでしょ?」
ふと小蓮様が少し不安げにそう尋ねた。
「……えぇ。ですが、専門の医者に診てもらっていますので、心配には及びませんよ。きちんと薬を処方してもらっていますし、最近は前にもまして休養を多くとっていますし」
私がそう答えると、小蓮様は少し安心したような表情で、「そっか」とおっしゃった。
「報告します!!曹操が徐州へと侵攻を始めました!」
北郷たちが出立してから2ヶ月後、蓮華様たちの部隊からそう伝令が入った。
「ついに動いたか……。して、北郷は、いや蓮華様は何と?」
「はっ!劉備軍と同盟を結び、ともに赤壁の地で曹魏と決戦を行う、と」
(北郷たちと事前に話し合っておいてよかった。しかし、問題はこれからか……)
伝令の話では、蓮華様たちが劉備軍の前線を攻め崩し、後は勝利まで時間の問題かという時に、細作から曹魏侵攻の知らせが届き、北郷や穏を中心に、すぐさま劉備軍へと停戦・同盟の締結を行うために向かい、見事に同盟を成立させたということだった。
「なお。我が軍はここ建業に帰還後、数日で陣様を整え、すぐ様赤壁へと向かうとのことです」
「……わかった。疲れている所すまんが、小蓮様と城に残っている文官・武官に至急このことを伝え、文官と武官には対曹魏戦の準備を、小蓮様にはその指揮を行っていただくようにお伝えしてくれ。すぐに私も向かう」
「はっ!」
私は伝令にそう告げた後、侍女を呼んで支度を手伝ってもらった。
お腹が大きくなって来てからは、北郷が城下の仕立て屋に作らせた「またにてぃ」という妊婦用の服を着ていたが、さすがにこの格好で軍議に出るのは憚られるのではないかと思った。
私はいつもの服より少しゆったりめの服に着替え、小蓮様のもとへと向かった。
その後、小蓮様を中心に対曹魏戦の準備を開始した私たちは、蓮華様たちがご帰還なさる頃には、国内への総動員令や物資の支援経路の決定、兵たちの編成などの草案など、対曹魏戦におけるほぼすべての準備を、後は蓮華様が号令を下すのを待つのみという状態にしていた。
また、こちらは蓮華様の指示を仰がず、独断ではあったが、赤壁周辺に歩き導師に扮した細作を放ち、決戦のための偽情報を流した。
蓮華様はご帰還なされるとすぐに、号令を発し、対曹魏戦に向けての行動が開始された。
そうして着々と準備は進み、いよいよ赤壁への出立を明日に控えるまでになった。
そんな日の夜に、北郷がふと私の部屋を訪ねてきた。
「冥琳。俺だけど、少し大丈夫かい?」
その声を聞いてから、私は部屋の扉をあけた。
「どうしたのだ?」
私がそう聞くと、北郷は少し微笑んだ。
「建業に帰って来てから、冥琳とゆっくり話す時間なんてなかったからさ。久々に冥琳と話したいなって思って」
北郷がそう言ってくれたこと、私の部屋を訪ねてくれたことがうれしくて、自然と少し顔が緩んだ。
「そうか」
私はそう言って北郷を部屋の中へと招き入れた。
「あ。冥琳は座ってて、お茶は俺が用意するから」
北郷が部屋に入ってから、私がお茶の用意をしようとすると、北郷がそう言って私を座らせた。
「ふふ。そこまでしてもらわなくてもいいのだが……」
そう言いながらも、北郷が私の体を気遣ってくれるのは嬉しかった。
「そんなことないさ。今回も俺たちが帰ってくる前に対曹魏戦の準備を進めてくれていたし、それにもうすぐ子どもも生まれるしね。……はい」
そう言いながら、北郷はお茶を持て来てくれた。
「あぁ、ありがとう。しかし、それを言うなら、北郷も今回の遠征では活躍していたそうではないか?」
そう聞くと北郷は少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「そんなことないさ。俺なんかより、穏や亞莎の方が活躍してたと思うよ?それに、俺が活躍できてたとしても、……それは冥琳のおかげだしね」
北郷はそう言うと、ふっと微笑んだ。
「いや、北郷が活躍できたのなら、それは北郷にそうするだけの力があったということだ。私はその力をうまく使えるようにする手助けを下したにすぎないさ」
そう言うと、北郷は少し困ったような顔になった。
「だが、お前が活躍できたというのなら、私はそれを嬉しく思うぞ?お前は私の教え子でもあるしな。それに……」
「それに?」
「……それに、北郷は私の旦那様でもあるのだ。妻が自分の夫の活躍を聞いて、うれしくないはずがあるまい?」
私がそう言うと、北郷は顔を赤らめた。
「め、冥琳!?」
その反応が可愛らしくて、私は思わず微笑んでいた。
「うー……。何か冥琳が雪蓮に見えて来た……」
「むぅ。私は雪蓮ほど人をからかったりしないぞ?」
「今、俺をからかってたじゃん……」
「そう拗ねるな。北郷が愛おしく思えたから、先ほどのようなことを言ったのだ。それが気に障ったと言うのなら、謝る」
私がそう言うと、北郷はすこし不満そうにではあったが、
「わかった」
と言った。
「「……」」
少しの間、部屋の中を沈黙が包んだ。
部屋の中は、蝋燭の淡い橙色の光と、空に浮かぶ月の澄んだ白い輝きが混じり、その2つの光を、北郷の白い服がキラキラと反射していた。
「……体の調子は?」
北郷がそう静かに訪ねた。
「……心配ない。お前が連れて来た医者にも定期的に見てもらっているし、お腹の子どもも順調に大きくなっている」
「そう、……よかった。」
北郷は私の答えを聞いてから少し間をおいて、そう言った。
「……その服。着てくれてるんだね?」
「あぁ。お前が私のために仕立ててくれたものだしな。それに、私がいつも着ていた服では、少し腹が目立ちすぎるからな」
そう私が言うと、北郷は少し笑いながら言った。
「冥琳がいつも着てた服だと、お腹が冷えちゃうだろうしね」
「ふふ。まったくだ」
北郷につられて、私も少し笑った。
「「……」」
また二人の間を沈黙が包んだ。だた、私にはこの沈黙がとても心地よいものに感じられた。
「……いよいよ明日出発だね」
北郷がそう呟いた。
「……あぁ」
私は短く答えた。
「今回は冥琳も、参加……するんだよね?」
北郷は少し悲しげに言った。
「……嫌か?」
「俺個人としては……ね。たぶん曹魏との戦いの最中に、臨月になるだろうし。……でも、軍師としては、冥琳が参加することに納得してる。いや、今回の戦いには、冥琳が参加してくれないとダメだってことを、よくわかってる」
今回の戦いは総力戦だ。智略を武器とする軍師としてだけでなく、「呉の柱石」としての私の存在が、うぬぼれではなく、実際に兵たちの士気にどれだけ大きな影響を与えるか、私もわかっていた。
「……あぁ」
北郷が私のことで悩んでくれていることが、うれしかった。ただ、そのことが少し歯がゆくもあった。
「……北郷」
私は北郷を呼んだ。
「……うん?」
「寝台に腰をかけてくれないか?」
私がそう言うと、北郷は少し不思議そうな顔をした。
「……この椅子じゃダメなの?」
「あぁ。この椅子だと少し高すぎる」
私がそう言うと、北郷は「そっか」と言って寝台へと向かった。
「……これでいいかい?」
寝台の上に腰かけてから北郷はそう聞いた。
「あぁ。では、私がいいと言うまで、目を閉じていてくれるか?」
少し疑問があるような顔をしたが、北郷は何も言わずに目を閉じた。
北郷が目を閉じたのを確認してから、私は座っていた椅子から立ち上がり、北郷の前に立った。
「……北郷。少し顔を横に向けてくれないか?」
北郷は私の言った通りに、顔を少し横に向けた。
――スッ
私は北郷の頭を、静かに自分のお腹にあてた。
「……聞こえるか?」
はじめ、北郷は少し驚いているようだったが、私がそう聞くとスっと体の力を抜いて、私に身をゆだねた。
「……うん」
目を閉じ、私のお腹の音を聞きながら、北郷はそう答えた。
「お前と、そして私の子の音だ。これから生まれてくる、新しい命の音だ」
「……うん」
北郷は耳を澄まして、お腹の音と、私の声を聞いていた。
「北郷。お前は私に2つの命を与えてくれた。この子と……、そして私自身の命だ」
小さく息を吸ってから、私はつづけた。
「そのことに対して、お前には感謝してもしきれない」
「……俺は、何もしてない。ただ冥琳を好きになった。それだけだよ。もし冥琳の命を救ったのだとしたら、それは俺じゃなくて、この子だ。それに……」
北郷はそっと頭を放し、目をあけた。
「俺は、雪蓮に……。冥琳たちに拾われてなかったら、きっと死んでたと思う。その分と差し引いて、おあいこだよ」
そう言ってほほ笑むと、私の手を引いて寝台に座らせた。
「あんまり長く立ってると、疲れるだろう?」
そう私の耳元で囁く北郷の声が、とても優しく聞こえた。
「……冥琳、ごめんね。もう少し俺が頑張れれば、冥琳に、そしてこの子に負担をかけない様に出来たんだけど、俺にはまだ冥琳の代役をこなすことはできないみたいだ……」
私を後ろから抱きしめている北郷の手は、悔しさからか、すこし震えているようだった。
「……いいんだ。それが私の役目なのだから。それに、まだ呉に来て間もない北郷に、いきなり私の代役が務められたら、私の立つ瀬がないではないか」
少し震えている北郷の手に、私は自分の手を重ねた。
「大丈夫だ。自分の役割も、そしてこの子の母親としても役割も、しっかりこなしてみせる。……私は私にできる限りのことをする。だから、お前もお前の出来る限りを尽くせ」
私は出来るだけ優しく、そう北郷に言った。
「……わかったか?一刀」
そう言って少し後ろを向くと、北郷が少し驚いたような顔をしていた。
「っ!…………あぁ、わかったよ。俺の大事な大都督様」
そう少し困ったように微笑むと、北郷は私に優しく口づけをした。
その後、私たちは二人でお互いの温もりを感じながら、ゆっくりとやってくる睡魔に身をゆだねた。
翌朝に建業を出立した私たちは、約二十五日間の行軍の後に、赤壁の城に到着した。
そして、少しの休止を取った後、主戦場となるであろう、長江の沿岸に向かった。
そうして、建業を出てから合計して1ヵ月ほどで、我々は決戦が行われる地に到着した。
到着後すぐ様陣地を設営し、蜀との軍議に入った。
その軍議の中で、私は曹魏を乱すための「苦肉の計」を思いついた。
その計のためには、我々の中から誰かが裏切り者の役をやらなければならない。
(誰が適任か……)
と考えていると、祭殿と目があった。
(祭殿……)
ふと祭殿が頷いた。こちらの考えていることと同じことを祭殿も思いついたのだ。と私は思った。
(すみません、祭殿。お力をお借りします……)
そう心の中で祭殿に詫びながら、祭殿が口論の口火を切るのを待った。
「――策などと細かいことを気にしおって……。戦を盤上の遊戯か何かと勘違いしとる文官風情に、戦場の何がわかる!!―――戦場で戦うのはわしら武官じゃ!そこで口先だけでピーチクパーチク言っておるような文官ではない!!―――公謹、お主は大都督などではない。戦うこともできぬただの臆病者じゃ!」
そうして黄蓋殿が放った言葉によって、その場の空気が一瞬で凍りついた。
「……黄蓋殿。今の言葉を撤回していただきましょう」
「ふんっ!事実を言ったまでじゃ。撤回する気などない!」
「黄蓋、今すぐにご自分の言を撤回なさい!さもなくば、軍規にしたがい、お前を処刑する!」
「くどい!撤回などせん!」
「ちょ、ちょっと!待って二人とも!!何をそんなに腹を立てているんだ!?か、一刀も二人を止めてくれ!」
「……いや。ここでどう止めても遺恨が残るだけだよ。冥琳の言うように、軍規に照らし合わせるしかない」
「一刀!?」
北郷は私たちの真意をわかってくれているのか、こちらの助けになるように話を進めようとしてくれた。
「穏。この場合、祭さんはどんな刑をすればいいの?」
「え?あ、あの……軍規に照らし合わせれば、死刑が当然かと」
穏はまだことの真意をつかめていないのか、少し戸惑いながらそう答えた。
「だってさ。冥琳、どうするの?」
「本人が撤回しないと言っているのだ。望み通りこの場で首をはねてくれる」
「やれるものならやってみろ!」
「あぁ、やってやるさ!」
「待て!待て二人とも!!祭を死罪にするなど、私が許さん!!」
「……では、蓮華様に罰していただきましょう。……どのような罰を与えますか?」
「はっ!わしを罰するのが怖くて、主君を盾にするとは、卑怯この上ないのぉ、公謹!」
「っ!何だとぉ!」
「待てというに!……冥琳下がれ!」
「……は」
「状況がどうであれ、呉の大都督に対して暴言を吐いた祭の罪を罰する。……良いな、祭」
「……ふんっ!」
「黄蓋を鞭打ちの刑に処す!引っ立てい!」
こうして、苦肉の計の下準備は終わった。あとは祭殿が曹魏に向かうのを待つだけだ。
軍議の後、蓮華様に詰め寄られたが、まだ事の真意を伝えるべき時ではなかったため、説明をせずに、私は天幕へと下がった。
その夜、私の天幕を訪れた北郷が、蓮華様には私と祭殿を信じてくれるよう話しておいたと言っていた。
「……まったく。冥琳が身重だから、俺がその役目をやろうかなって考えてる時に始めるんだもんなぁ」
外に聞こえないように小さな声でそう言って、北郷は少しむくれた。
「……そう言うな。これが私たちの役割なのだ」
私も小さな声でそう答えると、北郷は少し残念そうな顔をしたが、すぐに元に戻った。
「……まぁ、終わったことをどうこう言ってもしょうがない。冥琳、連環の計はどうするの?」
「ほぅ。そこまで気付いていたのか」
そのことに北郷が気付いていたことには少し驚いた。
「まぁ、これでも一応、天の御遣いとかって言われてるからね」
そう言って、北郷は少し微笑んだ。
「連環の計に関しては、もう手は打ってある。おそらく曹魏の船団は、すでに鎖でつながれているだろう」
私がそう言うと納得した様に北郷は頷いた。
「……祭さんはいつごろ行くと思う?」
頷いた後に、北郷がそう聞いてきた。
「そうだな。鞭打ちの傷もあるから、1週間後ぐらいだろうな」
天幕の外に間諜がいないか注意を払いながら、私たちは話を続けた。
「……そっか。風がいつ頃吹くかはわかってるの?」
「っ!……さすがは天の御遣い、か。ふふ。そこまでわかっているのは、おそらく私とお前、そして蜀の2大軍師ぐらいのものだろう」
そう言うと、北郷は少し恥ずかしそうに頭をかいた。
「まぁ、俺は冥琳たちみたいに、考えてそこに行きついたんじゃなくて、もともと知ってたわけだから、ズルみたいなものだけどね」
そう言う北郷を少し微笑みながら眺めた後、私は北郷の質問に答えた。
「この辺りに住む村人の話だと、詳しい時期は特定できないらしい。ただ、少なくとも祭殿が陣を抜け出すまでは吹かんだろう」
私がそう言うと、北郷は少し難しい顔をした。
「そうなると、戦いが冥琳の隣月と重なる可能性が高いな……」
そう言って、考えこむ北郷に私は、話した。
「そう心配するな。この場所から私が居なくなることはできないが、あとの戦いなどは穏や亞莎、そして北郷、お前に任せても大丈夫だろう」
私は穏やかに続けた。
「兵数では圧倒的に劣っているが、すべての条件が整えば、何とかならない訳ではない。そして、その条件を整えるための私の仕事は、もうない。あとは大都督としての私の存在だけが必要なのだ。この陣地に私がいるのなら、その役割は果たせるだろう」
そこまで言うと、北郷も少し安心したような表情になった。
「後はお前たちの役目だ。新しい時代を、新しいお前たちの手でつかみ取れ」
「……あぁ。わかった」
そう力強くうなずく北郷の顔は、本当に頼もしいものだった。
そして、予測通り1週間後に祭殿が自分の部隊を引き連れ、呉の陣地を抜け出した。
祭殿が抜け出す前に、祭殿には北郷から東南の風のことを伝えてもらっていた。
その追撃を終えた後、北郷のすすめもあって、蓮華様をはじめ、この苦肉の計のことを知らない将たちに、この計略を説明した。
皆、驚きの表情をしていたが、祭殿の裏切りが真意でないと知って、ほっとしたようだった。
「……後は、東南の風が吹くのを待つのみ、祭殿にも東南の風を待つということは伝えてある。皆には来るべき時に備えてもらいたい。それと……」
私は亞莎と穏の方を向いた。
「東南の風が吹いた後は、亞莎、お前に全軍の指揮を取らせようと思っている」
私がそう言うと亞莎は驚いたように声を上げた。
「わ、私がですか!?」
「補佐として穏をつける。思春と明命も助けてやってくれ」
驚く亞莎だったが、思春や明命が私の言葉に従い、穏と私が背中を押すと、
「が、頑張ります!」
と言ってくれた。
そうして、私たちは自分たちの陣地に戻り、来るべき東南の風を待った。
祭殿が抜け出してから4日後の夜、天幕の中で休んでいた私は、お腹が張っているような感覚を感じた。
(……?)
医者を呼ぼうか迷ったが、少し時間がたつと、お腹の張りは治まったから、そのまま休むことにした。
翌日、朝起きると昨晩感じたお腹の張りとともに、少し痛みを感じた。
この痛みも少し時間がたつと、お腹の張りとともに治まった。
その後しばらく安静にしていたが、お腹の張りも痛みも感じなかったので、朝食をとり、朝の軍議に出席した。
その間、時々お腹の張りや痛みを感じたが、どれも少し時間がたつと治まった。
ただ、そうした痛みがだんだん強く、そして周期的になって来ているような気がした。
(これは、医者に診てもらった方が良いか……)
そう思いながら軍議を終えて、自分の天幕に戻ると、それまでで一番痛みを感じた。
「うっ!……」
思わずその場にうずくまっていると、天幕に誰かが入ってきた。
「っ!!冥琳!大丈夫!?」
入口の方を見ると、周周を従えた小蓮様がいらっしゃった。
「しゃ、小蓮様……。すみません。い、医者を……」
「わ、わかった!」
私がなんとか絞り出した声を聞くと、小蓮様は周周にまたがり、天幕を飛び出して行った。
「うぅ……」
うずくまったまましばらくじっとしていると、痛みが和らいできた。
そのまま、うずくまっているよりも、寝台で横になった方がいいだろうと思い、私は寝台に動いた。
「冥琳!」
そうして寝台に横になっていると、小蓮様とともに北郷が天幕の中に入ってきた。
「北郷か……。大丈夫だ、痛みはだいぶ治まった」
私がそう言うと、北郷は私の手をとり、心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「冥琳。待っててね。もうじきお医者さんが来るから」
「はい。ありがとうございます、小蓮様」
私がそう言うと、小蓮様は少し微笑んだ。
「ねぇ、冥琳。赤ちゃんが産まれるの?」
先ほどから心配そうな顔をしている北郷をよそに、小蓮様がそう尋ねて来た。
「えぇ、おそらくは……」
そう言うと、小蓮様はにっこりと笑い、
「そっか、冥琳はお母さんになるんだね。おめでとう」
とおっしゃった。
「周瑜様!失礼いたします!」
小蓮様の笑顔を見ていると、外から医者が入ってきた。
「あぁ、すまんな」
私がそう言うと、医者は深々と頭を下げてから、診察を始めた。
「――陣痛……ですな」
一通りの診察を終えてから、医者はそう言った。
「周瑜様は今回が初めてのお産ですので、このまま陣痛が何度もおとずれ、お子様がお生まれになるのは、おそらく今夜から明日の未明にかけてになると思われます」
医者がつづけてそう言うのを聞いていると、天幕の外から蓮華様が飛び込んでいらっしゃった。
「冥琳!大丈夫か!?」
そう言いながら飛び込んでいらっしゃった蓮華様は、寝台に横になり、静かに医者の話を聞いている私と、少し驚いたような顔をしている北郷、そして、呆れたような顔をしていらっしゃる小蓮様を見てから、顔を赤らめながら、少し咳払いをして
「おっほん。……め、冥琳の容体が急変したと聞いてやって来たのだけど、……その、大丈夫?」
とおっしゃった。
私はその様子がおかしくて、少し顔が緩んだ。
「えぇ、大丈夫です。ご心配をおかけしました。……ただの陣痛のようです」
私がそう言うと、蓮華様は少し驚かれえたようなお顔になり、
「じ、陣痛ということは、赤ちゃんが産まれるのね?」
とお聞きになった。
「……はい」
「そうか。では、この天幕の周りの警備を厳重にしなければ……、わ、私の親衛隊から、いや、この場合は、小蓮の親衛隊の娘たちに警備をしてもらった方が……」
私の答えを聞くと、蓮華様はそう言いながら少し考えこむように顎に手を当てていらっしゃった。
「……ふぅ。蓮華様」
私は少し溜息と着いてから、蓮華様に声をかけた。
「少し、落ち着いてください。私の心配をしてくださるのは、本当にうれしいのですが、今は曹魏との戦の最中。無駄な警備を増やすよりも、少しでも多くの兵を確保する方が重要です」
「し、しかし……」
「おそらくは、今日か明日に東南の風が吹くでしょう。その好機を逃せば、我々は曹魏に負けてしまいます」
そこまで言うと、蓮華様は反論をなさらなかった。
「警備を増やしていただくのは、非常にうれしく思います。ですが、ことがこと、時期が時期ですので、小蓮様の親衛隊の娘を、数人警備につけていただければ、それで十分です。……小蓮様、お願いできますか?」
「うん!シャオにまっかせといて!」
そう言って笑う小蓮様を見てから、
「……わかった。シャオ、冥琳の警備、よろしく頼んだわよ?」
と蓮華様はおっしゃった。
「うん!」
「ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、小蓮様は周周に乗って天幕を出ていかれた。
「……では冥琳。私も行く。……一刀、風が吹くまでは、冥琳のそばについていてあげてくれ」
「あぁ、わかった」
そう言った北郷の答えを聞いてから、蓮華様も天幕を出ていかれた。
「わたくしも、助産婦を呼んでまいります。何かありましたら、すぐにお呼びください」
空気を読んだのか、医者もそう言って天幕を出て行った。
「……みんな出ていちゃったね」
二人だけになってから、北郷がそう呟いた。
「あぁ、そうだな」
私がそう答えると、北郷はフっと全身の力を抜いた。
「……さっき、蓮華が言ってたこと、蓮華が言ってなかったら、たぶん俺が言ってた」
そう言って、北郷はそう言って、少し笑った。
「ふふ。そうだろうな……」
そう言ってから、私も少し笑った。
その後、一定の間隔おきに来る陣痛に耐えている私のそばで、北郷はずっと私の手を握ったままだった。
そうしている内に、日は沈み、辺りはいつの間にか夜になっていた。
「……ほん……ごう」
度重なる陣痛に耐えている内に、昼間の時のような余裕はなくなってきていた。
「うん?何?」
私の問いかけに、北郷はやさしく答えた。
「こ、……子どもの……な、名は……、循……。……周……循、に……しようと……、思う」
「……あぁ」
「ま、……真名は……お前が……、つけて……ほしい……」
「……あぁ、飛びきりいい真名を考えるよ」
「そうか……。たのむ……ぞ?」
私が、何とかそう言い終えると、陣痛が私を襲った。
「うぅぅぅううぅううぅぅっ!……」
「冥琳……」
痛みのあまりに、ずっと握っていた北郷の手に私の指の爪が食い込み、少し血がにじみ出していた。
「うぁああぁあぁっ!……」
天幕の外には、小蓮様が手配してくださった、女性の兵士が数人。天幕を囲むようにして警備をしており、小蓮様自身も、天幕の外で警備をしてくださっていた。
「あ!あぁぁぁああっ!……」
陣痛の度に漏れる声に、北郷は悔しいような、悲しいような、ひどく複雑な顔をしていた。
そんな時、天幕に小蓮様が飛び込んできた。
「一刀!風が……、風が変わったよ!」
その言葉に、北郷は一瞬目を輝かせたが、すぐに私の方を見てひどく心配そうな顔に戻った。
(……まったく、世話の焼けるやつだ)
「……いけぇ。北郷……。お前の役目は……、ここに……、いること……では……ない!」
私が気力を振り絞ってそう言うと、北郷は少しの間目を閉じて、大きく息を吸った。
「……行ってくる!」
「あぁ……、孫呉を……頼むぞ……、かず……と……」
私がそう言い終えるのを聞いてから、北郷は天幕を出て行った。
「くぅぅううぅううっ!……」
北郷がいなくなってから、再び訪れる痛みに、私はただひたすら耐えていた。
外から、蓮華様が兵たちに向けて、出陣の言葉を述べているのが聞こえてきた。
「皆の者!今宵、この地で、新たなる孫呉を背負っていく、新たなる命が産まれようとしている!その命を、そして呉を守るために、我らは曹魏と決戦を行う!」
「先の黄蓋の脱走は、この日のための演技であった。……今宵。黄蓋は敵陣に火を放ち、再び我らのもとに合流し、ともに曹魏を打ち砕く!この風と共に曹魏の船団を焼き尽くし、曹操の首を上げ、この乱世を終わらせるのだ!」
「「「「「…「「「「「おぉぉぉおおぉぉぉ!」」」」」…」」」」」
「これより、曹魏に総攻撃をかける!全軍、進めぇぇぇ!」
その声とともに、ほぼすべての船が、対岸の曹魏の陣へと向かって進んでいく。
その光景を見るとは叶わなくとも、思い描くことは容易にできた。
私の周りにいる医者、そして助産師たちの声がふと聞こえてきた。
「っ!周瑜様!!頭が、頭が見えてまいりました!」
その声を聞き、私は全身の力を振り絞る。
「うぅぅうっ!くっ!ぁぁああぁ!」
「もう少しです、頑張ってください!」
そう叫ぶ助産婦の声。そして天幕の外から、兵士たちの声が聞こえてくる。
「やったぞ!火計が成功した!」
「黄蓋様の無事に合流できたようだ!」
そして、再び意識が天幕の中に戻る。
「周瑜様!あと少し!あと少しです!」
「くぅぅううぅうっ!あっ、くぅぁあああぁぁあぁっ!」
声に促されるまま、私は体に力を入れる。
(産まれておいで、産まれておいで……)
心の中でそう念じながら、私は力んだ。
「あああぁあぁぁあああぁっぁ!」
その瞬間、なぜだか雪蓮が笑ったような気がした。天国にいる雪蓮がふっと笑ったような気が……。
「……おぎゃぁぁああ!おぎゃあぁぁ!」
「周瑜様!おめでとうございます!ご息女様です!ご息女様がお産まれになりました!」
産声が上がり、医者の声が聞こえて来てから、私は全身の力が抜けた。
(……雪蓮。お前が手助けをしてくれたのか?)
心の中で問いかけても答えは返ってこない。そんなことは分かっていた。けれど、
(…………ありがとう)
そう思わずにはいられなかった。
「周瑜様に似て、可愛らしいお顔をしていらっしゃいますよ?」
湯あみを済ませた我が子を、助産婦が私に横に寝かせた。
産まれたばかりの周循は、弱弱しいが、しっかりと私の方に手をのばしてした。
私も手を伸ばすと、周循は小さな小さな手で、しっかりと私の指を掴んでいた。
「……よく、産まれてきてくれた……」
その小さな手が、愛おしくて、大切で、守りたくて……。
私の頬はいつの間にか、涙でぬれていた。
「……ありがとう……」
産まれてきてくれて、
私と一刀の子どもになってくれて、
私を生かしてくれて、
私は溢れ出す涙をとどめることができなかった。
「「「「「…「「「「おぉぉぉぉおおぉぉぉぉ!」」」」…」」」」」
遠くから、兵士たちの叫ぶ声が聞こえてきた。
「やった!やったぞぉ!勝った!俺たちが勝ったんだ!」
天幕の外にいる兵たちの声も、聞こえてきた。
(勝った……か)
私は自分の真横に居る、周循に顔を向け、こう言った。
「……お前の父上が、見事にやり遂げたぞ」
私の言葉を聞いた周循は、私の言葉の意味が分かっているのかの様ににっこりと笑った。
~1ヶ月後、建業~
「おーい。めいりーん」
太陽の日差しが、暖かく照りつけている王城の中庭で、北郷が私を呼んだ。
「うん?北郷ではないか。戦後処理と新領地の統治で忙しいのではと思っていたが、今日は休みなのか?」
赤壁での決戦の後、曹操は側近たちを引き連れて、この大陸を出た。
そして、旧魏領は呉と蜀で分割統治することになったのだが、北郷は呉の中でその分割統治に関する責任者として抜擢されたのだ。
と、言うのも、赤壁の戦いが終わった後、私が大都督をやめ、軍師としても引退したからだった。
私が引退した後、穏は呉の筆頭軍師に、そして亞莎は副軍師として、新たな呉の運営のために働いており、蜀と協調をとりながら、新たな領土をどう統治していくかという重要な問題を任せらせる人材が、他にはいなかったのだ。
「……いや。この後、会議があるんだけど、少しだけ時間が開いたから、冥琳たちに会いに行こうかなって思ったんだよ」
そう言うと、北郷はふっと視線を落とした。
「お。循はお母さんに似て、相変わらずの美人さんだなぁ~」
そう言って、北郷が周循の頬を指で触ると、周循が北郷に向って手を伸ばした。
「ん?どうしたの?」
そう言って北郷が指を出すと、周循はしっかりと北郷の指を握った。
「おぉ!冥琳見て!循が俺の指持ってる!」
少し興奮した様に、そう話す北郷がまるで子どものように見えた。
「前の時も、こうしてお前の指を握っていただろうに」
そう言いながらも、私は笑っていた。
「……冥琳。体の具合はどう?」
周循を見つめながら、北郷がそう聞いた。
「あぁ、薬がきちんと効いているらしくてな。もう1、2カ月で病気は完治するそうだ」
私がそう答えると、北郷は穏やかに微笑んだ。
「そっか、あともう少しか。……良かった」
そう言いながら周循をかまっている北郷を見ているのが、とても心地よくて、
(あぁ、これが幸せというものか……)
と思った。すると、自然に顔もほころんだ。
そうしていると、北郷が不意に顔を上げた。
「そうそう、循の真名のことなんだけどさ―――――」
今、感じる事ができている幸せが、一生続くのか、それともすぐに終わってしまうのか、そんなことは分からない。
(今はただ、この幸せな時間が少しでも長く続くことを……)
「ちょっと!冥琳ちゃんと聞いてた!?俺、結構頑張って考えたんだよ?」
そう言って北郷が少しむくれていた。
「あぁ、すまんな。もう一度言ってくれ」
「うん。俺の考えた循の真名は――――――――」
(……すまんな雪蓮。そちらに行くのは、もう少し遅くなりそうだ)
あとがき
どうもkomanariです。
中編に多くの閲覧、支援、コメントをいただき本当にありがとうございました。
さて、今回の後編は、どうにかして冥琳をしあわせにしようと思ったら、これまでで一番長くなってしまいました。
それに加えて、このまとまりのなさ・・・・orz
せっかく、あの素晴らしい一刀と冥琳&ベイビーのイラストを描かれた、そ様からラストの場面をあの絵の場面にするのを許していただいたので、あのイラストみたいに、幸せそうな冥琳を頑張って表現したかったのですが、いかがだったでしょうか?
とにかく、ご許可をいただいた、そ様。ホントにありがとうございました。
あなた様のイラストは、素晴らしすぎます!!
さてさて、そんな感じで、書いてきましたが、今回も、作品を閲覧していただき、本当にありがとうございました。
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前の話から時間がかかってしまいましたが、後編です。
今回は、僕が今まで書いていな中で、一番長くなってしまいました。
誤字・脱字などありましたらご指摘よろしくお願いします。