春だというに、その山は死のような静けさだけが支配していた。
時折微かに、彼女がいちいち捉えきれない程度の生き物が立てる音が、微かな命の存在を示す。
お前は、アレが何か判るか、呪い師?
山中の道を行きながら、傍らの武者が低く声を発した。
「何?とは」
私には、彼が何を言いたいのか、何となく判ってはいた。
だがはぐらかした。
「アレは、鬼では無い」
「……そうですね」
術や妖の専門家でも無い彼の断定に、私は反論できなかった。
恐らく彼は、何度も鬼と呼ばれる存在と対峙し、ああやって切結んだのだろう。
刃を合わせる時とは、すなわち相手と気を合わせる事でもある。
その彼が言う、彼女は鬼では無いと言う言葉には、それだけの重みがあった。
そして、それは私も思っていた事。
角が無かったとか、そういうのは些末な問題。
妙な言い方だが、彼女には、いわゆる鬼と呼ばれる妖の持つ特有の「人くささ」という物が無かった。
並はずれた暴力、色欲、権勢欲、悲しみ、怒り、恨み、そして愛。
人の器を溢れる程の、こころ。
そのあふれ出した心を抱えた存在が鬼となる……そんな伝承があるように。
鬼とは、人以上に人らしい存在なのだ。
だが、彼女には、何もなかった。
「変な言い方だがな……俺は人形と戦ってるんじゃないかと思ってしまったよ」
その声に、若干の戸惑いと、更に微量の恐怖を、私は感じ取った。
それは怯懦とは違う、生き物として当然感じる感覚。
「人形では、ありませんよ」
人形なら、もっと。
「動く人形なら、それを作った人の想念が多かれ少なかれ籠もりますから」
もっと、人らしい。
「彼女は、人形ですら無いですよ」
彼女には、それすら無かった。
「……そうか……薄気味悪いな」
「そうですね」
薄気味悪い。
確かにその通り。
だが、それは余りに哀し過ぎる命ではあるまいか。
「それで……結局あれは何なんだろうな」
そこに、再び疑問は還る。
彼女は何なのか。
何故、あんな命が産まれてしまったのか。
色々考えあわせ、私の持つ神仏、妖魔、幻獣、それらの知識と、彼女を実見した結果を私なりに考えた。
答えは多分。
「多分ですけど」
嫌な事実を、自分の中にだけ飲み込む事が嫌で、私はそれを表に放り出す事にした。
「うむ」
彼の返事も、何かを予感しているのか、どこか重い。
「人ですよ……紛れも無い」
「……そうか」
彼は、静かにそれだけ呟いて前を向いた。
驚きは無かった。
彼もまた、彼女と戦う中で私と同じ結論に至り。
「ならば、やはり止めねてやらねばならぬな」
私と同じ決意を抱いて、この山道を登っていた。
「はい」
恨みならば晴らしてやる事も叶おう。
願いならかなえてやれる事もあるだろう。
欲ならば満たしてやる事も出来よう。
だが……彼女の抱えた、全ての命を求め、なお埋まらぬ深淵のような虚無を埋める術は、恐らく、存在しないから。
せめてこれ以上、あの虚ろな魂が彷徨うのを止めるしか、出来る事は無いと。
二人とも、悟っていた。
私たちの少し前を行く鬼火が、怯えたようにぴくりと震えて、私の手元に戻る。
よしよしと撫でてやると、安心したようにまた少し私たちの前に戻ってくれた。
この狐火はまだ未熟な私に似つかわしく、臆病な性質をしている。
まぁ、それが良い警告になる事が多いので、寧ろ重宝なのだが
「むぅ……」
狐火がおそるおそる照らしてくれた光景に、期せずして同じ唸りが口から零れた。
狐火が怯えたのも無理はない、青白い光に照らされ、後詰隊の隊長と、彼に従っていた陰陽法師が、原型を留めぬほどに切り刻まれて転がっていた。
何れ、彼も私もこうなるのだろうか。
「……南無」
悪いとは思ったが、供養は後にさせて貰うしかない……私は二人を片手拝みにしつつ、転がっていた太刀を拾った。
剣は得手ではないが、どうもこの先、丸腰では心許ない。
すっと抜いてみると、驚くほどするすると、まるで自ら抜けるかのように、刃が夜気の下に姿を現す。
鞘に収まったままの、刃こぼれ一つない太刀は、彼が不意を打たれた一撃でやられた事を意味していた。
「ほう、業物だな」
「銘までは判りませんが、かなり古い物ですね」
しかも、何やらただならぬ気配を感じる。
まだ確とは定まっていないが、何らかの神霊が宿る気配。
いずれにせよ、彼の家に伝わる重宝だろう。
「ふぅむ、実に切れそうだ、しかも丈夫そうな……」
使います? と差しだしたが、彼は苦笑して頭を振り、陰陽法師の持っていた、どちらかと言うと枝を掃う為のような山刀を手にした。
「俺のようながさつ者にはこちらが似合いだ、それはお主が持っておれ」
「私の腕では勿体ない気もしますが……」
「こういう神がかりの顔をした道具なら、ヌシの方が向いていようさ」
「そんな物ですかね」
相変わらずの、彼の勘の良さに舌を巻きながら、腰に佩いてみると、長さの割にすんなりと収まった。
長さと反りと重さが絶妙に調和しているのだろう。
「……申し訳ない、お借りしますよ」
我が生あらば、彼の家にお返しする事も叶いましょうから。
そう呟いて、再び歩き出す。
「何人、生きて居ると思います?」
「さてな……」
望み薄だ、という、彼の口の中だけの小さな呟きも、私の耳に届いてしまう静寂の中。
私たちは、不意に広い場所に出た。
登り初めた、淡い月光の中。。
立派な老桜が、拡がる枝一杯に付けた花に月の光を受け止めて、その広場をほの白く照らしていた。
「……居たぞ」
その老桜の下に、彼女は佇んでいた。
両手に刀を構え。
全身を紅に染めて。
私たちに、あの虚ろな目を向けていた。
「ご主人様」
さくらの声が涙に濡れていた。
「お別れ……なのですね」
「そうだよ」
逃れられない、人という脆い器の限界。
ずっと悩んだけど。
私は、この命の終わりを、受け入れる事にした。
だからね。
「最後は、君と、一番良い景色の中で迎えたかった」
最後まで、我儘な主で、すまない。
「……」
無言のさくらに、私は言葉を続けた。
「そして、君は」
私という、君を縛り続けた桎梏から。
「解放される」
「……嫌です」
やだ……。
幼子のような嗚咽が零れる。
すまないな、さくら。
私は、君を悲しませてばかりだ。
でもね。
「必要な事なんだよ、さくら」
私の声に、何かを感じたのか。
「……はい」
俯いたまま、さくらは私の手を離し、私に背を向け、一歩一歩、その広場に歩み出した。
大きな金の月に照らされ、老桜の木は、花を散らしだしている。
その中に、彼女は一歩、また一歩と。
時を踏みしめるように、ゆっくりと歩いて行った。
私は、その光の中に歩む後ろ姿をじっと見ていた。
さくら……やはり君は美しい。
この世界で、初めて式姫となりし君よ。
老桜の下に佇み、彼女は何を思うのか、暫し、その巨木を見上げていた。
値千金と詩われた春宵の終わりを告げるように、風に僅かな寒さが混じりだす。
月の輝きが銀の色を帯び、桜の花が白い光を帯びる。
あの時のように……。
その光の中。
さくらが振り向いた。
手に何を携えている訳でも無く。
傷一つない滑らかな頬を、今は虚ろでは無い、澄んだ目から零れた、自身の涙で濡らしていたが。
「陰陽師」
「何だ?」
私は今、あの時と同じ、破壊の女神と対峙していた。
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式姫草子の二次創作小説になります。
……と言いつつ、式姫出てこないってマズいよね、アハハハノハー