「さくら、顔をあげてくれないか」
いや。
幼子のように、さくらが俯いたまま無言で頭を振る。
「怖いか」
「……はい」
「そうか」
君は、今、何を恐れているんだろうね。
あの時の君は、怖いという感情その物を失っていて。
ただ、命を破壊する事だけに、その全てを捧げていた。
「さくら」
その手を握る。
握り返してくる手が震えている。
その震えを鎮めるように、もう一方の手を重ねる。
恐れるな、さくら。
私は、ここに。
いつまでも、君と共にあるよ。
左手の刀で虎を切り払った鬼が、右手の折れた刀を私に振り下ろす。
避けようとか、死を覚悟して何か反撃しようとか、そういう思いは何も無かった。
夕暮れの赤い陽が照らす山の斜面。
赤い光の中、返り血と己の血に塗れた、鬼女に。
その顔の中にぽかりと開いた……深淵に至るような、虚無を宿した瞳に。
私は、ただ見惚れていた。
「避けろ!」
横っ面を張られるような大声に、私はふと我に返った。
鬼の脇腹に何か光る物が突き立っていた。
痛みか、衝撃か、くの字に曲がった体が、私に向かって振り下ろした刀の軌道を変えた。
彼女の脇腹に突き立ったもの。
刀の切っ先。
倒れた姿勢のまま、何かを投げ打った武者の姿。
ああ、彼が自分で折った刀の切っ先か……。
ぼうっとした思考が、そんな不急不要の事に思い至る。
目まぐるしく私の視界に映ったそれらの光景を切り裂くように、私の眼前を鬼女のふるった刃が、妙にゆっくりと横切った。
ぱらりと。
胸元の着物と、私の胸の皮一枚がすぱりと斬られた。
多分、あのままだったら、私の体は綺麗に袈裟がけにされ、葛餅みたいに三角にされていたんだろう。
どん。
空中にあった鬼女の体が、肩から私にぶつかる。
鋭い跳躍からの体当たりを受けた形で、相応の衝撃はあったが、何より、私が最初に感じたのは、ただ彼女の華奢さと軽さだけだった。
押された形になった、私の脚は、山の斜面で踏ん張れるほどに力強くも無く、その体を無様に転がし、斜面を滑った。
だが、私とて体術の心得程度はある、無理に踏ん張ろうとせず、転がる勢いを生かして、半身を起こし、次の攻撃に備えて顔を上げた。
上に向けた視線が、こちらは見事に着地した鬼女が、私や武者には目もくれずに凄まじい速さで走り去り、藪の中に姿を隠す、その後ろ姿を辛うじて捉える。
「待て!」
待つんだ……。
待ってくれ。
押しとどめて何が出来る訳でもあるまいが。
彼女が見えなくなることが、私にはその時、なぜか怖かった。
「無駄だ、呪い師」
刀を鞘に納めつつ、坂東武者が私の方に歩み寄り、その太い手を差し伸べる。
「あれは……言葉の通じるような相手では無い」
「……そう、ですね」
それでも、もう一度、私は彼女と対峙しよう。
それは、この命を賭すに足る事に思えるから。
力強い手を取り、私は身を起こした。
「先ずはお礼をしないといけませんね、命を助けて頂いてありがとうございます」
「戦陣で肩を並べる者同士が助け合うのは当然のことだ、俺も助けられた」
当たり前の内容ではあるが、その言葉には、彼が私を肩を並べる相手として認めた……そんな響きがあった。
「ではまぁ、お互いさまと言う事で」
彼の目に、未だ燃える闘志を見て、私は山頂の方を見上げた。
陽が落ちかかっている。
闇の中はおそらく彼女の時間だろうけど。
今追わないと、もう二度と会えない、そんな予感があった。
「……彼女を追いましょう」
「アレが、彼女……か」
くくっと皮肉に笑って、武者は私の肩を軽く小突いた。
「追いかけて口説くつもりか?」
口説く、か。
「そうかもしれません」
この感情が色恋なのか、それとも別の何かなのか、私には判断が付かないが。
真面目な私の顔をみて、彼はふむ、と大きく息を吐いた。
「お主はなんだな、つくづく変わった男だ」
「変わり者なのは自覚してますよ」
肩を竦めて、私はあらかじめ切ってあった型紙を取り出し、それに呪を込めた。
ふわりと漂い出したそれが、私たちの前で青白い光の球となる。
「面妖な」
むむぅ、と渋面を作る武者に私は笑いかけた。
「狐火ですよ、妖怪みたいなもんですけど……退治しないで下さいよ」
「判っておる、夜の山で明かりを絶やすほど阿呆では無いし、第一」
「第一?」
「両手が空く明かりなど重宝極まる、ならば、それが妖怪であろうと、俺は一向構わぬさ」
「捌けた方で助かりますよ……では参りましょうか」
握るさくらの手から、徐々に震えが引く。
その代り、何かを確かめるように、私の手を握り返す力が強くなる。
俯いたまま、さくらがぽつりと呟いた。
「ご主人様」
「……何だ?」
「何故です」
何故ここなのか。
何故……今更。
私を伴い、ここに。
「君と初めて出会った場所だからな」
「……そう、ですね」
私は、貴方と、ここで出会った。
最悪の鬼と、都を守る為に遣わされた陰陽師として。
「……っ」
呼吸をするのも辛い。
吸い込む空気の中にすら、あの時の私が残っていて、それが私の中に戻ってくるようで。
吐く息に……今の私が溶け出してしまいそうで。
「それに、さ」
ご主人様。
「ここ以上の桜を、俺はついぞ見る事は無かったよ」
貴方はついに。
「だからさ……君と一緒に見たかったんだ、さくら」
私を滅ぼす覚悟を、決めたのですか
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式姫草子二次創作小説になります。 というか、前歴史の妄想ですね……