「明かりを灯せ!」
鞍馬の凛とした声と共に、式姫の庭のぐるりを取り囲む塀に、一斉に明かりが掲げられる。
常の戦に使われるような炎を灯した松明では無い、天狗の提灯と言われる術の明かりが、辺りを真昼のように照らし出し、夜闇の中に隠れ佇んでいた藻の姿をありありと照らし出す。
「……な!」
全く動きを感じなかった静かな邸内が、一瞬で臨戦の殺気を帯びていた。
さしもの藻が、驚愕に目を見開く。
その彼女に向け、塀の上の高楼から声が響いた。
「餌を求めて門外をぶらつく野良狐が居ると聞いたが、おやおや、君かい」
「貴様」
この声、鞍馬山の天狗か。
「餌なら恵んでやっても良いから、この屋敷に入るかい?入れる物なら入って貰って、私は一向に構わないがね」
「ぬ……ぅ」
「もしくはとっとと似合いの巣にお帰りを、と言いたい所だが……」
すっと鞍馬の手にした羽扇が上がる。
「せっかくご足労頂いたんだ、我らの心からのもてなし位は受けて行きたまえ」
背中を見せて、藻が駆け出す。
今はまだ……。
まだ早い。
この結界が潰えるまで。
冥府でこの庭の主の魂が、完全に始末されるまで。
羽扇が鋭く振り下ろされた。
羽が風を切る、その音が、藻の耳近くで唸ったように、彼女には聞こえた。
「?!」
それは矢羽が風を切る音。
ぞろりとした着物の裾と袖が、その体には傷一つ付けずに、大地に矢で射とめられ、彼女の動きを封じた。
精妙極まる、弓の神技。
「今更、逃げようとか、甘すぎるんじゃない」
「……よくもご主人様を」
「許さないヨ」
慌てて帯を解き、更に逃げ出そうとする、その藻の体が弾けた。
手槍が、手斧が、矢が、風の刃が。
一斉に叩き付けられた、各々の得物が、その仮初の人の姿を、一瞬で血肉からなる襤褸屑の塊に変えた。
だが、皆知っている。
こんなのは、前哨戦ですらない。
「気に入らん……ナァ」
その塊の中から、おどろの声が響く。
「それはこっちの台詞だよ。人間面して、社会を混迷に導く化け狐、さっさと正体を現したまえ」
「この体……気に入っておったのやァ」
「気にするな、もう貴様には二度と人の姿など必要なくなるさ」
鞍馬の言葉に、その声が低い唸りを上げた。
「……そうやナァ」
私が、あのお方の尾の一筋に戻る。
その時、この世界は真の破壊と恐怖を知ることになるだろう。
その為にも、あのお方を縛るこの庭の封印を破ってみせよう。
玉藻の前様。
貴女様の九尾が一筋、尾の参が戦いを照覧あれ。
「確かに、もう、この体も要らんわいなァ」
良かろう式姫ども……相手をしてやろう。
襤褸屑の間から、二つの獣の目が禍々しく光る。
「結界は何とか保って居るようじゃが、この庭の要たる主は死にかけじゃ、ヌシらへの加護の力は薄かろうよ。式姫ども……それでも妾に勝てるつもりかや?」
「要らぬ世話さ、私が勝算のない戦いを仕掛ける愚物か……試してみろ」
鵺から低い呪言がつぶつぶと漏れ出でる。
術の心得のある者が聞けば、それが、田舎の拝み屋の使う、怪しげな物とは異なる、素性の正しい物である事を認識しただろう。
滴っていた血が急速に止まり、傷を塞いでいく。
痛みが引き、うっすらと目も見えるようになって来た。
自分の想像していたそれより、はるかに早く傷が塞がっていく。
これならば、更に術に集中できる。
(理に従い、砕けた骨、裂けし肉、失われた血は、元ありし所に戻……)
「こーらー臆病者の卑怯者! 雲に隠れて怖くてぶるぶる震えてるのかー、その図体に見合った肝っ玉が万分の一でも入ってるなら、正々堂々顔を出して、おつのちゃんたちとしょうぶしろー、蚤の心臓の、みじんこやろー」
突如沸き起こった、天を聾する天狗声が、鵺の耳を、そして頭を、痛みを伴う程にぐわんと揺さぶり、その呪を止めた。
(な……奴か、何処だ)
葛城山の主……修験道の開祖とも言われる大天狗。
その彼女が使う、空気自体を震わせ、自在に音を発する天狗声の術。
どこから聞こえるのかまるで判らない、ただ空を満たすように、声が轟く。
「第一ね、そうやって逃げ回ってるから、知らないうちに人間である事からすら逃げて、化け物なんぞに身を落とす羽目になったんだよ、その辺判ってるの?判って無さそうだよね、どーせ自分は化け物に変えられて不幸だーって思ってるんでしょ、仕方ない部分はあっても、自分で不幸な方に、人間である為に守らなきゃ駄目な事から逃げて、化け物になる方向に歩いてたから、あの化け狐に騙されて、その姿になったんだからねー。人間って生き方が顔に出るんだよ、ちゃんと今の顔認識してる? 畜生面だよー、あ、もしかして蛇の尻尾の方が今の顔かな。うわー、にょろにょろ野郎だったのかー?そんなだから、ウチのご主人様みたいに、かわいい子に慕われ過ぎて困るような人生歩めないんだぞー」
大音声は、それだけで相手の集中を奪い、精神をかき乱す武器でもあるが、この天狗の言葉は、いちいち内容が彼の痛い所に、辛子味噌を塗りたくった錐ででもあるかのように突き刺さる。
(私が、この私が……あんな男に劣るというか)
高貴の家に生を享け、世が世なら殿上人として生きられた筈の我が身。
時代に恵まれなかったが、自らの才で陰陽の術を修め、野心の為に雌伏できる自制心を持ち、戦場を生き抜く武をすら身に付け、自分の努力で逆境を跳ね除けて来た……この私を。
あんな、式姫の力を借りるだけの凡夫と並べて語り。あまつさえそれに劣るだと。
「あ、もしかして、今自分の中でご主人様と自分を比較してる?言っとくけど、あの化け狐と対峙して退けたご主人様と、あの狐の手下に成り下がった、ケチな毒殺屋じゃ、もとより勝負になる訳ないでしょー。ちょっとばかり陰陽の術とかが、ウチのご主人様より出来るからって、人間の根本としての器の力で歴然とした差があるんだよーだ。そんな小手先の事に捕らわれて、一本の芯ってのを持てなかったから、自分の在り様を見失って、そんな強そうな物を適当に継ぎ接ぎした、いびつなバケモノに成り下がるんだよ、なっさけなーいって、自分で思わない?」
(黙れ……黙れ!)
「まして、そんなみっともない、へっぽこツギハギのオバケに、おつのちゃん達式姫が従うとか思ってる訳?少しは鏡見たり自分の事をよく見ようよ、ホント、つまんない事に拘る割に自分が見えないって、どこがお利巧なのかなー、寧ろ馬鹿中の馬鹿じゃないの?」
(黙れぇぇぇぇぇぇぇ!)
声にならない、無音の絶叫。
その声に応えるように、雲の上で鵺の気が荒れ狂う。
「うわ……やば、怒らせすぎたかなー」
地上でおつのの声を聞きながら、天羽々斬は静かに瞑目していた。
これは賭け。
あの鵺の中に、どれ程、あの陰陽師の意識が残っているのか。
完全に意識が妖の力に飲まれているなら、こんな挑発に意味は無く、奴に回復の為の時間を与えるだけの愚行だろう。
だが、もし……少しでも残っているのなら、その心を揺らす事が出来る筈。
そして、心が揺れた時……人は隙を作る。
暗殺という行為の要諦は、相手の隙を見切り、それを最大限利用する事にある。
屋敷の作りの、警備の、暗殺対象の生活の隙を。
もっと言えば、それらを生み出す、人の心の隙を見切る。
そして、隙というのは、どうしても甘くなる自己評価と、冷厳な事実の乖離の間に生じる。
あの陰陽師の分身とも言える式神と対峙した時の記憶を辿る。
現世の栄誉を求めて得られぬ事で肥大した自尊心と、だが、その現世での栄誉を得る為に世間と戦うには、余りに傷つきやすい心。
客観的に見ても、極めて高い能力と、現実の低い地位。
そして、中でも陰陽師としての能力の高さと……、その高さにも関わらず、陰陽道の究極の力とも言える、式姫の一体も彼に従っていない現実。
その、彼の理想と現実の間隙に……言葉の楔を打ち込む。
「おつのさんには嫌な仕事で申し訳ないですが……お願いできますか」
「……んー、そういうの好きじゃないけど、おつのちゃん怒ってるから、血も涙も捨てて情け無用でやるよー」
珍しい彼女の渋面を見れば、それが嫌々ながら自分を納得させた結果だと言うのは良く判る。
彼女の一番の楽しみであるお喋りを、いかなる相手であれ、傷つける為に用いるなど、彼女の本意ではあるまい。
だが……彼女が言うように、その心理的な障壁を上回る怒りがあるのも、また事実なのだろう。
「すみません、可能なら私がやる所なのですが」
「いーよいーよ気にしないで、それで、段取り確認するけど、その鵺の中に、さっき聞いたような性格の陰陽師が取り込まれてるから、その人を挑発するような事を天狗声で、雲の上に響かせれば良いんだよね?」
「その意識が残っているかは定かでは無いので、あまり反応が無いようでしたら、適当に切り上げて下さい」
「りょうかいー、でも悪口かー……」
何て言おうかなー、と悩むおつのの顔に天羽々斬は悩ましげな目を向けた。
「単純な罵声でも良いとは思いますが、思いつくようでしたら、ご主人様と比較するように挑発してみて下さい」
「ご主人様と?」
要領を得ない様子で、小首を可愛く傾げるおつのに、天羽々斬は言葉を継いだ。
「彼は式姫に対して、並ならぬ拘りを持っているようでした」
「まー、陰陽師だっていうなら、私たち使いたいってのは普通だとおもうよー、それがどうしたの?」
「彼は確かに優秀な陰陽師ですが、式姫の一人も従っていません……それに引き比べて、私たちが従うご主人様は陰陽師ですらない」
「……あ」
おつのの顔に理解の色が浮かぶ。
「ご理解頂けたようですね、私は、彼の一番の泣き所はそこだと見ています。とにかく彼に多少誇張してでも、式姫から、現実に彼がどう見えているか……そして、今の彼では一生式姫の主にはなれないという事を、叩き付けて下さい」
多分それが……絶大な自信を持っているだろう陰陽術への自負心、彼の最後に残る自尊心を、完膚なきまで打ち砕く言葉になる。
いかに術を修めようと、貴方はそもそも人として、その術を極める資格を自ら失ったのだと。
「ん、何となく掴めたから行ってくるねー、それじゃ、奴が挑発に乗ったらお願いね」
「ええ、任せて下さい」
あの式との戦いでもそうだった。
彼の操る術の力量は並々ならぬ物があり、それと正面からぶつかるのは上策では無い。
だが、その実力とは裏腹に、彼は常に何かの裏に己を隠して生きて来た。
領主の、式の……そして今は鵺と言う化け物の肉体の裏に、己の魂を隠して。
逆に言えば、彼は魂を含めた己自身を前面に立てた状態での戦の経験が乏しい。
ならば、裏面に隠れようとするそれを引きずり出し、彼の一番脆い部分である心を踏みにじる事で隙を作る。
戦の手段として、弱点を突く事は常道かもしれないが。
(我ながら……罪深い)
(黙れぇぇぇぇぇ!)
その時、無音の叫びが天を満たすのを、彼女は感じた。
それは、あの式が叫びながら彼女に切りかかって来た……あの時の響きと同じ、情け容赦なく、自分が守って来た虚飾をはぎ取られ、尊厳を傷つけられた、一人の男の魂の絶叫。
それを感じた彼女の唇が、会心の笑みを浮かべた。
(やはり……そこに居ましたか)
「……おつのんもキツいねぇ」
「他人の私たちがいたたまれなくなるくらいの、毒舌の嵐ね」
口汚いだけの、その人の知性や品性の低質さを露呈するだけの毒舌とは違う、的確に相手の痛い所を抉りまわす、お喋りの達人が振るう口説の毒刃。
怖い怖いと、おゆきと紅葉が首を竦める。
あの気の良い大天狗が、ここまで人の肺腑をえぐり、人生、人格を否定するような言葉を並べるなど、皆も聞いたことが無い。
分かりやすい火だの雷だのの術は、所詮その現身を損じるのみ。
これは魂を持つモノを完膚なきまでに叩きのめす、余程に酷い言霊の暴力。
おつのが普段会話の中で使っている、その人への気遣いや思いやり、それを支える観察力と洞察力。
それをひっくり返すと、ここまで人を傷つける言葉となりうるという事か。
「……ウチ、おつのだけは怒らせないようにしよ」
「それが良いわよ、お気楽そうに見えるけど、あれでも葛城山の主たる大天狗だし」
鈴鹿の呼吸が穏やかになったのを確認し、おゆきはふっと口許を綻ばせた。
「羅刹、治療に戻るわよ」
「鈴鹿の姐さんは大丈夫なのか?」
「鈴鹿は火傷と、何より雷の衝撃が酷かっただけだから、簡単な治癒と、気の流れを整えてやれば後は本人の力でどうにでもなるわよ、それより骨から筋から全身ズタズタだったあんたの方が重傷なのよ、強がったって、今だってまともに体が動かないでしょ」
「……ぐ」
「判ったらほれ、力抜きなさい」
「わぁったよ……っとに、バレてたのか」
「誰が治療してると思ってるのよ、あんたや狛犬や悪鬼みたいな無鉄砲なのよりは、こっちの方がアンタたちの体の状況は良く判るの」
「うわ、さすがにあの二人と並べられると辛ぇ……」
「言われたくなければ、今後無理はしないようになさい、ホントにもう」
その、二人のやりとりを、にやにやしてみていた紅葉の顔が引き締まる。
空気がおかしい。
張りつめた、耳が痛いような緊張を孕んだ……。
「いかぬ」
それまで、紅葉に支えられながら、鵺の腕に何やら書き付けていた仙狸が、鋭い目を上空に向けた。
白く眩い光が、雲間から差す。
「夜明け……じゃなさそうですねー」
「みんな寄って!」
おゆきの悲鳴に似た声。
周囲が急速に冷え込み、空気がキシキシと軋んだ音を上げる。
「こいつぁ」
瞬く間に、おゆきを中心に、皆を囲むように氷の半球が生じていた。
「……来るぞ」
その半球の外で、世界が白熱した光に包まれた。
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式姫の庭二次創作小説になります。
ちょっとおつのちゃんのイメージからすると、言葉遣い悪いかなぁと思いましたが、敢えて、陽気なおしゃべり屋を怒らせた姿も書きたかった。
承前:http://www.tinami.com/view/892392
1話:http://www.tinami.com/view/894626
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