研究室に入るのは大学3年の年度末。基本的には学生の希望や成績が考慮されるわけなのだが、深行は1年次の時からすでに慎重に考えていた。
まずは専門分野と研究スタイルを学び、いずれは泉水子の力を研究する。そのためには、しっかりと信頼できる人脈作りがものすごく重要となる。1、2年のうちから教授や研究員と親しくしておくことは、きっとプラスになるだろうと考え、深行は時間さえ空けば研究室に顔を出していた。
しかし、今日だけは間が悪かった。
先輩から論文を借りることになっていた深行が研究室を訪れると、やけに重苦しい空気が立ちこめていた。誰も彼もが一心不乱にデータを打ち込んでいる。
室内のただならぬ様子に嫌な予感がしたのだが、すぐに立ち去る前に4年の先輩男子に見つかってしまった。
「ああっ、相楽! いいところに!」
「・・・どうしたんですか?」
「いやあ、期限は明日だっていうのに、手違いでデータの途中が吹っ飛んじゃったんだよ。修復するのに猫の手でも借りたい状況なんだよね・・・。で、さ? 優秀な相楽くんにも手伝ってもらえるとすごく助かるんだけど」
いつからやっているのか、先輩の目の下にはくっきりとクマが浮かんでいた。とてもじゃないが、予定があるからなんて言える雰囲気ではなかった。ましてや、今日はバレンタインなのだ。言ったらどうなるかは想像に容易い。
(仕方がない・・・。今後のためにも、ここは手伝っておいた方がいいかもな)
研究室に出入りしているだけの深行を持ち上げてまで頼むくらいだ。相当切羽詰まっているのだろう。
いつまでかかろうと、手伝うこと自体はまったく苦ではないのだが。でも、今日は・・・。
深行はにわかに心を重くしながらスマホを取り出し、先輩にすぐ戻ると言って研究室を出た。
泉水子と付き合って5年。ちょくちょく小さなケンカはするけれど、わりとうまくいっていると思う。
泉水子にちょっかいをかけそうな男がいれば、しっかり自分の存在をアピールして牽制するしガードする。だけど逆に深行に近づく女子がいた場合、泉水子は引き気味になる。こういうときもそうだった。バイトや研究室などで会える時間が減ったとしても、あっさりと了承し、むしろ深行の体調を気遣ってくれる。
泉水子が文句を言ってくるような娘じゃないことは分かっている。よく分からない理由でむくれることは多いけれど、基本的に相手のことばかり考えて自分の気持ちを押し隠してしまう。奥ゆかしさは彼女の長所だと思うが、姫神の事情に起因するところもあるのかもしれない。
たまには不満も不安も全部こちらにぶつけて怒ってくれればいいのに。そう思うのは、深行のたちの悪いわがままだろうか。
* * * * *
日中は晴れていたのだが、陽が傾くにつれ雲が多くなり、どんよりと暮れていった。冬独特の鉛色。窓の外ではしっかりと立つ木の枝が風に揺れていて、白い息を吐きながら歩いてきた寒さを思い出す。
深行よりもひとコマ早く終わった泉水子は、先に彼の家で食事を作って待っていた。
今年のバレンタインデーは平日。大学でチョコレートを渡すだけというのは少々寂しくて、一緒に夕食を食べる約束をした。とろ火で煮込んでいるシチュー鍋から、コトコトと優しい音が聞こえる。
冷蔵庫には、先ほど冷水でパリッとさせたレタスとトマトのクルトンサラダ。そして、手作りのチョコレート。
今年も喜んでくれるだろうか。泉水子は頬を染め、口元をほころばせた。
あとは連絡が来たらハンバーグを焼くだけだ。実はバレンタインデーらしく、ハートの形にしてみたのだった。こういうイベントには愛情と勢いが大事なのだと大学の友人が言っていて、ついその気になって作ってしまったのだけど、もしハズしてしまったらかなり恥ずかしい。
(・・・深行くん、引いたりして・・・)
冷静になって考えてみると、途端に落ち着かなくなった。忙しなくうろちょろし、大きくひとつ深呼吸をする。そして丁寧にココアを入れて、ソファに座った。
あたたかなマグカップを両手でつつみ、ふうと息を吹きかけてからひとくち。口の中にふんわり広がるココアの甘みと香りにホッと癒される。
腕時計を確認してみれば、予定の時間はとっくに過ぎていた。
(講義が長引いているのかな)
かばんから小説を取り出し、しばらく読みふけっていると、泉水子のケータイが着信した。
電話を知らせる軽快なトトロのメロディーはカバンからではなく、どこに置いただろうかとあたふた見回した。料理中着信を確かめるために、キッチンに持って行っていたことを思い出す。
泉水子は本に栞を挟むのもそこそこに、ぱたぱたと走ってケータイを手に取った。ディスプレイを確認して、急いで受話ボタンを押す。
「もしもし、深行くん?」
ドキドキしていたからか、こんな距離でも息が上がった。それが伝わってしまったらしく、電波の向こうで小さく笑う声がした。
『こけてないか』
「・・・大丈夫です」
おかしそうに言われて、むうっと唇を尖らせたが、泉水子もつい笑ってしまった。
「今帰るところ?」
泉水子が壁時計を見ながら聞くと、深行は珍しく歯切れの悪い調子で事情を話し始めた。
『・・・そういうわけで、帰りが何時になるか分からないんだ。・・・悪い』
「ううん、大丈夫。それは大変だね。私のことは気にしないで」
内心がっかりしながらも努めて明るく答えると、深行は一瞬沈黙し、言い含めるように言った。
『なるべく早く終わらせるから、帰るなよ』
泉水子は「分かった」と返事をし、互いに電話を切った。それからシチューを煮込んでいたコンロの火を止める。深行らしいなと思うと、落胆しつつも苦笑してしまう。
深行が大学で人脈作りに勤しんでいるのは、彼自身の円滑な大学生活や進路に有益と考えているからだ。だけど、それ以上に泉水子のためでもあることは分かっている。
要領よく人間関係を築くことを得意とする深行が、それでも積極的に顔つなぎや情報収集をする意味に気がついたのはいつだっただろうか。
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。一緒にいられる幸せと感謝を、心の中でいつも噛みしめる。
だから、余計な心配などしなくてもいいはずなのだ。
すっかりぬるくなったココアをこくんと飲み込むと、なんだか瞼が重くなってきた。昨夜はチョコレート作りやラッピングが遅くまでかかってしまい、少し寝不足気味だった。
と、ガチャリと鍵の開く音がした。
泉水子がうっすら目を開けると、深行はソファの前に膝をつき、横たわっている泉水子の前髪を撫でた。
「鈴原。遅くなって悪かった」
眉を寄せる深行を見ながら、泉水子は途切れそうな思考でぼんやりと考えた。今話していたばかりなのに、いくらなんでも帰って来るのが早すぎる。
(早く会いたくて、夢を見ているのかな・・・)
そうか、夢ならば。泉水子はソファからのろのろと起き上がり、深行をキッと見つめた。
「そうだよ、待ってたんだから。私、すごく楽しみにしていたんだよ」
「えっ」
深行がぽかんとこちらを見下ろしているが、どうせ夢なのだからと泉水子は一息に続けた。
「深行くんががんばっているのは私のためだって分かってるけど、でも、研究室には女子も、綺麗なひとだっていて・・・深行くん、いつも楽しそうだものね。私にはついていけないような話だってたくさんしていると思うし、本当は深行くん・・・」
言い終わらないうちに、ぎゅうっと強く抱きしめられた。やけにリアルなあたたかさだった。
ちゅっとこめかみで鳴った音がダイレクトに耳に響いた。唇をふさがれ、ようやくおかしいと気づいた泉水子は瞬きを繰り返し・・・びっくりして深行の胸を押しやった。
「あれ? み、深行くん・・・? いつ帰ってきたの・・・?」
「はあ? さっき俺に待ってたと言ったじゃないか」
「ええ・・・っ」
あわてて時間を確認すると、なんと3時間近く経っていて泉水子は飛び上がった。そこまで眠りこんでいた自覚はまったくなかったのだった。
ということは。あれは、夢ではなく。
(私、なんて言った・・・?)
泉水子の顔にかーっと血がのぼる。はっきりとは覚えていないが、かなり恥ずかしいことを口走った気がする。泉水子が頬を押さえて真っ赤になっていると、深行はそういうことかと言いたげに苦笑した。
「言っておくが、俺は、」
「あのう、違うの。ちゃんと分かってるの・・・。分かっているのに、寝ぼけてしまって・・・」
「うん」
嬉しそうに小さく笑われて、いっそう恥ずかしくなる。嫌な気持ちにさせていないだけマシかもしれないけれど、泉水子はいたたまれなくて、そばにあったクッションを抱え込んで顔をうずめた。火が出そうなほど頬が熱い。
深行が隣に座った気配がしてソファが沈む。再び抱きしめられるやいなや、間にあるクッションをサッとはぎとられた。
「邪魔」
「じゃ、邪魔って・・・」
見つめられてドキンとする。深行はクッションをそのへんに放ると、泉水子の頬に手を添えた。ゆっくりと顔が近づき、泉水子はそっと目を閉じた。
触れ合う唇から、互いの気持ちが流れ込んでくるようだった。
「・・・っ ん・・・」
キスの角度が変わるたび、くぐもった声が漏れてしまう。唇を合わせながら、深行の手が泉水子の耳もとから首筋をなぞるように撫でる。 思わず身を震わせると、ソファにドサっと押し倒された。
「ま、待って。あの、ごはんできてるから。それに、チョコレートも」
真っ赤になってまくしたてると、空腹を意識したのか深行のお腹が反応した。バツが悪そうに顔をしかめる深行が微笑ましくて、泉水子は笑ってしまった。
「あのね、今日はバレンタインらしいメニューに・・・」
そこまで言いさして、そうだった、と泉水子は口をつぐんだ。あんな子供っぽいヤキモチを焼いたあとに、ハート形のハンバーグを出すなんて。考えただけで全身が熱くなる。
「バレンタインらしいメニューって?」
まっすぐな瞳に見下ろされて、ますます羞恥で顔が赤くなる。幸い焼く前であるし、いっそ普通の形に変えてしまおうか。
「バ、バレンタインらしいというか、深行くんの好きなものなの」
嘘はついていない。ハンバーグは深行の好物だ。
深行はしばらくの間じっとこちらを見つめ、泉水子の首元に顔を埋めた。薄い皮膚を軽く吸われ、身体がぴくんと跳ねるように揺れた。
「深行くん・・・っ」
「なんだ」
深行は泉水子の首に耳にと唇を落としながら、耳たぶをかぷりと甘く咬んだ。その吐息や声にも反応して息が乱れてしまう。
「ん、だって・・・、おなか、空いているんでしょう?」
深行は顔を上げると、やわらかく微笑み、泉水子にキスを落とした。その唇が触れる距離のまま囁く。
「俺の、好きなものなんだろう」
嫉妬は理屈じゃないとはいえ、がんばってくれている彼に不安を抱くのは申し訳ないし、そんな自分が情けないと思った。できれば二度と言いたくない。
だけど、なんだか嬉しそうにしているから。悪いことばかりではないのかもしれない。・・・恥ずかしいけれど。
チョコレートのように甘いキスを受けながら、泉水子はやっぱりハート型のハンバーグを出してみようかと悩み始めた。
Happy Valentine's day!
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未来捏造・大学2年設定。
昨年2月に投稿したバレンタインです。
ワンパターン感満載&いつもの捏造だらけの妄想ですが、お心の広い方はよろしくお願いします~!
スピンオフお疲れさまでした!!