呂北伝~真紅の旗に集う者~ 第005話「郷里 弐」
「若いの‼そっちに逃げたぞ。ひっ捕らえろ‼」
数人の男たちを縛り上げた、筋骨隆々の老兵は吠えながら、一人の盗人を追い詰めている。その老兵が吠えた先には、部隊の隊長格が身に着けるであろう鉄の鎧を身に纏った
盗人は盛大に転げまわって、そのまま納屋に突っ込み気を失った。
「若いの。よくやった」
老兵は臧覇の頭を撫でまわし、彼女は眼をまわしながら礼の言葉を言った。
この老兵は一体何者であろうか。時は一週間前に遡る。
「者ども起きろ‼呂北様が参られたぞ‼」
太陽が未だ沈み、夏場独特の蒸し暑さすら起こっていない程の明朝。寄宿舎を預かる隊長格の男の叫び声が聞こえる。男の「主の参上」っという声に、先ほどまで夢の中の住人であった兵士達は一気に目が覚めた。元々大した服など持ち合わせていない兵達は、最低限の肌着を身に着け、隊長の声のした場所に向かった。
彼らが集合した場所は食堂であった。ほとんどの者は夏場であるのか上は素肌で下は黒のズボン、女性はブラもしくはシャツを身に着けて直立して並んだ。
「直れ‼」
隊長の掛け声で明朝寝起きと思えぬ程、一糸乱れぬ動きにて、兵士たちは左足を動かし、腕を後ろに組んで直る。
「呂北様、
隊長の男が歩いて行った先には、机を挟んで談笑している二人の男の姿があった。一人はこの土地を収めるこの兵士達の主であり、もう一人は如何にも歴戦の者といった老兵の姿であった。
全員の集合を確認した際、呂北と楊奉は立ち上がり兵士たちの前に立った。
「若、なかなかの面構えの持ち主達ではないですか」
楊奉の言葉に、何人かの兵士は顔が綻びそうになってしまうが、堪える。
この楊奉なる人物。丁原配下の将の一人であり、また軍師でもある。戦場に出ては策を用いて敵を翻弄し、時には自らが前線に立ち敵を畏怖させる存在であり、丁原の収める地では、『丁原の頭脳』として知られていた。さらに彼は自らの立場に驕ることなく、常に謙虚な姿勢を貫いていたため、その存在は呂北配下の兵からも尊崇の念を集められていた。
「......いや、まだまだだ。帯刀をしていない。もし今敵に攻められでもすれば、俺たちは一気に全滅するだろう」
「やれやれ手厳しい。若、陽の光も出ていない明朝に叩き起こされ集合をかけられたのだ。少し多めに見てやればよかろう」
「ここが戦場だったら、死ぬだろうが」
「やれやれ......いったい誰がこの様に育てたのか......」
「お前だろう。爺ぃ」
兵士達が楊奉に尊嵩の念を集めるのはもう一つ理由があった。自らを率いる主である呂北の教育係を勤め上げたのが、この楊奉である。この扶風に住む者は、誰しも一刀のことを尊敬していた。そして、それを作り上げた楊奉のことも、同じく尊敬していたのだ。
「まぁいい。爺ぃ、爺ぃは武官。俺は文官だ」
「了解です」
二人は散ると、それぞれに兵士達の品定めを行なう様に、一人一人を見定めていく。時に声をかけて質問をしていきながら、二人は見定めていく。実はこの見定め、二月に一度ぐらいの割合で行われている。一刀の仕事の手が空いた時、また彼の気まぐれが起こった時になど、その発生頻度はバラバラ。そして彼に指名された者は、ある者は城に文官として挙がり、またある者は諜報班、他にも女性であれば城の侍女に移されるなど様々。また逆も然り。諜報班であった者が戦線に送られ、侍女であった者が、諜報班にまわされることも稀にある。ほとんどの者は、それぞれの長所を生かして、その仕事を選んでいるが、それがいきなり違う仕事場に放り込まれるのだ。会社で例えるのであれば、開発部門でバリバリ行なっているにも関わらず、いきなり営業部門にまわされるのだ。そんなこと、気持ち的にはやりにくくて仕方がない。だが時にはこれで出世した者もいる。一兵卒であった兵が、いきなり小隊の隊長になる例もあるのだ。
「......お前とお前とお前、今日から城に挙がれ。お前は見張り台係だ。お前は――」
一刀は数人の者に指を指して身の振りを決めていき、そんな光景を見ていた臧覇は気が気では無かった。腕に覚えがあって兵士として志願したのだから、何処かわけのわからない隊に配置されるぐらいであれば、退役するつもりであった。
やがて一刀の指名が終わり、異動の件もこれで終わった思った時、今まで兵士のことを間接的な表現でしか呼ばなかった一刀が突然、臧覇のことだけはその名で呼んだ。突然であった為に、彼女は慌てて前に出る。
「爺ぃ、今日から此奴を側近に付ける。鍛えてやってくれ」
突然の配置に臧覇は頭が真っ白になった。今までは呂北に気に入られて出世を望む為に、自らに出来るあらゆることをやってきたつもりであった。それが突然、一個隊の小隊長に過ぎない自分が、呂北の養父であり主人、丁原の頭脳とまで言われた楊奉の側近として任命されたのだ。大出世である。そんな状況を頭の中を駆け巡りどうすればいいかわからなくなっていると、いつの間にやら楊奉が臧覇の前に立ち、彼女の1.5倍はありそうなその体を曲げて、白い歯を出して笑った。
「よろしくな。若いの」
握手を求めてくる楊奉のその手に、恐る恐るその手を差し出すと、彼女は引っ張られるように手を掴まれ、肩が外れるかと思うほどに腕を振られた。
「それじゃ若いの。今日は非番にしてやるから、荷物を纏めてワシの屋敷まで来るがいい。今日からそこがお前の家にでもなるのだからな」
高らかに笑いながら楊奉は寄宿舎を出ていき、一刀も肩を一つ竦めると、後を寄宿舎の隊長に任せて、その場を去った。やがて隊長が一呼吸の間をおいて解散を促すと、兵達は肩の荷が降りたかのように欠伸を出しながら自らの部屋へ戻っていった。臧覇は未だ状況が整理できずに呆然と立ち尽くしていると、その小さな体は突然突き飛ばされた。
「馬鹿野郎‼んなとこで突っ立てんじゃねぇ‼」
楊奉程でなくとも、男性が持つ体躯を利用し、臧覇にぶつかった兵士の目は、嫉妬に満ちた嫌味な感じであった。入隊して半年やそこらの元服を迎えたばかりの子供が、いきなり小隊長から将の側近にまで出世したのだ。それまで仕えてきた先輩は面白い筈も無かった。そんなことも気にする間も無いのか、臧覇は慌ててその兵士に頭を下げ続けた。
その日、日が昇るまで一刻程の時間があったが、他の者と違い臧覇だけは夢に落ちることが出来ずにいた。むしろこれからのことに不安を感じてしまっている。元服後すぐに家から出され、腕に覚えがあるも行く先々で子供とあしらわれて仕官出来ず、苦労の末、遂に一つの地域を預かる統治者の将の側近にまで出世したのだが、如何せん扶風に来て一年も経っていないのだ。余りにも出来過ぎて不安にもなってしまう。
そんなことを考えていると完全に陽が昇り、同じ部屋で寝る者達は次々と出勤の準備を進める中、臧覇だけは荷造りを行なっていた。次々と部屋から同僚が出ていく中で、彼女は残され、また誰からも声はかけられなかった。臧覇自身もそれは分かっていた。少しだけ周りとは違う裕福な家庭に生まれ、幼少より英才教育を施され、そして周りより少しだけ腕と知識に覚えがあるだけで早い出世を果たした。後輩に抜かされ、先輩としては面白く無い筈である。それでもここまで来ることが出来たのは、間違いなく彼女自身の努力の賜物であるのは確かだが、それでもまだ12、13かそこらである。周りからの嫉妬の視線と嫌味は、彼女の心に大きく突き刺さる。荷造りを進める最中、臧覇はその小さな体を小さく震わせて小さく泣いた。
太陽が北の空の真上に差し掛かったころに、臧覇は寄宿舎を後にした。扶風に来て今まで世話になった場所である。最低限自らがいた場所は掃除していった。っといったものの、寄宿舎の隊長に言われた時刻は夕方である為、今向かっても楊奉は不在である。久々の非番であるので、臧覇はいつも行っている本屋で時間を潰すことにした。やがて太陽が沈みかけに入った頃、臧覇は本屋を出て楊奉の屋敷へと向かう。
「おぉ来たか。若いの、これからよろしくな」
「はい、楊奉様。若輩の身で至らぬ点もあると思いますが、是非ともよろしくお願いします」
城の近くの大きな屋敷に向かい、玄関を潜ると、庭先にて木刀で素振りをしていた楊奉が迎えてくれた。実を言うと、この屋敷は元を辿れば、警邏隊の詰所である。しかし彼が3日程前に東扶風からこの西に来たばかりであった為、楊奉の技量に合う十分な施設と土地を用意することが出来なかった。そこで警備隊の詰所を改築したのである。しかしだからといって警備隊の詰所としての役割が無くなるわけでは無い。屋敷の存在としての主体意義が、個人の自宅となった現在でも、民からの声が聞こえてくる場所に変わりはなく、つまりこの屋敷を個人で管理するということは、ひいては西扶風を収める一刀を除き、この土地の民権を一手に引き受けるということでもある。つまり楊奉は現在、日本でいう奉行頭的な存在なのである。
「それにしても、荷物はこれだけか?今の若いのにしては随分さっぱりしとるな」
臧覇が持つ荷物は、中ぐらいの風呂敷一枚に収まる程であり、中身も精々衣類が3,4着。小物が数個程である。そんな彼女を見つめ直すと、楊奉は臧覇の持つ数冊の兵法書に目をやった。
「ほう。若いの、お前、兵法を嗜むか?」
「......え、いや、はい。独学ではありますが、父より『学ぶことはあらゆる物事に対し可能性を広げる』と教えを受けておりまして」
「ほほぅ。素晴らしい教えだな。ま、立ち話もなんだ。とりあえず入れ」
臧覇は楊奉に招かれて客間に通され、持ってきた荷物を、特に兵法書を検分された。
「孫子、呉子、
楊奉は決して上質でない証の黄色の紙、それが読み込まれ手の垢で茶色になった孫子を指でなぞりながら答える。
「紙質は固いが、それでも紙など決して一介の兵士に買える代物でもない。これほどのもの、一体どうした?」
「それは、父より元服の祝いとして頂いたものです」
「かなり読み込まれているな......」
それから楊奉は臧覇に色々質問をした。何処で生まれ、どうして生き、如何にしてこの地にたどり着いたのか。彼女の言葉を一つ一つ聞き漏らさないように、楊奉は聞いた。
「だったら、呉子や六韜もお前の親父さんから?」
「いえ、それは私が買ったものです」
「......若いの。こう言ってはなんだが、その給金で身の回りの物を買おうとは思わなんだか?お前はまだ幼いが容姿は悪くない。他にも欲しい物もあろうに......。それに孫子の兵法が書かれた紙など、決して安い物でもない。売ればかなりの額にもなろう。旅をしている最中、これを売って路銀にしようとは思わなんだか?」
「思いません」
臧覇は即答する。
「私は学を学ぶことを得意とは言えません。しかしそんな私に父は決して安くもない孫子を授けてくれました。きっとこれからの私のことを思ってのことでしょう。例えどんなに飢えに苦しむことがあろうとも、そんな父の思いを踏みにじるようなマネは出来ません」
彼女の瞳に映る燃えるような熱に、楊奉は一つ感嘆を漏らし、おもむろに立ち上がり一つの風呂敷を授けた。彼が開封を催促し、臧覇はそれに応じると、中には数着の絹で出来た服が入っていた。
「こ、これは!?」
「今日からのお前の衣服だ。受け取れ。そして今着ている服は捨てろ」
「い、いや、しかしこれは......」
彼女はたじろぐ。現在臧覇の来ている服は麻で出来た服である。麻の服は生地が薄く、また質が悪い物は肌触りが良くない為、摩擦により肌が被れることもある。また夏場は涼しいが、少し気温が下がると寒いのだ。その点絹は柔らかく、収縮性もあり、動きやすい。この時代、絹で出来た服は高価な物であり、身分が高い物は皆着ている物だが、低い者は皆麻なのだ。
「若いの。お前の人道に乗っ取った行ないに対して贈るのだ。黙って受け取れ。そして、これから兵法書などは買うな」
「......?」
「この屋敷には
楊奉の気遣いに胸がいっぱいとなり、彼の言葉を了承するように臧覇は頭を下げる。
「さて、もうすぐ陽が落ちる。明日からはみっちり働いてもらうから覚悟することだな」
「はい。よろしくお願いします」
席を立ち深々と頭を下げ、ハッキリと答えた臧覇に楊奉は満足そうに二、三度頷く。それから臧覇は用意された夕食を済ませた。また屋敷には蒸し風呂が備わっているとのことであり、楊奉に垢を落としてくるように言われ、汗をかきキチンと体を清潔にした後、彼に就寝の挨拶を済ませ、用意された部屋に向かった。中は最低限の小物と装飾品、机や寝具といったものしか無かったが、今の臧覇にとってはこれ以上ない優遇である。彼女は荷物を下ろし、故郷を思い出しながら孫子を改めて読みふけり、若干の睡魔が襲ってきた時に寝具に入った。その小さな体に対し、二回り以上も大きな寝具に入り、これからのことを思いながら、彼女は目を閉じた。
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こんにち"は"。
最近寒くなってきましたね。
皆さん風邪にはお気を付けて過ごして下さい。とくに服。周りの目を気にしてファッションを充実させることは大事です。見た目の第一印象でその人なりも決まってきますからね。
それを踏まえた上で、自らの身体的耐久性と、その季節季節にあった服をチョイスしてください。
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