突進する巨獣。
正対する羅刹。
傍から見れば、その羅刹の行いは、正しく蟷螂の斧という故事のそれ。
それ程の、力の違いがそこにはある。
圧倒的な力に対し、自分の小さな鎌を振り上げる。
いつしか、世人はそれを身の程を弁えぬ愚か者をあざ笑う意味に変えてしまったが、本来それは、勇気あるものを賞した言葉。
確かに、戦において、勝てぬ相手を前に、逃げる事は恥でも悪でも無い。
だが、譲れない物を賭け、例え徒手であっても、己を振りかざさねばならない時というのは、必ずある。
そんな時にも逃げる事を選べてしまう、譲れぬ意地を持ちえぬ生に……一体何の意味がある。
(機会は一瞬)
奴を真向正面から捉えられる、その一瞬。
正中線に、捨て身の一撃を狙う。
疾駆する足音、地面を蹴るそれは、厚い煙でも誤魔化し切れない、奴の居場所そのもの。
噛みついてくるか、前脚の一撃を放つか、それともその巨躯で押しつぶすか。
奴の攻撃と、それを仙狸が躱す様は一通り見せて貰った。
羅刹の脳裏に、鵺の攻撃の諸相がありありと映し出せる。
(意識を削ぎ澄ませ)
静かに息を整える。
身内を荒れ狂う怒りとは別に、一息ごとに、自分の心が鎮まって行くのを羅刹は感じていた。
握る拳に、大地を蹴ろうとする足に、力が静かに満ちていく。
折れた肋も、今は痛くない。
あの巨獣から向けられる殺気、羅刹に向けられる攻撃の意思が、形をとったように、彼女には見えた。
(右前脚……薙ぎ払い)
叩き潰すのでも、体当たりでも、噛みつきでも無い、左右に跳んで逃げる彼女を想定したような、広い範囲への攻撃。
その動きを読んだ羅刹の口元が軽く歪んだ。
「舐めてんじゃねぇよ」
人は己の物差しで相手を計る……戦鬼たる彼女の覚悟を計る事は、どうやらこの元人間には出来なかったらしい。
山津波の如き地響きと圧力を伴い鵺が迫る。
その真向に向け、羅刹は全力で大地を蹴って跳躍した。
煙煙羅の力を宿す煙が身に迫る。
その煙の先は、まだ何も見えない。
身を伏せられていたら、読みが外れていたら……。
だが、羅刹に迷いは無かった。
右腕を畳み、肘を突き出す。
胸の前で、右拳に左手を添える。
彼女の力の全てを込めた突進が、煙煙羅の力を宿す煙を、容易く貫いていく。
その煙が不意に晴れた。
驚愕に、細い目を見開く鵺と、まじろぎもせずに前を睨み据えた羅刹の視線が正面からぶつかる。
その、一瞬の気力のぶつかり合い。
いや、ぶつかり合いにすらなれなかった。
鎧袖一触。
死を必し、尚戦う事を選んだ戦鬼の覚悟が、逃げ回る生を選んだ男の魂を打ち砕いた。
鵺が悲鳴の形にその口を開く。
だが、そこから声が出る暇も無かった。
鵺の全力の突進を、真向から受け止めた羅刹の肘が、その眉間に、ごりっとめり込む。
分厚い肉と岩の如き頭骨に守られた、その鵺の眉間の骨に肘が触れた、それを感じるのと同時に、羅刹は左手に気力のありったけを込めて右腕を押し、更にその肘を突き入れた。
みちり……。
奴の眉間を砕き、その頭の深奥に衝撃が「通った」のを彼女の右腕は確かに捉えた。
正面から脳を鋭く抉る衝撃を受けて、さしもの頑強な鵺の意識が飛ぶ。
振り上げた右前脚や地を蹴る四肢が、急速にその力を萎えさせ、巨体を大地に転がした。
だが、突進する巨体に対して、真っ直ぐにぶつかった羅刹も無事で済む筈もない。
自身の右腕の骨が砕けるのを感じた次の瞬間、羅刹の体もまた、鵺の巨体に吹き飛ばされた。
全身を走る衝撃に意識が遠くなる……。
その最中だというのに。
「完璧」
羅刹は、そう呟きながら長目の犬歯を見せながら会心の笑みを浮かべていた。
ウチの放つ最後の一撃として、申し分なし。
「修羅界……?」
領主が呻くような声を押し出す。
修羅の世界。
一日の始まりと共に、ひたすらに理由なく殺し合う、だが、死してなお意識はその場で苦痛と共に留まり、朝の訪いと共に、その身には再び殺しあう為だけに生が宿る。
そんな、勝者なき永遠の闘争が支配する世界。
「戦好きを、戦しかない世界に送ろうとしている訳ですが、何かご不満でも?」
言葉の内容はともかく、その声音に皮肉な所は欠片も無い。
「わしが好きで戦に明け暮れていたと思うのか!わしは戦うしか浮き上がる術は無かった……貴様はわしに泥に塗れて下民として終われば良かったと言うか?!」
「貴方の我欲だろうが、生き残るためにやむなくした事であろうが、平和を求める崇高な心から発そうが、その行いが裏切りと戦乱と殺戮に塗れ、多くの人の命と幸福を奪い、人心や寺社の荒廃を招き、現世に妖怪の跳梁跋扈を招いた一因となったのは、まぎれもない事実です」
「むぅ」
「私は貴方の心を裁いたのではなく、積み上げた事跡と、その及ぼした影響を評価し、それに対して罰の判断を下したまでの事。私の判決に、情が介入する余地は無いのですよ」
その声の冷たさに、領主だけではない、傍らの男の背にも寒気が走った。
この領主の所業は知らぬが、人であれば、嫌々ながらも已む無く罪を犯す事も有ろうに……それは余りの言い種では無かろうか。
「……慈悲は無いのか」
「貴方を慈悲の心を以て許す権利があるのは、貴方に害された人だけ。そして、それとは別に衆生に遍く慈悲を垂れるのは仏の仕事です。もし、私が憐憫の情で判断を捻じ曲げたら、それは慈悲ではなく、単なる恣意的な法の運用に過ぎません」
そこで言葉を切って、夜摩天は眼鏡を僅かに指で押し上げて、視線を下に向けた。
「逆に伺いましょう、貴方は自身の内心にまで、私にズカズカ踏み込まれたいのですか?」
「わしの内心」
「ええ、子を犠牲にすると決めた、そこの人を殺そうと決めた……その時の決断の重さを、貴方の心を、何の縁もゆかりもない私に憐れまれたいのですか?」
自身の子の未来を犠牲にしてまで掴みたかった野心を、哀れな人間が欲に負けた決断だったと……私に憐れまれてまで、貴方は来世の安楽を求めるのですか?
「わしは」
(厳しい人だな)
男は二人のやり取りを傍らで見ながら、ちらりと夜摩天の姿を見上げた。
些かきつめだが、理知的な美貌と涼やかな浄眼が、審理の対象を静かに見据える。
世に知られる冥府の王という肩書とは乖離のある外見ではあるが、その魂の峻厳さは、なるほどと頷ける。
(だが、多分その厳しさは……)
言葉に詰まる領主を見て、夜摩天は再び声を掛けた。
「ここで答えを出す必要は有りません、私の判決は基本的には覆りませんので」
「……そうか」
「ええ、それに、この先、考える時間はたっぷりあります」
皮肉かと、男と領主は同時に夜摩天を見上げた。
だが、二人はそこに嘲笑や冷笑では無く、何処か憂いを湛えた表情を浮かべた彼女の顔を見出した。
「恐らく、貴方は修羅界に転生した時点で、人の記憶を失うでしょう」
己の為した事の何もかもを忘れ。
「修羅界の殺戮の巷で日々を過ごし、些細な疑問など抱く余裕も無いでしょう」
日々、己を顧みる余裕すら持てない……それが六道の苦界に落ちる本当の怖さ。
「ですが、その魂のどこかで、答えを求める事を諦めさえしなければ……」
その魂の渇仰が、いつか、自分なりの答えに辿り付く時が。
それは、長き転生の果てかもしれないが。
「いつか」
いつの日か。
その先は、もう声にならない、囁きのような唇の僅かな動き。
その声は、領主には聞こえなかった。
だけど、不思議と、男には、はっきりと聞こえた気がした。
きっと、その魂に安らぎが。
そんな、血を吐くような、彼女の願いが。
聞こえた気がした。
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式姫の庭の二次創作小説になります。
閻魔は地獄行きの判決を下す度に、煮えた鉄を一杯飲んだとか……。
承前:http://www.tinami.com/view/892392
1話:http://www.tinami.com/view/894626
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