No.914532

水槽

zuiziさん

オリジナル小説です

2017-07-17 22:01:20 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:490   閲覧ユーザー数:490

 マンションの隣の部屋には魚の水槽があるらしく、壁越しに酸素のポンプのモーター音が聞こえ、私はそれを夜眠るときに半分迷惑な気持ちで感じており、けれども最近ではもう慣れてしまって、その微かな水音もたとえば温泉街の民宿に泊まった時などに窓の外から聞こえてくる川のせせらぎのようにも気持ちを転ずれば聞こえなくもないから、不思議と蝉も鳴く虫も何にも声のしないような真空状態みたいな夏の夜には、その音を聞きながら眠りにつくのが決して悪い気分ではなくなってきた。

 真っ暗な中で水音を聞いていると、その向こうにいる魚の尾びれの、壁を打ってぴたりと飛沫をあげているところが聞こえるような気がし、私はどんな魚がいるのだろうと思って毎晩寝返りを打つ。

 隣人に、何の魚を飼っているんですかと尋ねると、その都度、ケープペンギンであるとか、眠り鱶であるとか、蘭鋳であるとか、いろいろなことを言うけれども、どれも本当のこととは思えず、私は一度隣人の部屋へ入ってみたいと思うのだけれども、一度もその機会に恵まれていない。

 ある日、水道が断水して、水が一滴も出なくなるということがあって、蒸し暑い六月の昼日中、私は飲み物がなくなって鉄さびの混じった赤い水を浄水器越しでも飲むのに抵抗があったからコンビニへ行って暑い中二リットルペットボトルを買って持ち運んでいると、隣人が部屋から出てきてああ困りましたという、どうかしたのですかと尋ねると、水が止まってしまって、それで水槽の水がみんな少なくなってしまって、なので今からちょっと知り合いの水の業者に行って、水を取り寄せてこないといけないのですと言う。

 急いで飛び出したものか、私の目の前で鍵も閉めずに走って行ってしまったので、私はじきに戻ってくるだろうと思ってそしたら鍵を閉め忘れてますよと言ってあげようと思ったけれども、一向に戻ってこないので悪戯心が沸いて、この際だから中を見てみようという気になった。

 扉を開けると、すっと冷風が吹き出してきて、まだ盛夏までは間があったけれども、この人はずいぶんと早くから冷房を入れるんだなあと思う。部屋の中は昼間だのに暗く、どうしてだろうと思うと窓の前に本棚や棚が置いてあって、それで採光を妨げているためで、こんなところに棚を置いたら不便で仕方がないだろうと思ったけれども、何か考えがあるのかもしれない。たとえば魚が光を嫌う魚であるとか、そうであるから明かりは一切点けないようにしているのだとか。

 私の部屋の壁の一枚向こうに、昼間から洞窟みたいな暗がりが広がっているのかと思うと、なんだか不思議な気持ちもするが、それもそういうこの人の時間の過ごし方なのかもしれないと思えば納得はできる。

 でも水槽がない。どこにあるんだろうと思って、というのもその部屋は私の1Rの部屋よりもちょっと広くてもう一部屋余計にある設えであったから、その中にあるのに違いないと思って、部屋の戸を開けると、真っ暗な中にガラスの照り返しがあって、中に大きな水槽があるのが分かる。明かりをつけると、部屋いっぱいに広がるような大きな水槽で、どうやってこの部屋に入れたのだろうとか、水はどうやって入れているんだろうとか、そういういろいろなことが頭に浮かんだけれども、それよりも、照明のせいか少し紫がかった不思議な色の水の中には、魚ではなくて裸の女の人が浮かんでいて、微かな水音とともにゆっくりと回転しているようで、寝ているのだか起きているのだか、分からないけれども穏やかな表情でおり、ふっと、明かりのついたのに今気が付いたかのように、ゆっくりと目を開け、私のほうを見て、何か、珍しいものでもみるような塩梅で目を見開き、それから、詰まらないものでも見たかのように、またゆっくりと目を閉じた。

 部屋の中には、藻の臭いが立ち込めており、それは壁紙にみんな吸い付いてしまったような強烈な臭いで、きっと部屋を出ていく時には、みんな壁紙を張り替えなければならないのだろうなあって私は思い、でも、それよりも、水槽の重さで床が抜けてしまうのが先だろうかとか、水が漏れて階下の住人の訴えでこの水槽の存在が気づかれてしまうのが先だろうかと、そういうことをいろいろ考え、それから、頭の中がうまく回らなくなっていると感じてくらくらして、強烈な藻の臭いと、さっきまで浴びていた太陽の熱気が体の芯に残っているのに、強い冷房で皮膚の表面ばかり冷やされているから、その寒暖差で参ってしまっている感じがして、私は部屋を辞去することにし、水槽の中の女の人に向かってさよならをすると、女の人はまた目を開いて、それから、詰まらなそうに目をつむって、私は部屋の明かりを消した。

 自室に戻ってしばらくして、隣人の帰ってくる気配がして、それから、水が動き出したものか、酸素ポンプのモーターの音がして、またあの大きな水槽に水が注がれているんだろうというようなことが分かる。壁に耳をつけて、そっと隣の音を聞いても、話し声だとか、笑い声だとか、そういうものは聞こえず、ただずっと続くモーター音の中に、微かに、ぱちゃぱちゃと水を跳ねるような、そんな音が聞こえるような気がして、真っ暗に電気を消した部屋の中で、あの大きな水槽に対峙して、ものも言わずに女の人をずっと眺めている隣人の姿が何となく想像せられて、私は曰く言い難い気分になり、それきりもう耳を澄ますのを止めてしまった。

 冬が来て、隣人はいつの間にか引っ越してしまったらしく、気が付いたら新しい人が来ていて、私はその人と仲良くなって、部屋でお茶を飲むこともたまにあったから、水槽の置いてあった部屋に入るときに、藻の臭いが薄く幻のように感じ取られたのを思い出して、ああここにあったんだよねと思い、でも、隣人にそんなことを話したって、気味悪がられるだけだからと黙っていると、たまにね、と新しい隣人が言う。女の人が夜空中に浮かんでいることがあるんだ、と。

 もしかしたら、と思う。彼女は水槽や水はいらなくなったのかもしれないし、あるいはもしかしたらこれからまた、水槽や水が入用になってくるのかもしれない。新しい隣人は、それを用意しなければならなくなってしまうのかもしれない。分からないけれども、もしかしたら、そういうものなのかもしれない、と思いながら、そうなんだ、と興味のないふりをしてつぶやくと、隣人はせっかくの話題を流されたことに少し不満そうで、でもすぐに、新しく買ったロイヤルコペンハーゲンのティーカップのこととかを自慢しだす。


 
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