「おっと、お邪魔だったかな」
とぼけた顔で、湯上りの師匠が顔を覗かせた。
「おかえりなさいませ、ハル様」
「あー、それはやめろって」
おさきさんが三つ指を突こうとしたので、師匠が面倒くさそうに手をひらひら振った。
「ほう、毛づくろいか?」
「まだ途中ですが……」
「どれ、俺が代わってやろう。マドカ、櫛」
「あ、はい」
師匠に櫛を渡すと、おさきさんが割ってはいった。
「あら、いけません。ハル様の手を煩わせるのは」
「何だ、俺では役不足なのか?」
困ったようなおさきさんと、挑みかかるような師匠が睨み合っている。
俺は微妙な雰囲気に飲まれて、手持無沙汰に硬直していた。
「ふん、まぁ毛づくろいは今度だな。今日はもう、おやすみの時間だ」
師匠が言い終わる前に、おさきさんの姿は消えていた。
「じゃあ、俺もこれで――」
立ち上がりかけた俺を師匠が引き留める。
「こら、どこ行くんだ。いいから座れ」
師匠の声は、有無を言わさぬ響きを含んでいた。
さっきまでとは一転、妙に緊迫した空気が部屋に満ちていく。
「湿気た顔だな。おさきと何かやらかしたのか?」
「別に何も……」
「変な気は起こすなって言っただろうに」
「普通に会話してただけっすよ」
「普通に会話してて、そんな顔になるか」
心配しているのか怒っているのかよく分からない。
俺はため息をついて、おさきさんとの会話について師匠に打ち明けた。
「師匠は、どう思いますか?」
「何がだ」
「おさきさんについて」
師匠は腕組みをして、しばらくの間、深く考え込んでいるようだった。
「分からん」
「……はぁ?」
「まぁ、おかしな奴だとは思うが。お前はどうなんだ?」
「俺にも、よく分かりません」
「だろうな。そうでなきゃ、そんな顔にはならんだろ」
師匠は寝床に入ると、さっさと臥せって頭の下で手を組んだ。
「おさきが加わってしばらくしてから、俺もお前のように尋ねた事があったな。 まぁ大体、お前と似たようなやりとりをして」
「はい」
「お前と同じように、色々とおさきについて考えて――止めた」
「どうして止めたんですか?」
「さっき言っただろ、俺には分からんからだ」
「逆に聞くが、お前はどうして、おさきにそんなに拘るんだ?」
「え?」
「ありゃー俺の式姫だぞ。たかが狐一匹、別に深入りする必要もないだろう」
「まぁ、そうですけど…………」
「惚れたのか?」
「違いますよ」
「そうか、じゃあ今度真祖にバラしてやろう」
「いや違いますって」
俺はからかわれるのが嫌だったので、話題を変えた。
「師匠は、式姫にとっての幸せとか考えた事ありますか?」
「なんだよ、また急に」
「なんとなく聞いてみたくて」
「幸せ、ねぇ……式姫によっても違うだろうが、まぁ主たるこの俺が居れば幸せだろ」
「それ、本気で言ってます?」
「そもそも自分以外の誰かの幸せなんて、俺にはどうでもいいんだよ。そいつが今幸せかと聞かれてはいそうですと言えばそれでいいだろうが」
「……」
「幸か不幸か、それを決めるのは自分自身で他人じゃないだろ?」
「うーん」
「何かおかしかったか?」
「いや、なんというか、放任主義というか他人任せというか」
「失礼な奴だな」
「すみません」
「放任主義で何が悪いんだ」
「やっぱりそうなんじゃないですか」
「そもそも、俺が契約した式姫についてあれこれ言われる筋合いはないぞ。俺は俺なりのやり方で付き合ってるだけだ」
「はぁ」
「だからお前が真祖とあれこれしようが、俺は口を出さん。ただし子供が出来たら責任は取れ」
「え?子供って出来るんですか?」
「出来るわけないだろうが」
「何で分かるんです?」
「聞いた事がないからだ」
「……試した事は?」
「さぁね」
そう言うと、師匠は向こう側を向いてしまった。
「おさきさんなら、喜んで応じてくれそうな気がしますね」
「馬鹿な事を言うな。あれが尻軽狐に見えるのか」
「なんとなく」
「お前、おさきの話してくれた昔話の内容を忘れたのか?」
「覚えてますよ」
「あれが実話なのかどうか、俺には分からんが――よいしょっと」
師匠は体を起こした。
「ありゃー、想い人一筋だな。他の男は眼中になさそうだ」
「自分の主でも?」
「あぁ。それなりに付き合いは長いけど、俺はおさきが心から喜んだ所を見た事がないぞ」
「意外ですね」
「いや、普通は分かるだろう。暇があればお役に立てませんかと聞いて回るような奴だぞ。足りてないんだ、年中欲求不満なんだよアレは」
最後の一文は少し下品に聞こえたが、俺は何も言わなかった。
「色々と足りている時は、人は動かなくなるもんだ」
「うーん、そうでしょうか」
「お腹一杯になると、動きたくなくなるだろ?」
なるほど。その例えは、非常に分かりやすい。
「だから、おさきを理解しようとするのはそもそも無理なんだよ。俺が動かない間に、あいつは理解の及ばない場所まで一人歩きしていってしまう。
マドカ、何故おさきが縛られたがっているのか分かるか?」
「それは……」
「それは、引き留めて欲しいからだ」
心は此処に在らず。
「誰かが引き留めなければ」
戻らぬ人に焦がれ続け。
「あいつは止まる事なく、行ってしまうだろう」
それでも、今はこの人の傍に――。
「大体、善狐だかなんだか知らんが、獣の考える事なんか人の身で分かるもんかい。
だから、お前も下手に深入りしようとするな。さもなくば――戻ってこれない場所まで行ってしまうぞ」
「…………」
「なーんてな。んじゃ、俺はもう寝るわ」
「えっ、ちょっと」
俺を無視して、さっさと布団に倒れ込む師匠。最初は分からんとか言ってた癖に、色々と師匠なりに考えているようだ。
今日は、これ以上は話し合いも出来そうにない。
そっと立ち上がり、障子を開けて師匠の部屋を後にした。
雨は、少し小降りになっている。
止まる事なく行ってしまう、か……。
あぁ、そういう事か。おさきさんなら、仕方ないのかもしれない。
なんせ、『お先』だからな。一体、誰が名付けたのやら。
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おさきさん考察後編。
1-1:http://www.tinami.com/view/906976
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