「姉さん、利根姉さん?」
「おお、筑摩か。どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたも……。夜中にどうしたんです、大きな声出して。川内さんが遊びに来ているんですか?」
「ああ、なに、今度の演芸会で落語をすることになってな。隠れてこっそり練習していたところじゃ。……みなには内緒じゃぞ?」
「大きな声がしたから様子を見に来たんです。みなさんにももう知れ渡っていますよ。隠れているならもう少し静かにして下さい。それに演芸会は明日……いえ、もう今日じゃないですか」
「なんじゃと?」
「ほら、もう日付が変わってますよ」
「いや、しかしまだ今日は……」
「日めくりカレンダーは毎日めくらないとダメなんですよ」
「後ろを見るな!前も見るな!今を見ろ!」
「だから大きな声でカレンダーの標語を読まないで下さい。……なんですかこの日めくり」
「よい言葉だと思わぬか? 吾輩は気に入った言葉を毎日読んでおる」
「だから毎日めくらないとダメなんですってば。……もう今日が本番なんですから、早めに休んで下さいね。それでは、お休みなさい」
「いや、筑摩よ。待て待て」
「はい?」
「まだ一度も通し稽古をしておらぬのだ。すまぬが、つきあってくれぬか」
「……いまからですか?」
口をへの字にしながらも、筑摩は利根の前に座ります。
代わりに利根は立ち上がり、座布団を残して部屋の隅へ。手にした扇子をぱちぱちと開け閉めし、「テケテンテケテンテケテンテン」と、出ばやしを自分で口ずさみながらやって来て、座布団の上に座ります。
「えー……」
「…………」
「…………」
「……姉さん?」
「えー」ぱたぱたぱたと扇子を広げて扇ぎます。
「粗忽長屋ですか」
「そうではない、そうではないぞ。演目は……えー……ここまで出てきて……ちょっと見てくれぬか?」
「口開けても見えませんよ。噺す人が粗忽でどうするんですか」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと役に入り込み過ぎて粗忽になっておるだけじゃ」
「そうですか」
「…………」
「…………」
「……吾輩がなんの噺をしようとしていたのか、聞いてはおらぬか?」
「誰からですか」
「吾輩からだ」
「存じ上げませんね」
「筑摩は粗忽じゃな」
「怒りますよ」
「筑摩も悪いのじゃぞ」
「どうしてです」
「人に見られておると思うた瞬間、覚えていた噺がぱーっと消えてしもうたのじゃ。そこに座ってこっちを見ておる筑摩も悪い」
「……よく演芸会に出ようと思いましたね」
「放っておくと那珂のやつがずっと歌い続けるから何か出し物をして下さいよ姉さんと、水を向けたのは筑摩じゃぞ」
筑摩は手を口元にあてて目をそらします。
「それでしたら知ってそうな人に訊ねればいいんです」
「誰じゃそれは」
「大淀さんですよ。演芸会のしおりとプログラムを作っていましたから、姉さんの演目も姉さんから聞いているかもしれません」
「……それで、こんな夜中になんの用です」
パジャマ姿でナイトキャップをした大淀がにらんでいます。
「うむ、吾輩から聞いておろう」
「……なにをです?」
「ほれ、あれじゃ、ほれ……」
「……なんです?」
「あんまりこっちを見るでない、忘れてしまうではないか」
「……忘れているでしょう」
「吾輩から今日吾輩が来ると聞かされておったじゃろう」
「……いませんが」
「大淀だけが頼りなのじゃ。むかしの吾輩から何か聞いてはおらぬか?」
「……むかしの、利根さんから」
「ほれ、なにか思い出したじゃろ?」
「……それは思い出して、いいものなのでしょうか?」
「なんじゃと?」
「……利根さんはこの鎮守府では珍しい、まがいなりにも最後まで沈まなかった艦娘です。――いいんですか? 本当に思いだして」
「なにをじゃ」
「……ふふふ、なにをでしょうね」
「大淀さんにプログラム見せてもらうだけなのに、もうお日様があんな高いところにいるじゃないですか。秘書艦室がラバウルあたりに転進でもしたんですか」
「皮肉なことを言うな筑摩よ。ちゃんと聞いてきたぞ。……どえらいことを」
「……はい?」
「あれはよくない」
「なにがです?」
「あそこに沈んでいるのは確かに筑摩なのじゃが、それではここにいるのはいったい誰じゃ」
「沈んでいるの私ですか」
「吾輩は沈んではおらぬからな」
「ここにいる吾輩はいったい誰じゃと言ってくれないと、サゲられないじゃないですか」
「粗忽長屋ではないと言うておろうが。それに、ここでサゲられたら吾輩は粗忽者で終わってしまう」
「粗忽者でしょうに」
「粗忽ではなく、緊張しすぎてものを忘れてしまうだけじゃ」
「だめじゃないですか」
「だめなものか。カラクリそっくり一段語れば思い出せるわ」
「カラクリ……ああ、小伝馬町より引き出され♪って、くしゃみ講釈でしたか」
「そうじゃそうじゃ。完っ璧に思い……出した」
「なにか綴りそうな言い方しないで下さい。今じゃ古くて通じませんよ、そのギャグ」
「胡椒がないさかい唐辛子……よしよし」
「はいはい。どころで姉さん、どうしてくしゃみ講釈なんです?」
「落語で動画検索したら一番上に出てきたのじゃ」
「……忘れないうちに会場に入りましょう」
ここの鎮守府にはいわゆる体育館がありまして、ステージ脇の部屋が楽屋になっています。
「なんや、利根はやっぱり緊張しいかいな」
と、三味線を持った龍驤が笑っています。
「大丈夫や大丈夫や。素人芸やさかい、誰も上手なんは求めとらんて。詰まって恥かくんも芸のうちや思て、ま、気楽にすることやで」
龍驤の話しを聞いているのかいないのか、利根はずっと天井を見上げてぶつぶつおさらいをしています。
「おーい、利根はん?」
「あ、龍驤さん。姉さんは人の目を見ると緊張して忘れてしまうから……」
「大丈夫なんか、それ。ずっと天井見上げたまま一席やんの?」
筑摩はにこにことしたまま、緞帳の隙間から客席をのぞき見ます。
「……けっこう入ってますね」
「へえ、まだお昼休みやのにすごいな。みんな屋台めぐりしてる時間やのに……」
客席を見た龍驤が「お!」と声を上げます。
「一航戦の二人が来てるなぁ。大物や、珍しいで……最前列でかぶりつきや」
「珍しい?」
「赤城と加賀は常識人やさかい、この手の会やと前の席は小さい駆逐艦に譲って、後ろの方におるもんなんやけどな……なんや、二人とも火鉢持ってんで」
「え?」
「おもろいなぁ、落語にあわせて、唐辛子でもくすべてくれって頼んだん?」
「まさか。日付も忘れてたんですよ、姉さんは」
「なんや、けったいやなぁ。……お、二航戦まで来おったで。榛名さんと霧島さん、四駆に十駆、十七駆まで。贅沢やなぁ、壮観やなぁ」
「いやほんとうに。かぶりついていますね」
「……みんな火鉢持ってるな」
「なにかごそごそしていますよ?」
「ああ、火ぃつけたな」
「煙が、すごいですよ、くしゅん、くしゅん、なにこれ、くしゅん」
「けほけほ、これ、たまらんな」
「なんで、くしゅん、くしゅん」
「みんなの気持ちもわかるけど、出囃子もまだやのに、気が早いで」
「わかるって、これ、もしかして姉さんのせいなんです?」
「せやろな」
「どうして」
「コショウがあったさかい、くすべとうなったんとちがうか?」
※「くしゃみ講釈」を知らない方だけ読んで下さい。蛇足です。
「……どうしてコショウなんです?」
「知らんのか?」
「ええ」
「……ええとな、くしゃみ講釈は上方の落語でな、講釈師にデートを台無しにされた男が仕返ししようとするねん。兄貴分に相談したら、殴るよりもいい方法があると、講釈場の最前列に陣取って、火鉢でコショウの粉をいぶして、くしゃみさせて台無しにさせてやればええと教えられるんやな。紆余曲折あって、コショウの代わりに唐辛子を手に入れて、くすべるんよ」
「コショウよりエグそうですね、唐辛子」
「ここがサゲになっててな。今ではあんま使われんけど、異議があって文句があることを「故障がある」って言うんよ。そこで、講釈師涙を流しながら、「ワタクシになんぞ故障でもあんのですか!」、「胡椒がないさかい、唐辛子くすべたんや!」というサゲになるんやね」
「……サゲまで解説して、大丈夫なんですか?」
「モトネタのサゲ知らんと、この噺のサゲがわからんさかいな」
「メタですね」
「なにをいまさら」
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落語の「粗忽長屋」と「くしゃみ講釈」をモチーフにした落語(みたいななにか)です。