「成程、戦いを始めた事情はそういう事でしたか」
閻魔庁では、本格的な審理に入る前の、事前の聞き取りが続いていた。
だが、通常の何倍もの時間をかけて行われているそれに、周囲の獄卒達も、訝しそうな顔を隠さなくなってきている。
(この時間稼ぎも限界ですかね……)
とはいえ、時間稼ぎと言っても、夜摩天としては、無駄な事をしているつもりはない。
この取り扱いの難しい人間の事を、直接言葉を交わす中で見定めたい……そんな思いから時間を取っている事。
彼の人生の大筋に関して記された調べ書きの余白には、夜摩天の几帳面な小さな字で、男の語った事の要点が、びっしりと書き付けられている。
「命を助けられた建御雷との約定ですから」
「ふむ」
言葉を交わせば交わすだけ面白い男だと思う……。
通常、こういう場所であっても、戦にまつわる語りというのは、大言壮語とまでは言わないが、普通の人間でも多少の法螺や誇張が混じる物である事は、それを聞かされる立場の夜摩天は、嫌と言う程経験している。
自分は素晴らしい、自分はこれだけの事を成し遂げた……だからそれにふさわしい処遇をせよ。
それは普通の事……少しでも自分を良く見せたいという、ごく自然な欲求で、それ自体は過大な虚偽を含まないなら、さほど責められる物では無い。
だが、彼の言葉は淡々とした事実を並べた物だけで、そこには余分な脚色も言い訳も無い。
まるで、それは。
「ひとつ聞いても?」
「何なりと」
「貴方は、今自分が行っている事を、誇りには思わないのですか?」
まるで、そう……自分がしている事に、大した価値を感じていないような。
「誇り?」
「ええ、どう言い換えても良いですが、己の今為している事の価値を、どの程度に見積もっているのです?」
予想外の質問だったのだろう、男は珍しく、何かを沈思するように、俯いた。
「誇り……ね」
ややあって、自然に漏れた小さな呟きには、色々な感情が籠もっていた。
それは苦くもあるような、どこか甘くもあるような。
「どうなのです?」
その後も無言の男を促すように、夜摩天が静かに再度の問いを発する。
「ああ、失礼」
男は夜摩天の言葉に、苦笑しながら顔を上げた。
「ちょっと前……あいつらが来る前に、一時そんな事を考えた事があったなぁと思いまして」
「考えた事?」
それは、考えるような事なのだろうか。
「ええ」
浮かぶ、その表情はほろ苦く。
「何が出来れば、何を持ってれば、何を成し遂げれば、人は己を誇る事が出来るのか」
「ほう」
「そんな事を……ね」
「答えは出たのですか?」
「出たような、出ないような」
「……どちらなのです?」
曖昧な男の顔や物言いに、本来はっきりした状況を好む夜摩天が、珍しく声に苛立ちをにじませた。
「戦を経験し、人の賞賛と誹りを受ける立場になって、判ったこともありましたが、判らない事も増えました。堂々巡りどころか、どんどん迷いが深くなる……俺の思考はそんな事ばっかりですよ」
口調はどこか皮肉っぽいが、彼が浮かべた笑みは静かな物で、夜摩天はその言葉を計りかねた。
「つまりは、まだ判らない」
「ええ……ただ」
「ただ?」
「それを、みんなに見せては駄目なんだろうな、とは思うようになりました」
その言葉より、男が一瞬だけ浮かべた表情に夜摩天はふと胸を突かれた。
自分が毎朝鏡の中で一瞬だけ見る、その淡い苦さと、どこか似た。
「それは、何故?」
「俺は、あいつらの事を誇りに思っていて、そして俺はあいつらの主だから……でしょうか」
主と言っても、あいつら神様の方が、本来は上なんでしょうけどね。
そう苦笑する彼に、夜摩天は特に表情を変えずに頷いた。
「そうですか」
正当な疑問や葛藤を抱く力なき指導者は害悪なれど 集団を率いる者が、その決断に際し、迷いを部下に見せるのは、より大きな害悪。
そう考えて、彼女はずっと厳正な冥府の裁判長を務めて来た。
長きにわたり守られてきた、この世の輪廻の輪を回す為、冥理に基づき下すその判決に、迷いを見せてはいけない。
けど、常に付きまとう、自分の判断が正しいのかという思いを、私は毎朝、この法服の中に押し込めて来た。
それとは少し違うかもしれないが、集団を率い、その決断に責任を持つというのはそういう事なんだろう。
それを理解し、自分の疑問は二の次に置いて、前に進む事を選んだ男。
夜摩天には彼がそんな風に見えた。
その見立てが正しいのか間違っているのか、確認する術は無いけど。
(損な人……)
それは間違いないような気がする。
「では」
何か言いかけた、その夜摩天の傍らに、音も無く見る目嗅ぐ鼻の二人が近寄ってきた。
(どうしました?)
声を潜める夜摩天に、こちらは元来から低い二人の声が答える。
(お調べの最中に失礼いたします)
(あの者の謀殺に加担した、領主の方の魂がこちらに参りましたが、如何なさいます?)
あの陰陽師ではないのか。
若干の失望は感じた物の、時間を稼ぐには丁度良い。
(お連れしなさい、本件と並行して調べを行います)
(かしこまりました)
「姐さん、なんか知恵はねぇのか?!」
「ええい、有れば何とかしておるわ、お主も何か考えい!」
無駄とは知りつつ、仙狸が振るった槍が煙の体を二つに裂くが、それが直ぐに元に戻る。
「アタマの事でウチに期待すんな!」
羅刹の斧も同じ、素振りをしている時の方がマシかと思えるほどに、その武器には手応えが無い。
「……く、風で吹き散らぬ煙など、どうすれば良いと言うのじゃ」
煙煙羅を攻めあぐねる二人が、声に焦りの色をにじませる。
所詮は煙と言うべきか、煙煙羅の攻撃自体は、さほどに早い物では無い。
人なら、ふわりと広がって襲い掛かってくるこいつから逃げきれずに、取り込まれてしまうだろうが、二人の体術をもってすれば避ける事は難しくない。
だが、こいつの煙の体は、薄く広い。
倒す事は勿論だが、無視してあの男を追うのも、どちらも難しい。
普通の相手であれば、仙狸が囮になるなりして、羅刹に後を追わせる事も叶うだろうが、こいつに対する有効な攻撃手段を持たない仙狸では、囮にすらなれない。
「まさしく隔靴掻痒じゃのう……」
槍を構えなおしながら、仙狸が奥歯を噛む。
お互いに決定打はない、だがこちらは、あの男を取り逃がせば負けなのだ。
「マズい、姐さん、あの野郎が!」
「む!」
あの男はすでに、藪に覆われた斜面の半ばを駆け下りていた。
その先に広がる、里に下る道が、夜目の効く仙狸の目にははっきりと見える。
ある程度踏み固められた道、あそこに出られては、あの男の逃げ足はさらに増す……。
「逃がしてたまるか、コンチクショウが!」
「羅刹?止めぬか!」
斧を大きく振りかぶった羅刹の意図を察して、仙狸が制止する。
「どうせ効かねぇ得物なら、持ってても邪魔なだけさ!」
ぐっと溜めた力を解き放つように、腕を綺麗に伸ばしながら、羅刹が愛用の斧を、逃げる男の背に向かって投げつけた。
「傷付けられない体じゃ、こいつを止める事だって出来ねぇだろうが、煙野郎!」
だが、その羅刹の言葉をあざ笑うように、不気味な唸りを上げて飛ぶ羅刹の斧の前に、煙煙羅が広がった。
「何じゃと!?」
ひときわ黒く濃い煙が、羅刹の斧を包み込む。
もわり。
その煙が、斧の勢いを受けて、拡げた布に何かをぶつけた時のように大きく撓む。
「……嘘だろ」
ぶちり。
確かに何かが裂けるような小さな音がして、黒い煙を破って斧が飛び出す。
だが、その力は大きく損なわれていた。
男の背に届くことも無く、どすりと重い音と共に、斧が地に突き立つ。
ひぃひぃひぃひぃ。
あの笑い声が山中に細く響く。
「どうなってやがる、何でもありか、あの煙野郎」
悔しそうに、拳を握る羅刹。
その拳を、柔らかい手が包み込んだ。
「いや……でかした、羅刹」
「あん、仙狸姐さん、何を言って?」
「よう見ておれよ」
ぽんと羅刹の拳を軽く叩いて、仙狸は男を追うように走り出した。
霧とももやともつかない何かがふわりと仙狸の背を追いだす。
「見とけって……どうするつもりだよ、姐さん」
仙狸を追う、その先の部分が徐々にその色を濃くしていく。
白っぽいもやが青みかかり、やがて黒味が増したそれが、灰色を帯びる。
そして、それが夜気にまぎれるように、更にどす黒く染まる。
(あの煙の濃い部分には気を付けよ、あれに取り込まれたら、わっちらとて力を奪われ、最悪存在が消滅するぞ)
羅刹の脳裏に蘇る、仙狸の言葉。
ゆるぅり。
走る仙狸の背に、それは広く大きな死の手を伸ばした。
「姐さん、危ねぇ!」
羅刹の声を背中で聞きながら、仙狸は薄い、刃のような笑みを浮かべた。
「死中に活じゃぞ、羅刹よ」
尻尾の毛が逆立つ……産まれてこちら、始終感じて来た、馴染みの感覚だ。
彼女のふわりと、まあるい尻尾。
もう記憶にもない幼い時は、山中の獣たちから。
その身を妖に変じて後は、他の妖や人との戦いで。
彼女の尻尾は、常にそういう背後から迫る殺気を感じ取ってくれた、いわば、背中合わせの戦友。
尾の毛がさらに緊張を孕む。
雷を帯びたような、不思議に痺れるような感触が尾から背に伝って来る。
(……来た)
ひょいと、仙狸はその気配も見せぬままに、右の藪の中に飛んだ。
黒煙が空しく空を掴む。
「人を害すなら、己も害される……当然の理じゃな」
低く呟いた仙狸は、猫らしい柔らかい身ごなしで、すでにその身を起こし、三つに拡がる刃を持つ、禍々しい槍先を振り上げていた。
ひ。
その手の形をした煙の色が、急速に薄くなっていく。
「逃さぬ」
ひゅっと、鋭い鋼と、良くしなう柄が空気を切り裂く音が静寂の中で響く。
ぷつり。
張りつめた糸を絶ったような。
軽い……だが、確かに何かを絶った感触が仙狸の手に残った。
ひぁぁぁぁぁぁぁぁ。
薄く、細い悲鳴が辺りに木霊する。
仙狸に絶たれた黒い霧が、斬られたところからもやもやと薄れていき、大気に溶けるように消えていく。
「なるほどのう……今まで取り込んだ人や物の怪の精髄を、お主の煙の体の裡で拘束しておったのか」
解放されたそれが、天地に還っていく。
「長きに渡り、さぞ苦痛じゃったろう……」
それを悲しげな眼で見送りながら、仙狸は口の中で低く祈りの言葉を呟いた。
輪廻の輪に還るが良い。
「やったぜ!」
愛用の斧を拾い上げた羅刹が、仙狸の方を見上げて歓声を上げる。
あの一撃では滅びなかったようだが、彼女の前に拡がる、不自然な白いもやは、今やその大きさを半分程度にしていた。
「何をしておる、羅刹!こやつはわっちで引き受ける、早ぅ、あやつを追わぬか!」
「おっとそうだった、恩に着るぜ、姐さん」
駆け出す羅刹をちらりと見てから、仙狸は煙煙羅に視線を戻した。
「人の身に傷を付けようとするなれば、己も肉と骨に匹敵する何かに変ずる必要が有る……ならば、その一瞬だけはこちらから切る事も叶おうさ」
この体はいわば大きな術の塊。
手と望めば手となり、霧と望めば霧となる。
その術を支えていたのが、今まで食らい、取り込んだ人や物の怪たちの精髄。
ひぃー。
もう、その声に嘲弄の色は無く、寧ろ怯えの響きが感じられた。
「似合いの棒組じゃな、人の後ろに隠れ策を巡らす陰陽師と、己はかすり傷も負いたくないが、相手を一方的になぶるのが楽しい妖」
仙狸が静かに槍を構える。
「貴様の正体……いや、術を発する意思の宿る場所は、斬った折に見切らせてもろうた、もう、その煙の体でも逃げられぬ」
闇の中、山猫の目が緑に燃える。
「滅びよ、下種」
仙狸の言葉が偽りでない事は、己の急所に向かい、ひたりと定められた槍先で、それには判った。
ひぃぁーーー。
細い悲鳴を上げて、煙がもやもやと空にたなびく。
「逃がさぬ!」
仙狸が槍を構え、跳躍しようと、膝を軽く曲げた。
「な、何だ、こいつ!」
「羅刹?」
緊迫した羅刹の声に、仙狸の足が止まった。。
あの羅刹が、たとえ陰陽師とはいえ、人を相手に緊張を見せる筈が無い。
別の妖でも隠していたか……。
慌ててそちらに目を向けた、その仙狸の目が、羅刹と同じ物を見、同じ言葉が口から洩れた。
「何じゃ、こやつは?」
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式姫の庭二次創作小説です。
承前:http://www.tinami.com/view/892392
1話:http://www.tinami.com/view/894626
2話:http://www.tinami.com/view/895723
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