頑固親父の典型のような伯父が、実は皮肉好きだということを知ったのは、苛が就職して伯父とほぼ同じ立場になってからのことだ。
母を泣かせでしまったことが一度だけ、あった。小5の頃だ。同時に伯父を本気で怒らせた。
「母ちゃんが言ってたぞ。お前の親父はロクでもない米兵なんだって。おばさんは看護師だから産みたくなくてもお前を産んで育てて可哀想なんだってよ。おい、お前のせいでおばさんは不幸になったんだぜ。お前は疫病神なんだ。」
少年の苛を取り巻く悪意は同級生からばかりでなく、彼らの口を通してその親類たちからも発せられた。むしろ憐憫で邪推と優越を表現することに熟練した大人たちの意地悪さこそ、彼の心をくじいたのだった。自分さえ居なくなれば母さんは幸せになれるんだ、いつしか彼はその暗い誘惑に魅了されるようになった。見知らぬ男と、見知らぬ子と、何の屈託もなく笑い合う母。彼の母ではなくなった女性の後姿を、苛は遠くから見つめている。犬や猫を連れていてもいい。生まれずに済んだものと自分を仮定して。おれが誰からも知られなくていい世界はこんなにも幸せだ。空想は胸に裂傷を作ったような痛みをもたらすが彼はそれを喜びと誤解した。
耳に穴を開けられた。
パンチで両耳に一つずつ。流れた血でシャツが汚れた。そんなことはどうでも良かった。
手当てしてくれた母の手の優しさが嬉しく、何度もうやめてくれと叫びだしそうになったか知れない。不甲斐なさと惨めさに登校する勇気を失くした彼の心は愛情を受け取る機能にすら支障を来し、むしろガーゼを替えられる度打ちのめされていくようだった。
学校を休んでいる間、ずっと電話帳をめくっていた。目に暗い希望を抱え、カーテンの閉め切った薄暗い部屋に彼の手当てされた耳が不気味に白かった。そのうちガーゼが外れたが、心は化膿したようにじくじくと痛みを増した。
ある日彼は母に懇願した。生意気にもめぼしい孤児院のリストまで自作する物わかりの良さで、血のつながった母親を、その慈悲を残酷にも裏切ったのだった。
母はなにも言わなかった。黄昏を煮詰めたような涙一筋の輝きでただ一度だけ息子を貫いて、悄然と居間を出て行った。彼は良かれと思ってしたので少なからず狼狽えたが、すぐに母は戻ってきて、息子の夕飯の支度を始めた。
夜勤へ出かける前、ただ一言
「ごめんね」
その間彼の恐ろしい提案に関する会話は一切なされなかった。
夜になって健吉が怒鳴り込んできた。苛がこれまで見たこともない物凄い形相で、入ってくるなり彼の胸ぐらを持ち上げ「何てことをしやがった」、直後鉄のようなげんこつを甥の頬にめり込ませた。大分加減はされていたが口内を切った。伯母が割って入ってきて、目を白黒させる甥を抱き起こした。
「何て勘違いをしてやがる。いいか、操は、母さんはお前だけのために生きてるようなもんなんだ。なのに大事な息子が……お前、お前がそんなこと……餓鬼のくせに一丁前に気を遣ってんじゃねえ。お前がいなくなったって良いなんか一つもねえっ、謝ってこい、病院まで送ってやるから、今すぐ母さんに謝って二度とこんな馬鹿げたことはしねえと約束して来いっ」
妹から取り上げたのであろう、甥の作った孤児院リストをびりびりに破いて投げ捨てた。苛はその一連を呆然と見ている他なかったが、担ぎ上げられて蟇郡鉄工所と社名の入った軽トラに放り込まれるとようやく後悔がこみ上げてきた。
伯父は古い時代の人間ではあったが、みだりに感情を理不尽な形で表すことはなかった。それだけにほおを打った硬い骨は彼の心をも殴ったし、自分が間違っていたと間違いなく悟ることができたのだ。
苛は今更ながら母にした仕打ちのおぞましさを理解した。職業柄一緒に居られる時間は少ないが、そのひとときを彼女はとても大事に過ごしていたはずだ。母から与えられた言葉も温もりも彼はすべて覚えていた。周囲の悪意に踊らされ、彼女を信じることができなくなっていた。母のすべてが真心だと、その涙を見てようやく思い出した。何があっても母さんはおれの味方だったじゃないか。それなのに。
病院へ着くと裏口に母の姿を見た。健吉が予め呼び出しておいたようだ。
「餓鬼は餓鬼らしくするもんだ」
苛を無理矢理放り出すように降ろして、車はどこかへ去ってしまう。折悪く母もこちらへ気付いてしまい苛の退路は完全に絶たれてしまった。
とはいえ彼の脚は前進のほかなかった。後悔に掻き立てられて、なんの体裁も繕わない子供の心が逸って、まっすぐに彼の母でしかない母の胸に飛び込んだ。
「苛、どうしたのその頬」
「母さん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
ここに居て良いのだ。この女の人の子供で良いのだ。
母さんの子供で良いのだ。
「二度と、あんなことは言わない。母さんの子供でいたい。かあさんが、いい」
彼の襟足に、温かく濡れたものが落ちてきた。何粒も落ちて、苛も同じものをいくつも地面に落とした。
どのくらい泣いていたのか、わからない。母がもう仕事に戻らなければと息子の肩を叩くが、彼は首を横に振って駄々をこねた。母はこまったように溜め息をついたが頭を撫でる手は嬉しそうだった。
ちょうど伯父が姿を現した。迎えに来たのだ。ややばつの悪そうな顔をしている。珍しい表情だった。
「操、苛。…殴って悪かった」
「兄さんたら…無理やり聞き出して、こんなことまで……、いいえ、…ありがとう」
行きと同じように、苛は担いで軽トラに乗せられた。
帰り道、健吉は苛に、頬は痛むか、と聞いた。彼は大丈夫だと答えたが、伯父は殴って悪かった、ともう一度不器用に呟いた。
夕食は伯父と伯母と彼とで、彼の家で食べた。いつもは伯父たちの家で食べる。それでも母は毎日、息子のためのおかずを一品作ってくれていたのだ。
腫れた頬で食べるのに手間取ったが、苛は美味しいと思った。
数日後、再び伯父が訪れた。手土産がある、と小さなものを渡された。
「その耳の穴にこれをつけな」
丸い輪のようなものが2つ、掌に転がった。
鏡を使って、何度も落としそうになりながらそれを耳の穴に通した。怪我は母の手当てのおかげで、膿むことなく治った。だが開けられた穴が大きかったので、塞がるかどうかという新たな問題が苛を悩ませていたのだ。塞がるとしても、やはりそれまで目立つだろうし、あのクラスメイトがネタにしないはずがない。
そういった不安は、鏡に写った自分を見た途端に消えた。
案外様になっている。
彼は自分の容姿に対し初めて肯定的な感想を抱いた。ぴかぴかと光沢のある金属は父親譲りの黒い肌によく映えていたし、どこか大人びた印象になる。日本人が身に付けるにはごてごてしすぎている大きさだが、彼の派手な顔つきにはむしろよく馴染んだ。まるで失くした容器の蓋が戻ってきたような……初めからそこにあるのが正しかったような、これを着けたことでようやく自分が完成したというような、不思議な気分になった。
身体は傷つけられても、心は傷つかない。お前達のいじめなんて自分にとってはただのアクセサリーだ。そう言ってやれ。
伯父に、そう言われた気がした。
そうだ。お前達のおかげでおれは完成した。おれはもう屈しない。お前達が傷つければ傷つけるほど、強くなる。
苛の眼に自信の火が宿った。
久しぶりにランドセルを開いた。時間割を確認し、教科書やノートを入れ替えていく。休んだ分の授業内容を取り戻さなければならない。それも含めて、明日からまた戦いが始まる。だが苛の中に恐怖はなかった。
玄関からガチャガチャ鍵の音がしたので、彼は静かに扉の前へ向かった。
「おかえり、母さん。おれ、明日から学校行くよ」
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9割9分捏造