No.897897

【完美世界】にじいろ☆チョコレート

完美世界二次創作小説『魔法戦士レイカ』を読んだことある人向け。
本編小説はこちらから→http://chaosbringer.web.fc2.com/
なぜか某支部で投稿できなかったので、急場しのぎでこちらに。

2017-03-19 20:33:09 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:479   閲覧ユーザー数:479

 
 

   1 欲望色のチョコレート

 

 

 

 今日も空は青かった。

 冬の冷気が蒼空さえも引き締めている。雲の間に見える青はどこまでも深く澄んでいて、やがて全てを包み込むのではないか。朝を告げる小鳥達のさえずりも、春を恋焦がれているに違いない。葉のない小枝の奥には、萌える新芽を眠らせているのだ。

 祖龍東区。

 高級住宅地の静謐と、港町の喧騒を併せ持つ街である。早朝と言えど、港が静まることはない。否、早朝ゆえの喧騒があるのも確かだった。

 今、港の大通りを走り抜ける黒い影がある。漆黒の体毛に覆われた、猫科の大型獣。人間の騎乗用に飼育、訓練されたウィンドパンサーは人を襲うことはない。しなやかで柔軟な四肢が地を蹴り風を切る。その背の上で、白銀の長い髪が風に流れていた。深いボルドーのキャットシャツはゴシックにしてエレガント。黒革のパンツはタイトに下半身を包み込み、優美な脚線は成熟した女性のそれに他ならない。豹柄のヘアバンドに、緩くカールさせた銀色の髪。白い肌は、雪のようと形容するにはいささか病的でさえある。真紅のルージュは艶やかで、丸みを帯びた顔型はしかし幼くも見える。血のように紅い瞳は真っ直ぐに向かう先、高級住宅地を向いていた。

 港の喧騒も背後に遠く、やがて黒豹は一軒の豪邸の前で足を止めた。

 白い手が手綱を軽く引くと、黒豹は四肢を折り曲げ、腹を地に付けた。女がゆっくりと黒豹の背から降りる。こつりと、赤いストラップサンダルが石畳を叩いた。

「戻りなさい」

 少し低めで、艶のある声が告げる。その声に呼応して、黒豹は女の腰に巻かれた鞄へと、吸い込まれるようにして消えた。

 女は真っ直ぐに玄関へと向かう。木製で両開きのドアは、女の身の丈を軽く超える大きさだった。軽く拳を握り締め、無造作にドアを叩く。

「王子ー、王子ー」

 家の主を呼びながら、更に二度三度と叩く。無造作と言うよりは、無遠慮と言った方が近いだろう。

 だが、扉は沈黙を守る。叩いた音も艶やかな呼び声も、まるでなかったことにされたかのようだ。

 女は少し強めにドアを叩いた。だが、館は何も応えようとしない。

 半身を引き、握り拳を振り上げる。そのまま、棍棒で殴りつけるがごとく、扉に振り下ろした。少し大きな音が響いた。だが女はうずくまり、叩いた右手を左手で押さえている。力も身体も、強い方ではないようだ。

 しばらくそのままの姿勢でぷるぷる震えていたが、きょろきょろと周りを見回すと、何事もなかったように立ち上がる。

「……回風」

 持ち主の声とキーワードに応じて、冒険者鞄がアイテムを出現させる。白く華奢な右手に握られたのは、水晶のように透き通る短杖だった。高階級法器、回風の短杖である。おそろく鞄から呼び出したであろう魔札を顔の真横に引き絞るように構える。真紅のルージュを引いた少し厚めの口唇からぼそりと呪文が零れると、魔札に魔力の炎が点る。

「誰じゃ、朝っぱらから……」

 不機嫌を隠しもしない声と共に重厚な扉が軽々と開く。

 閑静な住宅街に、爆発音が轟いた。

 

「短気すぎるじゃろ、真都理」

 部屋着にしているオレンジ色のハードローブから立ち上る煙に顔をしかめながら、王子べじ太は零した。胸元は無残に焼け焦げ、所々から素肌を露出している。だがその肌に、火傷の痕は見られない。

 やや釣り目がちの目は精悍さを際立てる。だが、青い瞳の奥には柔和な光があった。逆立てた金髪がトレードマークでもあるこの男こそ、大陸でも有数の豪商、王子べじ太である。ギルド「へっぽこ商人」を率いており、「へっぽこ商人グループ」と言えば、知らぬ者はいないほどの大企業でもある。冒険者御用達の武器防具だけでなく、各種生産素材から衣料食料日用雑貨に騎乗ペットや帆船に至るまで、何でもござれの総合商社だ。裸一貫で祖龍に乗り込み、ここまでの財を成した王子べじ太のサクセスストーリーは、祖龍ドリームとまで言われている。

 のみならず、べじ太自身も高レベルの戦士としても知られていた。特に攻撃を回避することにかけては、祖龍一と言っても過言ではないだろう。彼が「閃光の商人」と呼ばれる所以である。

 豪快でおおらかな人柄であり、人懐っこさも相まって、彼を慕う者も多い。

「ドアを吹っ飛ばす前に、開けてくれて良かったわ」

 まるで我が家のごとく、応接室のソファに女が腰掛ける。真都理と呼ばれたこの銀髪の女に、悪びれた様子はない。

「おいらが吹っ飛んだじゃろ」

「だから、ちゃんとアクアヒールしてあげたでしょ? 魔法じゃドアは直せないわ」

 頬を膨らませる様は、子供っぽくもある。脚を組むと、パーティスカートのスリットから白い脚が覗いた。

「相変わらず、気が付くと服を替える奴じゃな」

 まともな成人男子なら目のやり場に困っても良さそうなものだが、べじ太の声にはむしろ呆れの色が強かった。「女」を見ている目とは言いがたい。

「服をたくさん持ち歩けて、しかも瞬時に着替えられる! そんな素敵バッグがあるんだから、そりゃ目一杯使うわよ」

 言ってる傍から、パーティスカートがこの冬の新作、フルリールスカートに早替わりした。膝丈のスカートなので、肌の露出はパーティスカートより多くなる。べじ太は眉一つ動かさない。

「ほらー。可愛いでしょ?」

「歳相応って言葉、知ってる?」

「誰が三十路ですって?」

「そんなこと言ってないが、三十路なのは事実じゃろ。はっはっはー」

 真都理は天界の短杖+5を出しかけたが、思い止まった。残念ながら、三十路は事実である。

「んで、今日は何の用じゃ。こんな朝っぱらから」

 べじ太が手ずから紅茶を入れて、テーブルに置いた。豪邸だが、使用人はいない。この大きな屋敷、彼は一人で住んでいる。何十とある部屋のほとんどは、モノで埋まっていた。それは、商品であったり趣味の品であったり様々だ。

 真都理は紅茶に口を付ける。そっと一口だけ啜り、カップは置かずにべじ太を睨む。

「王子、今日が何日だか知ってる?」

「二月の十四日じゃな」

 べじ太はカップを置き、立ち上がる。手近な戸棚を開き、中から菓子の袋を取り出した。

「茶菓子、いる?」

 真都理は掌を向けて辞意を表したが、べじ太は構わず茶菓子を皿にあけた。

「もしかして、最近ちょっと太った?」

「なんでこの流れでそんな話になるのよ?」

「いや、ダイエット中かなと」

「違うわよ」

 真都理はカップを置き、鞄から紙袋を呼び出した。両手に収まるほどの、小さな紙袋だ。そのまま無言で、それをべじ太へ突き出す。

「何これ?」

「バカなの? 死ぬの?」

「酷い言われようじゃな。冗談じゃよ……しかし」

 べじ太は、紙袋からピンク色の包みを取り出した。黄色いリボンで可愛らしくラッピングされている。

「どういう風の吹き回し? 熱でもあるの?」

「酷いのはどっちよ? 頑張って作ったんだからね!」

 両手を組み、ぷんすかとそっぽを向く。

「もしかして、手作り? 真都理、料理なんかできたっけ?」

「うっさいわね! 食べるの、食べないの?」

「ホント、短気じゃよな」

 べじ太は、そっとリボンを解く。ピンクの包み紙を破かないよう、ゆっくりと包みを開けた。

「……何これ?」

 広げた紙の中に、数粒の緑色をした何かが転がっていた。大きさは一口サイズで食べ易そうだが、丸とも三角とも四角ともつかない歪な形をしている。

「抹茶チョコだけど?」

「抹……茶?」

 抹茶とは、こんな色だっただろうか。どう見ても、藻を程よくブレンドしたヘドロである。

「真都理……またおいらを毒殺する気じゃな?」

「またってどういう意味よ?」

「いや、なんとなく」

 苦笑いしながら、べじ太は両手を組んだ。まじまじと、ヘドロの塊を凝視している。

「これ、返品できる?」

「王子……」

 真都理の血のような口唇が引き攣り、右の瞼がひくひく震えた。

「このチョコに、本命だの義理だのっていう深い意味はないけど、でも、ね」

 カップを啜り、小さく息を吐く。

「とにかく、私は忘れたわけじゃないわよ? あの、いつぞやのヴァレンタインを」

「いつぞやの……?」

 べじ太の目が、何を見るでもなく天井に向いた。

「せっかくチョコを用意したのに、王子いつもいないからメールで送ろうとしたのに、メールボックス一杯で送れないって、どーゆーことなの! あったまきたから、自分で全部食ったわよ! ええ、食いましたとも!」←実話です

 乱暴に叩き付けたカップとソーサーが、かしゃんと音を立てた。

「ああ、うん、あったね、そんなことも」

「だ・か・ら! こうして朝っぱらから出向いたのよ! いい? これは私のリベンジなの! わかる? リ・ベ・ン・ジ!」

「わかったから、落ち着けって」

 どうどう、という言葉でも出てきそうだ。荒い鼻息を深呼吸で鎮め、真都理はスカートをパーティに戻した。

「じゃ、食べてね。今、ここで」

「い、今? ここで?」

 べじ太の顔が引き攣った。

「食べるよね? 食べてくれるよね、もちろん?」

 満面の笑みだが、目が笑っていない。背後からどす黒いオーラが立ち上っている。

 べじ太はぐびりと喉を鳴らした。やはりどう見ても、藻ヘドロにしか見えない。

 恐る恐る、べじ太が手を伸ばす。指先が震えていた。

「あ、ちょっと待って。その前にー」

 真都理は鞄から四つ折にした紙を呼び出した。

「これにサインしてね?」

「は? なんでチョコもらうのにサインがいるんじゃ?」

「領収書。確かに受け取りましたっていう」

「はあ。しっかりしてることで」

 べじ太は戸棚へと歩き、万年筆を持って戻る。

「二枚綴りで複写式? 別においらは領収書の控えなんかいらないぞ?」

「大陸一の商人の台詞とは思えないわね。そういうことは、しっかりしないとダメよ?」

「ずぼらな真都理から言われるとは思わなかった」

「なんか言った?」

「別に」

 べじ太は領収書に目を落とす。

 

 手作りチョコレート

 上記、確かに領収いたしました

 

 赤戸真都理 様

 

 一番下に、名前を記入する欄がある。

 べじ太は万年筆を走らせる。

「はいよ」

 領収書を受け取ると、真都理の口の端が釣り上がった。

「ふ、ふふ。ありがと。じゃあ、食べて」

 ずいと、真都理はソファから身を乗り出す。歪んだ笑みに不穏なものが漂う。

「どうしても? 今?」

 のけぞりながらの声は、少しだけ上ずっていた。

「一個でいいから、私の目の前で食べて見せて?」

 真都理の紅の口唇が、更に歪んだ。もはや、邪悪とさえ言える。

 べじ太は意を決し、震えの止まらない指を藻ヘドロに伸ばす。

「南無三!」

 祈りの言葉は何に対してのものだったのか。無宗教のべじ太らしからぬ台詞だった。

 一気に口に放り込み、できるだけ舌の上に乗っている時間を減らすため、噛まずに飲み込んだ。

「んぐっ、んが」

 慌てて紅茶のカップをあおる。紅茶の湯気は既に消えている。

「ぶはー」

「噛まずに飲み込むなんて。もっと味わって欲しかったわ」

 言葉とは裏腹に、真都理の邪悪な笑みは変わることはない。

「食ったぞー。これでいいんじゃな?」

「もっとも……」

 大仕事を終えたかのごとく、べじ太は額の汗を拭った。脂汗に違いない。

 その直後。

「う、うう……」

 べじ太の顔が苦悶に歪む。

「弓美のラボからくすねた毒薬は、味わおうと味わうまいと、関係ないけどね」

 その言葉を、べじ太は最後まで聞くことができたのか、誰も知らない。

 べじ太がテーブルに突っ伏した。顔は青ざめ、呼吸は完全に停止していた。

「うふふ……あっはははははは!」

 高らかに笑いながら、真都理は領収書の一枚目を剥がして、くしゃくしゃに丸めた。

 二枚綴りの下側の書類には、こう書かれている。

 

 婚姻届

 

「全て、計画通りッ! これで、へっぽこ商人グループの全財産は、私のものッ! お金も、ふ、ふふ、服も、ぜーんぶ、私のものなんだからっ! うひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 興奮のため、真都理の笑い声はかなりおかしくなっていた。欲望に醜く歪む口元は、せっかくの美貌を台無しにしている。邪悪そのものの顔だ。

「……っと。後は、風呂場で頭ぶつけて死んだように見せかけないとね」

 この広い豪邸、風呂どころかトイレを探すのにも遭難しかけない。だが、真都理の下調べは万全だった。もちろん、クローゼットがどこかは真っ先に調べたのだが。

「ん……しょっと……」

 べじ太に肩を貸すように抱えようとするが、上手くいかない。

「……重い」

 鍛えられたべじ太の身体は、決して太いわけではなかったが、筋肉は脂肪の何倍もの質量がある。どちらかと言うと体脂肪の方が多い真都理よりは、遥かに重いだろう。まして、真都理は法器より重いものが持てない。

「脱がせば、少しは軽くなるかしら」

 どの道、風呂場での事故を偽装するのである。どこで脱がせても同じだった。真都理はひいひい言いながら、べじ太をソファに横たえた。

「えーと、ハードローブ? これって、どこをどうするの?」

 服に精通した真都理だったが、メンズファッションに関しては門外漢だ。まして、ハードローブはメンズの中でも珍しい一繋ぎ。構造が若干違う。

 しばらく悪戦苦闘していたが、最終的に、自らのスローフラッシュが焦がした部分から破くことにした。

 他に誰もいない屋敷の中で、絹を裂く音が響く。

 だが、服を破くにもそれなりの腕力がいる。玄関の時のように、面倒だからと魔法で吹っ飛ばすわけにも行かない。魔法の傷痕が残れば、完全犯罪は成立しないのだ。そして、回復魔法が効くのは生きた人間に対してだけである。

「んー! んー!」

 ソファに横たわる男の服を、歯を食いしばりながら破こうとする女。とだけ言うと淫猥にも聞こえるが、足を踏ん張り、へっぴり腰で服を引っ張る姿はむしろ滑稽だ。

「王子、明日の仕入れのことなんだけど……」

 何の前触れもなく、応接室のドアが開く。褐色の肌、涼しげでクールな目元。頭に生える二枚の羽は、彼女がエルフ族であることの証。ギルド「へっぽこ商人」に所属こそしていないものの、グループ総帥の側近中の側近、ルミだ。

 へっぴり腰のまま、真都理が固まる。ルミも、口を開けたまま固まった。

「真都理さん……これは」

「え、あ、これは、その、違うのよ。誤解だわ!」

 何を言い訳しているのか、真都理自身にもわかっていない。呼吸の停止したべじ太のことなのか、服を脱がそうとしていたことなのか。

「お楽しみ中、お邪魔だったかしら……と言いたいところだけど」

「だ、だから、私と王子はそんなんじゃ」

 べじ太殺害の言い訳はしないのか、真都理よ。

「悪い子には、お仕置きが必要ね」

 ルミの手に、天界の短杖が現れる。2ソケでスターサファイア入りの精錬+5、OPも最高の天界の短杖が。1ソケでサファイア8ct、OPも劣る真都理の天界の短杖とはモノが違う。

 真都理に向けて、両手を伸ばし掌を合わせる。左手は残したまま、右手だけを引き絞る。精霊師が最も得意とする魔法、ウィンドアローだ。

「せ、先生、アローだけは勘弁……」

 元々青白い真都理の顔から、更に血の気が引いた。ウィンドアローは、魔法であるにもかかわらず、物理ダメージを生成する。つまり、HP2000で物理防御も紙である真都理にとって、アローの詠唱は死刑宣告に等しい。

「邪妖、滅殺」

 白く輝く魔力の矢。それは狙い過たず、真都理へと。

「ぴぎゃああああああ」

 案の定、真都理は即死だった。

 白目を向いて吹っ飛ぶ真都理の胸元から、一枚の紙切れがふわりと舞った。ルミは手に取り、まじまじと眺める。

 

 夫の名前 王子べじ太

 妻の名前 赤戸真都理

 

 ルミはそれを、破り捨てる。

 夫の名前は真都理の策略により転写されたものだが、ルミには知る由もなかった。

 

 ここに、邪悪なる真都理の完全犯罪計画は、潰えたのであった。

 

 

 

「真都理はホント、懲りんなー」

 ルミのリザで甦ったべじ太が、ごちる。

「別に」

 ルミの無表情は相変わらずだ。

「迷惑かけたわねん」

 エメラルドの長髪をさらりとかきあげ、精霊師の男が答えた。白い肌と紅の口唇は、メイクの賜物。有体に言って美形なのだが、何を考えているかわからない瞳と、常に薄笑いを浮かべる口元にはいやらしさしか漂わない。一目でオカマとわかる絶妙なキモさ具合のこの男こそ、劇団ロンリースター一の曲者、マデリーン(源氏名)である。

 ルミから「誰でもいいから精霊師をよこせ」という連絡を受け、マデはやって来たのだった。無論、欲に目が眩んだギルマスを復活させ、回収するためだ。

「ううん……王子ぃ……絶対、チョコ食わす……むにゃ」

 マデに抱かれて眠る真都理。夢の中でも、完全犯罪を推敲しているのか、それとも。

「……いつかのヴァレンタインが、よっぽど腹に据えかねたのかしらねん」

「はっはっはー。まあ、おいらのメールボックスは、あれが仕様じゃからなあ」

「……直接渡せってことなんでしょうけど」

 小さく息を吐き、マデは真都理を見下ろした。寝顔は、無邪気な子供のようでもあった。

「まつりんが、チョコを手作りしたっていうのはホントよん? 日頃お世話になっている人みんなに渡すんだって、頑張ってたわん」

 受け取るのを躊躇うべじ太に、マデは紙袋をぐいと突き付ける。

「大丈夫。毒は入ってないからん」

 瞳を目一杯薄めて微笑むマデを見ても、べじ太の手は震えた。

「そういう問題じゃないんじゃけどな」

「たとえ不味くても、食べてあげるのが男の甲斐性ってものよん?」

「わかってるけどなー。それでも、腰が引けることってあるじゃろ?」

 言いながらも、べじ太は紙袋をしっかりとその手に掴んだ。

「ありがと。まつりんに代わって、お礼を言っておくわん」

 それだけ言うと、マデは真都理を連れて出て行った。

「困ったものね」

 見送りながら、ルミが独り言のように呟く。

「まったくじゃな。はっはっはー」

 少しも困っているようには見えない。

「王子」

「なに、先生?」

 横顔を向けたまま、ルミがオレンジ色の包みを王子に突き付けた。

「風華と、ミカの分も入ってるわ。Happy Valentine's day...」

   2 緑色のチョコレート

 

 

 

 二月の風はまだ冷たかった。だがその中に、微かに花の香を嗅いだような気がして、緑色の男は微かに目を細める。見上げれば、雲一つない吸い込まれるような蒼い空。心なしか、陽光が昨日より暖かく感じられる。静謐の谷にももう、春がそこまでやって来ているのかもしれない。

「ただいま」

 玄関の扉を開けると、エプロン姿が緑色の男を迎えた。

「あら、早かったのね。おかえりなさい、エコ」

 澄んだ黒瞳に微笑み返すと、ECHOは帰宅した実感が湧いてくる。今日のダンジョン討伐は散々だった。パーティメンバーにヌーブルがいるという時点で半ば諦めていたとは言え。大体、あの戦士はいつもそうなのだ。腕力に自信があるのは結構なことだが、もう少し頭を使って欲しい。そうすれば、リザ結界に包まれる回数も半分以下に減るだろうに。

「また、ヌーブル君ね?」

 柳眉を八の字に曲げて、困ったようにるみこは苦笑する。表情に出ていたのかと、ECHOは頭を掻いた。

「……悪い奴ではないんだけどね」

 ECHOは小さく息を吐く。いつも尻拭いをさせられているのは自分なのに、どこか憎み切れない部分があるのも確かだ。

「エコ、お昼ご飯、まだでしょ? 私も今、丁度準備をしていたところだから、少し待っててね?」

 言われてみれば、キッチンから芳ばしい香が漂ってくるようだ。今日の昼食は、焼き魚……それも、夢幻産 ホッケだ。湯気と米が立つ茶碗が目に浮かび、ECHOの腹も空腹を声に出して訴える。

 クスリ、と笑ってるみこはキッチンへ駆け出す。どうやら、腹の虫の声を聞かれていたらしい。ECHOは少しだけ急ぎ足で、食卓へ向かった。

 食卓に着いたECHOは、ふと首を傾げる。焼き魚の香に混ざって、別の匂いがする。昼食というには似つかわしくないその匂いに、ECHOは覚えがあった。

 さあ、と音を立てて何かがECHOの身体全体を通り抜けていくようだった。甘い香は、懐かしくて、ほんの少し苦い……遠い記憶。

 

 

 

 長く艶やかな黒髪は、職人が丹精込めて作り上げた上等の人形を思わせた。大きく円らな目には、深い漆黒の瞳が行儀良く収まっている。だが、白磁の肌とのコントラストに、ECHOはむしろ弔いをイメージしたものだった。

「ありがとう、は?」

 背丈はほとんど変わらないのに、少し顎を突き出すような仕草のためか、見下されているような気分にしかならない。押し付けられるように渡された紙包みを見つめ、ECHOは途方に暮れた。

「あ、うん。ありがとう……」

 欲しいと言った覚えもないし、欲しかったわけでもない。そもそも、この中には何が入っているのか。

「ありがとう、ございます、でしょ!」

 黒いブラウスに包まれた腕を、少女はこれ見よがしに組んで見せる。彼女のお得意のポーズだ。この一週間で、ECHOは嫌と言うほど見せられてきた。

 どうして自分はこんな目に遭っているのか。何度も自問してきたことだが、だからと言って事態が好転するわけではない。

 剣仙のさる大金持ちが、この村にやって来るらしい。そんな話を父親から聞いた時は、特に興味も持たなかった。野球チーム「夢幻の港スターズ」の守護神、サー・サキでもやって来るなら別だが、ただの金持ちがやって来たからどうだと言うのか。

 それが、父の経営する宿に逗留すると決まった時に、ECHOにとっても他人事ではなくなった。なんでも、その金持ちには一人娘がいるらしい。ECHOより二つ年上で、人形のように綺麗な少女だとか。その娘の遊び相手をしろと言われた時には心も躍ったが、実際に会ってみれば。

「何か面白いことしてよ」

「四葉のクローバー、探してきて」

「あの木の実が欲しい。登って取ってきて」

「モノポに乗りたい。あんた、ちょっと抑えててよ」

 うんざりするほど、我侭だった。ちょっと口答えしただけで癇癪をおこす短気。外に遊びに行くのが好きなようだったが、自分は何もせずに、何でもECHOにやらせる。曰く、服が汚れるから嫌なのだとか。だったら、家でおとなしくてしていればいいのに、と何度思ったことだろう。

彼女らの滞在は、一週間。一週間の我慢だと自分に言い聞かせ、ECHOは耐え難きに耐え、忍び難きに忍んできた。

 その最終日にECHOに与えられた最後の試練が、これだった。

「こ、これは、何?」

 白い紙包みに、ピンク色のリボン。持った感じでは、重いものではない。

 両手を組んで斜に構えたまま、少女がふんと鼻を鳴らす。黒い膝丈のフリルスカートが、ふわりと揺れた。

「今日、何の日か知らないの?」

「えーと、二月十四日だよね?」

「察しなさいよ、バカ! このあたしから何かをもらえるなんて、光栄なことなんだからね!」

 ぷいとそっぽを向く。自分で「光栄」などと言ってしまう辺りに、ECHOは苛立つと共にうんざりする。何でもいいから、早く剣仙に帰ってもらえないだろうか。

「開けて。今すぐ」

 溜息を吐きながら、ECHOは言われるままにする。案の定、中から出てきたものはロクなものではなかった。

「えーと」

 背中を脂汗が流れる。緑色をした、何か。強いて言うなら、藻とヘドロを程よく混ぜて固めると、こういうものになるんじゃないだろうか。

「食べてもいいわよ?」

 そっぽを向きながら、しかしちらちらとこちらを窺ってくる。いっそそのまま向こうを向いていてくれれば、誤魔化しようもあるのにと、ECHOはうなだれる。

 これを口に入れてしまったら、どんなことになるだろうか。と言って、口にしなければどんな目に遭わされるかわかったものではない。

 僅か八歳の少年には、荷が重過ぎる選択だった。

 

 

 

「あははっ」

 箸を置いて、るみこがころころと笑った。

「笑い事じゃないよ……」

 ECHOも箸と茶碗を置く。茶碗には一粒の米も残っていない。ホッケの残骸は、猫もまたいで通るだろう。

「それで、どうなったの?」

 興味津々と、るみこがテーブルに肘を突いたまま身を乗り出す。

「それが……」

 実のところ、その後のことはECHO自身もよく覚えていない。そう言えば、あれだけ酷い目に遭ったのに少女の名前も思い出せない。記憶に残っているのは、烏の濡れ羽色の艶やかなロングヘアと、深い闇のような瞳、透き通るような白い肌だけだった。

「ごめんくださーい!」

 玄関のドアが、どんどんと音を鳴らした。ECHOにも聞き覚えのある、鈴を鳴らすような声。

「あら、お客さんね。はーい、今行きまーす」

 素早くエプロンを外し、るみこはパタパタと玄関へ走っていった。

 何事か、話す声が聞こえてくる。察するに、やはり知り合いだろう。ECHOが食器を片付け始めると、るみこが戻ってきた。

「エコ、霊華さんよ? 上がってもらってもいい?」

「それなら、食器を片付けてしまうから、少し待っててもらってくれないか?」

「わかった」

 まるで食器が片付くタイミングを見計らったかのように、白金の髪と蒼い瞳の少女が上がってきた。

「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい、霊華さん」

 三人でテーブルに着くや、霊華は紙包みを取り出した。ピンクのリボンでラッピングがされている。

「じゃん。いつもお世話になっているECHOさんに、プレゼントなのです」

 霊華は目を一杯に細めて、小首を傾げて見せた。白金の髪が、さらりと揺れた。

「これはこれは。そうですね。今日はバレンタインですものね。ありがとうございます」

 そっと紙包みを受け取りながらしかし、ECHOの胸にざわめきが起こる。どうも、嫌な予感がしてならない。

「るみこさんにもあるよっ。はい、これ」

 同じ包みを霊華はるみこに渡している。

「やだ、私にも? ありがとう」

 笑顔で返礼するるみこ。これ以上ないほど和やかな空気なのに、ECHOはどうも落ち着かない。

「あー、でもね、私が作ったんじゃないんだ」

「おや、違うんですか」

 努めて平静を装いながらも、ECHOは背中が嫌な汗で湿っていくのを感じる。

「ウチのギルマスがね、『いつも霊華がお世話になってます』って」

 霊華は終始にこにこしている。彼女が言うのは、ギルド「劇団ロンリースター」のギルドマスターのことか。ECHOとは面識はなかったが、噂は聞いたことがある。銀髪赤眼の女魔導師で、無尽蔵の魔力を持つことから一部では「緋色の永久機関(エターナルクリムゾン)」の異名で知られているらしい。

「ああ、真都理さんね」

 るみこが、うんうんと頷いている。ECHOよりは、緋色の永久機関のことを良く知っているようだ。

「知ってるのか?」

「『bon-no』って雑誌、知ってる?」

 聞いたことのある雑誌名だったが、何の雑誌だったか、ECHOは思い出せない。

「ファッション誌bon-noのライター赤戸真都理って言ったら、ちょっとした有名人よ?」

「そうなのか……」

 婦人服に興味はないし、女性向けファッション誌などECHOが読むはずもない。

「今度、二人でお礼に行かないとね、エコ?」

「あ、ああ……そうだね」

 礼には礼を以ってあたるべしとは思うが、ECHOはいまひとつ気乗りしなかった。どうしてなのか、ECHO自身にもよくわからない。

「そうだ、霊華さんも聞いてよ、ECHOの初恋の話」

「わーお。恋バナ? 聞きたいなあ」

 女子二人が勝手に盛り上がっているが、極めて不本意な発言をECHOは容認できない。

「初恋だって? 冗談じゃないよ……」

「違うの?」

「初恋どころか、トラウマかもしれない」

 そもそも、あの話の何をどうとれば初恋などという解釈になるのか。女子の思考回路は、ECHOには理解できない。

「そんな話、どうでもいいだろ」

 さっさとこの話を終わりにしたかったが、そんなECHOは無視してるみこは霊華と何やら盛り上がっている。

「へー、そーなんだー。そりゃECHOさんも大変だったねー」

 霊華はしきりに頷いている。

「ね、ね、エコ。その子、今はどうしてるの?」

「知らないよ、そんなこと」

「でも、大金持ちの一人娘なんですよね。噂くらい、聞いたことないんですか?」

 女子二人は、目を輝かせながらECHOに迫ってくる。やはり、女子の思考回路は理解できないとECHOは思う。

 あの少女のその後。霊華はともかく、妻が興味を持っているのならと、ECHOは記憶を手繰ってみる。

「確か……十八年前の剣仙戦役で、亡くなったって聞いたような気がするなあ」

 落ち着きなく身体を動かしていた二人が、ぴたりと止まる。

「そ、そうなんだ……」

 しゅんとしたように、るみこは俯く。霊華も、居心地が悪そうにしていた。

「え、えーと、その女の子とECHOさんが会ったのが、ECHOさんが八歳の時でー」

 人差し指を頬に付け、霊華は小首を傾げる。話題を変えようという試みか。ECHOは霊華の話題に乗ることにした。

「彼女が生きていれば、三十歳になっていますね」

「三十かあ。真都理さんと同じくらいかなあ。あれ? てことは、ECHOさんって、ウチのパンさんと同じ歳なんだ」

 霊華の眉が下がる。どうも、複雑な心境らしい。

「パンさんというのは?」

「元執事で、ウチのギルメン」

 溜息さえ漏らしている。同じ歳でもこうも違うものなのか、と、顔に書いてあるようだ。

「エコ、お返しはしたの?」

 るみこが口を引き締める。

「両親にも言われたんだけどね……何しろ、あの後すぐに帰ってしまったし、なかなかお金持ちのお嬢さんに近付くってのも、難しいよね」

 言いながら、ECHOは胸に引っかかる何かを感じる。礼には礼を。あんな少女だったしあんなチョコレートではあったが、贈り物をもらったことに変わりはない。しかし、彼女はもういない。それが、心残りになっていないと言えば嘘になるだろう。

「でもね、るみこ」

 少し悲しげなるみこに、ECHOは微笑んで見せた。

「俺はね、あの子が死んだとはどうしても思えないんだ」

 るみこの黒瞳と霊華の碧眼が、ECHOを見据える。

 ECHOは大きく息を吸い込み、深く吐き出す。

「……憎まれっ子、世にはばかるってね」

 誰からともなく笑い声が漏れ、部屋は笑顔に満たされた。

 

 

 

 霊華が帰ると、ECHOとるみこは紙包みを開けてみた。緑色の、歪なチョコレートが入っていた。

 るみこは弾かれたように立ち上がり、キッチンへ入っていった。やがて、小さな皿を持って戻ってくる。

 皿には、やはり緑色のチョコレートが数粒、並んでいた。

「エコ、今年は私も抹茶チョコよ?」

 るみこが暖かく微笑む。ECHOは更に手を伸ばし、チョコを一粒手に取った。少し歪だが、霊華が持ってきたものよりは、ずっと美しく見える。

「ありがとう」

 口に放り込むと、甘い抹茶の味が口の中に広がった。

「ハッピーバレンタイン」

 妻の白い歯を見ながら、ECHOは思う。今年のお返しは、何がいいだろうか。劇団ロンリースターのギルドマスターにも、お返しを考えておかなければならない。

 そっぽを向いて鼻を鳴らす黒髪の少女が脳裏に浮かんで、そして消えた。

   3 執事色のチョコレート

 

 

 

 祖龍北区。

 オフィス街としての色合いが濃いこの街の外れに、侠活林飲茶店はあった。二階建ての、立派と言って差し支えない佇まいだが、くたびれた感のある建物だ。修繕と改築を施すだけの余裕もないだろうことは、一目でわかる。その寂れた外観が、更に客足を遠のかせ、悪循環に陥っている。だが、客が寄り付かない最大の理由は別にあった。

 外観に反して、店内の清掃は行き届いている。精緻に配置された円卓と椅子。卓に設えられた塩、胡椒、醤油、ソース、酢の補充も完璧だが、そもそも減っていないという見方もできる。

 入り口近くの卓では、薄汚れたねずみ色のコートを羽織る神霊族の男が、炒飯を掻き込んでいる。奥の卓では、所狭しと徳利を並べ、物憂げな表情でエルフの女が猪口を傾けている。更にその奥、カウンター席を挟んだ向こう側の調理場では、筋肉質の大男がピンクのエプロン姿で腕組をしていた。禿げ上がった頭はタコを連想させる。潔いまでの禿げっぷりと、優美な曲線を描く頭蓋骨は、頭部だけなら「美形」とさえ言えるだろう。否、「美型」と呼ぶべきか。鼻と唇の間に蓄えた髭には、白いものが混ざり始めている。

 元々戦士として斬った張ったを生業としていただけあって、強面である。そんな外見だけならまだしも、やはり接客業が向いていなかったのか、多くの客は彼の少々荒っぽい接客に恐れをなして逃げ去っていく。

「ごっつぁん」

 神霊族の男が代金を払って出て行くのを見送ると、侠活林飲茶店店主、丐人清(かい・じんせい)は大きく溜息を吐いた。

 三つ編み丸眼鏡の給仕がエルフの卓に徳利を追加するのを確認してから、マスターは奥の冷蔵庫を開ける。冷蔵庫と言っても、流行の店で使われているような、魔力炉内蔵タイプの高級品ではない。魔導院謹製の魔力炉搭載型は、蓄えられた魔力を自動で氷系魔法に変換し、温度を保つ。もちろん、閑古鳥しか鳴かないこの店にそんな高級品を導入する資金があるはずもなく、昔ながらの「アイスボックス」である。

 扉を開けると、上部に網棚が張られており、氷はそこに乗せる。魔力炉は魔法を扱える者なら誰でもエネルギーを供給できるが、氷は買ってくるか、ないしは自力で取ってくるしかない。つまり、燃費は悪い。

 氷が、庫内を靄のように煙らせる。その中には、いくつものチョコレートが安置されていた。れっきとした商品である。冬場とは言え、品質管理には充分に留意しなければならない。

言うまでもなく、バレンタイン商戦に乗っかった新商品だ。が、客が来ないのであればそもそも話にならない。

「いつまでも冷蔵庫を開けるもんじゃないですよ、このダボハゲ」

 三つ編み丸眼鏡の若い女が、両手を腰に当ててマスターを睨みつけていた。白いTシャツにスリムのジーンズという簡素な出で立ちながら、魅惑的なボディラインは主張をやめることがない。侠活林飲茶店に唯一人の給仕、アゲハである。

「ダボハゼなら知ってるが、ダボハゲってのは何だ?」

「ハゲは言わずもがな。ダボは『ダサ坊』の略だなんてことは、『特攻の拓』を読んでる人には常識ですよハゲゴリラ」

「いちいち『ハゲ』を付けなきゃ物が言えねえのか、お前は」

 昔流行った某ヤンキー漫画については華麗にスルーしつつ、無駄とは思いながら人の身体的欠陥をあげつらう生意気な給仕を諌めようとするマスターだったが。

「ハゲはハゲでしょう、ハゲンスキー」

「ロシア名前っぽく言う意味がわからん」

「コペンハーゲンとか」

「知らねえよ」

 雇い始めの頃は、美貌に似合わぬ毒舌に何度こめかみの血管を破かれそうになったかわからなかったが、毎日それでは身が持たないことをマスターも学習していた。それ以前に、戦士としてならした豪腕で黙らせようにも、アゲハの方が強かったのだからどうにもならない。元戦士という経歴は、むしろアゲハの八極拳の奥義の数々に耐えることに役に立っていた。

「にゅ!」

 入り口から聞こえてきた若い女の声は、マスターにとっては忘れたくても忘れさせてもらえない疫病神の声。

「おはこんばんにちわー、マスタ──」

「帰れ」

 狐耳の妖族の少女の言葉を聞き終えずにマスターはぴしゃりと言い放つ。

「まだ店内に入ってもないのにその言い草は酷いですニ」

「てめえの目はガラス玉か?」

「にゅ?」

 マスターの無骨な指が、入り口をびしっと指し示す。

「そこにちゃんと貼ってあるだろうが」

「にゅにゅ?」

 ライムグリーンの瞳をくりくりさせながら、狐少女は一歩後退した。壁に、張り紙がしてある。

 

 ──メレットお断り

 

「なっ、なんですニか、こりわっ!」

「そりゃ、おめえ、見てのとお……っっっっほう!」

 マスターの言葉尻は、苦悶とも快楽とも取れる気色の悪い吐息になっていた。

「このコモドハーゲンダック、私の目を盗んでとんでもない張り紙をしてくれたですね」

「ひゅえ……ひゅほー、ひゅほー!」

 アゲハの白くしなやかな両の手刀が、マスターの腹の贅肉と筋肉を掻き分け、下から肋軟骨を掬うように差し込まれている。

 そして、見よ。マスターの両足が、徐々に地面から浮上していく。アゲハの細腕のどこに、この巨躯を軽々と持ち上げる膂力があると言うのか。

「ひょわ……ひょひ、ひょひゃひゃひゃ……」

 マスターの目は半分白目を向き、タコ頭は汗でびしょびしょに濡れ、雨後の街角のように美しく輝いている。

「大切なお得意様に、何と言う失礼ですか! 反省しなさい、タコンダル」

 それは安息の丘のNPCの名前だろう、とマスターの目が訴えている……ように見えないこともない。

「わかったんですか、ハーゲスカ?」

「ひ、ひーはは、はひーひひょ」

 今度は饅頭屋かよ! と目で突っ込んでいる気がしないでもないが、マスターの首が激しく上下に揺れる。頷いているらしい。

「よろしい」

 アゲハが素早く、手刀を抜き去る。どすんと派手な音を立てて、マスターが尻餅を付いた。無論、その腹には傷一つない。だが、全身汗まみれで、エプロンさえ汗で色が変わっている。マスターの洗い息遣いだけが、静かな店内にこだました。

「はあっ、はあっ……あ、ありのまま、今起こったことを話すぜ……。俺は、腹を刺されたと思ったら持ち上げられていた。何を言っているのかわからねーと思うが、俺も何をされたのかわからなかった。頭がどうにかなりそうだった。カウンターバランスシフトとかリーチとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。でもな、もっと恐ろしかったのは、少しも痛くなかったことなんだ。いや、痛いどころか、気持ち良かったんだ。恐ろしい。俺にはそれが一番恐ろしいぜ」

「マスター、台詞が長すぎるですニ」

 紙切れをくしゃくしゃと両手で丸めながら、メレットが店内に戻ってくる。丸められているのは、言うまでもなくさっきの張り紙だ。

「そんなことよりマスター、ボクの発案したチョコレートはどうですニか?」

「ん? ああ」

 手ぬぐいで頭を拭きながら……もとい、磨きながら、マスターは立ち上がる。

「おめーにしちゃ悪くないアイディアだったんだがな」

「にゅ? 売れてないんですニか?」

「売り物ではなく、集客の問題だと言うことです、ハギィ」

「大分言い回しが雑になってきたな」

「萩の月」

「うるせえよ」

 アゲハの片手が閃光を伴い迸る。

「あひょっ」

「口答えはかっこ悪いですよ、ハゲの月」

「ちょ、おま、片手はやめろ。待て待て、片手で持ち上げとか、無茶するな! ひょ、ひょわっ! せ、せめて両手使って持ち上げて……ああんっ、ら、らめええええっ!」

 マスターの肋骨の裏側には、何がしかの快楽スポットでもあるのか、恍惚とした表情で彼は失神した。

 どしゃあ、と少々大袈裟な音響と共にマスターの身体は仰臥する。

 手刀を引き抜き、アゲハは呟いた。

「またつまらぬモノを斬ってしまった」

「にゅははは」

 メレットも、あっけらかんとしたものである。これも、侠活林飲茶店の日常茶飯事なのだろう。

「ごめんくださいませ」

 少し、遠慮がちな男の声。アゲハの丸眼鏡がきらりと輝き、彼女は一足でカウンターを飛び越え入り口まで跳躍した。

「いらっしゃいませ! ようこそ、侠活林飲茶店へ!」

 花開くばかりの笑顔は、店長にアバラリフト(仮称)を食らわせた人間とはかけ離れていた。

 その笑顔に安心したのか、男は一歩、店内に足を踏み入れる。

 店長と同等の体躯。白と黒のコントラストも眩しいパンダ面の妖族だ。皺一つないフォーマルスーツだが、胡粉色というセンスは常軌を逸していると言って差し支えない。

 が、異常だろうが変態だろうが、客は客である。満面の営業用スマイルのまま、アゲハはスーツパンダを中へ通した。

「お好きな席にお座りください」

「あ、いや、ワタクシは」

「まーまーまー」

 アゲハは半ば強引にパンダを席に着かせる。久し振りの一見さんだ。逃す手はない。

「ただいま、メニューをお持ちしますねー」

 パタパタと駆けて行く先は、メニュー表が掛けられているカウンター脇ではなく、カウンターの向こうの調理場。カウンター越しに、アゲハが屈みこむのがパンダからもメレットからも見えた。ずびしっ、と肉を突き刺すような音が僅かに響く。今頃、店長は経穴を突かれて目を覚ましているに違いない。

「おお、メレットさま。やはりこちらにおわしましたか」

 パンダが手を振る。

「およ? チミは確か、ロンスタの執事君ですニね」

「憶えてくださいましたか。ありがとうございます」

「チミのスーツは、一度見たら忘れられないインパクトですニ」

「はっはっは。メレットさまもお上手でらっしゃいますな」

「……褒めてるわけじゃないんですニけど」

「何か仰いましたか?」

「別に……ですニ」

 メレットはパンダと同じ卓に着く。

「パンダ君はボクを探していたようですニけど、何か御用が?」

「ああ、実はでございますね……」

 パンダが冒険者鞄から何かを取り出そうとした時、店全体が揺れた。

「にゅにゅっ?」

「じ、地震でございますか!」

 ぴょこ、とアゲハがカウンターから顔を出す。少し遅れてマスターの頭がにょきっと生えた。地平線に浮かぶ日の出か日の入りか。

「いらっしゃ……ああ、トン吉君かー」

 入り口で、メレットの従者、ストーンゴーレムのトン吉が頭を押さえてうずくまっている。

「屈まないと、チミの身長じゃ入れないって、いつも言ってるんですニけどねえ」

 頭をさすりながら、トン吉はゆっくりと身を起こす。その先で、胡粉色のスーツを纏ったパンダと目が合った。

「これはこれは……確か、劇団ロンリースターの執事殿でしたな」

「そう言う貴方は、メレットさまの執事でらっしゃる、トン吉殿でございましたな」

 絡み合う視線の中央で、激しい火花が散った。

「チミ達は、同じ執事同士ですニね。仲良くするですニ」

 ぱんぱんと、トン吉の腰を叩く。シチュエーション的に肩を叩くところだが、小柄なメレットでは肩に手が届かない。

「同じ、でございますか……」

 パンダの眉(?)がぴくりと上がる。

「何か不満でもおありですかな?」

 トン吉の頬(?)が、微かに引き攣った。

 再び両者の間に白い火花が散り、メレットは小首を傾げた。

「にゅ?」

 パンダの視線がトン吉の頭のてっぺんから爪先を観察するように動く。

「ふう」

 俯き加減の溜息には、苦笑が混ざっていた。

 びきっ、と何かが割れる音が響く。トン吉の頭に新たな亀裂が刻まれていた。そこから、湯気のようなものが立ち始めている。

「トン吉君、チミももう若くないんだから、あんまりヒビを入れると治らないですニよ?」

「……お嬢様」

「なんですニ?」

 トン吉の視線の先に、メレットのレースアップドレスのスカート。僅かに、破れ目ができている。同年代の他の少女と比べても、少々『活動的』なメレットのこと。どこかで引っ掛けたのだろう。

「大事なお召し物に、綻びが」

 指摘され、メレットのライムグリーンの瞳が飛び出す。

「にゅおっ! ボクとしたことがっ、ですニ!」

「私めがお繕いいたしましょう」

 トン吉は、腰の鞄から器用に裁縫箱を取り出した。指どころか手首さえない石の塊の腕で、いかにして取り出したかは謎である。

 メレットの眉間に皺が寄り、疑わしげに目が細まる。

「どういう風の吹き回しですニか? そもそも、このくらいの綻びなら、紫苑さん仕込のボクの裁縫技術で、ぱぱぱっと直せるですニ」

「何を仰います。私めは、『執事』ですよ。裁縫箱など常に携行していて『あ・た・り・ま・え』。主人の服を治すのも当然のごとく私の役目です」

 言いながら、トン吉はちらりとパンダを見やった。唇(?)が少し、釣り上がっている。

 びきっ、という音がしたかどうかは定かではないが、ともあれ、パンダの頭部にヒビは入っていない。

「おや? パンダ殿は裁縫箱はお持ちではありませんか? もしや、裁縫は不得手……おほんおほん。失礼いたしました」

 音はなかったが、パンダのこめかみに太い静脈が何本も浮かび上がっているだろうことは、その場の誰もが容易く想像した。

「確かに、『今日』は、『たまたま』持ち合わせてございませんね」

「たまたまですか。それは仕方がありませんなあ。そうですか。『たまたま』ですか」

 ぷぷ、という含み笑いに、パンダは唖然と口を広げる。

「一流の執事を目指すワタクシが、裁縫ができないなどと、そのようなことあるはずが」

「執事一族と名高いディス家に生まれたパンダ殿は、料理ができないと聞き及んでいますぞ?」

 トン吉が大袈裟に、これ見よがしに肩をすくめて見せる。

「裁縫が苦手だったとして、何の不思議がありましょう? 裁縫箱を携行していないのが、動かぬ証拠なのでは?」

 大きな音を立てながら、パンダが椅子から立ち上がった。

「し、失敬なッ!」

「では、私の裁縫箱をお貸しいたします。ちょうどここに、私の破れたパンツがあるので、これで証明してくださらんか?」

 鞄から、黄ばんだブリーフが現れた。メレットが顔をしかめる。アゲハがわけもなくマスターを殴打した。手持ち無沙汰なのかもしれない。

 今のトン吉を見るにどう見ても全裸なのだが、彼は一体どこでこのブリーフを使っているのか。

「なぜ、ワタクシが貴殿の汚いパンツなどを直さねばならないのでございますか」

「おや。できない? できないと仰る?」

「そういう問題ではございません」

「ふ。一流の執事を目指す方が。私ならば、パンツの修繕、スカート丈の調整からスカートめくりまでやって見せましょうぞ」

 どんと胸を叩く。ぱらぱらと欠片が舞い落ちた。

「す、スカートめくりっ? なんと破廉恥な! 執事の風上にも置けませぬ!」

 のけぞるパンダにも構わず、更にトン吉は畳み掛けた。

「では逆に問おう! ご婦人のスカートをめくって公安にしょっ引かれる程度の覚悟もなく、貴殿は『一流の執事』を目指しておいでかッ!」

 喪黒福造のように、トン吉はパンダを指差す。もっとも、指があればの話だが。

「……そんな覚悟、いらないと思うですニ」

 ぼそりと呟いたメレットの言葉はしかし、パンダには届いていなかった。

「がーん……がーん……がーん」

 あまりの衝撃に、パンダは自分で擬音を言っていた。

「え、ちょ、パンダ君? なんで衝撃とか受けちゃってるですニ?」

 つんつんとメレットが小突くと、パンダの身体がぐらりと揺れた。そのまま倒れるのではないかと思われたが、すんでのところで踏みとどまる。

「わ、ワタクシだって、スカートめくりの一つや二つ!」

 眼前で右手を広げて、わきわきと動かした。なんか、ヤラシイ。

「ほう。できますかな、貴殿に?」

 トン吉は、あくまで挑発的だ。

「貴殿にできて、ワタクシにできないことなど……ないッ!」

 大きく胸を張りながら、パンダは辺りを見回した。同時に、トン吉もその視線を追う。

 奥の卓で飲んでいるエルフの女。絶が付くほどの美形だが、鎧姿でありスカートではない。

 カウンターの向こうで、アゲハがタコ頭をぐりぐりしている。暇潰しだろう。カウンター越しで見えないが、アゲハはジーンズだ。

 二人の視線が、メレットでぴたりと止まる。ゴシック調の黒のワンピース。メレットのお気に入りの一つだ。

 パンダとゴーレムの瞳に、危険な光が宿る。

「チミ達……」

 メレットの頬が引き攣る。一歩、二歩と後ずさる。

「お嬢様……」

「メレットさま……」

 二人の目は、既に常人のそれではなかった。

「チミ達は、間違っているですニ!」

 間合いを一定に保ちつつ、メレットが叫ぶ。

「確かに、スカートはボクだけですニ。でも、ボクのスカートをめくるなんてことは、あまりにも簡単すぎて、チミ達の決着を付けるには相応しくないのですニ!」

 トン吉とパンダは顔を見合わせた。

「なるほど」

「一理ございます」

 鏡のように頷く仕草だけ見ていれば、仲良しに見えるのだが。

「チミ達の決着をつけるためには、もっとハードルの高い勝負でなければならないですニ」

「お嬢様には、何か良い考えがおありのようですね」

 えっへんと、メレットはささやかな胸を逸らせた。

「にゅふふ。こういうことなら、最初からボクに全て任せておけば良かったのですニ……チュールデニムっ! ですニっ!」

 持ち主のキーワードに応じて、冒険者鞄がその手にアイテムを出現させる。

 チュールデニム。巷でも評判の、デニム地のミニスカート。量産品として流通しているミニスカートの中では、最短のスカート丈で知られている。

 かなりきわどい丈ではあるが、裾にあしらわれた白いフリルなど、デザイン的にもかなり可愛らしい。故に、脚に自信のある女子の勝負スカートしても好まれていた。

「長身の女の子が履いた方がかっこいいと思うから、ボクはあまり履いてないですニ」

「して、これをどうするのでございますか?」

 問いかけるパンダには答えず、メレットはカウンターを向いた。

「これを、あの筋肉ハゲ達磨に履かせるですニ」

 冬の太陽は、柔らかかった。寒さはまだまだ厳しかったが、どこからか春の香りが運ばれ、この侠活林飲茶店にも流れ込んでくるようだ。昼時を過ぎ、この店に限らず、どこの定食屋もアイドルタイムに入っていることだろう。年に一度、女子が勇気を振り絞るこの日は、今もどこかで新たな恋が生まれているかもしれない。

 春はもう、すぐそこだった。

「丁度、マスターはアゲハさんが眠らせてくれたみたいですニ。ほれ、トン吉君、これを持っていくですニ」

「……私、ですか?」

「つべこべ言わずに行くですニ」

「は、はあ」

 トン吉が行くまでもなく、アゲハがマスターをひょいと投げてよこした。

「私、午後の仕込をしますから」

 そう言って、厨房の奥へ消える。見たくないらしい。

「では、失礼して……パンダ殿、申し訳ありませんが、手伝ってもらえませんか?」

「え、あ、はい」

 パンダがトン吉と共に屈み込む。巨体二人が覆い被さり、メレットからはマスターの姿が見えない。

 指のない手で、トン吉は器用にマスターのズボンを脱がせる。少し黄ばんでいるが、白いパンツが露になった。

「おっ、お嬢様、大変です!」

「どうしましたですニか!」

「この人、包茎矯正パンツ──ごわっ」

 すかさず、メレットのポイズンショットがトン吉の顔面に炸裂する。

「余計なことは言わなくていいですニ」

 直後、今度はパンダが血相を変えた。

「め、メレットさま!」

「今度はなんですニか?」

「スカートが、入らないのでございます!」

 小柄なメレットのスカートである。ウェストが入らないのも当然だった。

「にゅう……困りましたですニ」

 下半身パンツいっちょで寝そべるマスターを囲んで、三人は腕を組んだ。

「お嬢様」

「何か良いアイディアでも浮かびましたですニか、石頭?」

 顎に手を当て、トン吉は斜め上を向く。

「軍人時代に聞いたことがあるんですが、武林では『内臓上げ』なる技があるそうなのです」

「キモい技があったものですニね」

 内臓上げ。

 武術家が、どうしても回避できない腹部への攻撃に対処するために編み出したとされる技である。特殊な呼吸法により、腹部の内臓を一時的に肋骨付近まで押し上げる。そうすることで、腹部への攻撃から重要な内臓器官を守るのである。

「なるほど!」

 パンダがぽんと手を打ち鳴らす。

「内臓を上げてしまえば、ウェストも絞れるということでございますね」

「チミにしてはいいアイディアなのですニ」

「はっはっは。もっと褒めて?」

「調子に乗るな、ですニ」

「お待ちください、メレットさま」

 パンダがマスターのパンツを見下ろしながら、不安そうに漏らす。

「その内臓上げを、一体どうやってご主人に施せば良いのでございましょう?」

 三人は同時に、腕を組む。振り出しに戻ったようだ。

「もう面倒だから、このエプロンでいいですニ」

 ズボンを下ろす時に捲り上げたピンクのエプロンを、トン吉がつまんでみせる。

「前掛けではございますが……ワンピースのように見えなくもないでございますね」

「しかし、せっかく脱がしたのに」

 なぜか名残惜しそうなトン吉の目だった。

「にゅはは。脱がしたものはそのままでいいですニよ。てか、もっと脱がすですニ」

 深い深い青の中に、白い白い雲が悠然と漂う。北区外れのこの場所には、営業マンの姿さえほとんど見られない。営業をかけるべき企業は、こことは少し離れたところに集まっているからだ。まして、この全く流行らない店に営業をかけようという酔狂がいるだろうか。

 子供たちがきゃっきゃっと遊ぶ声がする。ただ道を走る。友達を追いかけ、追いかけられて走る。ただそれだけが楽しい年頃なのだろう。

 奥で飲み続けていたエルフの女が、出入口までゆっくりと移動する。扉の外側に「準備中」という看板をかけ、閉ざした。そして何事もなかったように卓に戻り、杯を傾け続けるのだ。

「お嬢様、エプロンだけは残すんですよね?」

「モチのロンですニ。怪獣モチロンですニ」

 仁王立ちでメレットが見下ろす中、二人の巨躯が面妖な作業に没頭する。

「メレットさま、パンツはいかがいたしましょう?」

「モチロン脱がすですニ。あ、ボクに見えないようにするですニよ?」

「かしこまりました」

 パンダはパンツに手をかけ、淀みなく下ろしていく。両足をパンツから抜き終ったとき、マスターの身体がぴくりと動いた。

「おや、お目覚めでしょうか」

 ピンクのエプロンを整えるトン吉の手が止まる。

「みゅみゅ。急がなければならないですニ。トン吉君、次はこれですニ」

 メレットは、透明な液体が入った小瓶をトン吉に差し出す。

「お嬢様……化粧水はいらないでしょう。乳液からでいいんじゃないですか?」

「それもそうですニね。そうそう、ファンデの上からこのおしろいを使うですニよ? あ、乳液の前に髭を剃っちゃうですニ」

「メレットさま、チークとシャドウはございますか?」

「抜かりはないですニよ。あー、トン吉君、アイライン忘れちゃダメですニ」

「お嬢様、次はマスカラを」

「メレットさま、ルージュを見せていただけませんか?」

「好きなのを使うですニ」

「お嬢様、アレ使いましょう。アレ」

「おおっ、そりはいい考えですニ」

「アレとは、何でございますか?」

「ウサ耳ですニ」

「さすがでございますな」

「うにゅ。これで完成ですニ」

「いやあ、いい汗かきましたな」

「お疲れ様でございます」

 何かをやり遂げた。そんな爽やかな汗と笑顔が三人を輝かせていた。

 誰からともなく、三人で手を重ねる。

 奇妙な友情が、生まれていた。

 奥のエルフが静かに席を立ち、扉を開ける。「準備中」の看板を「春夏冬中」に替えて。

「うーん」

 何も知らずに、マスターは身を起こした。

「マスター、もう昼過ぎですニ。いつまでも寝てないで働かないとダメですニ」

「てめえにだけは言われたくねえ」

 大きく伸びをして、肩をごきごきと鳴らす。

「なんか、妙に身体が軽いな。よくわかんねえけど、すっげえ調子いいぜ」

「それは何よりですニ。あ、マスター、珍しくお客さんが」

 姿より先に、声が店内に入ってくる。

「へー、こんな所に飯屋があったのか」

「にゅ? どこかで聞いたような声ですニ」

 凛とした女の声。少し荒っぽい声の調子は、戦士に多いタイプだ。

「ちーす。この店、やってるかい?」

 マスターよりも尚大柄ではないかと思える筋肉質の女。紅蓮の髪と、精悍さを備えた美貌が印象的だ。

「へい、らっしゃい! 好きなところに座ってくんな!」

 ひょいと、いつもの調子で女を出迎えようとするマスターだったが。

「おっ、怨霊っ? こんな街の中にまで!」

「なっなんだって! ちくしょう、どこだ、どこにいやがるっ?」

 キョロキョロと見回すが、女の瞳は、マスターをのみ凝視している。

「すっとぼけんじゃねえ! やあっっっっっってやるぜ!」

 空気が震える。強い闘気が女の丹田に集約されていくのが、誰の目にも明らかだった。

「にゅおっ? これはチトやばいかもですニ!」

 危険を感じたメレットが、マスターから距離を取ろうとするが。

「狂龍爆撃! ドラ、ゴン、バァァァァァァアアアァァァァストッ!」

 完美暦20xx年。侠活林飲茶店は、正義と怒りの炎に包まれた。

 

 

 

「ところで……」

 瓦礫を押しのけながら、メレットはよろよろと立ち上がる。

「パンダ君、チミは一体何の用だったんですニ?」

 少し離れた場所で、瓦礫が盛り上がる。中から、埃だらけになった胡粉色のスーツ姿が現れた。

 ほうほうのていで、メレットへ這いずる。

「わ、我が主、劇団ロンリースターギルドマスター赤戸真都理さまより、いつもお世話になっているからと贈り物が……」

 震える手で紙包みをメレットに握らせ、パンダは力尽きる。

「う、にゅう……バレンタインですニ」

 ふらつきながら、紙包みを丁寧に開ける。中には、歪な形の抹茶チョコが入っていた。

「いただきます……です、ニ」

 一粒つまみ、最後の力を振り絞って口に入れる。

「にゅ!」

 その威力は、メレットのなけなしの生命力を根こそぎ奪うには充分だった。

 ばたりと倒れた拍子に、チョコが一粒、零れ落ちる。

 ころころと転がり、吸い込まれるように、それは昏倒するトン吉の頭のヒビの中に収まった。

   4 あなた色のチョコレート

 

 

 

 水車の軋む音が、いつもより大きく聞こえた。きらきらと水面を反射する陽光と共に、水車に撥ねる水音さえ耳に流れ込んでくるようだ。風が強いのか、それとも立て付けが悪いだけなのか、窓ががたがたと震えている。入り込む日差しは、これからもっと傾いていくのだろう。

 窓を開けると、冷たい風が紅蓮の前髪を揺らせた。大きく息を吸い込むと、二月の怜悧な空気が肺を満たす。その酸素は身体中に行き渡り、ぴりりと引き締めるだろう。

「……くしゅっ」

 室内は新鮮な空気に満たされたが、やはり気温は下がる。少し日に焼けた手が伸び、窓を閉めた。

 しなやかだが、細かい傷跡が無数に残る手。数え切れないほど武器を握り締めた手。数多の武器を自在に操る手。掌の皮は、分厚く硬い。

 見慣れすぎているであろう自らの手に目を落とすも、髪と同じく紅蓮の瞳。涼しげな目元だが、瞳の奥に燃え盛る火炎を見出す者も多いだろう。その眉根に皺が寄り、小首を傾けたのも一瞬。すぐに興味をなくしたように目を離し、その手が次に掴んだのはハンガーの上着だった。所々色落ちし、少し痛みのある革のジャケットは、長年愛用された物だけが持つ独特の味がある。黒い無地のシャツを押し上げる胸と、ジーンズに包まれた優美な曲線は、激しい主張を隠しきれていない。

「ちと、冷やしすぎたか」

 部屋の中央の火鉢に屈み込もうとした時、来客を告げるベルの音が鳴った。

「ちっ、めんどくせえな」

 渋々と、彼女は部屋から出る。

 フローリングの床に、革のブーツがこつりこつりと音を響かせる。普段ならば、自分の足音が聞こえるほど、ここは静かではない。

「よりによって、こんな誰もいねえ時に来客とは……ついてねえぜ」

 言いながら、苦笑が漏れる。「ついてない」とは、誰のことなのか。一人で接客しなければならない自分なのか、自分に接客される客なのか。

 少々荒っぽく扉を開ける。

「あいよ。ギルド『SERAPHIM』だぜ。何の用──」

「ライッ、ボルトッ、ちゅわああああああん!」

 パンダ面の男が、まるでプールにでも飛び込むがごとく飛び掛ってきた。プールの飛び込みと違うのは、男の両掌がわきわきと蠢きながら彼女の豊満な胸を狙っていたことか。

「へぶしっ」

 ブーツの底がパンダ男の顔面にめり込む。充分に引き付け、充分に力を込めた蹴りだった。「狂龍戦車」の二つ名で恐れられる冒険者、ライボルトのカウンターである。死んでもおかしくない。

 変態パンダ男が背中から地面に激突するより早く、ギルド「SERAPHIM」の扉は乱暴に閉ざされる。鍵をかける音が続いた。

「厄日だな、今日は」

 美貌を翳らせ、ライボルトはこめかみに指を当てた。

 今の男は、「万獣の奇行師」と呼ばれる有名な変態、パントゥ=ディスだ。その悪名は万獣に止まらず、祖龍にも轟いている。以前ギルドの訓練生がセクハラ被害に遭った時、少々懲らしめてやったことがあった。しかし、何度痛めつけても懲りることがなく、むしろ痛めつけられることで喜ぶ変態だったために、大いに手を焼いたものだ。ギルドマスターのエルティアーナも聞き及ぶところになり、かの変態を飼っているギルド「劇団ロンリースター」に直接文句を言いに行くという騒ぎにまで発展した。が、劇団ロンリースターと言えば、ライボルトの知己であるA級セイバー雨月霊華の所属するギルドでもある。ライボルト自身も特務セイバーとして霊華とは懇意にしていたため、あまり事を荒立てたくはなかった。が、大事なギルメンのセクハラ被害にライボルト自身も腹を立てていたことは確かであり、怒るエルの気持ちも察して余りある。

 結果、被害者当人とエルティアーナ、ライボルトの前で、先方のギルマス赤戸真都理が変態を公開処刑にした上で、謝罪。直接関係ない霊華までもが頭を下げたのには流石に気が引けたが、彼女の性格を考えれば無理もないことではあった。むしろ、直接関係ない変態の孫までも一緒に火刑になったことの方が疑問だった。「大丈夫なのか、このギルド?」と思わずこぼしたことが、まるで昨日のことのように甦る。

 火刑くらいでおとなしくなる変態とも思えなかったが、その後は嘘のように噂を聞かなくなった。あのギルドには、あんな変態をおとなしくさせる何かがあるのだろうか。そうでなければ、あのような変態を飼い続けることはできまい。と納得する反面、やはり「あのギルド、大丈夫なのか?」と思わざるを得ない。霊華も大概、苦労性である。

 さっさと火鉢に戻ろうと、ライボルトは踵を返す。

 

 あの変態の死体、どうするか……。

 

 思いかけたが、すぐに考えるのをやめた。きっと、通りすがりの親切な精霊師がリザでもかけてくれるだろう。最悪、霊華に連絡して引き取ってもらえばいい。いや、それでは霊華が可哀想だ。確か、ロンスタにはもう一人精霊師がいたはず。

 ドアを叩く音がした。

 そう言えば、鍵をかけてしまったのだ。今出払っている連中は、ライボルトが一人で留守番をしていることを知っている。鍵は各自持っているだろうが、締めっ放しにしておくと後で何を言われるかわからない。特にリジェーネはうるさそうだ。そう言えば、リジェーネはそう遠くには出かけていなかったはず。彼女が戻ったのかもしれない。

 解錠し、扉を開ける。

 激しい息遣いに肩を上下させ、二つの鼻の穴からどくどくと血を垂れ流す気味の悪いパンダ男がいた。

 黙って扉を閉め、鍵をかけた。

 いつもなら、自家用魔力炉を使った空調をきかせているため、玄関もここまで寒くない。だが、今はライボルトしかいないのだ。魔力炉に魔力を供給するのも、決して安い仕事ではない。火鉢の中でくすぶる燠火が恋しかった。

 扉に背を向けると、また叩く音。

 今度こそ、リジェーネだろうか。

 解錠し、ドアを開ける。

 激しい息遣いに肩を上下させ、鼻血を垂らし、口から涎まで垂らしている気味の悪いパンダ男がいた。

 黙って扉を。

「ちょ、待っ」

 扉が閉まらない。握り拳一つ分ほどの隙間を開けて、そこから動かない。

 目を落とすと、変態の足が扉の間に差し込まれていた。

「何だ? セールスならお断りだぞ?」

「そ、そんなこと言わないで。今なら安くできるから」

「ほーう。で、何を売ってくれるんだ?」

 変態が、扉の間から何かを差し入れてきた。

「今ならオマケでローションも……おごごっ」

 ライボルトは変態の差し出したソレを引っ掴み、口の中にねじ込む。同時に扉を思い切り押し開け、体勢を崩した変態に蹴りを入れた。

「てめえでしゃぶってな」

 扉を閉め、施錠した。

 足早に事務室に向かい、伝書を手に取る。離れた場所に一瞬で文字を伝えることのできる伝書もまた、魔導院の研究成果の一つである。

 宛先は霊華にすべきか。いや、あの苦労性に迷惑をかけるのは気が引ける。と言って、ギルドマスターはヒス持ちだし、サブマスは危険人物ときてる。もっとも、危険人物という意味ではエルティアーナ以上の者もそういまいが。他に頼れそうな奴がいないかと考えたが、そもそもあのギルドのメンバーをライボルトは完全に把握しているわけではない。ふと、事務机の上の鏡が目に入った。仕事用の事務机に鏡など置くのは、リジェーネくらいなものだ。覗き込むと、紅蓮の短髪がやはりこちらを覗き込んでいる。

 

 ああ、ミーナがいたか。

 

 10年前、剣仙からの依頼で侠心を襲った怨霊軍の鎮圧に出た時だ。スラムの子供達を護るために孤軍奮闘しているミーナに手を貸したことがある。ライボルトとよく似た紅蓮の髪の女戦士。頻繁に連絡を取り合う仲でもないが、知らない間柄じゃない。同じ戦士でもあるし、少々荒っぽいところも親近感が持てる。あの ギルドの中では、最も声がかけやすい。

 

 劇団ロンリースター ミーナ・ヴァイオレット 殿

 

 そこまで書いて、思い出す。そう言えば、今は「戦姫」と名乗っていたはずだ。

 書き直そうと筆を持ち直した時、入り口の方から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。事務室と玄関は、そんなに近いわけではない。つまり、なかなかの大声だ。リジェーネではない。さっきの変態野郎だ。放っておいて伝書を書いていたが、呼び声が叫び声になり、叫び声に嗚咽が混じり始めてところで流石に辟易した。いい年こいて、何を泣き喚いているのか。

「しょうがねえな」

 リジェーネの帰宅がこんなにも待ち遠しいと思ったことはなかった。

 

 力任せに扉を押し開けると、小気味のいい手応えがあった。

 変態が仰向けに倒れている。開けた拍子に吹っ飛ばしたのだろう。

「うるせえぞ、じじい。近所迷惑だ」

「戻ってきてくれるとは、なんだかんだ言ってもライちゃんは優しいのう。うっ、うっ……」

 ふらつきながら、変態が身を起こす。相変わらずのパンツ一丁である。彼が「パンツじじい」と呼ばれる所以である。

「そんなんじゃねえよ。迷惑なんだよ」

「ツンデレじゃな。かわいー」

「本当に殺すぞ?」

「冗談じゃて」

 パンツ翁は冒険者鞄からハンカチを取り出し、鼻血を拭いた。ぱんぱんと、尻や背中に付いた泥と埃を払う。

「そうか。良かったな。じゃあ、帰れ」

 返事は待たずに、扉を閉めようとするが。

「そーゆーわけにもいかんのじゃよ」

 また足を差し入れられた。妙に慣れた動きだ。本当にセールスマンとしての経歴でもあるのかもしれない。

「何も買わねえぞ?」

「うん、まあ、アレも冗談じゃから」

「セクハラの間違いだろ?」

「そうとも言う」

「タチ悪ぃな」

 扉を引く手に力を込める。軋んでいるのは、扉なのかパンツ翁の足の骨なのか。

「い、痛いんじゃけど」

「だったら、その足、のけろ」

「じゃが、断る」

 変態の口元がいやらしく歪む。

「いい度胸だ」

「い、痛い痛い」

「いい加減にしないと、お前んトコのギルマスにまた燃やしてもらうぞ?」

「そ、そのギルマスからの用事なんじゃて!」

「あん?」

 てっきりセクハラしに来たのだと思っていたが、意外な言葉にライボルトは力を緩める。

 パンツ翁はその瞬間を逃さない。ドアに手をかけ、全開にした。

「話くらい、させてもらえんかの?」

「最初からそう言え。めんどくせえ真似ばかりしやがって。それから──」

 人差し指を立てて、自分に向けてくいくいと動かす。

「閉めろ。寒いんだよ」

 パンツ翁は後ろ手に扉を閉めた。

 

 応接室にパンツ翁を通し、ソファに座らせる。茶を出す必要は感じなかった。

 火鉢に火をくべる。部屋が暖まるまでには時間がかかるが、この変態にために魔力炉を動かす気にもなれない。と言うか、この真冬にパンツ一丁の男である。暖房などなくても、外に比べれば遥かに暖かいはずだ。

「今はエルもリジェもいねえから、オレが聞くことになるが構わないな?」

「構わんよ」

 よく見ると、震えている。自分と一対一で向き合うと震える輩は多いが、この男の場合は全く別の理由だろう。

 おもむろに、パンツ翁は冒険者鞄から大きな紙袋を取り出した。

「何だ、こりゃ?」

「ギルドマスター赤戸真都理から、SERAPHIMの皆様に贈り物じゃよ」

 テーブルの上を滑らせるように、パンツ翁が紙袋を差し出す。

「そいつはありがてえけど……なんでまた、突然?」

 紙袋の中には、更に小さな紙袋がいくつも入っている。一つ取り出し、開けてみる。贈り物をもらった時は、その場で開封するのが礼儀であると、昔エルティアーナが言っていたのを思い出す。

 緑色の歪な何かがいくつか入っていた。一つをつまみ出し、顔を近づける。藻とヘドロを程よく混ぜて固めた何か。そのように見える。

「リアクション、困るじゃろ?」

 こんな時、どう反応すれば失礼に当たらないのか。エルならどうしていただろうとライボルトはぼんやり思う。これがパンツ翁の個人的な贈り物ならそこまで気を使わなかったろうが、ギルマス直々の贈り物となるとそうもいかない。ヘマをして外交問題に発展するのも面倒だが、そのヘマをエルに知られて説教される方がよっぽど面倒でもある。

「抹茶チョコ……なんじゃと」

 言われてみれば、仄かに抹茶のような匂いがしないでもない。いや、気のせいかもしれない。

「抹茶チョコ……ねえ」

 だが、やはり藻ヘドロにしか見えない。

「手作り……なんじゃと」

「……だろうな」

 これで市販だったら、踏み倒すどころか店主を殴り倒していてもおかしくないとライボルトは思う。

「うん、まあ、大事なのは味だよ、うん」

 とは言ってみたものの、これを口にするのはかなりの勇気がいるのではないだろうか。

 パンツ翁の鞄が煌き、もう一つ、大きな紙袋が出てくる。

「うん? そっちは何だ?」

「こっちは、他のメンバーから」

 ピンクの紙袋と桜を象ったロゴは、祖龍でも有名な洋菓子店「プランタン」に間違いない。

「おほん。真都理ちゃんがじゃな、日頃お世話になっている人に感謝の気持ちを込めてっちゅーことでな」

 目が泳いでいる。この老人が挙動不審なのはいつものことだが、今回は少々毛色が違うようだ。

「普段、お菓子作りどころか料理だってやらない子じゃからな」

 やはりライボルトを正面から見ようとはしていない。

「それで、真都理ちゃんには内緒で、他のメンバーで『まともな』チョコを併せて贈っといた方がええじゃろと」

 味の方も、察するべしというわけである。

「……普段、そんなことできない奴が頑張って作ったんだろ? 心配すんな」

 ライボルトは藻ヘドロを一つ、口に放り込んだ。

「ありがとな。残さず食うって、伝えといてくれ」

 噛み砕くと、明らかに何かを間違えているとしか思えない味が広がったが、あまり気にはならなかった。

「でも、なんで今?」

 パンツ翁が目を丸くする。

「何だよ。別におかしなことは言ってねえつもりだぜ?」

「いや、ライちゃん、今日、二月十四日……」

「二月十四日?」

 ぽんっ、とライボルトは手を叩く。

「ヴァレンタインか」

 そう言えば、リジェーネが昨夜遅くまで厨房を使っていた。訓練生の男連中がそわそわしていたような気もする。だから今日は誰もいないのか。いや、エルティアーナは元老院に野暮用だったはずだし、訓練生たちがいないのも遠征に出ているからだ。必ずしも関係はないはずだ。もっとも、リジェーネはチョコを配りに行っているに違いないが。

 なぜか、視線が自らの掌に落ちた。細かい傷痕の残る手。数多の武器を握ってきた掌の皮は、分厚く硬い。見慣れた手だ。戦う手だ。戦士として、誇るべき手だ。今更、まじまじと眺めるようなものではない。なのに、ライボルトは自分の手から目を離せなかった。

「ライちゃん……知らなかったの?」

「うーん。確かに、今晩パーティやるからスケジュール空けておけって言われてたけど……そういうことか」

パンツ翁が大きく大袈裟に溜息を吐いて見せた。これにはさすがにカチンとくる。どうしてこんな変態爺に 憐れまれるような視線を向けられなければならないのか。

 大体、ヴァレンタインだから何だと言うのか。女が好きな男にチョコを渡す日だから何だと言うのか。

「じゃが、安心せい」

「何をだよ」

「実は、ワシは個人的にライちゃんにヴァレンタインのプレゼントがあるのじゃ!」

 くい、と冒険者鞄を構える姿に、ライボルトは嫌な予感しか感じない。ミーナが言っていた気がする。じじいのプレゼントにはロクなものがないと。

 光を巻いて現れたのは。

「ブラウス……?」

 真っ白いブラウスだった。だが、ブラウスと呼ぶには丈が長すぎるようだ。全体的にシックで落ち着いたデザインだが、襟や袖口など、所々にレースがあしらわれている。ボタンにも、目立たないが花の模様が彫られていた。シックな中にも、女性的な可愛らしさが光るデザインだと言えるだろう。

「シャツワンピじゃな」

「これを、こんなひらひらした服を、オレに着ろって言うのか?」

 パンツ翁は無言で頷く。

「リジェ辺りなら喜びそうだけどな。残念ながら、オレなんかには到底似合わねえよ」

 口元に笑みが浮かぶのをライボルトは感じる。だがそれが、自嘲なのか苦笑なのかはわからなかった。

「どうして? 着てもいないのに?」

「着なくたってわかるさ」

 真っ白なシャツワンピを見ていると、目が痛くなるようだった。可愛らしいレースも、どうやら眩しすぎる。

「ワシは、似合うと思うんじゃけどな」

「そりゃ、あんたの趣味だろ?」

「ワシの趣味? ワシの趣味でいいなら、ライちゃんにはバニースーツを着せたいんじゃけどな」

 ふぇっふぇっ、と笑ういやらしさは、紛れもなく「万獣の奇行師」である。

「あんたの趣味じゃなきゃ、何だって言うんだよ」

「じゃから、ライちゃんに似合うってことじゃよ」

「はっ! 話になんねえぜ」

 触れてみると、生地が思ったより厚いことに気づく。袖も長い。夏場に着たら、少し暑いかもしれない。かと言って、今の季節には寒すぎる。下にキャミソールを着て、上着をきちんと着れば多少寒くても着れるのか。このデザインなら、下にパンツを履いてしまっても問題なさそうだし、何より寒くない。

「どうしたんじゃ? そんなにまじまじと見つめて?」

「リジェならどんな風に着るんだろうなって、なんとなく考えてただけだよ」

「ふーん」

 パンツ翁の薄笑いは消えない。何か勘違いしているようだ。

「へらへらしてんじゃねえよ。殺すぞ?」

「ライちゃん」

 ドスを聞かせたはずの声にも、パンツ翁は怯んだ様子はない。

「服のデザインが好みじゃないから着たくないって言うんなら、ワシも無理強いはせんよ。リジェちゃんにでもあげたらええ」

「言われなくても──」

「でもライちゃんは、『似合わないから』とは言ったけど、『着たくない』とは一度も言うてない」

 笑みは相変わらずだったが、さっきほどのいやらしさはなかった。

「せっかくの贈り物に対して、面と向かってそんなこと言えるほどオレも野暮じゃねえつもりだぜ?」

「ワシみたいな変態の贈り物でも? ワシのような不愉快な奴に、そんな遠慮はせんはずじゃな」

 一理ある。

 すぐに言い返せなかったのは、ライボルト自身がそれを認めたからだ。

 確かに、パンツ翁が自分で言っていた趣味の品、バニースーツのようなものなら、明確に「着たくない」と思っただろうし、言っている。

「……そんな服、オレには似合わねえし、着たくもねえ」

「似合わないから? 似合うんだから、着れるじゃろ?」

「だから、似合わないって、言ってるだろうが!」

 自分の声が山彦のようにこだましたような錯覚があった。みんなが出払っていて良かったと、ライボルトは思う。

「ライちゃん」

 ひどく真剣な眼差しだ。かの万獣の奇行師は、このような目で人と話すことができるものなのか。

「女性が女性らしくあることは、必ずしも正しいことじゃない。ライちゃんが『似合わない』と感じるのも、それはそれで間違いじゃないのかもしれん」

 パンツ翁は、シャツワンピを両手でそっと掴み上げる。両肩の部分をつまみ、ゆっくりと自分とライボルトとの間に、カーテンで仕切るように。パンツ翁は、重ね合わせているのだろう。服と、ライボルトとを。

「じゃがな、ワシは思うんじゃ。人はそれぞれの色を持っておる。同じ色の者なぞおらん。そして、人が持ち得る色は、一色だけではないんじゃ。ライちゃんの色もまた、一つだけじゃないんじゃよ」

 パンツ翁の瞳には今、何が映っているのか。その服の向こうに、違うライボルトの色を見出しているのかもしれない。

「自分で自分の色を、一色だけと決め付ける必要はない。可愛らしいライちゃん……そんな別の色があっても、ええんじゃないかの」

 服をテーブルに戻し、パンツ翁は綺麗に畳んだ。

 もう一度、ライボルトは真っ白なシャツワンピを見る。やはりそれは、眩しかった。

「まあ、ライちゃんは、とっても素敵で魅力的な女の子じゃ。っちゅー話じゃよ」

 かつてパンツ翁は、万獣の名家で使用人たちを統べる人物だったという噂がある。誰からも信頼され尊敬される優秀な執事であったと。

 今目の前にあるパンツ翁の笑顔。あるいは、そんな噂も強ち嘘ではないのかもしれないと、ライボルトは思った。

 

 オレが、「女の子」……ねえ。

 

 掌を見つめる。戦士の手だ。女の手じゃない。

 ヴァレンタインは、「女の子」の行事。

「忘れてたよなあ……ヴァレンタインなんて」

「思い出したじゃろ?」

「けっ……年の功って奴か、じじい?」

「……さてな」

 ニヤリと笑うパンツ翁に、自然に笑みがこぼれた。

 

 

 

「ごめーん、遅くなっちゃったー」

「全くだぜ。お前が最初に帰ってくると思ってたのによ」

「あれ? もしかして、私が最後?」

「ご明察」

「うっそ」

「みんな食堂でお前を待ってる」

「ん。じゃあ、とっておきのチョコを振舞ってあげるからね!」

「ま、チョコならみんな持ち寄ってるけどな」

「あ、ライちゃん、なんか服汚れてない?」

「あ、まあ、ちょっとな」

「あれれー? あー、うん、そういうことかあ」

「なんだよ、気持ちの悪い奴だな」

「今度さ、一緒にお菓子でも作ろうよっ」

「はあ? なんでそうなるんだよ?」

「エプロンの付け方から、教えてあげるからっ」

「……ちっ。行くぜ。みんな待ってる」

「はーいはいっ!」

 
 

 
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