死んだ狸がそこに居た。
彼はそれを生き返らせた。
狸は、彼の探しているものなど知らないと言った。
ここに来るまでに感じた全ての存在が、そう言っていた。
「…………ここでは無いのか?」
彼は嘆息して残念がった。地理的な条件から考えて、あるいはここでは無いかと思ったのだが。
仕方が無い。森の中を歩き回っていて、可愛そうな彼女を発見した。
ややくすんだ金髪に、碧眼。日本人で無い彼は、何語でも無い言葉で、
「…………手を打っておくか」
そんな意味の事を呟いた。
爽やかな空気だった。実に、爽やかな空気だった。
木漏れ日とそよ風が、示し合わせたように感覚を刺激する。柔らかで、それ以上に暖かい。そして、なによりも穏やかだった。
それと同様に、彼女の心中もまた穏やかだった。親代わりの医者に、悲痛なる宣告をされた後だというのに。
言われて見れば、なるほど、妙な気だるさが身体にあった。実は精神的なショックが大きかったのだろうか、と彼女は思った。両親が死亡した事による、精神的なショック。だから、身体の変化に気が付かなかったのかもしれない。
…………とはいえ、元々が医者の手に余る病気だ。何時悪化するともしれなかったわけだから、両親の死は関係が無いかもしれない。事実、小学校入学時からこれまでは比較的調子が良く、極稀にICU送りになったが、それでも、小学校に入学するまでのそれよりはまだマシだった。現実として、より悪化すれば死の可能性も十分有り得るわけだから、死なないだけ有り難いのかもしれない。とはいえ、それが何の慰めにもならない事は自身が最も了解しているわけだが。
そして、その段になって、彼女は自分が両親へと向けていた感情が酷く幼稚である事に気が付いた。それは、これまでの人生の全てを否定した。
だというのに。
心は何処までも平穏だった。これまでのどんな時間よりも。どういう作用が働いてそうなったのか、彼女は自分でも良く判らない。
だがそれでも、確信を持って言える事が1つ有った。
これまでの人生はまるで無価値であり、そしてこれからの人生も無価値であるだろうという事。それだけは絶対だった。
だからだろうか。
何もかも無価値であり、それまで両親へと向けられていた恨みが何もかも消失し、何をしたらいいか判らなくなって。
だからだろうか。これほどまでに平穏を心に宿して空を見上げられるのは。空を見上げた時、様々な情念に取り付かれている人間には決して視ることの出来ない世界が広がっていたのは。怒りは視野を狭くし、喜びは感覚を麻痺させ、悲しみは心を閉ざし、楽をすれば周囲を省みない。全てにおいて、それらを極限まで自制した状態が今の彼女の姿だと言うならば、まさに世界を鎖すものは何も無いだろう。
…………そして、それがあまりにも空虚な世界で有る事に、彼女は気が付いていた。
自分に何が出来るのか。
これまでの人生は全くの無意味であった。時間の浪費だ。詰まらない意地で偽りの自分を創り、本来は楽しむべき事を悉く無視してきた。そして、これからの人生は終わったも同然だ。それ故に、無価値に等しい。自立的な運動が不可能になると言われ、その原因はやはり心臓にあるらしい。非常に特異的な心筋症であり、原因は不明。外国の研究機関が症例のデータ収集と高度治療を提案してきたが、冗談では無い。これ以上、時間を無駄にする事は出来ない。これからの人生が無意味になるのだとしたら、やるべき事は決まっている。
彼女は、自分が倒れるその瞬間まで、最早何も無駄にしないと決めた。
故に、早期入院を勧める医師の強い誘いは断った。どうせ将来的には同じだ。だから、これまで通り学校へ通う事にしたのだ。かなり無茶な要求だったが、そこで死んでしまおうが大差無い。
だが、何をするべきなのか。自分に何が出来るのか。時間を無駄にしないとは、どういう事なのか。
判らなかった。
そんな時、1人の同級生の姿を捉えた。彼女はとても真面目にふざけた人間で、実のところ、仲良くしたいと思うタイプの人間では無かった。何度か話した事はあったが、その度に感じるのだ。自分とは全く間逆の人間であるという事実に。嘘ばかり付いて生きてきた自分とは間逆に、彼女は全てに肯定的であり、ありのままに生きていた。だから、向き合った時に、自分の嘘がそのまま跳ね返ってくるようで、怖かったのだ。その事に気が付いたのは、つい最近だが。
だから、思った。
彼女に準じようと。なにをするべきか判らなかったから、その生き方を真似しようと。
世界をそのまま楽しんでみようと。
彼女の見出した結論は小さなものではあったが、彼女自身に劇的な変化をもたらしたのは間違いない。その事にはまったく気が付いていなかったが。
…………友達との会話を、素直に楽しんでみる、無機質な味しかしなかった昼食を味わって食べてみる、馬鹿にしていた全ての人々に対して、優しく接してみる。
皮肉な事に、そうやって変わっていった彼女の姿は、嘘を付いて上手に日々を切り抜けてきた姿と何一つ変わる事は無かった。
だが、それで良いのだと彼女は思った。
空は完全に曇天だった。
先ほどまでの晴天が嘘の様に、木漏れ日は最早無く、落ちてくるのは絡み付いてくるような寒々しい空気だけだった。梅雨の時期である事を考えると、その気象変化だけでも十分恐ろしい事だったが、何よりも恐ろしかったのは、その寒々しい空気が華実の変調を促している様な気がする事だった。
華実は確実に弱っていた。何やら、手に妙な感触を覚えて横目で確認すると、華実の吐血が指の先まで到達していた。ヤカ自身の汗と混じって、それは地面へと落下していった。学校指定のジャージは紺色で血は目立たないが、それでも血で湿ったと判るくらいに変色していた。華実が気絶していた時ほどでは無いが、彼女の手に入る力が弱くなってきており、ヤカの負荷が大きくなってきている。
「……………………」
ヤカは声に出さずに、顔を顰めた。
華実を背負う腕の感覚が、かなり無くなってきている。痺れてきたのだろう。吐血で流れた血の感覚が判ったのが不思議なくらいだ。ヤカの体温と汗で血が乾燥する事は無いし、断続的に吐血しているため、さらに血で染まるのは時間の問題だ。脱力は激しいが、咳だけはとても強く吐き出されるのだ。
「おーい、大丈夫かぃ」
出来るだけ気楽な声を出そうと務めながら、ヤカは言った。それが上手く出来ているかどうかはわからない。声は震えていなかっただろうか。
声をかけてからしばらくして、ヤカの腰に回された腕に少し力が入った。どうやら、意識は有る様だ。
そっとしておいた方がいいのか、意識を失わないように出来るだけ話しかけるべきなのか。
ヤカは後者を選んだ。ドラマ等々では、救急車が到着するまで意識を失わせないようにしているが、果たして効果はどうか。
実際は、救急車到着までの間に行われる意識確認において、重要視されているのが呼吸停止、あるいは心停止の有無をハッキリさせ、適切な応急介護をする、というものがある。眠ったら死んでしまうのは低気温条件下での特権だ。とはいえ、意識の有無が生死に直結する現象である事は間違いは無いので、意識を正常にしておく事にも間違いは無いのだが。
…………ヤカが呼びかけを行ったのは、ただ怖かったからだ。適当な所で呼び止めて、意識の有無を確認しておかないと不安すぎる。
楽しんで生きていこう。
それがヤカの人生におけるスタンスだった。
気分が沈んでいる時にも、世界の全てが自分に対してプラスに作用していると思い込んでおけば、気分もそれなりに復調するものだ。世界が素晴らしいものだと思い込んでおけば、毎日が楽しい。実際的に、毎日楽しい事ばかり起きるわけでは無いが、それでも世界が素晴らしいものであると信じていれば、それなりに楽しく生きていけるものだ。
だが、それで全てが救われると信じているわけでも無い。全てが救われてしまうなら、今この状況が好転しないのはおかしい。だから、そうでは無いのだ。
結局、自分は辛いものから眼を背けたいがために、無理矢理明るく生きているのに過ぎないのかもしれない、とヤカは思った。
だが、それの何が悪い。
痺れる腕の無理矢理力を込めて、歯を食いしばって、流れる汗を拭いもせずに(出来無いのだが)、ヤカはひたすらに前へと進んだ。
森を抜けた、ように感じた。実際、森は抜けたのだろう。
それは突然訪れた。だから、一瞬そうだと気が付かなかった。そうと気が付いたのは、明らかに整備された道に出たからだ。整備された、とは言っても、周囲には木々があり、地面は土。アスファルトの道路に出たわけでは無い。ただ、木々を抜けて、整備された山道の様な場所に出た、というだけの話だ。獣道の様に狭くなく、明らかに人の手が加わった道だ。とはいえ、人の手が加えられたのが一体どれくらい前なのかは判らないが。それほどには、寂れた道だった。
だが、
「よっしゃぁ」
喜びを精一杯込めて、呟く。
なんせ、後はこの道を下っていくだけなのだ。それだけで、人が居る場所に出られる。もしかしたら、途中で人と出会うかもしれない。それだけで、十分な助けであり、精神的にもかなり楽になった。
「もうすぐだぜぃ、華実さんよぅ」
何処のチンピラだ、という様な口調だ。精神が高揚しているからだろう。
そして、さらに歩く事数分。これまでの道のりに比べれば、どうという事は無い距離だった。アスファルトで舗装された、綺麗な道路に出た。
だが、ヤカはそこで言葉を失った。
「…………なんってこったぃ」
やっとの事でそれだけ言って、華実を背中から降ろし、木にもたれかけさせた。
手の感覚が、いや、腕の感覚が無い。自分の腕が恐ろしく重たかった。
道路は綺麗に整備されていた。国土交通省は優秀だ。
だが、家が一軒も見当たらない。山道への入り口と反対側には、同じ様に森が広がっていたし、右を向いても左を向いても、端から端まで森と道路の景色だった。
決して変な場所に出たわけでは無い。車線の無い狭い道路の、右か左か、どちらへ進んでもいずれは民家を発見出来るだろう。だが、長年この街に住んではいるが、ここが何処だかわからない。山の崖を落ちて、森を抜けて、元居た場所とはそれだけの距離が開いてしまった、という事だろう。
楽観していた。入り口は運動公園の中にあって、そこは人がたくさん居る場所だった。地続きなのだから、何処から山を抜けてもそうなのだろうと思い込んでしまっていた。
「くっそぅ…………」
右に行くか、左に行くか。
左に行こう。ヤカは即断した。スケッチを始めるためにあの場所に座ったとき、森の全景が見えて、その時に、左側の方に街並みが始まっていたのを覚えている。ヤカの方向感覚は並では無い。太陽の位置から方角を読み取れる。左側で間違いない。
太陽は頂点から16時の方向。空は雲に覆われているが、光の出所は判る。思ったよりも時間が進んでいない事に、少し驚いた。
「華実…………」
と、名前を呼んで。
ぞっとした。
華実の顔色を視て、ぞっとした。一目見て判るほど、白かった。華実の肌は、こんなに白かっただろうか。真っ赤な血が口元にこびり付いていて、あるいはそのコントラストが錯覚を引き起こしているのかも知れない。だが、度重なる吐血と体力の低下がそうしているのだと、わかった。
暗闇の海があったとする。そこは恐ろしく冷たく、体温だけでは無く人の精神すら蝕んでいくのだ。…………そんな場所に放り込まれたかの様に、ヤカの背筋が凍りついた。
連れて行くか連れて行かないか迷ったが、これも即断した。もう、素人の自分が動かさない方が良い。
全力で走って助けを呼んで、全力で帰ってくる。
「ここで待っててくれるかぃ? すぐに助けを呼んでくるからさぁ」
華実の顔に手を当てて、言った。冷たい。華実を背負って歩いてきて、自分の体温が上昇していたから余計だろうか? とても冷たく感じた。
華実は胸を押さえて、眼が虚ろだった。だが、死んではいない。
ヤカの言葉に反応して、少し微笑んで見せた。それが彼女の優しさだったなら、なんて強いのだろうかと、そう思った。
華実は頷いて…………何かを見つけたようだった。虚ろな瞳で、それを見つめている。それは、地に群生する雑草と花だった。
雑草は力強く天を目指し、数こそ少ないが、他の花も雑草に負けない力強さで顔を見せていた。
だが。
その、力強く咲いた花の足元には、すでに枯れてしまっている花達。萎れてしまっている花達。開花時間の僅かなズレだろうか。それとも、他の花に栄養を取られてしまったために、咲くことが出来なかったのだろうか。
華実は、それを視て、弱々しく苦笑した。
ヤカは…………何も言えなかった。
何も言えなかったが、華実の手を強く握って、駆け出した。
…………雨がポツリと降り出した。
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過去を回想する華実。無価値だった自分の人生、これからの無価値な人生。自分が倒れるその時まで、一体何が出来るのか。
答えは出ないが、ヤカと同じ様に生きていこうと決めた。
森を抜けたが、同時に、華実の状態は限界に近付いていた。