<1>
木々が生い茂る丘陵。その小さな神殿はこれら深緑のなかに埋もれるかのごとく建っていた。
現在における宗教施設の様式とは僅かに異なった形状、風化の痕跡があちこちに見受けられる外壁。かつてはこの神殿の名を示していたであろう正門の金属板も、幾度にもわたる雨風に晒されて錆びつき、もはや原型を留めてはいなかった。
辺りは集落より離れた一帯。生活と宗教とが密接な繋がりをもつこの世において、宗教施設が造られるのは専ら街や集落などの人の集まる地帯であるのが常。祈りの場に事欠かぬ現在において、このような場所に人が足を踏み入れる理由などない。
しかし今、周辺の地面には人のものと思しき足跡があった。
大小二組、湿った土の上に点々と続いたそれは、半開きとなり、黒い口と化した神殿の入り口の前で消えている。
入り口の先には暗く、長い廊下が内部へと向かって延びていた。
外から差し込む陽光も入口付近の僅かな隙間からでは、周辺を微かに照らすのが精々。少しでも奥に入った途端、そこは暗闇が支配する空間へと化す。
だが、建物の最奥──これもまた半開きとなった扉からは、別の灯りがもれていた。火による光。ランプか、或いは松明のそれと思しき人工的に持ち込まれた光。
扉の先には天井の高い円形の広間があった。部屋の入り口付近に備えられたフックに火の灯ったランプが掛けられており、灯りはそれより漏れ出たものであった。淡い橙の光が室内に幻想的な明暗を作り出している。
照らされた一部の壁には彫刻が施されていた。上部には天上の光輝と聖句を刻んだ紋様が畝の如く刻まれており、中央部には、まるでこれを背にして乱舞する『天使』と呼ばれる神の御使いの姿があった。これら天使は左手に聖なる書を抱え、右手に聖なる剣を携え、地へと向かってそれを振り下ろしていた。そして、剣の切っ先が指し示す方向、下部にあるのは多種多様なる魔物の群れが蠢いている。
神の権威を示す壁面彫刻であった。
細部の描写たるや驚異的なほどの現実味を備えており、製作者がまるでこれら神と魔物との戦場を間近で目撃したかのよう。
それほどまでに優れた技量があるものと推し量れた。
優れた宗教芸術作品というものは得てして、宗教施設のより中核に配置されるもの。そう、これら巨大でありながらも緻密にして写実的な壁面彫刻が並ぶこの空間は、まさにこの神殿における中核的な場所であることを暗に示していた。
だが、この部屋の最奥には一段高い大理石の祭壇が設けられているのみであり、本来その上に祀られているはずの神像の類は、どこにもない。
代わりにその場に立っている者がいた。
二人からなる男女。二人は上質な絹で織られた揃いの衣の上にフード付きの外套を身に着けている。外套の背にはどこかの貴族家の紋様であろう刺繍が施されており、彼らが相応の身分にある人間であることを示していた。
男のほうは背後から見ても目立つほどに大きな体格をしていた。
だが、それは高い身長ゆえのものでなければ、鍛え上げられた筋骨ゆえのものでもない。ただ肥太り、だらしなく横に広がっただけの大柄。
貴族位にある者は、領地に住まう民衆を守る義務がある。多くの者が騎士位を有し、日々、努力と研鑽を積む毎日を送っているのが常。ゆえに貴族が纏う衣服は引き締まった屈強な人間が身に着けてこそ映えるよう意匠をこらしており、それがかえって男の姿を、どこかみすぼらしいものに見せていた。
そして女は、この哀れな男の背中をじっと見つめていた。フードの奥に隠れ、その目に込められた感情を読み取ることはできぬ。だが、露わとなった口は固く閉ざされ、頬は強張り、何らかの緊張状態にあることをうかがわせた。
女の視線の先に立つ男は身を屈めたまま、動かずにいた。まばたきすらも忘れ、まるで何かに取り憑かれたかのように一点を凝視している。
視線の先にあるのは、祭壇の上に置かれた一冊の本。なめした革による固い表紙には解読不能な文字らしきものがびっしりと刻み込まれている。
男の右手は、その表紙の上に置かれていた。親指は表紙の縁に当てられており、いつでもそれを捲ることのできる状態にある。
だが、彼は一向にそれをしようとはせぬ。
同じ姿勢のまま既に数刻──彼の動きはぴたりと停止したまま。
まるで、その本を捲るのを迷っているかのように。
そんな男の背中に向け、女が意を決したかのように口が開く。
「──帰りましょう。兄さま」
か細い、不安に満ちた声が広間に響き渡る。
若い少女のそれであった。
「ここは父さまに立ち入りを厳しく禁じられている場所ではありませんか。見つかったら叱られてしまいます」
だが、兄と呼ばれた男はこの声を聞き入れた様子はない。ただ、おのれの手の下にある本、指と指の隙間より見える黒き革の表紙をじっと眺め続けていた。
まるで何かに取り憑かれたかのような、ぎらついた目で。
餓えた豺狼のごとき眼差しで。
彼の足元には銀製の細い鎖が転がっている。つい今しがたまで、この書に巻き付けられていた鎖。しかし、その戒めめいたそれは、この男によって取り除かれていた。
「もう、戻れないよ」
男はここにきて声を発し、妹と思しき少女の訴えを退けた。
「僕はこの日のために今まで、みんなからの侮辱に耐えてきたんだ。それは君も良く知っているだろう?」
興奮ゆえか彼は身震いを起こし、口からは歯の隙間から息が抜けるかのような微かな音が発せられた。
──男は笑っていた。同時に震えてもいた。
醜く垂れ下がった二重顎が揺れ、汗が一滴流れ落ちる。
「だけど、そんな悲惨な日々も今日で終わる。今を境に僕は生まれ変わるのだから……」
「兄さま!」
少女が制止の声を上げた。その声は一際大きく、室内の澱んだ空気を震わせる。
必死に、そして懸命に振り絞った声であったのだろう。しかし、その声は皮肉にも、彼に対する合図と化した。
男の目が一瞬、大きく瞠られた。そして、意を決したかのように彼は表紙を捲り上げる。
刹那、開かれた本のページより白い輝きが放たれた。この突如起こった超自然的な現象に、二人は驚き、思わずその場にへたり込んだ。
無意識に後ずさる。祭壇の上に置かれた書物より放たれた光は次第に明るさを増していき、遂には暗い室内全体を照らすほどまでに至っていた。今や、室内の新たな光源と化した書物を正視することが叶わず、少女は思わず目を逸らした。
しかし、男はこの光を──まるで網膜を焼き尽くすほどの強き純白の光を陶然と見つめ続けていた。
少女とは真逆の態度、まるでこの光を神の威光としてありがたがるかのように両手を広げ、光の中心たる書物を一時たりとも見逃すまいと目を一層大きく瞠る。
その男の視線が、少しずつ上へと運ばれる。
祭壇の上に置かれていたはずの書物が、まるで見えざる手によって運ばれているかのように僅かずつ上へと浮かんでいった。
光の神と化した書物が床と天井との間、ちょうど中間地点へと至ったその時、光が弾けた。
無音の音が、室内の澱んだ空気を震わせる。
兄たる男も、妹たる少女も、この光の奔流が物理的な力をもったかのような錯覚を覚えた。
例えるならば突風──或いは疾風か。少女は思わず身を床に伏し、必死となって奔流に耐えていた。
「ああ『聖書』よ」
男は高らかに声を上げていた。常人には耐えがたき光の奔流を真正面より受けながら。
「我が家を守護する偉大なる神より授けられし神聖なる書よ。契約に従い、我が願いを叶えたまえ」
その表情は陶然としていた。額からは汗が幾筋も滴り落ちる。それは緊張と──そして、抑えきれぬほどの喜びと興奮のためであった。
『資格ある者よ』
室内に声が響き渡る。
それはこの場に居合わせた二人の兄妹、そのいずれかが発したものではなかった。
男とも女とも、大人とも子供ともつかぬ。全ての中間であると同時に、透明感に満ちた声であった。
『願いを言うといい。リュート家の者よ』
しばらくして、再び同じ声が響き渡った。二人の兄妹は直感的に、その声が眼前の祭壇の中空に浮かぶ書物が発したものであると察していた。
『叶えるべき願いとは、何だ?』聖書は続けた。
男は生唾を飲みこむ。
そして、語りはじめた。歓喜によって無様なほどに上擦った声で。
「私の願いとは──」
だが、男は気付かなかった。
彼が願いを口にした刹那、背後にてずっと床に伏せていた少女の顔が、驚愕の色彩によって彩られていたことなど。
そして、それは次第に恐怖へと変わっていき──最後には、侮蔑の色彩を帯びたものへと変じていったことなど。
<2>
赤い飛沫が青々と生い茂る草花を斑に染める。
爽やかな風が吹き抜ける見渡す限りの平原。今、この場では十人を超える男女が入り乱れ、刃を交わす激しい戦闘が行われていた。
その殆どは、辺りを縄張りとしている野盗団。
今日、彼らが狙いに定めたのは包囲する輪の中心にいる三人の旅人。そのうち二人は鉄製の甲冑を纏っており、このたび、盗人が標的に定めたのがそれであった。
八年前に消失し、向こう六十年は現れないとされていたはずの『魔孔』が先月、突如復活したのである。各地では『魔孔』よりやってきたとされる魔物どもが跳梁をはじめ武具の需要が急速に高まった今、これらの甲冑を奪い、売り飛ばせば相応の値がつくであろうと読んだうえの襲撃であった。
だが、これら盗人の目につくほどの甲冑は得てして重厚なもの。相応の体力、十分な訓練を積んだ者でなければ纏って戦うことなど不可能な代物である。
そう。襲撃者は見誤っていた。標的とした者達の、戦士としての技量というものを。
その者が積みあげてきた、努力の量というものを。
傍目には多勢に無勢の様相を呈してこそいたが、戦況は完全に真逆。迎え撃つのはたった三人の若者。だが、盗賊どもは返り討ちに遭っていたのである。
三人のうち、驚くべきことに二人が女であった。
一人は艶を帯びた漆黒の如き髪の女。身の纏いし甲冑の重さなどものともせず、まるで舞うかのような体さばきで、眼前の盗賊たちを翻弄していた。
得物は右手に握られし細身の剣。彼女は相手の一瞬の隙を見逃さず、まさに目にも止まらぬ速度で、的確な斬撃を襲撃者に見舞う。
女の名はアイリ。ここより遥か遠方にある街──ラズリカと呼ばれる都市に駐留している騎士隊に所属している女騎士である。
だが、その左手には所属を示す盾がなかった。それは即ち、彼女はこの国に仕える正規の騎士ではない──見習いの立場であることを意味していた。
しかし、その剣さばきたるや、戦士として十分な訓練を受けた者のそれであった。世に名だたる剣匠には遠く及ばぬものの、これら野盗を追い払うには十分な技量であると言えよう。
そんなアイリと背中合わせとなる位置にて懸命にメイスを振るう者がいた。
白を基調とした僧衣を纏いし少女であった。激しい戦闘の最中であれども、肩の辺りで切りそろえられた髪がしなやかに揺れる。
少女はアイリに守られながらも、襲撃者からの攻撃を凌ぎ切っていた。
武具を振るうようになって間もないのだろうか。メイスを振るう右手も、小盾を構える左手も動きがどこか覚束なく、頼りない印象を与える。だが、彼女は果敢に襲撃者に立ち向かい、アイリの背を必死となって守っていた。
クオレがメイスを振るうたび、胸元より青い光が放たれる。
聖印とともに首より下げられている飾りにある青水晶。聖石と呼ばれる祭器の放つ輝きであった。
人の住まう現世と、魔物の住まう異界とを繋ぐ『魔孔』──それを塞ぎ、活動を鎮静化させる力を有していると言われており、その力は聖堂が認めた『巫女』と呼ばれる者にしか行使が許されぬ。
『魔孔』は今、彼女らの頭上、天空の円屋根の頂点にあった。
まるで、空に開いた孔のように。
クオレはまだ『巫女』としての資格を持たぬ。胸にある聖石は、先代の巫女にして彼女の母より授かっただけに過ぎず、真の所有者ではないクオレでは、何の力も引き出すことはできない。
ゆえに、彼女は目指す。『魔孔』を閉ざす『巫女』となるために。
『魔孔』復活の現場に居ながらも、それを防ぐことのできなかったことの責任を感じて。
そして、母と再会するために。そして、連れ戻すために。
巫女は任務の達成後、遥か北にある聖堂の構成員となり、俗世より隔離される。万年雪に覆われし宗教都市ルインベルグの大聖堂。『巫女』としての修業を積むことのできる唯一の聖地へと。
新たな『巫女』となる女を指導する役目を担うために。
即ち『巫女』を志せば、その途上に必ずや母との再会が必ずや待っているはず。その時を狙い、母を連れ戻す。
彼女の旅は、これらを同時に進行させることを目的とした旅であった。
当然、その道は平坦ではない。まさに戦いの旅であると言えよう。
道中を跋扈する野盗や魔物の群れを払い除けながら、そして同時に『巫女』を取り巻く、古き伝統に対する戦いでもあるのだ。
敵は多く、一人では到底勝ち抜くことはできない。
そのための護衛として、クオレは騎士アイリと──もう一人、彼女の視界の先で剣を振るっている、もう一人の騎士に同行を願い出たのである。
両手で振るうにはやや短いと思われる剣、バスタード・ソードを振るう銀髪の青年騎士へと。
彼もまた、アイリと同様に正規の訓練を積んでいるのだろう。その動きは重厚な鎧を纏っていると思えないほどに軽く、そして力強い。
だが、その表情は悲壮。
相手は貧困ゆえ、日々の命を繋ぐために盗賊に身を落とした者たちである。ゆえに、彼らにとってこの襲撃は仲間の犠牲すら厭わぬ、まさに命懸けの戦でもあったのだ。
命を賭した覚悟をもって戦いを挑んできた人間は、時に鬼神の如き強さを発揮するもの。たとえ、正規の戦闘訓練を受けた騎士であろうとも、簡単にあしらうことは至難。
相手を生かしながらにして無力化させることなど、未熟な若年の騎士には不可能であった。即ち、眼前の敵を殺める以外に、自身が生き残る道などないのである。
青年は、肩で息をしながら剣を振るっていた。首を刎ね、頭蓋を割り、胸を突き、腹を裂いては体内より内臓を引きずりだす。
戦いとは即ち命の奪い合いである。いくら技量の差が歴然とはいえ、些細な契機、僅かな狂いで簡単に勝敗が──生死がひっくり返るのが常。
今でこそ相手を倒す立場であっても、次の瞬間には首を刎ねられ、頭蓋を割られ、胸を突かれ、腹を裂いては体内より内臓を引きずりだされる立場に回りかねない。
言い換えれば戦いとは、そんな時間の連続であるともいえよう。常人にそのような修羅場など、到底耐えられるものではない。
彼の精神は悲鳴をあげていた。
良心の呵責と、戦士としての役割の狭間にて。
それでも、彼は剣を振るい続ける。
アイリを、クオレを守るために。自分のゆく道を妨げる障害を取り除くために。
いつの間にか、彼の身体は返り血によって染まっていた。その様は神話の中に登場する血に飢えた鬼の化身。懸命となって戦っていた盗賊、襲撃者どもも、この壮絶な姿を見た刹那、流石に恐れをなして腰を抜かし、這う這うの体で退散していった。
襲撃者が去り、その背が視界より消えた時、彼はその場にへたり込み、身震いを起こす。
青年の名はアイザック。アイリと同じく正規の所属を持たぬ、騎士見習いの立場にある。
この国における騎士とは貴族位にある者が就く名誉職である。
そしてアイザックとアイリの二人は名もなき山村にて育った一介の平民。本来そのような地位につくことなど許されぬ。
だが、二人は幼少の頃『魔孔』より現れた魔物の襲撃を受けた故郷より逃げる最中、その地を管轄する騎士団の長である今の養父と出会い──やがて騎士となる道を選んだのだ。
故郷を失った自分達を育ててくれた恩義に報いるために。
いずれ『巫女』となり『魔孔』を塞ぐであろうクオレの護衛の役目につくとなれば、宮廷も認めぬ訳にはいかぬ。
二人は、その可能性に賭けるがゆえに、クオレからの護衛依頼を承諾し、そして今に至る。
アイザックはアイリとクオレの方を向き、ゆっくりと口を開いた。
「──二人とも、無事か?」
「ええ、大丈夫」
答えるアイリもまた、肩で息をしていた。
神経を焼き尽くすかのような命の奪い合いを演じた直後である。疲弊の大半は精神的な緊張に起因していた。
いくら自分達が騎士であり、それがたとえ正当な防衛行為であろうとも人が人を殺めた事実には変わりはない。表面にこそ出さぬものの、胸中に渦巻く良心の呵責、自責の念に苛まれていることは想像に難くなかった。貴族や騎士の家に生まれ、幼少の頃より戦場の理に触れて育ったのならばいざ知らず、二人は元来、戦とは無縁の環境で長く過ごしてきた人間なのだから。
「卑しい盗賊どもに後れを取る訳にはいかないからね」
しかし、アイリは強がった。胸中に渦巻く心の悲鳴を押し殺し、おのれを奮い立たせるために。
それに対し、アイザックもクオレも何も言わぬ。
ただ、彼女と並び歩き出す。
先程の壮絶な戦いなど、まるでなかったかのように。
その足取りは、やや早く、その様たるや労いや慰めの言葉を交わす時間すら惜しいと言わんがばかり。
事実、本当に惜しかった。
今日だけで野盗の襲撃が二度、魔物のそれが一度。出発地点であるラズリカの街から数えれば三人の両手の指では到底足りぬ。
今回のように、襲撃者を完膚なきまでに叩きのめすこともあれば、隙を見て逃げることも多々。
立ち止まれば、また別の襲撃者──血の匂いを嗅ぎ分けた魔物か、或いは人の気配を察した野盗のいずれかが、やってくることだろう。
だからこその移動であった。
そう。この頻繁なる襲撃、障害の多発こそが『魔孔』による被害、その最たる例である。
『魔孔』の活動によって街の外に魔物が跋扈すれば、これらとの戦いに疲弊した旅人の荷を狙う野盗どももまた蔓延りはじめる。
その仕組みは至極単純。だが、それによる被害は甚大。
ゆえに、三人は先を急いでいた。一刻も早く安全な地、高い壁によって守られた区画──街を目指して。
そして、その安息の地は、この広大な野原を抜けた先にある。
街の名はリュート。
ラズリカを旅立った三人にとって、最初に辿りつく街であった。
天空の円屋根、その頂点に『魔孔』がぽっかりと口を開く。
だが今は、異界より這い出んとする魔物がおらぬのか、その活動は極めて静かなものであった。
歩を進めながらクオレは空を見上げていた。その暗黒の孔へと向け、複雑な思いを込めた視線を投げかける。
あれさえ──あの『魔孔』さえ存在していなければ、母は今も自分のそばにいてくれていたはずだった。
だが、叶わぬ貴族との恋に落ちた者、禁を犯した者として親子ともども、今も厳しい現実に晒されていたのかも知れない。
──果たして、どっちのほうが幸せだったのだろう?
『魔孔』を眺めるたび、そんな疑問を抱く。
そして、同じ疑問を旅立ちの日から何度抱いただろうか。
「クオレ?」
先行するアイザックが心配そうに声をかける。
結論の出ぬ疑問に意識を集中するあまり、クオレの足が止まっていた。
それに気付いた少女は慌てて騎士のもとへと駆け寄る。
「す……すみません!」
素早く駆け寄ってくる小柄な姿は、まるで飼い主に走り寄る小動物のそれを連想させた。二人の騎士からは遠慮のない笑い声があがる。
「疲れたか?」
「未来の巫女様のご機嫌を損なってしまっては大変よ。アイザック、背負って差し上げなさい」
「ほ……本当にすみません!」
茶化され、クオレが慌てて身体を真二つに折り曲げるかのように頭を下げた。
野原にまた笑い声が木霊する。
「そういえば……」
笑い声が収まりつつある頃、アイリが空を見上げる。
視線の先にある空からは、いつの間にか『魔孔』は消えていた。
「どうして『魔孔』が、この国の空に現れたようになったのかしら?」
笑みを浮かべていたアイザックが、その何気ない疑問の言葉を聞き、表情が一変した。
「俺も知らないな。騎士団では『魔孔』の起源についてまでは教えてくれないからね」
「──そうなのですか?」
クオレが驚いたかのように目を瞠った。
ラズリカの街に駐留する騎士隊は、王家の傍系筋にあたるオルク家が主体となって教導されており、その教育水準の高さは随一と言われている。
にも関わらず、この国に住む人間ならば誰でも辿り着くであろう疑問に対する答えを教えてはいないのだから。
視線を受け、アイザックは首を横に振った。
「迂闊に教えるわけにもいかないんだよ。誰も真実を知らないのだからね」
「──え?」
「戦争があったのよ。文献によると五百年くらい前にね」
女騎士は再び空を見上げた。
今では伝承上の出来事になっている歴史的な闘争。無論、歴史書の上でしか知ることのできぬ史実。
しかしそれは──それだけは、誰もが知っている昔話。
見上げた視線の先には、雲一つない空が広がっている。
それはまるで『魔孔』が現れる前、まだ魔物の脅威を知らぬ時代の空を再現しているかのようであった。
「『魔孔』がなく、魔物によって命を落とす人がいなかった時代、この国は今以上に発展していたのよ」
最初にアイリが語り出した。
「──人口は年を追うごとに増大し、街には常に人があふれかえっていた。だけど当時は今のように外敵から守る壁が必要とされておらず、街はいくらでも外側へ外側へと居住地を広げることができたのだとか。王都に近い密集地では、いつの間にか隣の街同士が遂にくっついてしまうこともあったそうよ」
人が増えれば、様々なものが発展する。
街の肥大化に伴う、様々な物品の需要拡大に対応するため、有力商人が集って商会を結成。これによって得た莫大な利益は、更なる商売の効率化のために費やされた。
より大規模な隊商が通行可能とするため、これらを指揮する人材の教育や育成。
広大にして頑丈な道の整備。馬車馬の負担を軽減するため軽量で良質な馬具や車輪の開発──
これらの事業に湯水のごとく人や金が費やされたという。そして、その恩恵は老若男女、地位の貴賤など一切関係なく平等にもたらされた。こうして誰もが豊かとなり、商売人は収益を加速度的に増進させ、そして国の税収もまた、それに比例していった。
まさに理想的な発展であると言えよう。
語る女騎士の声が、僅かに浮つく。
それに聞き入るアイザックやクオレの表情も、まるで異世界の夢物語を聞いているかのような、そんな表情へと変じていた。
そう。彼女の語る昔日の光景は──今では決して造り出すことのできない、奇跡の楽園も同然のものであるのだから。
「だけど、そんな豊かだったこの国に悲劇が訪れる──」
「他国から侵略戦争を仕掛けられたんだ」
そんな女騎士の語を、アイザックが継いだ。
「侵略……ですか?」
「豊かな国というのは、それだけで標的にされるもの。どの国も同じく豊かであるとは限らないからね。土壌に貧しさによる食糧難、無能な為政者による内政の失敗──国というものは、諸々の問題を抱えているのが常。そんな他国の人間の視点からは、このラムド国の状況は非常に羨ましく、そして妬ましかったのだろう」
「一応、国軍めいたものは存在していたらしいのだけど、今の騎士団のように貴族家の子息を対象とした加入義務のような決まりがなかったせいで、今よりも規模がずっと小さく、外敵からの防衛なんてとてもできる状態ではなかったそうよ」
「それでは……」
クオレの表情が僅かに曇る。
その後に続くであろう、凄惨な末路を容易に想像できたがゆえに。
そんな彼女の表情を見て、アイリは少しだけ、言葉を詰まらせた。
「ああ。本当に凄惨な戦い──いや、一方的な虐殺であったそうだ」
そんなアイリの心情を察してか、アイザックが言葉を繋げる。
「海から攻め入った敵兵によって、瞬く間に海岸の集落が制圧され、敵は内地の王都へと向かって軍を進めてきた。国軍は民に対して幾度となく徴用命令を下すも、恐れおののいた民衆が応じる事はなかった。やむなく少ない手勢で前線防衛を試みるも、勢いづいた敵兵に為す術はなかったという」
「やはり国軍は全滅ですか?」
「最後の一兵に至るまで勇敢に抵抗を試みた──そう伝えられているが、恐らく後世の人間による創作だろう」
アイザックが一つ、溜息をつく。
「戦いなんて、一度刃を合わせたら一瞬で決着がつく。そんな状況下で一兵卒の心情まで克明に記した記録など残っているはずがないからね」
騎士は語る。
恐らく、圧倒的な勢力差を前に、当時のラムド国の軍人は考えるのを止めてしまったのだろうと。
突如、目の前に現れた大波に呆然とする船乗りのように。或いは、山津波に遭遇したゴブリンの群れのように。
頭の中が真っ白となり、逃げるか戦うかという選択すらできないまま、猛然と向かってくる敵の勢いに飲みこまれ、死んでいったのだろうと。
「こうして奴らが落とした都市にはいくつもの屍の山が築かれ、通った道は血によって真っ赤に染め上げられ、まるで血の河のようであったと。戦渦を逃れることができたのは北の寒冷地──大聖堂のあるルインベルグ地方の一部のみ。一説によると、この侵攻によってラムド国の人口は四割弱にまで落ち込んだそうだ。早々に大勢は決し、王都の陥落は時間の問題だと思われた」
ここでアイザックの声の調子が一段と低くなった。
「そんな時だったと言われている──空に『魔孔』が現れたのは」
低い声の調子に、どこか忌々しさが付加される。
「こうして、ラムド国中に発生した魔物によって敵国は撤退を余儀なくされたのだそうだ。その説によると侵攻した勢力をもってすれば発生した魔物にも十分に対応が可能だったとも言われているけど、撤退をしたのは魔物脅威によるものではなく、『魔物が跋扈し、今後発展の期待できない土地を支配する利点がない』という点にある。即ち、『魔孔』が発生したことによって、侵略者にとって侵略そのものの意味が失われてしまったということさ」
原因は多くの説がある。
侵攻によって死に絶えた六割以上にも及ぶラムド国民の無念、怨念が図らずとも召喚してしまったという説。
国を滅亡の運命から救うべく、宮廷が一人の魔術師に命じて行わせたという説。
抵抗激しい王都の動きに苛立った敵国が最後の手段として発動させた魔術が暴発してしまったという説。
だが、その真相はいまだ判明していない。
五百年経ったこの時代においても。
「──騎士団が『魔孔』発生の『原因』について教えないのは、真相が定かになっていないからさ。ただでさえ人間の想像力を色々な意味で刺激しかねない事柄に対して、騎士団という権威ある集団が無責任な答えを出すわけにはいかないからね」
「そういうものなのですか?」
「この国は常々『魔孔』の脅威に晒されている。全ての国民が『魔孔』発生の真相を知りたがっていると言っても過言ではない。よりもっともらしい、より確かな情報を渇望している。そんな状況下で、騎士団がいい加減な情報を与えたらどうなるかは簡単に想像できるだろうさ」
「もし仮に、そのいい加減に発せられた情報が『他国の陰謀によって引き起こされたもの』といった流言飛語の類だったとしたら?」
「──!」
二人の騎士の指摘に、クオレは思わずはっと息を飲んだ。
「察してくれたようね」
アイリは口元に軽く笑みを浮かべる。
「簡単に世論を煽ることが可能なのよ。現にこの国には『魔孔』発祥の説、その不確かさを利用して成り上がった野心家の話、戦争にまで発展しかけた話なんて掃いて捨てるくらい転がっている。それだけこの国の民というものは為政者や支配者にとって極めて扱いやすい状況にあるというわけよ。まるで火薬庫に続く導火線を安全な場所で握っているかのような、そんな扱いやすさがね」
その口調は、どこか忌々しげであった。
「戦争とは、一部の人間にとっては最大の稼ぎ時よ。『魔孔』が出現した今でさえ野盗が跋扈するほどに武具の需要が増えているのだから、いざ他国間との戦争となれば、その需要規模は今と比べるまでもない。兵士の数が足りないとなれば民衆からの徴用だって必要になるでしょうし、それを嫌がる一般人を無理矢理に連れ去る仲介人の需要だって一気に増えるからね」
「だからこそ『魔孔』発生の『原因』については極めて慎重にならざるをえないのですね」
クオレは得心して頷いた。
「今は魔物の脅威に晒されて明日を生きられるかどうかわからない時代。不用意に他国に対する憎悪を煽るわけにはいかないのですね」
「そういうことさ」アイザックがこう言い、話を締めくくった。
「何が原因であれ、『魔孔』の存在はこのラムド国の問題だ。誰かに憎悪をぶつけ、攻撃すれば被害が収まるという話ではない」
彼の言葉に『巫女』としての重責を再認識したクオレは、自分の周辺の光景を眺め、深く息を吐いた。
そう。今、自分達が立ち向かわねばならないのは、魔物の脅威に対してであり、その源泉たる『魔孔』であるのだから。
『巫女』となることによって、あの山村跡にて『魔孔』の解放を防ぐことのできなかった責任を取らねばならぬ。
そして、『巫女』となった暁には、北の大聖堂にて俗世より隔絶された生活を送っているであろう母を解放する。
その戦いの中心には自分がいる。
自覚した時、クオレの心の端にずしりとした重みを感じた。
彼女は思う。
これこそが巫女としての宿命、その重さなのだろう、と。
その重圧たるや、一介の僧、二十にも満たぬ一人の少女に過ぎぬクオレには耐えがたいものであった。
だが、その重さは母もまた体感したもの。この重圧の中で、クオレは離れて久しい母の存在を感じていた。そして、その母の存在が重圧に耐える力の原動力ともなっていた。
「──長話をしてしまいましたね。先を急ぎましょう」
クオレは顔をあげ、歩き出した。
その表情は引き締まり、両目には強い意志の光が宿る。
そんな親しき友を、微笑ましく見つめていたアイリが慌てて追いかけ、その後をアイザックがゆっくりと続く。
時は白昼。急がねば日没までに街には辿り着くことはできないだろう。
三人は少しだけ、足を速めた。
<3>
三百年ほど前、とある野心家が『魔孔』の起源説を唱えて他国との戦争を煽った時代があった。
結局それは未遂に終わったものの、その裏で急増した鉄鉱石の需要に乗じて資産の増大に成功した一族がいた。
リュートという男爵家である。
リュート家はその莫大な資産を盾に、財政難に陥っていた街や集落の領有権を次々と買収、一代にして地方の大領主となるまでに成り上がった。
しかし、三百年という時間は、その莫大な財産、広大な勢力の維持を許さなかった。
無尽蔵に広げてしまった領地の運営失敗による多額の負債。
当主の死によって引き起こされる家督の相続。それに伴う傍系一族への領土や財産の散逸。
これら様々な理由によって、リュート家の勢力は次第に縮小。
今や、その名を冠する地は、この街を残すのみとなってしまっていた。
地方都市リュート。小高い丘陵の上にひっそりとたたずむ古神殿が見下ろす閑静な街。
朝。アイザックとアイリ、そしてクオレの三人の姿は、リュートの街北端にある安宿の一階にあった。
ラムド国における宿泊施設は、二階より上が宿泊客を泊めるための客室、一階が酒場を兼ねた食堂となっており、各々の宿屋の主人はこれら酒場の主も兼ねているのが常。客の奪い合いの激しい業界の生き残りを賭けて、各々の店の主人は日々、努力と研鑽を重ねており、その成果の一端は客に出される料理によって表現されていた。
この宿屋もその例に漏れず、夜は炉端で焼かれた玉葱と茸のタルトと極上の酒。そして、朝はチーズと厚めのハム、葉野菜を風味豊かなパンで挟んだサンドイッチと、適温に温められ、僅かに糖を加えられたミルクが振る舞われる。
ラムド国は交易によって経済が維持されている国。
行商人や、それらを護衛する戦士らが絶えず往来する土地柄であり、これら旅人は日々を味気ない保存食で過ごすのが日常。そんな彼らにとって、宿屋で振る舞われる上質の食材をふんだんに使用した温かい食事と、旨味が濃縮された飲み物はまさに極上の馳走。この味に病みつきとなるあまり、各地の店の味を堪能することを目的として、稼ぎが安くとも見知らぬ土地へと向かう隊商を狙って志願する護衛兵が存在するほどである。
そして今、アイザック一行の三人もまた、その魅力の虜となっていた。
神殿住まいの長かったクオレは、出された食事を一口食べた瞬間、その心は完全に奪われていた。
他者からの寄付によって神殿が運営されているという都合上、その構成員たる僧侶は自ずと清貧を美徳とするようになっていた。当然、神殿で出される食事は粗食という言葉を地で行くかのような質素にして味気ない代物。そんな粗末な食事で幼少期を過ごした彼女が如何なる味覚をもって育ったかなど、想像に難くない。
そんな貧しい味覚を持つクオレにとって、口にしている食事の濃厚な旨味がどれだけの衝撃となったことか。一口食すたびに、彼女は天国の存在を感じずにはいられぬほどの喜びに酔いしれていた。
また、王家の傍系筋にあたるオルク家での生活の長い二人の騎士もクオレと同じ、口の中に広がる美味の虜となっていた。
オルク家に代表される名門の家では例外なく専門の料理人を抱えており、無論、その腕前は国内屈指の高さを誇る。
だが、騎士とは魔物と戦うことを第一とする者達。言い換えれば肉体が資本であり、それを健康に保つため徹底的な食事管理をすることこそが、これら料理人に課せられた最大の使命。出される食事はこれらの管理のもとに作られたもの。いくら最高の料理人が腕を振るおうとも、その食材本来の淡泊さを消すことはできない。
そう。この国における騎士の食事とは、若き二人にとって、あまりにも上品過ぎたのだ。
ゆえに、二人の口にとっても、この宿屋での食事は魅力的なものだった。品性という概念にすら縛られず、安いながらも純粋な旨味のみを追求して作られる料理の類は、徹底的な食事管理のもとで暮らしてきたアイザックやアイリにとっても極上なものであった。
風味豊かなパンの間に広がる、焦げ目がつくほどに燻蒸されたハムの濃厚な脂の旨味。その中でありながらも流水で冷やされた葉野菜の清涼感と歯ごたえは、肉の味を強烈に演出する役割を十分に果たし、二人の味覚を魅了し続けている。
三人の旅人は今、人生において至福の時間を過ごしていた。
──そんな幸せな時間もほんの十分余り。目の前の皿が空となった瞬間、それは終わりを告げることとなる。
しかし、極上の食事というものは、食後の満足感を保証してはじめて極上と認められるもの。口腹の欲を十分に満たした三人の顔には自然と笑みが浮かんでいた。度重なる戦いの疲労が全て吹き飛んだかのような錯覚すら覚えるほどに。
「世の中にはこんなに美味しい食べ物があったのですね」
クオレが率直な感想を漏らす。
細められたその目には、食事中の余韻が残っているのか、なかば陶然めいた光が宿っていた。
「長く神殿暮らしをしていたことが、少しだけ勿体ないなと思ってしまいました」
「これだけでも辛い旅に出た甲斐があるというものよ」
アイリが同意し、互いに顔を見合わせ笑いあう。
そして、更に同意を求めようと相棒の顔を一瞥する。
「感想は結構だが、そろそろ店を出ないと他の客に迷惑がかかるぞ」
「あ……」
アイザックに指摘され、アイリは慌てて周囲を見回した。
三人の滞在する宿屋は比較的小さな店。その一階部分を食事場として開放しているのだが、それでも十卓ほどのテーブルを置くのが精々。既に全ての卓が客で埋まり、入り口の扉の向こう、店の外には空席待ちの客と思われる人影がいくつか見受けられた。
これだけの食事を提供する店であれば宿泊客のみならず、朝食だけを求める客が殺到するのは当然と言えよう。
小規模な店は客の回転が命。呑気に食後の歓談など、店や他の客にとって迷惑に他ならない。
「そういうことだ。すぐに出るぞ」
「わかってるって」
アイリはばつの悪そうに頬を掻き、口を尖らせた。
クオレからクスクスという笑い声が漏れる。それを視界の端で捕えたアイリはすかさず彼女を睨みつけるが、クオレは我関せずと言わんがばかりに、わざとらしく視線を逸らした。
「ここで食事をしたければ、また昼にでも来ればいいさ。だが、その前にここに駐留している騎士隊に事の次第を報告しなければな」
「──そうね。早く役目を終わらせて、また来るとしましょう」
そう言い、アイリは立ち上がった。懐から数枚の金貨、宿泊代と食事代の代金を取り出し、卓の上に置く。
その表情は先ほどまでの──年相応の女の顔ではなく、一人の騎士のそれに戻っていた。
騎士団とは『魔孔』からやってくる魔物に対抗するために組織された武装集団である。『魔孔』が復活した今、その真相を知る三人が国中を行脚し、事の次第を説明し、巫女を目指すクオレの支援をするよう要請する義務がある。
それは、あまりにも辛い任務であった。
目の前で『魔孔』が復活する様を見せつけられたのだ。それも人為的な復活である。
──人為的である以上、何らかの手段を用いれば、もしかしたら事前に防げたのではないか?
そんな後悔の念が、常に三人の脳裏に焼き付いていた。
事の次第を正直に報告することは、まさに自分の失敗を告白するに等しい。名誉を重んずる騎士にとって、どれだけの重圧が伴うことか。
だが、二人の騎士は──アイザックとアイリは敢えてその道を選んだのである。
自分たちに力が足りなかったため『魔孔』の復活を許してしまった。この厳然たる現実に向き合わぬ以上、決して先に進むことはできない。
いや、進むことが許されないのだ。
それこそが、失敗をしてしまった人間がとるべき責任であると思うがゆえに。
「気が重いけど……行かなきゃね」
心底嫌そうな顔をしながらも、彼女は歩き出した。そんな彼女にアイザックとクオレが続く。
三人が座っていたのは、入り口に程近い卓。席を立った三人は店の主人に挨拶を交わすために店の奥を覗き込む。
その時、彼女は見た。
客席の最奥にある柱の陰、まるで窪みのような一角があることを。そして、その窪みの中──まるで周囲の視線から隠れるかのように四人用の卓が備え付けられているのを。
それがただの卓であるのならば──混雑時の今、当然のように客が座り食事に興じているのならば、アイリとて気にも留めなかっただろう。
しかし、その卓は、いやその卓だけは空席であったのだ。
まるで、この場の喧騒に取り残されているかのように。
目についたのは、それだけではない。この四人用の卓。他の卓と大きく異なる点が一つだけあった。
大半の卓や椅子は古めかしい木製。あちこちに傷みが見られる、使い込まれた品であるに対し、この一卓だけは上質の木材で造られたと思しき新品。塵や埃の付着を嫌ってか、その上には丁寧に布が被せられており、この布もまた上質な代物。
一目で高価なものと知れた。この小さな店には、あまりにも不釣り合いなほどに。
それゆえにアイリのみならず、アイザックやクオレも卓の存在に気付き、思わず目を向けていた。この特別な一角へと。
「お気づきになられましたかな。旅の騎士様」
まるで呆けたかのように佇む三人に、店の奥から現れた主人が話しかける。
「ええ。そりゃあもう」
我に返ったクオレが慌てて主人の方へと向きなおり、軽く一礼をした。
主人も少し遅れて、彼女に倣う。
「この席は一体?」アイザックが率直な疑問を投げかけた。
「随分と豪華な卓だな。特別な常連客向けのものとお見受けする」
「流石は騎士様。なかなかの洞察力でございます。騎士様の仰る通り、この席は我が店にとって特別な『とある』お客様専用の席にございます」
「特別な客?」
「ええ」
主人は笑みを浮かべた。どこか誇らしげな気配を漂わせて。
「この御席は、この街の領主たるリュート男爵家専用の御席にございます」
「へえ」アイリは感嘆の声をあげた。
「贔屓にしてもらっているのね」
「ええ、おかげさまで」
主人は満面の笑みで答えた。
「御多忙ゆえ、頻繁にご来店する訳ではございませんが、たまの休日の際は必ず」
「なるほどね」
改めてアイリは卓を眺める。
周囲に配置された椅子は四脚。そのいずれにも柔らかそうな背もたれと肘掛けが備えられていた。これらに使用されている生地は被せられた埃除けの布に阻まれ、視認することは叶わなかったが、その埃除けの布の質から相当な品質なものであると推察することができた。
次に彼女が注目したのは、その埃除けの布。
一つだけ柄が異なっていたのだ。他の三脚は同じ柄、華やかな色使いが印象的なそれであるに対し、上座にあるその一脚に架けられた布の柄はまさに煌びやかにして豪奢。埃除けにするには勿体ないと思えるほどの風格を備えており、一目にしてこの席が特別であるとことを印象付けさせるには十分な装飾の役目を果たしていた。
それゆえに、二人の騎士はこの席に座する男爵家の家族構成を類推することができた。
──恐らく、ここが当主の席なのだろう。そして残る三席は、妻と嫡子、そして、家族を護衛する腹心の側近といったところだろうか?
アイリはそんな根拠のない空想を巡らせる。
根拠などなかった。だが、これこそが常識的な発想と言えよう。
「ところで、そのリュート男爵とはどのような御方なのですか?」
ゆえに、クオレのこの問いに対する答えが与えられた時、アイリは思わず驚いて目を瞠ることとなる。
「十六になったばかりの男子にございます。顔つきにこそ幼さが残りますが、その器量たるやこの街の領主、男爵という爵位に相応しい、大変素晴らしいものであるとの評判にございます」
「──え?」
この想定外の答えに、女騎士は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「十六で男爵家の主、この街の領主──ですか?」
貴族家の嫡子ともなれば、十六にもなれば成人も同然に扱われるのは当然のこと。だが、十六の子を持つ親ならば、精々四十歳程度と推察できる。貴族家の当主──地方都市の領主として、十分現役として働くことができよう。
余程のことがない限り、引退して家督を子供に譲ることなどないと考えるのが自然。
そう。余程のことが無い限りは──だが。
反応を示したのはアイリだけでない。アイザックやクオレもまた、彼女と同く目を瞠り、驚くの表情を露わにしていた。
その様子を見て、宿の主は声を出して笑う。
「驚かれた様子ですな」
「ええ。それはまぁ……」
「先代──領主様の御父君は健在でございますよ。ですが、事情があって身分を今の領主様にお譲りになられたのです。現在は一線を退き、現当主たる息子を支えるため日夜励まれております」
「──事情?」
その返答に、アイザックとアイリの表情が少し厳しいものへと変じた。
何かを察したのだろうか、互いに顔を見合わせる。
「現領主さまは、幼少の頃より大変素晴らしい──まさに『神童』と称するに値するほどの御方であり、その優秀さたるや、十歳にして大人の知性のそれに匹敵するほど。それを悟った先代は早々に退位し、息子に譲ることを喜んで御決意されたとか」
「『神童』ねぇ……」
アイリが訝しげに呟いた。
神殿勤めの僧侶ほど篤い信仰を求められるわけではないが、神の教えを遵守することも騎士の枢要なる役目である。軽々に神の名を騙るものに対し、あまり良い印象を持たぬ。
だが、興奮気味に語る主人に、呟きに込められた意図に配慮することはできなかった。誇らしげに胸を張り、その素晴らしさを語り続ける。
他の客の声など、耳に入らぬほどに。
「伝承によると、古来よりリュート家には神の奇跡が味方されているとのこと。言い伝えによりますと五十年──二代に一度、リュート家には大変優秀な『神童』がお生まれになり、家と、この街に多大なる恩恵を授けて下さるのだとか」
「恩恵を授けてくれるのだ──『とか』?」
アイリはその言葉に引っ掛かりを覚え、思わず尋ね返した。
「……どういうこと?」
五十年に一度その『神童』が現れるというのなら、彼らが残した功績の内容、その逸話の一つくらいは伝わっていてもおかしくない。
だが、宿屋の主が口にした言葉とは、まるでその功績が未然であるかのような物言いであったのだ。
過去、そのリュート家に生まれた『神童』が、どれほどに優秀な人間なのかはわからない。だが、これら歴代の天才が過去に如何なる実績をあげ、人々に恩恵をもたらしたのか──その具体例が一切ないというのならば、どうしてこの街の民衆は、そんな肩書だけの人物に、ここまでの期待と信頼を寄せることができるというのか?
あまりにも不可解であった。
「……」
主人が不意に口ごもる。
その反応で、三人の旅人は答えを得た。
「ないのですか?」今度はクオレが反応を示した。
「それは奇妙。大変優秀な御方だという話ではありませんか?」
「──ええ。確かに優秀な御方です」
主人は小さく溜息を吐いた。
その顔に悲しみめいた表情を浮かべながら。
「その能力を発揮する前に、歴代の『神童』はみな、早くして亡くなられているのです。いずれも二十五を待たずして」
「──え?」
「公には事故死だと言われております。言い伝えによると、前回は山岳地帯に巣食う魔物の掃討に成功した帰り道に崖からの転落。その前は騎馬が暴れての落馬だとか」
「それは不幸な」
思わぬ話にクオレは表情を曇らせた。小さく神の名を唱え、略式の祈りを捧げる。
「ですが、それは結末に過ぎません。その直前まで、あの御方は大変厳しい立場にあられたと聞きます。『神童』の名声ゆえに若くして騎士隊の幹部と、街の領主家の嫡子という役目を兼任されるような、言わば街の英雄的存在であったです。それは周囲からの羨望と嫉妬は相当なものであったことでしょう」
「では、過去の事故は人為的に引き起こされたものであると?」
「証拠こそはありませんが──私を含め、街の人間の多くはそう思っております」
声に僅かな怒気が孕む。
「地位と才能を兼ね備えている御方なのですから。我々民衆の期待が多く集まってしまうのは当然のことではありませんか。ですが、騎士隊や議会のお歴々にとって、名声や人気が名家であるリュート家に集中してしまうことを何よりも恐れているのです。だからこそ奴らは結託して、リュート家の発展に繋がりかねない『神童』の代を狙って、様々な卑劣な手を使って足を引っ張っているのです。ええ、そうに決まっております!」
主は興奮気味に言い放つ。客席中に響き渡らんばかりの声で。
会話を聞くとはなしに聞いていた何人かの馴染みの客と思しき者は、この言葉に何度も頷き、同意した素振りを見せる。
それを見たアイリとクオレは察した。
──恐らく、この主人の言葉こそが、このリュートの街の人間の意見。それを代弁しているのだろうと。
二代に一度という相当な頻度で『神童』と呼ばれるほどの優秀な人間を輩出するという神秘性。嫉妬に狂った他の権力者の陰謀によって悲惨な最期を遂げるという悲劇性。
神秘性は人を強烈に惹き寄せ、悲劇性は人に贔屓を誘発させる。
そう。この街においてリュート家が高い人気を維持しているのは、まさにこの二つの要素を同時に得ていることに起因していた。
贔屓的感情と『神童』という未知の存在に対する期待の高さが、本来の実績の低さを悉く覆している。
そんな、彼らの感情を垣間見たアイリは少しだけ恐怖を感じた。
領主家に対する、彼らの熱狂的ともいえる強烈な感情、思い入れ、拘りに。
弱い人間ほど、自分が信じたいものしか信じぬもの。
『神童』が事故ごときで死ぬような無能ではない。人の恣意によって消されたものだと思い込むことによって、リュート家への悲劇性を自ら演出し、より一層の思い入れと『神童』に対する信仰を強めていた。そして、その信仰に縋ることによって自分達も『魔孔』に対する恐怖から必死に目を逸らしている。
だが、現実は事情。
『魔孔』が復活し、今も何処かで誰かが魔物の被害を受けている。
そして、仮に今の『神童』が、彼らの望むとおり為政者として大成したとしても、善政を敷く保証など、どこにもありはしない。
そう。彼らは誰一人として現実を見てはいなかったのだ。
女騎士は思う。これはあまりにも悲しい話だと。
だが、この悲しい話も『魔孔』があるがゆえ。『魔孔』の恐怖、魔物の脅威がなければ、誰も『神童』などという存在に縋ったりはしないのだから。
改めて、小奇麗に手入れをされた円卓を眺める。
アイリは人間が抱く印象というものは、本当に不思議なものだと実感する。
最初はこの円卓に対し、まさに領主家に対する民衆の敬愛、その象徴であるかのような印象を抱いていた。
しかし、宿屋の主の話を聞いた今、この円卓は、街を覆い尽くす暗い現実の象徴であるかのような、そんな気すらしていたのだ。
「……あれ?」
そして、この感覚の変化が彼女に新たな気付きをもたらした。
彼女が気付いたのは円卓に備えられた四脚の椅子、その背の部分。
上座にある一脚を除いた三脚のそこには、女性を表す略式の印章が彫刻されている。
そう。これらは女性用に作られたと思しき代物であったのだ。
即ち、この円卓を囲む四席。これに座ることを想定されているのは──主賓客である一人の男と、同伴の三人の女性であるということ。
「ねぇ、クオレ。あれを見て」
アイリは思わずクオレに耳打ちし、彫刻された印章の部分を顎でしゃくって見せた。
クオレも彼女の意図に気付いたのか、驚きのあまり思わず目を瞠り、慌ててアイリの耳元で囁き返す。
「あの円卓は、リュート家向けのものであるはずですよね? だとしたら、数が合いませんね」
リュート家における家族構成は──現当主である『神童』、今年で十六になる男子と、その父親である前領主たる男。
判明している時点で、男が既に二人確定している。
そう。クオレの言う通り、数が合わないのだ。
四脚の椅子のうち三脚が女性用のであることなど絶対に有り得ぬのだ。
これらの構成を、男爵家の『家族向け』であるのならば──
「さすがは文武ともども高度な教育を受けた騎士様だ。なかなかに察しがいい」
その時、二人の背後から声がした。先程まで、宿屋の主がいた場所からであった。
女騎士が向き直ると、その場には恰幅のいい男の姿はなく、代わりに一人の痩せた中年の男が立っていた。
「……まったく、客商売だってのに客をそっちのけで話に夢中になりやがって。まぁ、この街で一番の上客を常連としているんだから、誇らしく思うのは当然だがな」
「──あなたは?」
「朝飯を終えた常連客の一人よ。主人に代わって嬢ちゃんらの疑問に答えようと思った暇な節介者さ」
アイリとクオレが、ふと客席のほうを見遣ると、そこには主人が笑いながら怒る客たちの前で平謝りをしていた。
客への応対をそっちのけで、話に夢中となったことを冗談交じりで責められているのだろう。
二人は心の中で主人に詫びる。
「では、率直にお聞きします」
アイリは男に問うた。
「この円卓の席は一体、誰のためのものなのですか? 察するにリュート家の『家族向け』に用意されたものではないと思われますが」
「簡単なこと」
回答役を引き継いだ常連客の男が皮肉めいた口調で言った。
「現当主である『神童』様と、その花嫁候補である三人の恋人向けに用意された席だからな」
「──なんですって?」
「俺のような庶民は、一度浮気すりゃ嫁やその実家から酷く責められた挙句、三下り半を突きつけられるというのにな。貴族様というのは羨ましいねぇ。三人の美女に囲まれた挙句、誰も選ぼうとはせず、三人をいっぺんに愛したとしても誰も咎めやしないんだからな」
女騎士は思わず眉根を寄せた。
一人の男が三人の女と同時に関係を結んでいる。その様はアイリにとって、あまりにも不自然で、いびつに感じられた。
だが、貴族家の婚姻というものは、常人の持つ倫理観の範疇を遥かに超えるのが常。血統の存続や政治的な思惑が何よりも優先される。
ましてやリュート家は領主の地位を代々受け継ぐ由緒正しき貴族家である。直系の嫡子を作ることは、彼らにとって最も重要な課題であると言っても過言ではない。
「それに今の代は『神童』の代。短命の運命を辿りかねぬと危惧される以上、花嫁選びを急ぐのは当然さ。それに、正妻として選ばれなかった残る女性も、恐らくは公認の愛人として囲われ続けるだろうな──正妻が子宝に恵まれなかった時の『備え』としてね」
「なによそれ」
アイリは思わず目を背けた。
──腹の立つ話だ。もし、それが事実だとしたら。
貴族家における婚姻など、純粋な慕情の果てに結ばれる事こそ稀有な話であり、女として生まれれば、政争の切り札として、その身を売り飛ばすかのような過酷な運命を背負っている。
アイリも王家の傍系筋にあるオルク家の一員でこそあるが、本来の出自は平民。拾われ子であるがゆえ、そのような婚姻を結ぶ義務はない。だが、同じ女として貴族社会の持つ歪な性質、伝統に対する感情は複雑であった。
彼女は少しだけ、やるせない思いを抱く。
「行こう」
アイリはクオレに声をかけ、出発を促した。
見れば、クオレもまた複雑そうな表情をしていた。恐らく自分と同じ思いを抱いたのかも知れない。
彼女は貴族家の当主である父と平民の女との間に生まれた娘。貴族社会にとっては不義の子も同然。排斥され、ラズリカの聖堂に身を寄せて僧となるも圧力は止まず、それが彼女の母親を『聖石の巫女』として旅立たせることを決意させた直接的な原因となったのだ。
そう。彼女こそが貴族社会における婚姻、その歪みを象徴している人物であるとも言える。当然、クオレの抱く思いはアイリのそれよりも複雑で、暗いことだろう。
女騎士は心の中で彼女に詫びながら、この場を後にしようと踵を返す。
もちろん、クオレもそれに続く。
だが、アイザックだけは、二人の行動に一切反応を示さなかった。
その場に留まり、微動だにせぬ。
「行こう。アイザック」
アイリが再度声をかける。
しかし、彼は視線を円卓へと固定させたまま微動だにせぬ。
クオレも異変に気付く。
「アイザックさん?」
「アイザック、まだ寝足りないの?」
アイリが軽い口調で冗談を言い、相棒の肩を叩く。
「それとも昨夜、一緒に飲んだお酒が残っているのかしら?」
だが、アイリの軽い冗談は全く当ての外れた心配であった。
アイザックの真剣な眼差しが、それを否定していた。
その鋭くも、強い光の宿る瞳に疲労や酔いの片鱗すら認めることはできない。
アイリは、その目つきに見覚えがあった。
まだ二人がラズリカ南の山村で過ごしていた頃、アイザックの家に遊びに行った時、アイザックの祖父──ラファイエット画伯が描いた絵を見せてくれたときのことだ。
その時、画伯はこう言っていたと記憶している。
「良画というものは、見る者を絵の中の世界へと引き込む力のある絵のこと。見る者に絵の中にある世界を想像させる絵のことなのだ」と。
そう。人物画ひとつにおいても、腕の良い画家ならば、笑顔一つでたくさんの情報を盛り込むことができるのだと。
自然な笑顔なのか?
或いは繕った笑顔なのか?
はたまた緊張のあまり強張った笑顔なのか?
それらを克明に表現できる腕があるからこそ、その先にある世界──絵に登場する人物の感情や、そこから窺える性格までをも想像させることができるのだと。
昔日の画伯は説く。
「人物や風景を描くとき、画家はその人の表情に浮かぶ僅かな感情の機微や、自然が彩る微かな変化に敏感でなければならぬ。それを鋭く察する感性がなければ、とても絵の上に表現することなどできはしないからな」
そう。今のアイザックの目は、その言葉を聞き、改めて祖父の絵へと視線を送った──その時の目だった。
絵の中に描かれた人物や風景から、様々なものを読み取らんとする、まさに感性を極限まで研ぎ澄まさんとする目。
そして今、あの時と同じ目をしている彼が見つめているのは、あの円卓。女性三人を囲むことを想定されたと思しき、リュート家の関係者だけが座ることが許されている食堂の優先席。
──アイザックは、あの円卓に何を読み取っているのだろう?
アイリは彼の思考、空想の妨げとならぬよう、彼の背を見つめたまま、その場に佇んでいた。
クオレもその様子から、ただならぬ気配を察して押し黙る。
常連客の男も、そんなアイザックに怪訝めいた視線を送る。
だが、彼の仲間である二人は信じていた。
今、彼はその感性を発揮して、この円卓に秘められた何かを考察していることだろう。
だからアイリは相棒を邪魔せぬよう静かに見守り、クオレは祈りを捧げ、彼がその研ぎ澄ませた感性の中、何かしらの答えを導き出すことができるようにと神に願った。
<4>
アイザックは、アイリと話していた常連客の男との話を聞き、和やかな食事の場にはそぐわぬほどに真剣な目で、この無人の円卓を観察していた。
──権益が絡む貴族家、その嫡子に対する花嫁の立場を巡る争いなのだ。純然たる愛情だけでは決まらぬことなど想像に難くはない。
候補に挙がった娘たちは、生家のため、親や兄弟の利権のため、この静かなる女の戦いに身を投じ、正妻の立場を得るために奔走していることだろう。
当然、彼女らの背には生家の家族だけではない。その家臣や支援者の願いや思いが圧し掛かっている。
そして何よりも、女の戦いの本質とは自身が持つ肉体的な魅力、その競争に他ならぬ。これに敗北すると言うことは即ち彼女らの、言わば女としての沽券に関わる問題でもあるのだ。
娘自身、親兄弟が、家臣が、支援者が、一丸となって我が家を領主家嫡子の親類とさせるべく、それこそ死に物狂いで事に臨む。
色目を使って媚び諂う女どもの、その笑顔の仮面の下には、ぎらぎらと欲望に目を血走らせた──まるで鼠の如き醜い本性が潜んでいることだろう。
その様は、まさに狂気の沙汰。権謀術数渦巻く執政の世界に相応しい、まさに伏魔殿とも称すべき様相。
それこそが、この手の花嫁選びの真の姿であり、眼前の円卓がその姿の象徴であるのだと、アイザックは想像する。
だからこそ、彼は円卓を眺め続けていた。
胸中に去来する、拭い去れぬ違和感を抱きながら。
その違和感の源泉はまさにその円卓にあった。埃除けの布を被せられ、綺麗に保護された特別な円卓に。
彼は眺め続ける。違和感に導かれるままに。
卓上を、椅子を、肘掛けを、脚を、背もたれを。
そして周囲の床までをも──
この円卓は言い換えれば戦場である。
各々が家や家臣の期待を背に、おのれの魅力を誇示し、権力者の心を射止める、そんな女の戦場。
必ずや刻まれているはずだった。いかなる戦場に必ず残されているはずの痕跡が。
例えば、権力者に少しでも近づかんとするため、女が椅子を引きずった際にできるであろう床の微かな疵。
或いは、その権力者が他の女に夢中になる様を見て、苛立った女が椅子の肘掛けを指の先で叩いた際にできるはずの無数の爪の跡や、悔しさのあまり強く床を踏みつけることによってできるような、くっきりとした床のへこみや足跡の類。
恋の駆け引きの中で必ず起こる、様々な心の動きや動揺──これらを窺い知ることができる、そんな『争いの痕跡』が。
しかし、そこには一つもなかった。
戦いの苛烈さを示す痕跡が、何一つも。
そう。綺麗すぎたのだ。円卓も、椅子も、床も。何もかも。
まるで一度たりとも使用されていないかのような、全くの新品と言っても過言ではないほどの状態であったのだ。
だからこそ、アイザックは違和感を抱くに至る。
もし、この円卓の光景を完璧に描写した写実画が存在していたとしたら、果たして自分は、この絵から『貴族家正妻の立場を巡る女の争い』という物語を導き出すことができるだろうか?
当然、答えは否である。
そう。アイザックはこの光景からは一切、感じ取ることができなかったのだ。恋や欲望という人の心が最も動き、揺さぶられるはずの場所であるにも関わらずに。
──人間の心の機微というものが。
これは、まさに画家としての本能であった。
画家の家に生まれ、幼少期より感性を磨く環境に育ち、かつ本人も十分な素養を持っているからこそ至ることのできる領域の思考。
一つの光景より本質を見抜く観察眼、審美眼の為せる業であった。
そんな並外れた感性が、騎士に語り掛ける。
この光景が持つ、不自然さを。
アイザックはようやく円卓から目を離し、視線を落とした。
おのれの足元、そこは絶えず人が行き交う通路、その木製の床。
そこには数多の疵や足跡があり、そして多くの染みが滲んでいる。
これこそがまさに人間による使用の痕跡であり、人の自然体そのものの象徴であると言えよう。
しかし、アイザックはその床に──正確には、この汚れだらけの床と、すぐそばの円卓の下にある綺麗すぎる床との差異に、例えようのない薄気味悪さを感じずにはいられなかった。
この時、彼は知らぬ。だが、やがて知る、
今、アイザックが思い抱く不気味さこそが、この街を覆う暗雲の存在を暗示していたということを。
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C91発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'02」のうち、 第一章を全文公開いたします。