プロローグ
《きらきら あります》
琥珀糖専門店ジオードの扉にそう書かれた小さな黒板がかかると、営業中を意味する。
その看板をかけに店の外へと出てきたのは、菓子職人兼店主の今市琥太郎だ。
夜半から続いていた糸のような細い雨が上がり、その名残が隣家の朝顔の葉に雫玉を拵えていた。入梅前は琥太郎の腰ほどの丈だった蔓が今ではすっかり伸びて、屋根の樋へと達している。その蔓をたどっていくと、そこには曹達壜のように煌く空があった。久々の晴天だ。さらに天を仰ぐと、琥太郎の頬を白南風がなでた。
「直に梅雨が明けますね、」
目蓋を閉じても、夏間近の陽射しを感じることができた。そうしている琥太郎の後ろを、誰かが歩いていく。
「ねぇ、あの人の髪色、変わってる。何で染めてるのかな。」
「……失礼だよ。」
「どこのメーカーのヘアカラーか聞いてみようか。」
「やめなよ。」
幼い頃はからかいや叱責を受け嫌いだったこの髪も、今では、少なくとも道行く少年からの好奇は聞き流せる程度に気に入っていた。近づいて見れば何の変哲もない黒髪だが、遠目に見ると琥太郎の髪は角度によって深い金色に光る。
琥太郎は少年たちが去った後の三条通りから店を眺める。
外からも十分に店内を眺められるように大きくとった窓硝子には一点の曇りもない。大工に頼んで扉に嵌めてもらった削り出しの石英硝子はやや上を向いて青空を映し、白雲母を砕いて混ぜ塗った壁は陽光を白く反射する。それを確認すると、琥太郎は店内へと戻っていく。
琥太郎は毎朝店に着くと、真っ先に看板を出し、その後で開店準備を始める。
ジオードが扱う琥珀糖とは、寒天と砂糖を煮詰めて冷まし固め、表面が結晶化するまで約一週間じっくりと乾かした半生菓子だ。琥太郎は年間を通して四十ほどのレシピを持っていたが、ジオードの店頭に並べる琥珀糖の種類は、ショウケースの寸法に合わせて常時六種類と決めていた。
どんな六種類かは、琥太郎の気まぐれだ。とはいえ、季節の旬は守る程度の節操はある。例えば、昨年の秋は栗味、一昨年は南瓜味、今年は葡萄味の予定だ。
琥太郎はいったん店奥の厨房へとさがると、トレイを持って再び店頭に現れた。できあがった琥珀糖を種類ごとに並べ、それをショウケースへ移す。重さとしては、同時に二つの銀盆を持つことができる。しかし、琥太郎は以前に横着をした際に傾けすぎた銀盆の中で、琥珀糖どうしをぶつけたことがあった。表面がひび割れた琥珀糖は店頭に並べられず、作り直せば一週間はかかる。それ以来、一往復に扱うのは銀盆一つとし、厨房と店頭を六往復するようになったのだ。
その六往復を終えると、後はただひたすらに客の来店を待つだけ、だった。
一風変わった琥珀糖を作っているジオードには、二風も三風も変わった客が訪れる。店内に客がごったがえす、ということはさすがになかったが、琥太郎が高椅子に腰をかけていられるほどに暇であることもなかった。しかし、どんなことにも例外はある。この日、ジオードにはまだ客が現れない。
「暇ですね。」
琥太郎はそう呟くとレジカウンター下にある棚に手を伸ばす。そこにはセロハンや包装紙やリボン、紙袋と共に、一冊の帳面が置いてあった。
* *
もう二十年以上前のことだ。
校外学習で自然史博物館を訪れたことがあった。
幼い頃の琥太郎は、髪色だけでなく自分の名字も嫌いだった。
教員からは頭髪の染色を常に疑われ、同級生からはしばしば「髪の毛の色、イマイチだなぁ」と二重にからかわれた。初めの頃は反論し、必要に応じて喧嘩もしたが、いくらもしないうちに諦めた。こちらがいちいち反応するから、からかわれるのだ、と悟ったのだ。何を言われても、黙りをきめこむと、次第にいじられなくはなったが、学年が上がるにつれて独りで過ごすことが増えていった。
今回の博物館学習でも、数名ごとの班に分かれ見学する予定であったが、鉱石展示室に着く頃には、琥太郎は独りぼっちになっていた。黒や濃灰色の岩石に混じって、ぽつんと展示された極彩色の鉱石に、居心地の悪さを感じ、琥太郎が展示室を去ろうと一歩踏み出したところで、声をかけられた。
「君の髪、緑柱石みたいだね。」
琥太郎が声の主を振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。学帽が琥太郎のものとは異なる。琥太郎は瞬時にかまえるが、その少年から発せられた唐突な台詞に相手を傷つける気がない、ことが琥太郎は判った。善意と悪意は一瞬で嗅ぎ分けられる。直截な物言いだが、純粋に髪色を誉められているのだ、と感じられた。
初めての経験だったため、戸惑った琥太郎にできたことは、聞き慣れぬ言葉の鸚鵡返しだけだった。
「……緑柱石、」
「あ、無神経なことを言ったようなら謝るよ。」
琥太郎がしばらく黙り込んでいたことを、気を悪くしたと勘違いしたらしい。申し訳なさそうにひっそりと笑う彼は、他人の心に近づくとき、土足で踏み入らないよう細心の注意を払う人物らしい。琥太郎はゆっくりと頭を振る。
「違うよ。」
「そっか、だったら良かった。君、一人なの。」
彼が続けた問いも直球だった。しかし、やはり嫌な気はしない。裏表がないと感じられるからだろう。琥太郎はかまえるのをやめた。
「一人だよ。」
「僕もだ。」
「さっき言ってた緑柱石って何、」
「鉱石の名前だよ。」
「鉱石、」
「うん。右の展示台に並んでいる、」
少年の言葉にうながされ、琥太郎は再び展示台をのぞきこむ。こちらの展示台の中には、色とりどりの宝石が並べられていた。てんでばらばらな色合いなのに、どれもそれぞれに美しい。それらをひとつひとつ眺めていると、ほどなくして薄水青の宝石に『緑柱石』というラベルが貼ってあることがわかった。
「緑柱石という名なのに、水色なの、」
「うん。緑柱石はね、結晶に含まれる成分で色が変わるんだ。」
少年が展示台に近づき、琥太郎の横に立つ。
「水色だとアクアマリン、緑色だとエメラルドと呼ばれる。」
「エメラルドなら、知ってる。クレオパトラが愛した石だ。」
「そう。君、歴史は好き。」
琥太郎はその質問にこっくりと頷く。
理科は、チョウがどうやって飛んでいるのかは暴くが、なぜ飛んでいるかは教えてくれない。チョウはなぜ飛ぶのかと教員に問うたとき、そんなことはチョウに聞け、と笑われた頃には理科が嫌いになっていた。その点、歴史はいい。昔のことなんて、本当の本当は誰にもわからない。自由に想像して楽しむことができた。
「僕は理科の方が得意だけど、歴史も好きだよ。勾玉や宝剣が出土したって聞くと、どきどきする。」
「うん。僕も。」
「そっか、わかってもらえて嬉しいな。」
少年の言葉に琥太郎が微笑む。
「でも、僕の髪は水色も緑色でもない。」
「ああ、ごめん。話が途中だったね。アクアマリンの隣の鉱石を見て、」
「金色のやつ、」
「そう、それ。ヘリオドールだよ。ゴールデンベリルとも呼ばれるけれどね。僕はヘリオドールという名の方がずっと好きだな。」
「……きれいだ。」
「うん。『太陽』って意味だよ。」
普段であれば髪色が話題にのぼるだけでも嫌だったが、今はどうだろう、琥太郎は自分で思っていた以上に嬉しかった。
ヘリオドールの淡い金色をよく見ようともう一歩近づく。吸いこまれるような輝きに魅入られた琥太郎は、バインダーから、学校指定の報告用紙が抜け落ちたことに気づいていなかった。
「……君の名前って、」
その言葉に、我に返った琥太郎は少年の手から、用紙を引ったくった。
――またからかわれる、
これまでもずっといじられてきたのだ。慣れている。だからといって傷つかないわけではない。琥太郎は舌禍に備え身を硬くする。
その琥太郎が聞いたのは、またしても予想もしない言葉だった。
「琥珀の琥で琥太郎か。いいね。うらやましい。」
「うらやましい、」
「うん。自分の中に宝石があるなんて、素敵だよ。髪はヘリオドール、名前は琥珀か。あ、だったら髪色も琥珀色って言った方がいいのかな。」
少年を見ると、本当にうらやましそうにしている。親切にも拾ってくれた用紙を引ったくったことを怒っている様子もない。少年は琥太郎が触れられたくないところを避けて、微妙な間合いにすっと入ってくる。違和感がない。長年の親友ができるとしたらこんな感じだろうか、と思った。そして、己の非礼に気づく。
「拾ってくれたのに、ごめん。」
「いいよ、そんなこと。僕のほうこそ名前を盗み見るような真似をして、ごめん。」
「ううん。」
ごめんと言い合って、お互いに少し気恥ずかしくなる。
「あのさ、あっちには大きな水晶の標本があるんだ。一緒に見に行かないか、」
願ってもみない誘いに、琥太郎は笑顔で頷いた。
少年は鉱石に詳しく、彼の話を聞くのは楽しかった。
校外学習であるため見学の成果をまとめねばならない琥太郎は、彼の言葉を聞きながら、鉱石の簡単な写生をしていた。
「へぇ、君は絵が上手いんだな。」
「そうかな。」
「うん。僕はジオードを描くなんて、からっきしだよ。お手上げだ。」
「ジオード、」
「ほら、これ。」
少年は琥太郎が先ほど描いた紫水晶の写生画を指す。
「岩石の内側が何らかの理由で空洞になってさ、その空洞の内側に鉱石の結晶がはりついている状態のことを、晶洞またはジオード状っていうんだ。」
写生に、ジオードと書き加えようとして、琥太郎は手を止めた。
「今の話、盗用してもいいの、」
「もちろん、いいさ。どうして、」
「これは君の知識だろう。そんなに詳しいんだ、何年も勉強しているんぢゃないの。それを僕がもらってしまっていいの、」
「うん。聞いてくれたのは君だ。だから、それは全部君のものだよ。」
「そう、」
「僕の同級生に、鉱石の話に興味をもつ奴なんていないんだ。僕の好きな話ばかりなのに、君は嫌な顔ひとつしない。」
「君の話は、おもしろいよ。すごく。」
「ありがとう、琥太郎。僕はとても嬉しい。」
そのとき、館内放送が入った。
――京都市立鴨河中学校からお越しの生徒のみなさん、集合時間が近づいています。大階段前に集合してください。繰り返します、
「もうそんな時間、」
少年は展示室の壁際に設置された長椅子に歩み寄ると、置いてあった鞄をつかんだ。
「僕、もう行かなきゃ。またね。」
そう言い終えるが早いか、展示室を走り去る。
途中で学芸員に「走ってはなりません」と注意され、それに頭を下げてしばらく歩いた後、再び走り出す。そのまま集合場所へと駆けていくのだろう。
あっという間の出来事に、琥太郎は呆然としていた。
ところが、走り去ったはずの少年が、鞄に手を突っこみながら猛然とこちらへと戻ってくる。慌てて琥太郎も駆け寄る。
「どうしたの、」
「琥太郎、これを君に、」
「え、」
「君になら、好いって思ったんだ、」
そう言って一冊の帳面を差し出す。琥太郎がわけもわからず受けとると、少年は今度こそ本当に走り去った。少年が残していった帳面の一頁目には『きらきらのつくりかた』と書いてあった。
鉱石写真の切り抜きが貼ってあるところもあれば、少しいびつな手描きの写生画もある。鉱石名、組成、記号、数字がびっしりと書きこまれている生真面目な観察帳なのかと思ったが、よく見ると琥太郎にもなじみのある言葉が散りばめられている。その鉱石がそう見える、という少年の感想らしい。
「黄水晶は檸檬ドロップ、って。」
少年の描く鉱石物語に、琥太郎は微笑む。
* *
名前も聞けなかったが、いつかきっと再び会える。
琥太郎はこの帳面をもらった当時よりも、菓子職人になった今のほうが、ずっと強くそう思えていた。
琥太郎は今でも暇さえあれば帳面を手にとっている。
――そんなに気になるなら、作ってみればいい。
そう唆されて、初めて琥珀糖を拵えたのは高二の冬だった。
完成した琥珀糖を琥太郎は、奇跡だ、と思った。
「嘘だろう、鉱石にしか見えない。」
琥太郎の独り言が、美しい結晶に吸いこまれていく。
鉱石を作るのに地球は何万年もかかるのに、琥珀糖はたった一週間でできてしまう。己の手で鉱石を作り出せること、そして、少年の日の思い出が単なる夢物語ではない、と知り心がふるえたのだ。
ところが、いざ始めてみると、鉱石作りは、とても難しかった。
高二の冬に拵えたあの鉱石は幻だったのではないか、と今でも思う。砂糖と寒天を煮詰める鍋を眺め、だんだんと結晶化していく表面を見つめていると、そのたびに琥太郎の心は、やはりあのときの展示室へと誘われるのだ。
幼き日の琥太郎は、少年と共に大きな六角柱の水晶標本の前に立っている。
「琥太郎、美味しそうだと思わないか。」
「この鉱石が、」
「うん。」
「どう、かな。」
「僕はね。食べてしまいたいほどに鉱石が好きなんだ。」
「……。そう、」
「あ、いま君、僕を変わり者だと思ったね、」
琥太郎は躊躇しつつも頷く。少年は酷いなぁと笑い、ふっと真顔になった。
「食べてしまいたいほど鉱石を愛している人が、どのくらいいると思う、」
「そんなの、」
「僕だけって言いたいのか、」
「……うん。」
「言ったね。試しに、鉱石と見紛う菓子を作ってみるといい。そうすればきっと、僕だけぢゃないって琥太郎にもわかるさ。」
「どうやって。」
「どうやって、って。それは君が考えるといい。」
そう言ってあの展示台の前でひとしきり笑ったのだ。
* *
「……君だけではありませんでしたね。」
琥太郎は帳面の表紙をなでる。
琥珀糖専門店ジオードには、鉱石を食べてしまいたいほどに愛している人が、一人また一人とやってくる。
作り方はいたって単純だが、風味付けに加える材料によって琥珀糖は表情を変える。一緒にしていい材料を探すのはおもしろいが、禁忌も多い。
――そんなところまで、鉱石に似ているものですね、
琥太郎は帳面を片手に、厨房へと消えていく。
少年の日のきらきらは今も色褪せない。
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鉱石を模した琥珀糖と、それを巡る物語。
誰も死なない、誰もいなくならない、事件は起こらない、想いは届く。