カーテンの隙間から差し込む街灯の光だけが部屋の中の薄闇を照らしている。
チクタクと律儀にペースを守って進む時計の針の音に混じって、微かに聞こえる静かな吐息に望は耳を傾けていた。
すぅ……すぅ……。
自分の腕の中で眠る少女・風浦可符香の、本当に安らかな寝息。
額がくっつくほど間近にいるのに、耳を澄ましていなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さくて、
だけど、心の底から安心し切っているのだという事が聞いているだけでわかるような、そんな穏やかな呼吸。
望はそんな可符香の頭を、時折慈しむように撫でてやる。
すると、可符香はそれに反応したかのように、わずかに身を捩って望の方へと体を寄せてくる。
まるで幼い子供に戻ったような、子供そのもののような可符香の姿をじっと見つめながら、望は思い出していた。
だしぬけに部屋の襖が開いて、寝間着姿の可符香が現れたのは日付が変わる少し前、
そろそろ望が部屋の電気を消そうとしていたまさにその時だった。
「あの……先生……」
いつもと変わらない笑顔を見せる彼女は、だけども、いつもよりどこか心細げに見えた。
「風浦さん、どうかしましたか?」
「ええ、ちょっと……」
曖昧に濁した言葉を笑顔の仮面で誤魔化しながら、可符香は部屋の中、望の布団の脇にちょこんと腰を下ろす。
ただ微笑むだけの彼女に、どう対応していいものかわからず望が可符香の顔を見つめると、彼女もほんの少しだけ困ったような表情を見せた。
どうやら、何を言えばいいのかわかっていないのは、可符香も同じのようだった。
そのまま、しばらくお互いに無言の二人だったが、やがて望が仕方がないという風に笑ってから、こう言った。
「今夜は、この部屋で寝ますか?」
可符香は少し驚いた顔をして、それから満面の笑顔を浮かべる。
「いいんですか?」
「ええ、もちろん」
「それじゃあ……お言葉に甘えて……えいっ!!!」
嬉しそうに声を上げて、可符香は望の布団の中に転がり込んできた。
望はそれを見て、少し慌てた様子で
「あ…いや……こっちの部屋にももう一組布団はありますから……!?」
「ここまで来てそういう事言っちゃうから、チキンなんて言われるんですよ」
可符香を止めようとして、結局は彼女に押し切られてしまう。
「それとも、私と一緒なのは嫌なんですか?」
「…………そ、それは…………………嫌じゃ…ないです……」
「ほら、やっぱり」
くすくすと笑う可符香の前で、望は赤面する。
「こっちの枕でも大丈夫ですか?」
「今更、自分のを取りに戻るわけにもいきませんから」
布団や毛布と違ってこればっかりは一枚を共有できない枕を、望は可符香に手渡した。
可符香はその枕を一度きゅっと抱きしめてから、望の枕の隣に置いた。
二つの枕はほとんどくっつきそうなぐらい近くに置かれていたが、望はもう何も言わなかった。
「それじゃあ、電気を消しますよ」
「はい」
天井にぶら下がる蛍光灯の灯りを落として、二人は布団の中に滑り込んだ。
狭い布団の中で、お互いの肩が、足が、手の平が、僅かに身じろぎするだけで触れ合ってしまう。
可符香はほとんど望に寄り添うようにして寝ているので、望は無性に気恥ずかしい気持ちになった。
だけど、その内に望は気付く。
微妙に手足が触れ合う距離にいながら、可符香は決して望とぴったりとくっついてこようとはしなかった。
一緒の布団の中に居る筈なのに、ギリギリのところで望に対して薄い壁のようなものを作っているようだ。
それは、突然に部屋を訪ねてきて、同じ布団で寝ようと提案した彼女の大胆さを考えると、微妙な違和感を感じさせた。
よしんば、望とくっついて寝るような事を可符香が望んでいないのだとしても、
それならそれで、望にもう少し向こうへ行ってくれと頼めば済む話で、それを遠慮するのもまた彼女らしくなかった。
そして、さきほどからずっと消えない、彼女のどこか不安げな雰囲気………。
それらを考えたとき、望は自分でも思ってもいなかった行動に出ていた。
「風浦さん、ちょっと失礼します……」
「…せ、先生?…ふえっ!?」
望は、可符香の方へと腕を伸ばし、その華奢な体をぎゅっと抱き寄せた。
戸惑い気味に声を上げた可符香だったが、やがて望の腕に身を任せ、彼の胸下に頬を寄せその体に縋り付いてきた。
「先生……ちゃんとチキンじゃない対応、できるじゃないですか……」
「う、う、うるさいですよ!あなたこそ、妙に中途半端な態度を取ったりするから……」
望の胸元で、可符香はクスクスと笑う。
それは、先ほどまでのどこか不安を感じさせるものではなくて、心の底から安心したようなその声に望もホッと胸を撫で下ろす。
そして、望は思う。
きっと彼女の、可符香の心の中では、さまざまな葛藤や感情が絡まりあって、自分でもどうしようもなくなってしまう事があるのだろう。
そんな自分自身に対して恐ろしく不器用なこの少女が、望には愛おしくてたまらなかった。
いつもの教室で過ごす、あまり普通とは言えない日常の中、いつでも傍にいた彼女が大好きだった。
抱き寄せられた胸の中、ようやく全ての不安から解放されたように彼女が笑うのが、とてもとても嬉しかった。
「先生……ありがとうございます……」
囁くように、可符香がそう言った。
望はその声に言葉では応えようとはせず、代わりに彼女の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。
可符香は望の背中に手を回し、強く強く抱きしめて、望の胸に顔を埋めた。
しばらくすると、やがて可符香は静かに寝息を立て始め、その意識は夢の世界へと誘われていった。
それから、望は薄闇の中にうっすらと見える彼女の寝顔を見守っていた。
可符香がやって来るまでは確かに感じていた眠気はどこかに去ってしまったが、望はそれを別段困った事とは考えていなかった。
安らぎに満ちた可符香の寝息に、それを聞いている望自身も心地良い安心感を感じていた。
このまま朝が来るまで、彼女の寝顔を見つめているのもいいかもしれない、半ば本気でそんな事を考えていた。
ときには可憐に微笑み、ときには独自のポジティブ理論で周囲に騒ぎを巻き起こす。
悪戯と言うには生ぬるい、彼女のいくつもの策謀に振り回された事は数知れず、だけどそれは望にとって他の何にも代えられない日々でもあった。
彼女がいたから、今の自分がここにいる。
そういえば、先日、カウンセリング担当の智恵先生もこう言っていた。
『最近はカウンセリング・ルームに来なくなりましたね』
今の学校に着任したばかりの頃の望は精神的に不安定で、
首を括ったり、走る電車の前に飛び込もうとしたり、智恵先生にもかなり迷惑をかけてしまっていた。
無論、望の自殺未遂は言うなればゴッコ遊び、望自信の構ってもらいたがり、かわいそがり、そういった性質の発露だった。
だけど、その馬鹿みたいに滑稽な振る舞いの影で、望の心はもがき苦しんでいた。
教師として、決して優秀な人間だったわけではない。
以前の学校でも、生徒達や同僚の教師の望に対する評価は、イマイチ冴えない、むしろ少し厄介な人間といった所だろう。
教師になってからの数年、どこのクラスの担任も任される事なく、それどころか学校での重要な仕事からは遠ざけられている実感があった。
それが突然、新たにクラス担任として別の学校へと転任する事が決まったのだ。
それまでの数年で自信を磨り減らしていた望の心は、一気に不安定になった。
周囲の同情を買いたいが為の自殺ゴッコ。
言葉にしてみれば、馬鹿馬鹿しい話ではある。
当時の望自信も、自らの振る舞いのみっともなさを自覚していた。
最後の最後には、『死んだらどーするっ!!!』と叫んでしまう己の滑稽さに一人苦笑いをしていた。
だけど、あの時の望はそうでもしなければ自分を保てなかったのだ。
『自分は生きている価値の無い人間である』
あの時、幾度と無く口にした言葉、あれは多分、心の底からの望の叫びだったのだ。
ただ、望にとって幸運だったのは、厄介者ばかりのクラスである筈の2のへの生徒達が彼をしっかりと受け止めてくれた事だった。
望の奇矯な振る舞いや発言に呆れつつも、彼ら彼女らは決して望と向き合う事をやめなかった。
だから、望も少しずつ、そんな生徒達に応える事が出来るようになっていった。
そして、そんな日々の中で、クラスに転任してきた一番最初のときから、ずっと望の傍らにいたのが彼女だったのだ。
まだロクに知りもしない望の事を信じて、いつでもその傍らにいてくれた人物。
風浦可符香がいたから、糸色望は教師でいられたのだ。
やがて、望も可符香も過ぎていく日々の中で少しずつ変わっていった。
望は2のへの生徒達に振り回される事の方が多くなって、それに対応できるだけのタフさを手に入れた。
可符香はただのポジティブだけではない、陰謀・悪戯を自在に張り巡らすようになって、望をさらに悩ませたけれど、
そうやって、騙され振り回され、文句を言ったり怒ったりしている内に、もっと近くに彼女の存在を感じる事が出来るようになった。
そして今、望は心の底から思う。
「愛しています、風浦さん……」
この好意と感謝と敬意と愛情と、湧き上がる全ての感情を言葉に乗せる事は出来ないけれど、
それでも、僅かばかりでもこの思いが伝わってほしい。
そう考えて、望は可符香の体をきゅっと抱きしめた。
やがて、遅れてやって来た眠気の靄が望の意識を包み込んで、望はその中へと沈み込んでいった。
それからどれほどの時間が経過したのか。
望はカーテン越しに差し込んでくる朝日に、薄っすらと瞼を開けた。
そして、見た。
「……………あ…」
見慣れた少女の背中が、まだ柔らかな光を放つ夏の朝日の中でシルエットになっている。
望はゆっくりと体を起こしたが、その気配にも彼女は反応しない。
まだ薄暗い部屋の中、眼鏡をかけた望は改めて可符香の姿を見た。
朝日の差し込む窓に向かって、ひざまづき、両の手の平を組んで、静かに瞼を閉じた少女。
可符香は祈っていた。
そういえば、と望は思い出す。
彼女は独自の神を信じているという話があったような気がする。
以前、『お祈りの時間だから』という理由でその場を立ち去った事もあった筈だ。
(それが、コレなんでしょうか………?)
普段の振る舞いから想像すると、もっと怪しげでいかにも新興宗教の神様といったモノをイメージさせられるのだけれど、
今の彼女の姿は、そんなものからは遠く離れた場所にいるように思えた。
神様、この世界を作り上げ、そして見守り続けているという誰かに向けて、縋るでもなく頼るでもなく、ただ思いを伝える。
今の彼女の姿は、望にそんな事を想像させた。
朝日に照らされたその姿は、言葉を無くすほどに美しかった。
やがて、望はゆっくりと彼女の背後へと近付いていった。
望もまた、彼女と共に祈ってみたくなったのだ。
彼女の純粋な思いが、感情が、いるかいないかもわからないその誰かにきっと届いてくれるようにと……。
「あ……先生?」
望の手の平が可符香の背後から、彼女が組んだ両手の上に覆い被さった。
少し驚きながらも、可符香は背中に感じる望の体温の暖かさにふっと表情を柔らかくして肯いた。
お互いの存在を感じながら、二人はしばしの間祈り続けた。
望は思う。
もしも、誰かがいるのなら。
絶望と希望を無作為に混ぜ合わせて出来たかのような、この理不尽で残酷な世界を創造し、見守る者がいるというのなら。
ただ、感謝を伝えたい。
これまでこの身に受けたあらゆる苦しみと、あらゆる喜びを生み出してくれた事に。
今の望には、それに確かな意味を見出す事ができるのだから。
腕の中、ただ純粋な祈りを捧げ続けるこの少女と、共に見て聞いて感じる事の出来た全てのものに感謝の気持ちを……。
「先生……」
やがて、可符香は組んでいた手の平を離して、そっと望に体を預ける。
望はその小さく華奢な体を、ただ優しく抱きしめた。
窓の外、朝日に照らされて周囲の景色が色を取り戻していく中、二人はそのままずっと抱き合い続けたのだった。
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さよなら絶望先生の先生と可符香のある夜のお話、その1です。