いや、私はもうすでに一つ主との約束を反故にしてしまっている。これ以上、主との約束を破ることはできない。
今回の事態はこれ以上ないほどの機会だ。これほど早く主をお救いする好機が巡ってくるとは思ってもいなかった。
確かに危険はある。いざとなればこの身を挺して曹操の元から連れ出すことに否はない。単身本城に潜入する覚悟もある。
すでに軍は動きだしてしまった。もう私個人では止めることができない所まで来てしまっている。
なれば、なればこそ。
私は全ての業を我が双肩に、主に対する忠義を槍撃に、全身全霊を賭けるのみ。
磨き上げられた得物の槍を見つめる。傷一つ見えない刀身は部屋に灯された蝋燭で鋭利な輝きを放っている。
準備を覚悟もできた。
「おい、星」
不意に愛紗が声をかけてきた。
「ん、どうした?」
視線を愛紗に移す。
「ちょっと気になることがあってな。その得物のことなのだが」
「私の得物がどうしたと?」
「いや、言葉にはし難いのだが、違和感があるというか」
「ほう、やはりわかるのか?」
私と愛紗、二人の視線が星の持つ槍に注がれる。
「何となく、だがな」
星の槍は華美とまでは言わないが職人が丹精込めて作り上げたであろう装飾が施されている。本人に合わせて作られたそれは流麗な形状で無駄がなく、それでいて殺傷能力を最大限に発揮できるようになっている。
一般兵の槍のように突くの一点張りではなく、星の物は突き、薙ぎ、斬り裂くあらゆる状況に特化しており馬上でも扱えるようになっている。
言うなればそれは単に武器としてではなく、一つの完成した芸術品でもあった。
愛紗はそれに対して違和感があるという。それが完全ではないと感じたのだった。
なるほど、と思う。
「・・・・・・」
「そのままにしておいて良いのか?」
「・・・構わんさ。己で望んだのだからな」
「ならばよいが」
会話は途切れ、互いの得物を手入れする音だけが部屋に響いている。
私は愛紗が自らの得物を手入れしているのを尻目に目を閉じ、思考の世界へと潜り込んだ。
あの時、私と愛紗が曹操のいる玉座の間に到着したのは早朝と言うには少しばかり日が昇ってしまっているという時刻だった。
それでも伝令の兵が来てすぐにこちらに向かったのだからそれほど時間は経っていないだろう。
玉座の間の扉の前を警護する兵に曹操の呼び出しに応じ参上したことを告げるとすぐに扉は開けられた。
そこで目に飛び込んできた光景はすでにわかっていたこととは言え受け入れがたい物であるものには違いなかった。
数十もの瞳が私と愛紗を貫く。曹魏の誇る武とそれを支える頭脳がそこにあった。
普段の私であれば心を乱されはしなかっただろう。
そこに天の御遣い・北郷一刀の姿がなければ。
乱される、と言うのは少し語意が違うかもしれない。しっくりくる言葉が見つからないのだが、そこにあったのは確かな違和感。心情的に表すとするならば・・・。
嫌だった。
一言で片付いてしまう。どれだけ豊富な言葉を並べようとこれほど今の私の思っていることを表現できることは出来るとは思わない。
『嫌』
なんと稚拙な表現だろうか。でもこの言葉が一番私の心情に近い物を表していると感じた。
このまま主を奪って逃げることが出来ればどれ程良いだろうかと思ったが玉座の間に入る時に愛紗も私も得物を警護の兵に預けなければいけなかったのでどうしようもない。
静寂が支配する空間を切り裂くように曹操が口を開いた。
「帰還の準備をしている所呼び出して悪かったわね」
明らかに曹操の様子がおかしい。昨日までの陽気とさえ思える晴れ晴れとした様子はない。
つまり、主の策が成功した証だった。
それに一端の他国の将に「悪かった」と謝罪を述べるような人物でもなかったはずだ。
「貴女たちを呼び出したのは他でもない、北郷一刀から貴女たちに伝えることがあると請願されたからよ」
曹操が言葉を切ると同時に主は一歩踏み出し、私たちの前に立った。
「請願・・・?」
「・・・・・・」
呟いたのは愛紗だった。請願とは本来、目上の者に何かを頼む際に使われる言葉だ。確かに官位的に言えば曹操と主は目上と目下の関係であることに違いはない。
しかし、これまで主と曹操の間でこのような上下の関係を顕著に表わす言葉が交わされたことはなかったはずだ。
愛紗が疑問に思うのも無理はない。
この中でただ一人、すでに主は我々のモノではなくなったと知らなかったのだから。
「北郷一刀、貴方の口から伝えてあげなさい」
主は曹操に振り返ることもなく、ただじっとこちらを見つめ続けていた。
誰も言葉を発しようとはしない。
そして主は頑なに閉じていた口を開いた。
「俺は君たちと一緒には帰らない」
「ご、ご冗談はよしてください。なにを言っているのですか、桃香さまも皆もご主人様のお帰りを心待ちにしているのですよ!」
「これまで劉備達と一緒にいたのは成り行きだ。俺はここで自分が伝えるべき主君を見つけた。それだけの話だ。関羽、趙雲、徐州にはお前たち二人で帰れ」
「そ、そんな・・・」
主は突き放すように愛紗に告げる。今、主はどれほど苦しんでおられるのだろうか?想像もつかないような辛苦に苛まれておられることだろう。
私はあの晩、誓った。主に全てを捧ぐと。
主の喜びは私の喜び、主の苦しみは私の苦しみ、そして主の願いは私の願い。
主が屍山血河を往こうとなさるのであれば私が前に立ち、行く手を阻むモノ全てを排しましょう。
私の全てを懸けて。
「もうよい!愛紗よ、我々は間違っていたのだ。このような下衆を主と呼ぶなどこの趙子龍、我が人生最大の間違いだったのだ!」
「せ、星!?何を言っているんだ・・・」
「まだわからぬか?この男は我らを見限ると言っているのだ!」
「何かの間違いだ!!あり得る筈がないだろう!?そうだと仰ってくださいご主人様!」
愛紗は主の方を向き、縋るように問う。
「・・・・・・」
主は何も答えない。ただじっと私たちを見据えるだけだ。
「・・・ご主人様?」
「わかっただろう。もうこの男は我らの仲間ではないのだ。目の前にいるのは曹操殿の家臣・北郷一刀だ」
「違う!!!!!!」
愛紗は少女のように喚いた。あまりの痛々しさに目を逸らしたくなる衝動に駆られる。それでもそれは許されない。
主が目を逸らしてしないのだから。
「曹操殿、一つよろしいか?」
「何かしら?」
「我らもただ一方的に見限られたとあっては腹の虫が収まりませぬ」
「殺しちゃ駄目よ」
曹操はさも楽しげに微笑んだ。あらゆるものを魅了してしまいそうな艶然とした表情だったが私には嫌悪感を覚えただけだった。
「承知しております」
主の方に向き直ると主は一瞬だけ驚いたような表情になり、そして少しだけ諦観をにじませた笑みを微かに浮かべた。曹操には見えなかっただろう。
私は一足飛びに主の懐に入り、胸倉を片手で掴みあげる。
「星やめろ!!!!」
愛紗が叫ぶがやめる訳にはいかない。
主の顔が苦しげに歪む。演技とは言え二つの意味で心苦しかった。
玉座の間は異様な様相を呈していた。他国の王とその家臣の前で元家臣の一人が元主人を締め上げ、もう一人の元家臣がそれを止めようと叫ぶ。
主の足は半ば浮き上がっている。私は自らの伸びた腕を引き寄せる。足が地面に着いた主は苦しそうにせき込んでいる。
それも数瞬、私は主を地面に引き倒した。
「曹操殿、この程度では我が怒りは収まりませぬが曹操殿の家臣とあっては怪我などさせてはいけぬと思いここまでにしておきます。このような行為でしか憂さを晴らせぬのも私の未熟さゆえ、どうか寛大なお沙汰を」
「構わないわ。許したのは私だもの」
「感謝いたします。それでは我らはこの辺りで退席してもよろしいでしょうか?」
「そうね、許す。下がりなさい」
「はっ!」
私は一礼し。そして茫然自失としている愛紗の手を引き扉の方へ向う。警護の兵により静かに扉が開けられる。
扉の外へ足を踏み出し一度だけ振り返る。主はまだ地面に転がったままだ。
(主、これでよかったのでしょうか?)
重苦しい音と共に扉が閉まる。
主と私を隔てるものは一枚の扉と僅かな距離。
たった、たったこれだけの距離が、恐ろしく遠いものに感じた。
「なぁ、愛紗」
「・・・なんだ」
「お主は・・・主のことを愛しているか?」
「そ、そんなこと人前で言えるわけないだろう!!」
愛紗は青龍刀から目を離し、赤面しながら叫ぶ。
「別に馬鹿にしているわけではない」
「・・・当然だ」
「そうか、ならばよいのだ」
会話は終わる。なんとも言えない沈黙のなか私と愛紗は己の武器の手入れを続けた。
魏の本拠地、許昌から少し離れた場所にある出城に移り1日が経った。明日には桃香達がここに攻め込んでくる。
俺に割り当てられた仕事はほとんどないと言っていい。
今、俺は見張りの仕事をしている兵士の監督をしている。監督と言っても直接俺に報告が来るわけでもないし、指示も出すことができない。
正直に言って暇を持て余している。
何の気なしに城壁の上に登り、寝っ転がる。
太陽は中天に昇っており、日差しが眩しくて目を開けていられない。腕でそれを遮るように眼の上に翳す。
額に普段なら気にならない感触があった。袖の下に固いしこりみたいな物がある。
僅かな逡巡の後、その正体に気づく。
この前、李典に作ってもらった装飾品だ。
腕を捲り、それを表に出して外気に晒す。それでどうという意味があるわけじゃないが、偶には外に出してやりたいと思った。
透明なガラス玉の中心を真紅の紐が通っている。他人から見れば特別な価値がある物には見えないかもしれないが俺にとっては一番大事な物だ。
これの素材になっている物は全て大切な人が俺に渡してくれた。
桃香達のガラス玉。
そしてこの真紅の紐は、あの時――――。
互いの胸が接触するくらい近づいた時に彼女は呟いた。
「お助けに参上するその時まで・・・預けておきます」
そう言った途端、俺は地面に接吻していた。
そっと俺の右手の手首を囲っている腕輪を撫でる。
「これから俺はどうしたらいいんだろうなぁ?」
誰にも聞こえないように小さく囁いた。
なにもすることがないまま、一日は過ぎて行った。
翌朝、朝早く起きはしたもののすることがない。桃香達の所にいた時も俺と桃香は戦の最中は何もしてなかったのだが、兵の士気向上など一つか二つはすることがあった。
ここでは何の権限も俺にはない。すでに兵の半分ほどは城外に出て陣を敷き始めている。
もう直ぐ戦が始まる。
魏軍が全て布陣し終わると、それと時を同じくして肉眼で桃香達の軍勢が地平線の向こうから現れた。
一旦、進行を止めたかに思われたが短い時間で再び城の方に近づき始める。多分、行軍用の陣形から野戦用の陣に敷き替えたのだろう。
対する魏軍は奇襲などの動きは見せず、その場に留まっているだけだ。普通、寡兵である場合は何らかの策を弄しないかぎり数的不利は逆転できない。
曹操の傍には荀彧、程昱といった魏の誇る大軍師が二人も居るわけだから何も策がないわけではないのに動こうとしないのは曹操の意向があるからだろう。
一見、曹操は全ての出来事に関して絶対の自信と遥か高みから見下ろすような客観性を持って処理しているように見えるがそうでもないのかも知れない。
いくら英雄といえども人であることに変わりはないのだ。感情ってものは人間誰にでもある。
感情つまり心だ。曹操の心の大部分を占めるのは誇り(プライド)だろう。それは曹操に接したことのある人間は大体分かる。
曹操はその誇りという物を根底にした価値観で行動している。桃香の場合は仁愛だと俺は思っている。
俺の読んだ三国志の関する本によると曹操は劉備のことを自分と並ぶ英雄だと言っていたことがあった。
曹操ほどの人物だったら史記にある『両雄並び立たず』という言葉も知っていることだろう。
以前読んだ本に出てくる曹操とこの世界の曹操が同じ考えをしているのならおのずと答えは見えてくる。
曹操は英雄同士の戦いを望んでいてどちらかが蹴落とされるものだと。これが完全に正解だとは言わないがそれに近い思いを持っているはずだ。
ならば曹操は退かない。
否、退けないのだろう。
彼女の誇りは正々堂々と真正面からの戦いをここに限り強いる。それが自身にとって圧倒的な劣勢にも関わらず。このような状況で戦わなければいけないのは己の不徳の致すところだと確信を抱いて。
なんて高潔な人物なのだろうか。
もし
もしもではあるが、俺が初めて出会ったのが桃香たちじゃなければ、曹操だったなら、俺はこの小さな英雄に忠誠を誓っていたかもしれない。
遂に両軍が対峙する。
ここからは戦場の全てを俯瞰することができる。戦力差は歴然。兵数の規模が全く違う。
桃香、曹操互いにとってこんな状況は初めてではないだろうか?曹操のことは実際に見たことがないので何とも言えないが、桃香達にとって単独で圧倒的優勢な立場で戦をするのは初めてのはずだ。
とは言って桃香の軍内には歴戦の勇将、猛将、名だたる軍師が揃っている。そうそう不覚はとらないだろう。
いよいよ開戦の時がやってきた。将軍の総大将が歩み寄る。舌戦が始まるようだ。
残念ながらここからは聞きとることができない。
ゆっくりと堂々と馬を進める。まさかこんなに早く対峙することになるとは思わなかったわ。
初めて会ったのは黄巾の乱のときだったか。ぽっと出の田舎娘のような印象にも関わらず、その目は目の前にある荒廃を見つめるだけでなく、そのさらに先を見ているようだった。
どうしようもなく純粋なその瞳は私が持っていないものだった。私はいろいろな物を見過ぎてきた。漢王朝の中枢で行われていた賄賂、策謀、表だけの馴れ合い。汚いものをたくさん見てきた。
別に後悔とか劉備が羨ましいと思ったことはない。ただ、自分と違う価値観で大陸を求めていた。私は支配するため、劉備は民を救うため。
目的が違うのならば方法が同じはずがない。
だから争うのだ。
一人の英雄として。
こうして私の前に立つ。
「曹操さん」
「ずいぶん大胆な行動に出たわね」
劉備はあの時のような幼さの残る様な表情ではない。何かを胸に秘めた、決意の目をしている。
「わかっています」
「これはれっきとした領土侵犯よ。理由、大義もなく他国の領土に兵を進めることがどれほど自分の風評に傷をつけるかわかって?」
「知ってます。全部承知したうえで私たちはここに来ました」
「・・・それほどあの男が大事なの?」
正直驚いた。今、劉備は「私たち」と言った、つまりここにる者は総意でここに来たということになる。
情で絆された女とはこれほど浅ましいものなのだろうか?
「私にはわからないわ。あの男がそれほど価値ある人間だと思えないもの。それほどあの男との閨が気に入ったのかしら?」
「なっ!?」
劉備は顔を真っ赤にしてしまった。図星だったか。
「くだらない理由ね」
「か、勘違いしないでください!私はご主人様と閨と共にしたことなんてありません!」
「は?」
「だから私はご主人様とは一度も・・・」
「ならばどうしてこんな暴挙に出たのかしら?」
意外だった。私と同じやり方をしているのかと思ったのだけど。じゃあ一体なんだというの?
あの男の何が劉備達を惹きつけているというの?
「ご主人様が私たちのご主人様だからです」
「答えになっていないわ」
「当然です。だって曹操さんはご主人様のことを何も知らないから。ご主人様の近くに居れば分かります」
「分かりたくもないわね」
「・・・そうですか。もうご主人様は私たちの生活の一部なんです。ご主人様を中心に回っていると言ってもいいかもしれません。私たちにはご主人様が必要なんです。ご主人様がいない場所に私たちの居場所はないから。だから返していただきます」
何を言っているのか、言いたいのかがわからない。理解不能だった。
あの男のことを思い返してみるけど劉備が言う様な要素は一つも見いだせない。
「あの男はね、自ら望んで私の所に降ったのよ」
「別に曹操さんの口からそれを言っていただく必要はありません。私たちが直接聞いて確認しますから」
劉備らしくないきっぱりとした言葉だったとは思う。
でも、私は垣間見た気がした。劉備という人物の本質を。強固な意思と策師のような強かさ。
彼女の英雄の片鱗を。
「ふふっ」
思わず笑いが出た。その笑いは大きくなり戦場に木霊するような笑いになった。
私の中にある英雄としての心が共鳴している、そんな気分だった。
「いいでしょう!それでこそ私と戦う価値のある人間だわ、劉備!本気でかかってきなさい。私は強いわよ!」
それだけ告げて馬を自陣に向け歩き出す。後ろからは強い視線を感じる。劉備軍のすべての視線が私に向いているのだろう。
戻る途中に一度だけあの男が居るであろう城壁を見上げた。そこには見張りの兵士が何人もいるがすぐにあの男を見つけることができた。
陽光を受けて輝くその姿は噂に聞く天の御遣いのようだ、と思ってしまった自分に少し苛立つ。
すぐに視線を戻し、馬を進めた。
戦の開始を知らせる銅鑼の音が鳴り響く。突撃を開始した敵軍をけん制するように左右両翼から矢が放たれる。
大きく放物線を描いた凶器は敵集団めがけ降り注ぐ。バタバタと倒れていく兵士たち。それでも自らの歩を緩めることはしない。
流石は魏軍の兵士といったところか。凡庸な軍団とは違う。
初めから曹操は中央突破をするつもりだったのだろう。敵集団は一塊となって私の後ろにある本陣めがけ進軍を続けている。
「左翼、右翼の弓兵さんあと三射の後、後退してください!」
「後退が終わったら歩兵の皆さん、中央の軍が内側なるように斜陣へ移行!」
朱里と雛里が指揮を飛ばす。
出番はまだかと高揚する馬を宥めながら戦場を見渡す。魏軍はもう私の軍の射程圏内に入っている。
「中軍の皆さんはもう少し我慢していてください。両翼の皆さんは敵軍の突撃に備えて盾と槍を構えてください!」
「白蓮さんと恋さんの遊撃部隊はそれぞれ両翼の後方に待機していてください」
我が軍の全部隊が再配置を始める。奇妙だが魏軍は策を弄する様子はない。それどころかさらに進軍速度を上げている。
そして両翼の斜陣の中に突入してくる。
「中軍の皆さん迎え撃つ準備を整えてください!」
雛里の檄が飛ぶ。私は自らの率いる兵に向き直る。
「関羽隊よく聞け!!我らの後方には桃香さまが居られる、そして我らの眼の前には敵軍が居る!さらにその先には曹操に囚われた天の御遣いであらせられるご主人様が居られる。我らのするべきことはわかっているな!!これより一歩も退くことは罷りならん!!!!全軍抜刀!!!」
兵を鼓舞し、得物の青龍刀を敵軍に向け構える。
魏軍が斜陣の中ほどまで進んだ時。
「今です!」
朱里の突撃の合図を出す。
「全軍我に続けぇ!!!これより我らがご主人様に手を出した不逞の輩に鉄槌を下す!!!」
私の掛け声と同時に大音声が周囲を包み込む。地を震わす程の勢いのままに敵軍に正面からぶつかる。
先頭にいた数人の兵士を青龍刀で薙ぐ。真紅の血柱と共に数個の肉塊が地面に降り注ぐ。直ぐに近くに居る敵兵に目標を変えその悉くを物言わぬモノへと変貌させてゆく。
「両翼の皆さん突撃してきた魏軍を包囲してください!」
朱里の指示どおり展開した斜陣は巾着の袋を閉じるように魏軍を閉じ込めてゆく。
「遊撃部隊の皆さん、敵軍の遊撃部隊を抑えてください!」
魏軍の遊撃部隊が斜陣の後方を突こうと移動を開始すると同時に雛里の指示が出る。白蓮と恋の遊撃部隊の騎馬隊がそれぞれ敵遊撃部隊に突撃をかける。
これで王手だ。
「大勢は決まった!!皆の者存分に各々の武を振るえ!!勝利を掴み取るのだ!!!!」
戦が始まって暫く時間が経った。魏軍は圧倒的不利のままだった。このままいけば俺は桃香達の所に戻ることができる。
しかし、なぜか胸騒ぎがする。
ここで曹操が負ける想像ができなかった。史実でも曹操はいくつもの死線を潜りぬけてきた。絶対絶命の事態から生還してきたのだ。
そんなことを考えているとちょうどその時、城内の遠くが俄かに騒がしくなった。気になったので声のする方に向かうことにした。
「ちっ!敵が多すぎるわね」
向かってくる敵兵を切り捨てながら、舌打ちし一人ごちる。
甘すぎたとは自分でも思う。愚直に突撃するだけならば誰でもできる。せめて秋蘭が居れば弓兵で以って陣を崩すこともできただろう。もし春蘭が居ればあの忌々しい斜陣ごと突き崩すことができただろう。それに霞が居たら神速の進軍で後方を突くこともできただろう。
たらればの話なんて意味はないのはわかってる。
もう退くことはできない。進軍も後退も迂回も全てが封じられている。孔明に鳳統、厄介な軍師が居たものね。四面楚歌とはこういう状況を言うのかしら。
「見つけたぞ曹操!!」
不意に前方から怒声が聞こえる。
目を移し、見据える先には手を尽くしてでも欲しかったモノがそこにあった。
「また会えたわね、関羽」
「貴様に会いになど来たわけではない」
「つれないわね」
「戯言に付き合っている暇はない。ご主人様は何処だ!?」
「はぁ、怒った顔も可愛いわね。なんで私ではなくてあんな男なのかしら?」
「・・・もう一度だけ問う。ご主人様は何処だ?言わぬのであればここで切り捨てる」
「そうね、私に勝てたら教えてあげましょう」
「もうよい。貴様を斬り、自らの手でご主人様を救いだしてみせる」
関羽はそれだけ言って青龍刀を構える。肌が粟立つような殺気が全身を覆い尽くす。益々欲しくなってきたわ。
愛器『絶』を構え、対峙する。
刹那、私と関羽は同時に飛び出した。
剣戟が交差し火花を散らす。痺れるほどの衝撃が両腕に走る。周囲の声も私に届くことはない。目の前の武人に集中する。
それから幾度も合を重ねた。
本来文官である私と生粋の武人では流石に分が悪い。打ち負ける回数も多くなってきた。
「これで終いだ!!」
関羽の青龍刀が振り上げられる。
「待て!!!!」
突然、あの男の声が聞こえた。
声のする方に行ってみると兵士たちが疲労困憊した様子の一人の兵士を囲んで歓喜していた。とりあえず声をかけてみることにする。
「なぁ、一体どうしたんだ?」
「これは副丞相。吉報です、張遼将軍達の救援軍の先発隊がすぐそこまで来て下さっているようです!」
「・・・ホントか?劉備軍襲来からそれほど時間が経ってないはずだけど」
「我々も驚いています。流石は神速の異名をとる張遼将軍ですな」
「そっか・・・。霞か。それでここまで来るのにどれくらい時間がかかる?」
「未だ騎影こそ見えてはいませんがもう間もなくかと」
「兵数は?」
「およそ張遼将軍直属の部隊が五千ほどが先発隊をさらに先行しており、それに続くように二万五千の騎馬隊」
「ここにいる二万とあわせて五万。劉備軍も五万だから互角といったところか」
「はい、ですが我々には夏侯惇将軍達が率いる本隊十万と後発隊十万の軍勢があります」
「霞が到着して戦場が膠着すれば勝機はこちらにある、か」
「そうです。何としてでも張遼将軍の御到着までここを死守せねば」
「そうだな・・・。俺は城壁の上で戦場を見ているから何か変化があったら知らせてくれ。それと伝令してくれた兵には十分な休養を与えてやってくれ」
ふらふらと再び城壁の方を目指し歩き出す。
やっぱり嫌な予感は当たった。
どうしてだろう?
こんな時に限って勘は良く当たるとはよく言ったものだ。
本当についていない。そんな陳腐な言葉でしか表現することができない。
なんでこんなに俺は苦しまないといけないんだ。
俺はただ俺が好きな人たちの所に帰りたいと思っただけなのに。こんな簡単なことがこんなに難しい。
縁がなかった。
いや、そんなことはない。
頭の中をマイナスの考えが反響し心を掻き乱す。
どうしたらいいのだろう?
俺はいったいどうしたらいい?
何をするべきだ?
このままだと桃香達は負ける。すでに流れは曹操に傾き始めている。
流れに乗るのは簡単だ。しかし、流れそのものを変えるのはとても難しい。今の俺にそんな力はない。
ならば俺は!!
俺がやるべきことは!!
桃香達を助けることだ!!!!
戦況を見ると愛紗と曹操が闘っているのが見えた。愛紗の圧倒的に押している。このままいけば曹操を討ち取ることもできるだろう。
しかしそうなったら。激昂した魏軍が徐州に攻め入ることは明白だ。
そんなことになったら劉備達に抗う術はない。
こうなることは少し考えれば分かったはずだ。勝ち目なんて始めからなかったことになぜ気付かなかったのか。楽観視しすぎていた自分が不甲斐ない。
俺は即座に行動を開始することにした。副丞相の位を最大限に生かし、城内に残る部隊の隊長を全て集合させた。
すぐに城内の広場に全部隊長が集結する。急な召集に戸惑う者、救援軍の到来を喜んでいる者それぞれだったが確実に浮足立っていた。
「浮かれてる場合じゃない!!!!」
俺の口から大音声が広場に響き渡る。その場にいた全員の身体ビクッと硬直する。
「いいか、よく聞いてくれ!今、曹操は危機に瀕している!」
「そうは言われますが、救援軍もそこまで」
一人がおずおずと意見する。
「俺は先のことを言ってるんじゃない。今のことを言ってるんだ」
「それはいったい・・・どういうことでしょうか?」
「城壁の上で戦場を見ていたら曹操と関羽が闘ってるのが見えた。曹操は圧倒的に劣勢だった。それに包囲されているから逃げ場もない。どういうことかわかるな?」
「・・・・・・」
意見してきた者だけでないその場にいる全員が黙り込む。
「そこで俺は曹操を救援する決死隊を募りたいと思う。当然俺が陣頭指揮を取る」
「しかし相手があの関羽では」
「そうだ俺たちが太刀打ちできる相手じゃない」
「無理に決まってる」
関羽の名に尻込みしたような発言が飛び交う。
その様子に憤りを覚えながら息を思いきり吸い込む。
「黙れ!!!!ここには腑抜けしかいないのか!?お前たちは天下の魏軍の将兵じゃないのか!?お前たちが信望する曹操はその程度で見捨てられるほどの小物なのか!?」
今日何度目かの静寂が包む。
「僅かでも自らの命を擲ってでも曹操を助けたいと思う気概のある者は弓を取れ!剣を取れ!槍を取れ!これまで磨いてきた武技を見せるこれ以上ない機会だ!!それも見てくれるのは俺たちの王の曹操だ!!!!命が惜しい者はここで震えていればいい!!後世に英傑として名を残すここにおいて他にはないぞ!!もう時間がない!死ぬ準備ができた者は城門の前に集合しろ!!」
それだけ言って踵を返す。
後ろから大気を震わせるような怒号を背中に受けながら作戦の一つ目の段階が成功したことを確信した。
城門の所に一足先に着くとそこに李典の姿があった。
「李典どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたもあらへん!ウチらの軍、押されまくっとるんや。戦場見てないん?」
「いや、ちゃんと見てたよ」
「それなら手伝ってくれへん?兵が足りんくなってもうてどないしようもなくなってしもてん」
「李典は聞いてないのか?霞がすぐそばまで来てるらしいぞ」
「ホンマか!?」
「あぁ本当だよ。もう直ぐ到着するはずだ」
「知らんかったわ。ずっと前線に立ってたからなぁ。ほんで凪と沙和に道をひらいてもろたんやけどすぐに再包囲されて戻れなくなってもうたんや」
「そっか。それともう兵を集める必要はないぞ」
「はぁ!?どういうことなん??」
李典の疑問の声と時を同じくして俺の後方、李典の前方から地を踏みならすような靴の音と共に五百ほどの兵が現れた。
「な、言った通りだろ?」
「・・・どうして?」
「俺が集めといた。これから俺たちは曹操の救援に向かう。関羽と闘って劣勢みたいだったからな」
「そんなら話は早いわ!ウチも行くで!!」
「わかった。あ、それからあれ持ってきてるか?」
「あれってなに?」
「あの物凄い光が出るやつ」
「あぁ閃光玉か、持ってきてんで」
「それ貸してくれないか?」
「別に構へんけど」
李典は腰の所にある工具袋からそれを取り出して渡してくれる。
「ありがと。それじゃ行こうか」
俺たちは馬に跨り城門を出発した。
曹操包囲網に近づく途中で城に近い場所に置いてある指令所に寄った。
「程昱ちゃん」
「あれお兄さんは城で待機してるはずじゃ?」
「まぁいろいろ事情があってね。これから曹操を助けに行こうとしてるところ」
「あんた何を勝手なこといってるのよ!!」
口を挟んできたのは荀彧だった。
「それと霞が近くまで来てるのは知ってる?」
時間がないので無視する。
「それは存じております~」
「そっか、俺が曹操を連れて来るから一緒に城内に戻ってくれないか?」
「そうしたいのは山々なのですが」
「じゃあ俺に脅されたって言えばいいから頼んだよ」
返事も聞かずに再び馬を進める。
曹操が殺されたら元も子もないからな。
俺の敵はもう目の前だ。
突撃開始位置に馬を並べて曹操が居た位置を思い出す。
「李典、あそこに小さくてもいいから穴を空けてくれないか?」
肉の壁の一部を指さす。
「ええけどホンマに少ししか空けられへんで」
「いいよ」
決死隊の先頭に李典が立ち先行して突撃を始める。僅かな時間を挟んで俺たちも突撃を敢行する。
「行っくで~!!!!螺旋衝ぉ!!!!!!」
李典の螺旋槍が肉壁を深々と突き刺す。そこに俺たちの騎馬は針の穴に糸を通すように突入した。
隙間を縫うように愛紗と曹操の姿を探す。すぐに二人を見つけることができた。
包囲網の中にもう一つの囲いがエアポケットのように出来ていたからだ。
「見つけたぞ曹操だ、俺に続け!!」
周りの声にかき消されそうになるが全員が俺についてきてくれた。
疲労から腕をあげることもできないのか曹操は愛紗の振り上げる青龍刀に対し無防備でいる。
思わず声を張り上げた。
「待て!!!!」
これで全てが元通りになる。そう確信した。
「これで終いだ!!」
この青龍刀が全ての元凶を断つ。曹操にもう反撃する気力は残っていない。文武両道を旨としている曹操も私のように人生をかけて武を鍛え上げてきた者には及ばない。
私はいまだ体力も気力も有り余っている。負ける要因はどこにもない。
「待て!!!!」
何が起きたかわからなかった。
どうしたというのだ?
聞き覚えのある声が私の耳朶に響き渡る。間違うはずがない、ご主人様の声だ。あの甘く囁いてくださったお優しい声が私の脳髄を心地よく痺れさせる。
「ご主人様!」
思わず声を出していた。でも、返ってきた声は全く持って信じられないものだった。
「曹操、大丈夫か?ここは一度退いてくれ」
「はぁ!?何を言っているの!!これは私の戦場よ!邪魔しないでちょうだい!!!!」
「そんなことはどうでもいい」
「ふざけないで・・・。ここで頸を刎ねてあげましょうか?」
「それは全てが終わってからでいいだろう?時間がないんだ、君が死んでしまってはどうしようもなくなる」
「あなたの言っていることが理解できないわ」
「だから時間が無いんだって。おい、誰か曹操を後方まで送っていってやれ!」
「はっ!それで副丞相殿はどうなされるのですか?」
「俺はここでやるべきことがある。先に戻っていてくれ。それと楽進と于禁にも曹操は退いたと伝えてやってくれ」
「はっ!」
「北郷一刀!勝手は許さないわよ!!」
「連れていってくれ」
「曹操様早くこちらへ。ここは危険です」
目の前の展開について行くことができない。今、ご主人様が曹操を助けに来た?なんで?どうして?
「ご主人様・・・どうして曹操を助けるのですか?」
声をかけるとご主人様はゆっくりとこちらに顔を向けた。久方ぶり、という表現は少々語弊があるかもしれないが私には随分と長く見ることができなかったように感じた。
お変わりない姿を見ることが出来て心が高揚するのがわかる。お疲れになっていらっしゃられるのだろうか、お顔が憂いを帯びているように見えた。
「・・・・・・」
「どうしてお答えになって下さらないのですか?」
「俺は・・・」
ご主人様は途切れ途切れに言葉を発そうとなさるが私には聞こえなかった。でもそんなことはどうでもよかった。これからは、桃香さまや私たちのいる徐州に帰りさえすればお話する機会は何度でもある。
「お疲れになっておられるのですね?もう大丈夫です。帰りましょう、我らの国へ」
ご主人様の手がこちらに伸びるような動作をしようとして、停止した。
「ご主人様?」
「何を言っているんだ?俺はもう劉備達の主人じゃない。ここにいる俺は曹操の配下、北郷一刀だ」
「ご冗談はおやめ下さい。ご主人様は曹操に謀られておいでなのでしょう?」
「誰がそんなことを言った?俺は自分の意志で曹操の元に降った。この事実に偽りはない」
「そ、そんなことあるわけないです!!」
「現実を見ろ」
「何かの間違いです!!あのお優しいご主人様が我らを裏切ったりなんかするはずありません!目をお覚まし下さい、この関雲長の一生で一度の願いです」
「俺はずっと目を見開いているさ」
「違う!!!こんなのいつものご主人様じゃない!!しばしお待ちを、直ぐに曹操を討ってご覧にいれます!!」
手綱を引き、曹操の去って行った方向に馬を向け駆けだそうとするがご主人様が目の前に立ちふさがる。
「ここから先は行かせるわけにはいなかい。行きたいのなら俺を殺してから行け」
「出来るわけがないでしょう!?ご主人様に私が手をかけたりなんて出来るわけがないでしょう!?お慕いしているのですご主人様を!!好きなのです貴方が!!狂おしいほどに・・・愛しているのですよ。一人の男性として、北郷一刀様のことが。武人としての生き方しか知らなかった私もご主人様の傍では一人の女として生きていくことをお許しいただいたことは私の生涯にとって最大の喜びだったのです。こんなにも想っているのに・・・」
鬩ぎ合う感情全てが言の葉と共に溢れだす。それでも許容量を超えた感情の波は別の形となって零れる。
視界が霞む。頬を暖か雫が伝う。
「・・・・・・」
それでもご主人様はなにも言ってはくださらない。
「・・・なにか仰ってください。いつものように愛紗と呼んでください。あの優しいお声で私の名をお呼びになってください。そうしてくだされば私はどんなことでもできます。ご主人様を苦しめる柵(しがらみ)を全て取り払って差し上げます。私の武はご主人様をお守りするためにあるのです。私の身体はご主人様に抱(いだ)かれるためにあるのです。私の心はご主人様にお捧げするためにあるのです。私の全てはご主人様と共にあるのです。だからそのように悲しいことを仰るのはお止めください・・・」
どれだけの語を並べても語り尽くせない。伝えたいのに伝わらない。
無情。
今度はちゃんと聞こえた。以前耳にした声のままで。
底冷えするような無感情な声が。
「関羽、お前は俺の・・・・・・敵だ」
私は馬を駆り、溢れる人ごみを掻きわけ、斬り捨て一つの場所に向かっていた。そこは愛紗が管轄する区域だった。
そこに主の姿を見た。そこでは愛紗と曹操が闘っていたはずだ。愛紗の腕を以ってすれば問題ないはずだった。
しかし、主がそこにいるとなれば話は違う。なにかがあったのだ。不測の事態が。
私達の行動をすべて覆してしまう様な出来事が。それに主は私達の為ならば無茶な行動をしてしまうだろう。
けして自惚れなんかではない。これまで主の姿を見てきてそう確信しているのだ。何を考えて行動されているのかが分かる時はこちらにも対処のしようがあるが分からない場合はどうしようもない。
主は我らとは違う考え、信念、価値観で行動されているため予測のしようがないのだ。
そうこうしているうちに愛紗と主の姿が目に入ってきた。そこに曹操の姿はない。
(なにがあったというのだ?)
刃を向けてくる敵兵士を薙ぎ払い道を作る。
「愛紗!!」
主には約束を破ってしまったこともあり声をかけにくかったのでとりあえず愛紗に声をかけることにした。
「・・・星」
愛紗の声からは覇気が感じられない。主と初めに邂逅したのであればもっと喜んでいると思ったのだが。
「何があったのだ?」
「それは俺から話す」
答えたのは愛紗ではなく主だった。
「ある・・・」
主。
と言いかけて私の口は止まった。
主がそれを言うことを制してきたのだった。ここにきて初めて私は事態の深刻さを知ったのだった。
ここで主を救いだすことはできないのだと直感的に悟った。
「この戦、お前たちの負けで、俺たちの勝ちだ」
今の戦局とは全く逆のことを主は言った。
「それはどういう意味なのですか?」
思わずいつもと同じ感覚で問い返してしまった。いや、この場ではこれでいいのだ。ここではもう、主を慕い救出にきた部下を演じなければ(・・・・・・)いけない。
「すでに魏の主力軍がこちらに近づいている。先鋒隊を率いるのは神速の異名を持つ張遼だ。四半刻もしないで戦場に到着するだろう。それに続いて2万5の騎馬隊、さらに本隊の十万の兵を率いるのは夏侯惇並びに夏侯淵、親衛隊の許緒、典韋と軍師には郭嘉。こちらの勝ちは揺るがない。時間の問題だ」
言葉が出なかった。これほど早く軍を引き返してくるとは。
否、甘かったのだ。取らぬ狸の皮算用とはこのことだな。これほど大国である魏の底力を見くびっていたのだ。
なぜこれほど安易に行動してしまったのだ。
決まっている。主の為だからだ。
我ら全ては主という存在に依存し、陶酔し、狂わされていたのだった。
これを誰も責めることはできない。主の所為だとも、我らの所為だとも言えない。皆の所為なのだから。
それにいち早く気づいたのは主だった。だからこうして行動を起こしたのだろう。これが全て曹操の策略だったのかもしれないと思われたのだろう。
後者は私の推測ではあるが。前者は当たっていると思う。
だんだんと思考が澄んでいく。様々な情報が組み合わさっていく。私は大局を見定めるために旅をして見聞を広めていた。そして明確にこの戦の大局を見えてきた。
我らはこのまま闘っていれば確率的には曹操を討ち取ることも十分可能であるだろう。しかし、討ち取ったその後は?
当然、報復がある。弔い合戦と称して徐州に攻め込んでくることは明白だ。私はともかく朱里や雛里は気づいてないのはおかしい。
いや、おかしくはない。
天才的な頭脳持つ二人とはいえども神仙の類ではないのだ。人間なのだ。主を慕う女の子なのだ。
もし徐州が魏軍に攻め込まれた場合、太刀打ちできるはずがない。軍の力とは数だ。質よりも何よりも数量なのだ。
なにより、元々主は曹操に数の暴力で脅されていた。あの女性に対してどこまでも甘い主が屈するモノ、それが数だったのだ。
それ以外にも理由はあったのだろうが。
それでも主は屈したとしてもその甘さを捨てる気は毛頭ないらしい。らしいと言えばらしい。
思わず笑みが浮かびそうになる。
主は先ほど『時間の問題』といったのだ。時間が問題であると。
誰に対しての発言だったのかというと無論我らに対してだろう。しかし、意味の取り方は自由である。
主が言ったのは我らが敗北するのが間もなくなのであるのか。
我らがどれだけ早く徐州に損害なく引き返すことができる時が残されているのかを示唆したのかを受け取るのは聞き手次第だ。
主が言いたいには後者であることに間違いはない。
やはり甘い。どこまでも我らが主は我らに甘い。主の心遣いはその心の心底を知る者にとっては甘美ですらある。
なればこそ、私は離れることができないのだ。そもそも離れる気などは毛頭ないのだが。分不相応な言い様ではあるがいつまでもそばに置いておきたいとさえ思ってしまう。本来は逆で置いてもらうが相応しいのだが。
私にとって主の命は何よりも優先される。自分自身に命よりも。主は絶対に許されないとは思うのだがな。その癖に本人は我らの為なら全てを擲ってしまわれる。本当にずるい御人だ。
と、なれば私がするべきことは。
「愛紗、ここは退くぞ」
ここより出来るだけ早く立ち去ること。
(後処理は全て主に任せてもよろしいのですね?)
愛紗から視線を外し、主に目で問う。
コクリと僅かに主の頸が上下に動く。愛紗は何が起こっているかわからず私の方を見ていたので気づいてはいない。
「星・・なにを言っているのだ!?ご主人様がここに居られるのに退けというのか!?」
「喚くな!!関雲長!!!!此度のことでよくわかっただろう?我らの目の前にいる男はすでに我らの知る天の御遣い北郷一刀ではない。いや、最初から身体だけが目当てだったのかもしれん」
「そんなことあるものか!!ご主人様は曹操に騙されているのだ!!」
正直に言って今の愛紗は見ていられなかった。かと言って真実を語ることも私にはできない。
「あの時も言っただろう。この男は我らを裏切ったのだと。現実を見ろ」
こんな突き放すような言い方しかできない。
「いらぬ・・・このような現実を私は決して認めぬ!!ご主人様、何かお答えになってください!」
愛紗は主の方を向き、縋るように問うた。
それに応えるように主の口が重苦しく開いた。
「言っただろう。関羽、俺は君の主人じゃない。俺の主君、曹孟徳に刃を向けるというなら――――」
主は腰に下げた剣を抜き、切っ先を愛紗に向けた。
「俺は君を絶対に許すことはできない」
見た事のないような表情で主は告げた。酷薄なようでその根底に計り知れないような悲しみを孕んでいた。それに愛紗は気づかない。気づけない。
(しかし主、そのように刃が震えていてはどうしようもないですぞ)
剣が、それを握る腕がカタカタと震えている。愛する者に刃を向けるというのはどのような気分なのだろう。
私は経験がないので分からないが想像を絶するものであることに違いない。
それ以上に向けられる者の心情は・・・。
「これでわかっただろう。あやつは剣を抜き、刃を我らに向けたのだ。ここにいるのは曹操の家臣北郷一刀だ」
私の言葉と同時に愛紗の感情のタガが完全に外れた。涙が瞳から止めどなく零れ落ち、嗚咽は泣き声と変わり幼子のように声を出し泣いた。青龍刀をも取り落とし、棒立ちになったまま服の裾をギュッと握りしめている。その手は血の気を失い白くなってしまっている。
主はその様子を見て何度か失敗しながらも剣を鞘に入れ直し、その場を立ち去ろうと踵を返した。
愛紗はそれに縋るように後を追い、主の上着の裾をキュッと弱々しく握った。そして消え入るような声で。
「行かないで・・・私を置いて行かないでください。・・・ご主人様」
本当にもう見ていられなかった。
主はそれでも愛紗の方に目を向けようとはしなかった。
そして、その手を振り払った。
「あ・・・」
愛紗は呆然とした表情でその場に残される。しかし愛紗はそれでも主の後を追った。
不意に主は衣嚢に右手を入れ、何かを取り出す。それは小さくて何なのか確認できなかったが。
それを後ろを向いたまま右手を肩の高さまで持って行き、小さな玉のようなモノを後方、我らの方に向かって親指で弾いた。
瞬間、周囲を目が眩むような光が包んだ。ちょうど愛紗の影になる様な位置にいたお陰で目が見えなくなるということはなかった。
だから私には見えた。主の右手の手首にあるモノが。
その右手に巻かれていた装飾品は間違いなく桃香様達に渡されたガラス玉と私の渡した真紅の紐で作られていた。
それを見ることができたのは偶然かも知れないしそうでないかも知れない。しかし、心を温かいものが満たしていくのを感じた。
何も知らない愛紗とは裏腹に、だ。
「ご主人様、何処に行かれたのです・・・?ご主人様・・・」
目を眩ませた愛紗は中空に向かって手を伸ばし続けていた。そこに主はいないというのに。
「いったいなにがどうなっているの!?」
私は城に戻る途中も戻ってからもずっと憤りを隠すことができなかった。何も分からぬまま兵士たちの手によって戦場を離脱させられたことにも納得いかなかったし。なによりあの男、北郷一刀がなぜ私を助けに来たのかが分からなかった。
「失礼しても宜しいでしょうか?」
突然、扉の前から声をかけられた。この声は桂花だろう。
「入りなさい」
「はい、失礼いたします」
桂花はおずおずと部屋の中に入ってきた。
「まだ戦の最中でしょう?なぜ此処にいるのかしら」
私の棘のある言い方に桂花は怯えたように話しだす。
「た、只今、戦の指揮は風が執っています。それとご報告しなければならない事項が二つ程ありましたので」
「聞きましょう」
「それでは一つ目なのですが、救援の軍が間もなく到着するとのことです。先行して霞の隊、それに続いて2万5千の騎馬隊、本隊十万は春蘭隊が率いているとのことです」
「そう、これでこの戦の勝ちは決まったようなものね。でもそれだけなら貴女が直接私の所に報告に来る必要はないでしょう?それで二つ目は?」
「はい、劉備軍が退却を始めました」
「なんですって!?この状況で!?」
「私も初めは信じられませんでしたが・・・。この目で見てしまっては真実かと」
「なぜなの?」
「申し訳ありません。私にも劉備軍の真意は量りかねます。ですので、華琳さまが戦場で一計を案じられたのだと思っておりましたのですが」
「・・・私は何もしていないわ。いきなり戦場に北郷一刀が来て兵士に私を城に連れ戻したんですもの」
「面目ありません。あの全身精液男を止めようとしたのですが、状況が状況でしたので阻止できませんでした。しかし、これであいつも公に殺すことができますね。華琳さまの命を無視したのですから」
桂花は暗い笑みを浮かべながら語る。
その姿を見ているうちにやっと落ち着いてきた。自らの認める価値のあるかもしれない英雄との戦いで頭に血が上っていたのだろう。
いつもの自分を取り戻す。
「それはできないわ」
「えっ!?」
冷静になった頭で下した結論だった。
「あの男は曲がりにも私の命を救ったのよ」
「しかし!!」
「確かにあの男は主命を無視するという暴挙に出たわ。でも客観的に見れば、兵士や民衆から見ればそれは違う意味を持ってくる。自らの命を賭して主君を救った英雄としてね」
「そ、そんな・・・」
「彼らにとって過程なんてものは関係ないの。彼らが求めるのは結果。そしてあの男は私を利用して結果を得た。主君を救った英雄という、これ以上ない結果をね。これを狙ってやったのだとすれば私はあの男を量り損なっていたということになるわ」
「私にはあの男がそれほどの人物だとは思えません!」
「それは私も同感よ。いや、思いたくないのかもしれないわね。私も全ての結果の上に立っている。それは利用できるものを全て使っての結果。まさか私があの男が結果を得るために利用されたなんて考えるのもおぞましいわ」
「あの男は獅子身中の虫です。いかなる手を以ってしてでも早急に処理するべきかと」
「それが出来たらどれほどいいのでしょうね。だけどこちらから手を出すのは良策ではないでしょう。だとすればあの北郷一刀は思った以上に強かね。もし、私があの戦場で命を落としていたらどうなっていたかしら?」
「そんな恐れ多い」
「仮定の話よ」
「それは・・・華琳さまの従妹である春蘭か秋蘭が後を継いで」
「それで?」
「姉妹であるからして春蘭が王位に就くでしょう」
「そして春蘭はどう動くかしら?」
「それは勿論・・・徐州に全軍で侵攻します」
「確実にそうでしょうね。そうなれば徐州は為す術なく蹂躙されるでしょう。当然、軍に関わるものは全て処刑される」
「・・・そこまで考えての行動だったと?」
「わからないわ。もしそうなら私に心酔する貴女達の心理をよく理解した行動だったと言えるわ。これは私の勝手な勘違いではないことは知っているわ。私に心酔するように貴女達を調教したのはこの私なのだから」
まさか私がこんな裏をかかれるとは思わなかったわ。
「ご報告申し上げます!!」
再び扉の方から声がかけられた。今度は通常の伝令のようだ。
「桂花」
「はい」
そう言って桂花は扉を開けた。伝令の兵は扉の外から書状を読み上げる。
「程昱様よりのご報告です。劉備軍は徐州に向け撤退を続けており、追撃の軍を編成するも我が軍は疲弊しきっており進軍速度が上がらず距離を離されています。そして先ほど張遼将軍が御到着されましたが追撃の是非は?以上であります。」
このまま追撃すればそれなりの戦果はあげられるかもしれない。しかし・・・。
「追撃は必要ない、そう風に伝えなさい。下がってよろしい」
「はっ!!」
伝令の兵はその場から駆け出して行った。
「華琳さま、よろしかったのですか?」
「いいのよ、これで。私の命を救ったあの男への褒美といったところね。あなたは甘いと思うかしら?」
「そのようなことは。華琳さまの御心のままに」
そう言って桂花は恭しく頭を下げた。
結局、戦の結果は曖昧なままに終わった。桃香達は損害を出すことなく徐州に帰って行った。
俺、北郷一刀はこの戦で魏国における一定の信頼と名声を得た。そして大切な物を失った。
愛紗の、皆の心を失った。
彭城内、元北郷一刀の居室。
そこに一つの影あった。泣きはらした目は腫れぼったくなってしまっていた。戦場での汚れも落とさずここに来たのだった。
北郷一刀が徐州で一番長く過ごしたであろうここに。
また涙が零れた。涙はとめどなく感情を、北郷一刀の想いと共にハラハラと愛紗の中から漏れてゆく。
「は、ははは」
乾いた笑いが狭い部屋に響く。
ドゴン!!!
青龍刀の石突を地面に突き立てる。墓標を立てるように。誓いをうち立てるように。
その想いを断てるように。
その柄に掴まりズルズルとその場に座り込む。
「―――――――――――――!!!!!!!!!!」
愛紗の慟哭は城内全てに響き渡った。
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前回の投稿から20日以上経ってしまい申し訳ありません。偽√の10話を投稿したいと思います。これで第二部が終了です。
それと自分の作品をお気に入りに追加していただいた方が200人を突破いたしました。本当にありがとうございます!!
また誤字、おかしな表現がありましたらご報告していただければ幸いです。