孫家の旗は、赤地に金の縁取りで、黒い文字で孫と書かれていた。孫家の部隊は二百で、後ろには官軍の千が並んでいる。孫家だけが前に押し出されているような形だが、紗羅は官軍より孫の旗に釘付けになっていた。
地平の中、先頭で桃白の髪色をした女が指揮している。あれが孫策なのだ、と紗羅は感動もなく思った。
こちらの数は三百五十。その内の百は騎馬隊で紗羅自身が指揮をしている。紗羅は覆面を着け、乗馬を命じた。すぐに体勢が取られ、白地に黒で周と書かれた旗が上がる。練度には自信があったが、これが調練の末だと、紗羅は思えなかった。
思考を打ち切る。紗羅は、孫策の部隊とまともにぶつかり合う気はなかった。それでも、戦う素振り位は見せなければならないだろう。孫権と繋がっているのは知らないだろうし、それは部下にも知らせてはいない。ぶつかる匙(さじ)加減を間違えれば、未来には双方ともに損な結果しか残らないのだ。それも、自分の分量で決めなければならない。
紗羅は歩兵に陣を組んで固まっているように命じた。指揮官は周泰で、機微を見逃さず動いてくれるはずだ。周泰の旗は、赤地に白で周と書かれている。
騎馬の百を動かすと、孫策も騎馬の百を率いて出てきた。後ろの官軍は動かずに、静観を決めこんでいる。掴んだ情報通りで、戦闘は孫家に頼り、勝利が見えると出張ってきて手柄を奪うそうだ。孫家だけが犠牲を出す、損な役回りである。そういう事を引き受けなければならない程、孫家は立場が弱いのだ。
紗羅は激突する前に進路を右に変えた。孫策も左に進路を変え、並走する形になり、少しだけぶつかってから離れあった。ぶつかった感覚は短いが、それでも汗が噴き出ていた。
掌で額の汗を拭い、手綱を握り直すと、馬首を返して動き回る。孫策も似たような動きをして、互いに近づいては離れるという動きを繰り返した。
互いに機を掴みかねている。素振りで終わらせようと思っていたが、下手にぶつかれば、激烈な事になるだろうという予感がある。当たってから様子を見てみようという動きは、損害を抑えたい孫家はやりたがらない。それが、今の状況を招いているのだろう。
紗羅は、じりじりと押されるように後退し始めた。それを見て、周泰の部隊も後退を始めた。基本的に寡兵の周湖賊は、地形や罠を駆使して戦う。その被害はすでに官軍も学んでいることで、迂闊に突撃を命じることはしていないようだ。
孫策が騎馬の先頭で向かってきた。機を感じ、紗羅は立ち向かい、すれ違った瞬間に剣で斬り上げた。重い衝撃を感じ、断ち切られた剣を投げ捨てる。後続の兵とぶつかる瞬間に誘蛾刀を抜き放ち、瞬時に二人斬り捨てると、騎馬を動かし、突き放す様に離脱した。衝撃は与えたが損害は少ない。機を掴んだのだ、と紗羅は思った。闇雲に突撃するような愚を、孫策は行わないだろう。
紗羅は、一瞬目の前が暗闇に覆われた。首に暖かいものが流れるのを感じ、手を当てるとべったりと血が付いた。俺の血か。そう思うと、わけのわからないものに呑み込まれてしまう感覚がした。抗い、意識を覚醒させると、孫策がまた突撃しようという気を放っている事に気付いた。後ろの官軍も、前に出始めている。騎馬隊に撤退の合図を出した。
周泰の部隊は罠を仕掛けた領域に到達している。騎馬は周泰と合流するように合図し、紗羅は最後尾に出た。逃げているので、殿という事になる。後ろからは、孫策が追って来ている。
紗羅は孫策に向かって飛刀を放った。その全てが払い落とされ、目の前が一瞬暗くなった。光が戻ると、肩に金の簪が刺さっていた。力が抜け、馬から落ちそうになるのを堪える。持ち直し、罠の領域に入ると、孫策の追撃が止んだ。穴が掘られていて、その中は棘が生えている。決まった道を通らないと引っかかる仕様だ。それが露見したのかと思ったが、詮索している余裕はない。孫策の追撃が終わり、官軍による追撃となった。
悲鳴。叫喚。すぐに罠にかかり、官軍は被害を出している。何故孫策だけが、と思った時、また暗くなった。次に光が戻った時は、天井を見上げていた。塒で使用している部屋で、寝かせられているのだ。首に手を当てる。包帯が巻かれていて、息苦しさを紗羅は覚えた。
「おっ、起きたんだな、兄貴。ま、死ぬはずはねえってわかってたけど」
扉が開くと、呂蒙が入ってきて言った。周泰もいて、紗羅はそちらを見た。生きている。その実感が、二人を見て湧いてくる。躰を起こそうとして二人に止められる。
「戦は、あれからどうなった?」
「仕掛けを利用して撤退しました。官軍には被害を出しましたが、孫策の部隊は途中で撤退をしています」
「孫策か。あれは、凄い。罠を見破ったのもそうだが、ぶつかった時の迫力も凄まじかった」
「竿平様は、二日の間、目を開けられませんでした」
「首を、斬られた」
「運び込んだ時は血が止まりませんでしたので、死ぬのだろうと思いましたが」
「ぶつかった時、振るった剣が断ち切られていた。だが、機を掴んだのだ、俺は」
「兄貴はさ、首から血が流れてたけど、尻から糞も漏れてたぜ。兄貴でも、そういう事をするんだなってちょっと驚いた」
「そうか、気付かぬうちに漏らしていたか。俺は人間だということだな、阿蒙」
紗羅が笑うと、呂蒙も歯を見せて笑った。今になって、追われる恐怖を感じていたのだという事を思い出せる。そして、ただ必死だった。
「竿平様。これが」
周泰が、切先の鋭い金の簪を差し出した。これが肩に刺さっていた。肩の疼きを、簪を握ることで打ち消す。
「これは、孫策が身に着けていたものだな。俺が飛刀を投げたら、奴はこれを投げ返した」
「高価な物です。戦で簪が役に立つとは、思いませんでした」
紗羅は簪を宙に掲げ、周泰と呂蒙に合わせてみた。このような豪奢な物は二人には似合わない。渡しても、着けようともしないだろう。装飾品など、飾ることに興味を示さない二人にはもっと別の物のほうが喜ぶ。
「似合わなそうだな、お前ら」
「陳宮にでもあげることですね」
「そうだ。あいつらはどうしている?」
「兄貴がやられたって事は伝えてねえよ。五月蠅くなるだろうからな」
「やられた事は、ご自分で伝える事です。ですが、まだ動かないようにしてください。医療に長けた者が言うには、しばらくは安静にしていなければいけないそうです」
「そうか、首の傷は残るかな?」
「消えることはないでしょうね」
「目立つだろうな。何かで隠しておこう」
「今は眠れよ、兄貴。そうしてりゃ、元気になるだろ」
言われた通り、眠ろうと眼を閉じた。二人が部屋を出ていく気配がする。遠ざかり、人の気配がない時に躰を起こし、右眼に手をやった。眼帯は卓の上に置かれている。戦の最中は、紐が緩んで邪魔だった気がする。紗羅は手鏡を取り出し、顔を写した。やはり半分ほどしか開かれていない右眼は不恰好に見える。閉じれば、見た目はましになる。上手く開かなくなっていたから、右だけ閉じておくのは難しくなかった。眼帯は、街で魯喬をやっている時だけでよいと思い、再び横になった。
しばらく眠気は起きてこなかったが、それでも目は閉じていた。部屋の向こうで、人が動いている気配がする。さらに集中すると、外の音すら聞こえてきた。暫くするとそれは静かになり、たまに見張りの声がかすかに聞こえる程度になった。夜になったのだ。ずっと目を閉じているので、その間に眠ったのかは曖昧になっている。
左眼だけを開けた。月の光が窓から部屋に漏れている。左眼が明りに慣れると、光が届かない部分は見えなくなった。閉じて右眼を開け、暗闇を見た。右眼は暗闇に慣れ、部屋に何があるのかを見て取れるようになっている。紗羅は誘蛾刀を手に取り、鈴がなった瞬間に抜き放った。刀は暗闇の途中で止まり、伸びてきた暗闇も紗羅の手前で止まった。暗闇は甘寧の姿をしている。お互いに、刀を突きつけた格好だった。しかし、甘寧の刃の方が自分に届くのが速いだろう。二日間眠っていた。その間に躰が鈍ってしまったのだ。
「降ろせ」
「いきなりだなあ、甘寧」
甘寧が距離を取り、刀を納める。しかし、刀の範囲には入っている。静かな気迫が部屋に満ち、油断はさせていない。
「これは、どういう事かな?」
「孫権様から、お前に会っておけと言われた」
甘寧が束ねられた髪を取り出した。それは桃白の色をしていて、月明かりを吸い込んだように光っている。孫権のものだ、と紗羅は思った。
「孫権と繋がっているのは、わかった。俺を殺せと命じられたか?」
「死んだのなら、その程度の男だったと思っていた。それくらいなら、必要はないのだ」
「独断かな。まあ、今は置いておこう。俺からお前に会いに行こうと思っていたが、色々と手間が省けた」
孫権と甘寧が繋がっているのは、孫権から伝えられた。それまでは紗羅の頭の中では、錦帆賊の甘寧を孫家に引き入れようと思っていたから、その手間が省かれたことになる。
「私は、貴様に協力するつもりはない」
「よくわかっている。それが、我らの協力となる」
「思い描いていることは、一緒のようだな、紗羅」
甘寧は義を掲げた賊だった。紗羅が集めた周湖賊とは、混じり合わないのだ。反目し争う賊が、孫家の反旗に手を取り合うことは袁術の意表を突けるだろう。その為に必要なのは、頂点に絶対的に従わせることだ。錦帆賊は甘寧で、周湖賊は紗羅である。
「我らは、一度激しくぶつかっておきたいな。多大な犠牲を出し合い、お互い迂闊に手を出せない状況を作りたい。あとは、小競り合いを繰り返す事になる。そうして、機を待てばいい」
「恐ろしいことを、簡単に言うのだな。部下に無駄に死ねと言うのか」
「知っているのは、俺らだけさ」
暗闇の中で、甘寧の姿がはっきりとしてきた。錦帆賊の頭領だ、と紗羅は改めて思った。騒ぎになっていないのは、忍んできたという事だろう。船の上で戦った時とは、まるで違う気を感じさせていて、この方がずっと恐い。
「周湖賊は、勢力として大きくなりすぎた。もっと小さければ、錦帆賊に取り込めたのだが、お前が来てから予定が狂ってしまった」
「錦帆賊は、加わりたいという者を厳選しているそうだな。周湖賊には、それがない。だから、人だけは集まるのだ。役に立ちもしないろくでなしは、調練で打ち殺す。それを見て、部下は必死になる。そこで俺は選別しているつもりだ」
甘寧は倦んでいるのかもしれない、と紗羅は思った。義の旗を掲げても、その時までやることは、言ってしまえば略奪に逼塞である。好き勝手に動く周湖族を羨ましがっているのか。自分が甘寧なら、それに耐えられることは出来ないだろう、と紗羅は思った。
「しかし、今回は孫策にやられた。部隊はほとんど無事だが、俺はこのざまだ」
「よいぶつかり合いだった。孫策様は、お前の首だけを狙ったから、被害は少なかったろう。最も被害が大きかったのは、罠に嵌まった官軍だった」
「見ていたのか。俺は今、褒められたのかな?」
「周湖賊はまるで軍の動きだった。旗もあったし、あれには驚いたよ」
紗羅は宙に浮いた感覚がして、寝台に倒れ込んだ。甘寧は枕元に立っている。しばらく目を閉じていると、気分はよくなってきて、また落ち込んでくる。波の中に立っているような感覚だ。
「甘寧。ぶつかり合いは、激烈にだ」
周湖賊は、錦帆賊を殲滅しようと考えていた。集団の目的としてはというだけで、それは言わずとも伝わっただろう。孫家の元で錦帆賊と合併する時に亀裂が生まれるかもしれないが、そこから先は孫家の仕事だ。
紗羅は、孫策との戦を思い浮かべた。孫策は先頭だった。それが、兵が出す力に一役買っているのだ。紗羅も一緒の事をやっているが、孫策ほどのものにはなっていない。畏怖は、間違いなくされている。しかし、そこから先に何が足りないのかはわかっていない。そこも孫策に届いていない。
眼を開けると、甘寧は居なくなっていた。忍び込んできた時と同じように、誰にも気づかれずに出ていくのだろう。
眠気は起きなかったが、紗羅は目を閉じておく。近いうちに、小喬を伴って一度街に戻らなければならない。孫権とは、まだ会わないほうがいいだろう。首の傷を撫で、陳宮への言い訳を紗羅は考え始め、意識をまどろみに落としていく。
あとがきなるもの
お久しぶりです。二郎刀です。年を跨いでから投稿する事になるとは……。
たぶん次から地の文が多くなる。書き方が変わっていくと今までの自分の書き方から目を背けたくなります。でもこのサイトにはこういう書き方の方が読みやすいのではないかと思う事もあるし……。むずかしいですね。
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お久しぶりでこっそり投稿。