「陽炎、ありがとうございます」
朝までぐっすりと眠った陽炎が目を覚ましたとき、不知火はお茶を淹れながら開口一番礼を述べた。陽炎が首を傾げる。おはよう、ならわかるが、何故いきなり礼を言われたのかわからない。これは、よもや注文していない商品を先に送りつけておいて、後で法外な金額を要求する手口の簡易版、先にお礼を述べたのだから不知火の頼み事を聞け、ということなのだろうか。
「神通さんから伺いました」
陽炎が何やら腑に落ちない顔で、突拍子もないことを考えてそうだ、と判断したのだろうか。不知火は、陽炎に湯気の立つカップを手渡しながら続けた。
「大変な状況と疲労困憊だったにも拘らず、不知火にお気遣いいただきまして、ということです」
「ああ」
頭を掻いて、視線をそらしながら、陽炎が生返事をする。嘘をついたのは、気を遣ったというよりは、完全に照れ隠しだったのだが、どうも不知火はそう受け取ってはいないらしい。そのことがわかると、彼女のまっすぐなキラキラした瞳を直視できない。どうにも気恥ずかしさで一杯なのである。もともと嘘の得意でない陽炎が、帰投の間中、練りに練った設定は、どうやら旗艦であった神通の気配りであっけなく崩れ去ったようである。
「ま、まぁ、知られちゃった以上は、どうすることもできないし、仕方ないわね……」
「廊下での立ち話でしたので、詳しくは伺ってはいません。よろしければ、陽炎の口からお話を聞かせてくれますか?」
不知火はそういうと、炬燵に入った。そして陽炎に座るよう促す。
「そうねぇ」
断りづらい雰囲気に陽炎はおとなしく不知火に従う。
「そんなに大げさなことでもないんだけどね」
前置きをしてから、陽炎は手元のカップに目を落とした。その表情にフワリと微笑みが浮かんだ。陽炎の思いがけない柔らかな表情に不知火が目を見開く。長らく行動を供にしているが、滅多に見せない顔である。
「そうね。あんたにもらったチョコレートは、とても役に立ったわ。ありがとうね」
「はぁ。……であれば、不知火としても嬉しい限りですが」
不知火の訝しげな相槌に、陽炎は苦笑した。
「と、言っても何が何だかわからないわよね。あんたのチョコレートは、輸送船に乗っけた子供等にあげちゃった」
「そうでしたか」
「やっぱり甘いものは強いわよね。あ〜あ、私もせっかくの出撃明けだから甘いもの食べたい」
「間宮さんの券が有り余ってるでしょう」
「そうだけどさ……。あ、昨日言ってた、チョコ作る時間が取れないことはない、っていうやつ。本当よね?」
陽炎がニヤリとした。今日は休暇となる陽炎の余裕の笑みに、不知火は、そうですね、とぼやかしてから立ち上がった。
「結局不知火のチョコがどこへ行ったのかはわかりましたし、各員の報告とも合致しますので、今朝のところはこれでよしとしましょう」
「あ、もういいの? っていうか、何、あんた裏とってたの!?」
「はい。陽炎の口からはいつでも聞けるので、急ぎではなかったのですが」
不知火の言葉に、陽炎は金魚のように口をぱくぱくさせている。昨日泥のように寝てしまった陽炎と同様に、一緒に出撃した娘等も相当早く休んだに違いないはず。どうやって不知火がそこまで情報を聞き出したのか。いや、それ以上に、自分は完全に不知火の掌の上で転がされていたということなのか。
次の句を継げないとわかると、不知火は湯呑みを片付け、姿見の前で一度身だしなみをチェックしてから、靴を履いた。
「では、不知火は始業ですのでこれで」
居室の出入り口のドアを開き、不知火の体が軽やかに廊下へと出て行く。そして、あいかわらず口をぱくぱくさせたままの陽炎に振り返る。
「チョコでしたら、冷蔵庫に入っていますので、ご自由に」
不知火の言葉に弾かれたように陽炎が立ち上がり、猛然と冷蔵庫の扉を開いた。不知火チョイスの可愛らしい包装紙と、ちゃんとリボンまで結んである、先日不知火から手渡されたものと全く同じ小箱。それを手に取ると、陽炎は裸足のまま廊下に飛び出し、階段の踊り場で不知火に追いついた。有無を言わさず後ろから飛びついた。
「本当にもう何なのよあんたは!? こっちのこと全部お見通しなの!? 最っ高よ!」
人目も時間も憚らずにあげた大声と、不知火への感謝を全身で表した陽炎に、たまたま居合わせた駆逐艦娘達が憐憫の目を向けていた。
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第26回 #かげぬい版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題:「ありがとう」
に則り作成。一応第24回の続き。