秋の深まりとともに、朝晩の冷え込みを感じるようになった十月のある日。
「沖田先生。お目覚めでございましょうか?」
朝陽を抜き取った影が、部屋の前にとどまっている。いつもなら土方さんが許可なく入ってくるところだけど、どうやら宗旨替えでもしたらしい。
「…どうぞ。」
あれ以来、彼とは顔を突き合せるどころか、言葉を交わすこともなかった。土方さんの意を含んでいるとはいえ、どんな態度をとったらいいのかもわからない。ただ、いたずらに日々が過ぎていく。それも、今日で終わるというのだろうか。
「失礼致します。」
中庭に面した障子が開くと、乾燥した空気とともに薬湯のような得体の知れない匂いが流れ込んできた。
「おはようございます。お加減はいかがでございましょう?」
過去のわだかまりなんてまるでなかったかのように、彼はおおらかに微笑んでいる。肚の内はどうだか知らないけれど、建前上きれいさっぱり忘れたということだろうか。それはそれで、変にギクシャクするよりはずっといい。
「おはようございます尾形さん。問題ありませんよ。」
「それは安心致しました。しかし、油断は禁物です。労咳には、澄んだ空気ときれいな水が何よりも肝要とのこと。」
(なぜそれを?)
そんな疑問とともに浮上したのは、今日に限って姿を見せない土方さんのことだった。
(尾形さんに話したのか…)
(まだ近藤さんにも話していないのに)
土方さんの言い分によれば、余計な心労をかけたくないから、戻ってくるまでは黙っていろということだった。これまた過保護な近藤さんのことだから、労咳と打ち明けたとたん江戸へ連れ帰るとも限らない。
(知っているのはごく限られた人間だけなのに…)
近藤さんだけじゃなく、山南さんも知らないわけだし、むしろ知っている人の方が少ないくらいだった。その限られた身内の中に尾形さんが含まれるというのは、どうにも納得がいかない。
「こちらは、音羽の滝から汲んで参った霊験あらたかな水でございます。さ、どうぞ。」
腰を落とした尾形さんは、手にしていた盆を置き湯のみを差し出した。私の表情を見て察したのか、信用を勝ちとろうとして懇切丁寧に振舞っている。
「寝覚めの白湯に、わざわざこれを? 一体誰の仕業です?」
音羽の滝から流れ出る湧き水は、延命水としての名で親しまれていた。この水でお茶を立てるのが、京者のささやかな贅沢であるという。
「土方副長御自らが汲みに行かれたようです。早暁に外出なされるのはそのためかと。」
(土方さんが…)
蒸気の奥でゆらぐ水面から、あの薬湯のようなにおいが鼻腔を刺激する。彼は水だといって差し出したが、何かしらの手を加えてあることは明白だった。水底には細かい沈殿物のようなものが泳いでいるし、水自体がうっすらと色づいているのがわかる。
「ただの水ではありませんね。なんですこれは。」
土方さんにあれこれ命令されて、こそこそと立ち回っているのが窺い知れるというもの。労咳に効く漢方か何かを溶かしこんであるのかもしれないけれど、なんの説明もなく飲めと言われて素直に従う私でもない。
「はっはっは!」
「…なにがおかしいんです?」
(なんだろう…この豪快な笑い方)
急に尾形さんという人がわからなくなった。
よく捕物帳なんかを見ていると、追い詰められた犯人がいきなり高笑いを始めることがあるが、その心は、開き直り以外のなにものでもない。尾形さんも、ついに化けの皮を剥がしたのかと思った。
「さすがにお気づきになられましたか。それは、朝鮮人参を煮出したものにございますれば、労咳に効果覿面と太鼓判を押されましてね。源之丞殿に薬種問屋の場所を伺い、私が方々を探し回って手に入れたものにございます。それだけではございません。牛の乳、ももんじ肉、はんざきの黒焼きなどもご用意しております。これらを揃えるのに日がな一日かかってしまいました。それだけでは不十分だと判断し、江戸からも山田丸を取り寄せる予定でおります。」
熱心に説明する傍らで、尾形さんは自分の行いを讃えるみたいに終始ご満悦だった。企業のサラリーマンが、営業実績を語るがごとくである。
「…そうですか。それはお手間をとらせました。でも、黒焼きと人胆は勘弁してください。」
黒焼きに関してはゲテモノという扱いで片付けられるけれど、人胆の原料が何かを知っている今、とてもじゃないけど口にする勇気はなかった。想像しただけでゾッとする。
「何をおっしゃいますやら。沖田先生には、この私が誠心誠意努めさせてきただきます。」
押し売りではないのか、と思った。その押し売りを仕掛けてきたのは、何を隠そう土方さんなのだけど。
何を思って、尾形さんを差し向けてきたのだろうか。
「そのことなんですがね…」
神妙な面持ちで切り出そうとするのを、尾形さんは手で遮って封じ込めてしまう。差し止めたのは身振りだけではない。咄嗟の行動もまた、私を黙らせるには十分だった。
「ええ、承知しております。どうか、過日の無礼をお許しくださいませ。」
額を畳に押しつけているのを見て、すでに先を読まれているんだというのがわかった。差し向かう相手が私であったとしても、土方さんとの取り決めを口外するつもりはないということだ。ならば、いくら問い正しても無用というもの。
(土方さんのバカ!)
なぜこんな人を間に立てたんだろう。
(そんなのは決まってる)
土方さんの目から見ても、十分信用に足る人物だったからだ。にわかに芽生えた妬心が、種火のようなものを燻らせている。
「なんのことでしょう? それより、あなたが本物の尾形俊太郎さん?」
顔を上げるように促してニコニコと構えていると、「それこそ、なんのことにございましょう?」と、尾形さんも同様に切り返しを図る。その反応がおもしろかったので、またしても私は皮肉を重ねてしまった。
「鸚鵡返しとはおもしろいですね。安心してください。私は二重間者なんかじゃありませんから。」
「はて? そのような疑い、私は持った試しがございませんが?」
(う~ん…読めないなぁ)
ここまでくると芝居を打っているのか、シラを切っているのかすら掴めない。この手のタイプは、参謀か監察の方が向いているのではないかと思った。
(これは土方さんに直接聞いた方が早いな)
副長に対する尾形さんの忠臣ぶりと、彼らの醸し出す連帯感の前では手も足も出せないことを知り、不思議と悔しさを手放すことができた。
「あはは。負けました。しかし、体のことは心配いりませんよ。今のところはね。だから、隊務に戻ってください。あんまり長居すると妙な噂を立てられてしまいます。」
「まさか、私に限ってそのようなことありますまい。しかし、私にも立場というものがありますので。現段階では、時期ではありませんし、そろそろ失礼致します。」
言うと同時に立ち上がり、尾形さんは礼儀正しく一礼をした。とりすました顔をしているけれど、会話に埋め込んだ意味を私がどう解釈するのかと、試すような視線を注いでいる。
(時期…?)
まるで、この先の未来を暗示しているかのような物言いだった。「察しろよ」ともったいつける土方さんの声が、リアルに聞こえてきそうだ。
(そんなこと言われても、私にはなんの心当たりもないからなぁ)
頭を悩ませたところで、答えが導き出せるとも思えなかった。だったら、胸に留め置いてしばし忘れることだ。
「ええ。そうしてください。私は少し外出しようと思っていますので。」
なんのひっかかりもなくそう告げると、尾形さんもまた自然な調子で相槌を打ってくれた。
「かしこまりました。あっ…そういえば…」
「なにか?」
「いえ…あの非常に申し上げにくいことなのですが、山南先生のご様子がいつもと違うようでして。」
堪りかねてせっついてみれば、言い渋っていたことが渦中の人物だったので驚いてしまった。きっと、土方さんからのSOSなんだろう。尾形さんは伝達役も担っているらしい。直接的表現をしないところがいかにも憎らしいのだけど、今さらそこを批難する気にもなれない。
「山南さんが?」
「余計なことかと存じますが、島原にてこの様な噂を耳に致しました。明里天神には、この夏に身請けの話があったとか。」
(そんな噂をどうやって仕入れたんだろう?)
総揚のときは全員参加だから除外するとしても、それ以外で彼の姿を見かけたことは一度もなかった。それだけに、彼の主張は裏づけとして弱い気もする。
「尾形さんも島原に通われたりするんですね。意外だなぁ。」
試しにからかってみると、男としての性能を嘲られたみたいに尾形さんはムッとしていた。
「見くびらないでいただきたい。私だって男ですから、馴染みの一人くらいはいますよ。可笑しいですか?」
薄い胸板をそっくり返して、尾形さんはむりやり鼻息を荒くする。噴き出しそうになるのをなんとかこらえ、申し訳ないとばかりに手を合わせた。
「いえ、そんなつもりじゃないんです。気を悪くしたなら謝ります。」
「失礼。私も言葉が過ぎました。」
「すると、明里さんは返事を引き延ばしてるってことですか?」
「ええ、そうでしょうね。おそらく山南さんの手前、すんなり承諾という訳にもいかないのやもしれません。楼主はこの身請け話をまとめたがっているみたいですけど。」
明里さんを身請けしたがってる人というのは、たぶんお金持ちの商人なんだろう。相場はだいたい決まっているけれど、金に糸目をつけないともなれば、楼主もこだわりなく手放してしまうはずだ。とはいえ、身請けというのは本人の合意も必要になる。明里さんをなんとか説き伏せようと頑張っているのかもしれないけれど、本人が乗り気でないならば他に打つ手もない。最悪の場合考えられることは、山南さんを利用して二人の縁を切ることだ。
「う~ん…本人が嫌がっているのなら、強引にまとめても仕方がないと思うんだけれど。」
「山南先生は、身請けのご意思があるんでしょうか?」
「あると思いますよ。ただね、お金の問題がある。本人もそう言っていたけれど…」
この前なんとなくそんな話になったとき、彼はもう諦めてしまっているみたいな言い方をしていた。正しくは、諦めようとしているけれども、いまだ未練を断ち切れない状態だ。身請けしたらいいと勧めるのは、誰もが良かれと思って言うことなのかもしれない。ただし、私が一度勧めてみて否定されたことは無視できないのだが。
「身請け金さえ用意できれば、山南さんのお心も晴れるのでしょうか?」
「う~ん…どうだろう? ただ、このままでいるのは二人にとってもよくありませんね。」
山南さんはもちろんのこと、明里さんにも幸せになってもらいたいと思う。好きでもない相手にお金を積まれ、残りの人生を買われてしまう切なさを思えば、やっぱり山南さんと生きてもらう方が二人の幸せになるはずだから。
「何かお考えがおありですか?」
「私たちで醵金するというのはどうでしょう?」
しばらく考えに耽っていて、以前から薄っすらと思いあぐねていたことを口にした。尾形さんの切実な眼差しが、この言葉をもたらしたと言っていい。もしかしたら山南さんの嫌がることをしてしまうのかもしれないけれど、いたずらに時を費やすよりは、行動を起こして何らかの結果を打ち出す方がよっぽど有意義だと思うのだ。
「全額は無理かも知れないけれど、一部でも足しにできれば山南さんを後押しできるかもしれない。」
自分で提案しておきながら、この計画に尾形さんを巻き込むつもりはなかった。土方さんだってそこまでの考えはないだろう。
「私も、それこそが最善の策かと心得ます。」
こちらの考えを余所に、尾形さんはしかと受け止めてくれ、頼もしい頷きまで返してくれた。あらかじめ流れを読んでいたみたいに、私の提案に快く応じてくれたのだ。
「では、残りを受け合いましょう。借金を依頼できる商家に当たってみます。」
「なぜです? あなたにはなんの得にもならないでしょう?」
「なぜと言われても助勤だからとしか申し上げようがありません。副長を補佐し、副長のみならず、加えて総長や局長の利益を守るのも私の務めであると心得ます。ですから、たとえ私情を挟もうとも、回り回って新選組の益になるならば、行動しないということはありません。」
彼の言葉には芯が通っていた。この時期に正しく「総長」と認識する者は、親しい者のごく一部だけなのだ。顔を見たことがないという者も増え、すでに亡霊のごとき扱いにされてしまっている山南さんが、さして親しくもない者でさえ未だ慕われていることに感慨を覚える。存在の薄れたかつての「副長」を、尾形さんは今もって尊重し復権を願っているのかもしれないと思うと、喜びを隠しきれないのだった。
「立派な心がけですね。私も見習わなくっちゃ。」
山南さんを気にかけてくれることが、今の私にとっては何よりもうれしいことなのだ。
(尾形さんもこう言ってくれていることだし)
(私も山南さんのために人肌脱ぐとしよう)
(そうと決まれば、善は急げだな)
さっそく主だった隊士たちを訪ねて回り、資金集めに奔走する私であった。
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艶が~る二次小説。時間に翻弄される沖田総司の話。若干SF風味。