No.817198

Essentia Vol.11「天色の架け橋」

扇寿堂さん

本文に加筆し修正をしました。

2015-12-05 11:02:30 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:273   閲覧ユーザー数:272

さっきから耳障りな音がする。

MRIを受けたときのようなデジタル音だ。

 

ベクトルも不安定な気がする。

どっちが前か後ろか。いや、その前に——

 

(なんにもない…?)

 

ただそこにあるはずの右手と左手が行方不明だった。行方不明というのはつまり、自分が「所持していない」ような気がするということだ。足だってあるんだかないんだかはっきりしないし、むしろ体のすべてがそこにはないような感じがする。

一点の空間にとどまっているのか、そうでないのかすら曖昧で、意識だけが一人歩きしているような気がしないでもなかった。

 

(ここはどこだろう?)

 

いつからそうしていたのだろうか。

それに気づいたのが「今」なのか、それともずっと遠くのことなのか。距離も重力も時間も何もかもがぐちゃくちゃで、そのくせ乱れなく平坦にも感じられるからわけがわからない。

 

(これはまずい)

 

完全に終わった——

 

そう思うと恐怖でどうにかなってしまいそうなものだけど、感情が振り切れたときの独特の感覚すらどこかへいってしまっている。そこで、ふと思い当たることがあった。

 

(また死んだのか?)

 

まさかそんなはずはないと思いながらも、今のこの状況をどう説明すればいいのか皆目見当もつかなかった。

気づけばもうあれから数年は経過していたけれど、死んだときのことは昨日の出来事のようによく覚えていた。だから、「死ぬ」とか「死んだ」とかいう感覚は、経験者である自分にしてみたら間違えようもない感覚だった。それは今までに感じたことのない刺激となって脳に記憶されるものであり、生きていようが死んでいようがその刺激が間断なく続くことに何ら変わりはないらしい。たとえ死んでしまった後でも、その刺激は消え去ることなく保存され続けるのだ。

それゆえか、私は「死ぬ」ということがどういう経緯を辿るのかをよくわかっていた。しかし、わかっていたからと言って素直に受け入れられるかというと、それはまた別の話だった。それに、今の自分を死んだばかりのほやほやだと決めつけるには、絶対的な動かぬ証拠というものが見当たらなかった。死ぬための条件が何かあったろうかと考えてみるけれど、ひとつとして思い当たることがないのだから、死んだと決めつけるにはやっぱり説得力に欠ける気がした。自分が覚えている限りは、死に直結するような原因が何もないのだから。

 

(強いて言うならば、黒猫…)

(そんなまさか)

 

——ありえない。

 

そのひとことが黒猫説を一蹴した。

とりあえず黒猫は除外するとしても、その他に果たして何があるというのだろう。原因もなく死ぬなんてありえない。

いつどのようにして死ぬような原因をつくったのか。ひとつひとつの出来事を丁寧に巻き戻して思い出そうとするけれど、常に自分は安全な場所にいて、命が脅かされるようなことは何ひとつ見えてこない。唯一考えられることと言えば、自分の知らない間に命が奪われるような瞬間があったというのだろうか。

 

(もう一度死を見るのなんて)

(そんなの絶対にいやだ!) 

 

悲痛な思いは声にならなかったけれど、声を出そうとしたエネルギーの源から光の泡が生まれ、そこにはなかったはずの私の体がすっかりあの頃の姿をとり戻して輝いていた。

 

(自分の体が、見える)

 

感覚が内側からよみがえるように輝きを増していく。左右の手のひらを返し、死んだわけではないのかもしれないと考えを改めた途端にうれしくなった。透けて浮き上がったように見える左右の脚は、まるで水槽を覗いているかのように小さな水泡が光のきらめきとなって泳いでいく。

私を包み込んだ正体不明の光の泡は、輝きを強めながらその密度を高めていき、頭のてっぺんからくるくると回転する何かに引きずられ額の奥へと吸い込まれていった。

 

(まぶしい)

 

気がつくと、光で目がくらんでいた。瞑目しているのに、なぜか光に照らされているみたいにまぶしいのだ。瞼を開けば何かがわかるのかもしれないけれど、目を開くのがとても億劫だった。

昏睡から目醒めたような感じで、指先に神経が行き届いていない気もするし、膨張しているような収縮しているような得体の知れない感覚が続いていた。自分で自分の体をコントロールしきれていないのがわかる。

そうしてしばらく瞼を伏せたままでいると、自分を取り巻く薄皮のようなものが溶けていき、だんだんと周囲の喧噪が聴こえてくるようになった。

 

「総司!」

 

怒号まじりに名を呼ばれ、条件反射で肩が跳ねた。

こんなふうに名前で呼ぶ人は、署内でも数えるほどしかいない。

 

(しまった…意識を失っていたのか?)

 

眩暈を取り払うよう(かぶり)をふって、声の主に応えようと目を開く。

 

(えっ…?)

 

見えたものを理解するのに、予想以上の時間がかかってしまった。

 

「おい! 聞いてんのかよ?」

 

目の前には、眼光鋭く見上げる土方さんがいた。

池田屋のときのように鉢金を締め、小手や具足に身を固めた姿は、新選組全盛期の猛々しさをそのまま再現したようなものだ。見るからに戦支度だった。

ただでさえ神経質なのに、そこへ輪をかけたように落ち着きなく目をぎょろぎょろとさせるのは、戦の最中に見せる土方さん特有の貌だった。

そんなときは決まって右手の人差し指を忙しなくするのだけど、それも相変わらずで、いつ動きがあるのかと気が立っている様子だ。

 

「本物の土方さんですか?」

 

唇も喉も張りついたように乾いている。

ようやく出た言葉さえも、干上がったようにかさついていた。

またしても自分は奇蹟の体験者なのか。それとも単なる夢幻なのか。それを決めかねている今は、はっきり言ってこれしか口にできる言葉がなかった。

 

「…ったく…」

 

胡乱な眼差しで溜息をついた土方さんは、面倒事を目の前にしたときのような仕草をとった。防御線を張るように隙間なく組んだ腕で、斜め前へと右足を投げ出したポーズだ。私はよく「偉そうな態度」だと茶化していたけれど、こうして久しぶりに見ると横柄に見えるそれもどうしてか感慨深いものがあった。

 

(本物だ…本物の土方さんだ…)

 

胸がじんとあたたかくなって、ゆるんだ涙腺がほろりと崩れそうになっている。

これが夢だったならあまりに残酷だ。そう思ったら、土方さんに触れないわけにはいかなかった。

女の人がするみたいに袂を引き、ぎょっとする顔に構わずに腕や肩をぺたぺたと触っていく。陣羽織に付着した粉塵の手触りがたしかな現実感を帯びていて、ひたひたと心に染みていく喜びを押し上げていた。声や目つき、昔からの癖、姿形のどれをとってみても、生身の人間としての土方歳三その人だった。

 

「まだ寝ぼけてやがんのか。この緊急時に居眠りたぁ、ずいぶんと大物になったもんだな。」

 

久しぶりに聞く嫌味が、心にストンと落ちていく。懐かしいやら切ないやらで、反論する気も起きなかった。

こんなふうに土方さんと会えるなんて、それこそ夢のような話だった。自分が持てるだけの運をすべて使い果たしてしまったんじゃないかとも思う。

 

(それは困るな)

 

こんなところで運を使い果たしてしまったら、この後どうなるか知れたものではない。第一、自分はどうしてここにいるのだろう。見るからに戦の真っ最中のようだけれど、そうだとすればこうしてうかうかと気を抜いていられない。

 

自分の置かれている環境が一体どういうところなのか。意識をとり戻してから初めて周囲を見渡してみると、そこには見憶えのある風景が全面に広がっていた。

自分の立っている場所の真横にはだだっ広い川があり、向こう岸の三里くらい先に京の瓦が連なっているのが見える。

そこは、忘れもしない九条河原だった。

 

(懐かしい)

 

私と土方さんを囲むようにして、永倉さんや原田さん、藤堂さん、源さん、斎藤さんが集い、険しい表情で何かを待っていた。

烏帽子に陣羽織という見るからに大将と思しき人物は、もちろん近藤先生をおいて他にはいなかった。

四十七士に倣い誂えた羽織は当時の私が毛嫌いしたもののひとつだったけれど、錚々たる顔ぶれがそれを纏えば見映えのする戦装束に早替わりし、その風采は誰が見ても堂々としていて勇ましい姿だった。

 

(私もこの中のひとりだったんだな…)

 

今となってはまるで現実感がない。

かつて戦国絵巻の武将たちに憧れたように、親しかった仲間たちでさえ今や雲上人のような風格だ。

あの頃は嫌で仕方のなかった羽織も、なんだか誇らしげに思えてくるのだから不思議だった。

 

(私は、またここへ戻ってこられたんだろうか?)

 

白抜きになった山形が、慣れ始めた目にまぶしかった。

新選組である証を身にまとい、当時の自分としては甚だ迷惑だったのかもしれないけれど、今となっては愛着すら感じられるそれをそっと抱きしめながら私は自然と微笑んでいた。こんなにうれしくて胸が躍るのはいつ以来だろう。噓偽りない本来の自分をとり戻したような心地だった。

しばらくそんな感慨に浸っていると、息を切らせて走ってくる男が視界の端に飛び込んできた。幹部が放った斥候だろうか。

目にすらっと光を帯びた土方さんを筆頭に、その場にいる幹部たちはぎろりと睨むようにしてその男を見た。

伝令を持ち帰った隊士によって、喜びを噛みしめる余韻は呆気なく奪われてしまったのだった。

 

「申し上げます!」

 

敗走のどさくさに紛れ密かに潜伏を計る激派を見越し、市中に放っていた監察の一人が戻ってきたのだ。

私たちの足元に片膝をついた隊士は、恭しくも緊張した面持ちで声を張り上げる。

 

「長州の残党が、藩邸に火を放った模様!」

 

その報告を聞いたのは、今回がこれで二度目だ。だからこそ私は、自分の生きる世界で二度も繰り返されるその惨状がどうしても許せなかった。もう少し早くに目覚めていれば、もしかしたら止められたかもしれない。いや、止められることはできなかったとしても、警告くらいはできただろう。そう思うと、とてつもなく悔しかった。

 

「なんてぇ野郎だ!!」

 

間髪入れずに誰かがそう言い放ったことで、周りも便乗したように似たような言葉で罵詈雑言を浴びせていた。戦のルールを決めたときに、敵の悪口を言ってはならないという一条があったはずなのに、誰かが悪口を言ったそばからまた別の人が悪口を言うものだから連鎖して止まらなくなってしまったのだ。人は人の行動に触発されるものだから仕方がないとしても、汚い言葉で敵を罵倒するのはやっぱり気分のいいものではない。

とはいえ、京を火の海にすることで市中を撹乱し、あまつさえその機に乗じて逃げ延びようとする長州人の卑怯な手段は許しがたい。

そのせいで家を失い家族を奪われるのは、戦とは何ら関わりのない無辜の人たちだ。こうしている間もなく多くが犠牲になってしまう。対岸の家々に待ち受けているのは、真っ赤に燃え盛る火の海だ。

 

(これから起こることのすべてを知っている私は、知らないふりを押し通さなければいけないんだろうか?)

(いや、知らないふりを押し通すことに耐えられるのだろうか?)

 

誰も知るはずのないことを知っていてはおかしいし、むろん物事が起こる前のことを知るはずがないのだから、私は何も言葉にしてはいけないし、このことを誰かに語ってはいけないのだと思う。けれども、果たしてこれが本当に正しいことなのだろうか。確かに二元論を繰り返す限りは、自分の首を絞めるだけだということはわかっている。でも、これが正真正銘うたがいようのない現実だとすれば、この先も葛藤を握りつぶしたままずっと耐えていかなければならないのだ。

 

(そうしなければ、どこかでこの世界の方向が変わってしまう)

 

そういう恐れが、ここに着いたときからひたひたと胸の中心を攫っていった。

歴史を知っているからといって、下手に動けばどうなるだろうか。何も知らなかったあの頃とは違う。たとえどんなに小さな行為だったとしても、それが原因で物事は少しずつずれていき結果がまるで変わってしまうのかもしれないのだ。

もしも悪いように事が流れていったとしたら、自分でとった行動を結果論として悪だと決めつけてしまうかもしれない。人の選択と行動がもたらした結果というものを善か悪かで決めつけるのはあまりにも浅慮だと常日頃の自分は思っているのだが、自分の行為ひとつで思いもよらない結果になったとしたら、いつもの持論を持ち出して毅然と撥ねつけることはできないかもしれない。その決断につきまとう責任は想像以上に重いものだし、とりかえしがつかないことになったらどうしようと思うと簡単に下せるものではないのだ。

 

「ったく、今日の今まで連中をのさばらせて置くから、こういうことになるんだ。で、近藤さん。下知はまだなのか?」

「ううむ…伝令がうまくいっていないのか、戦況も分からん。追撃するなら今だろうが…」

 

土方さんと近藤さんのこうしたやりとりを聞いたのは、やっぱりこれが二度目だった。科白ひとつをとってみても、寸分の狂いもなく進んでいくのが恐ろしい。まるで、自分はここにいるべき正しい存在ではないような気がしてくるのだ。

そこで、私はふと妙な考えにとり憑かれていた。

 

(前回とは違う私がここにいることで、違う結果が生まれる可能性もあるのだろうか?)

 

捻じ曲がる可能性のある未来が存在するのかもしれないと思うと、そっちのほうがずっと恐ろしい。なぜなら、ここにいるだけで自分の意図とはまったく反対の方向へ流れてしまうかもしれないからだ。

だったら、意図して行動したほうがいいに決まっている。これは一種の賭けになるのかもしれないけれど、結末を知る者が故意に手心を加えたとして、その意思が出来事になんらかの干渉を生むのだとすれば、危険を伴いこそすれ試してみる価値はありそうだと思った。

しかし、そうは言っても何をどうしたらいいのかがわからない。やみくもに駆けていったとしても、独りができることなんてたかが知れているだろう。かといって、自分がこの新選組を弁舌で動かせるとは思わない。今は戦の最中だ。持ち場を与えられた身であるし、新選組がどういう組織であるかを立ち返ってみれば自分の熱意が空回りするのが目に見えていた。

いま一度冷静に考えてみても、一度ついた火の手はなかなか止められないものだ。木造の家屋にならなおさら言えることだった。今から火消しに回りこの時代の技術力で応戦しようとしても、太刀打ちできない規模になっていることだろう。

 

(いずれにせよ長州が負ける)

 

その結果だけを受け止めようと思ったけれど、最初から最後まで後味の悪い戦であることには変わりがなかった。

なぜ、この戦を二度経験しなければならないのか。決して敗けたわけではないのに、心の中は苦いもので溢れていた。

 

(そもそもどうして禁門の変からやり直してるんだろう?)

 

本音を言えば、もっと遡ってやり直したい時間があった。わざわざこんな場面にしなくてもよかっただろうにと思う。

戻ってこられるというのがあらかじめわかっていたなら、私はもっと違う時間を選んでいただろう。

 

(ひかり)さんにひどいことを言ってしまったのを取り消したい)

 

土方さんが逢状を出してくれたお座敷で、心にもない嘘をつき彼女を傷つけてしまったこと。

いまだにそのときの出来事が古傷となり、思い起こすたび疼いて仕方がないのだ。

できることならばやり直したいとずっと思っていた。

 

(行く先を選べないのは不便だな)

 

戦の真っ只中に置かれているこの状況は、私の希望とははるかにかけ離れていた。

そもそも何が発端でこっちの世界に戻ってきたのかもはっきりしていないのだから。なんの前触れもなくいきなり一代(かこ)に戻された私は、視界に繰り広げられていく二度目の光景を目で追いながらいつになく苛立っていた。

自分の身に降りかかったことをゆっくり考える余裕もなく、尋常ならざる戦の雰囲気に呑まれながらただいたずらに刻だけが費やされていく。早く決着がついてほしい。その一心だった。

 

(こうジリジリしてたんじゃ、たまんないや)

 

禁門の変が起こったとき、新選組は銭取橋近くに布陣していた。夏真っ盛りの頃だ。

何日も待機をさせられていたおかげで、みんなの苛立ちは日を追うごとに激しくなり、それが殺気へと変わり隊内も喧々諤々になっていた。

 

「いつまでここでこうしてんだよ!」

 

血気盛んな原田さんらしい怒声が飛び、その横合いでは「まぁまぁ」と人好きのする顔で宥めにかかる源さんがいた。

充溢して破裂しそうな熱気を一体どこにぶつければいいのかといったように、完全武装した精鋭隊が手持ち無沙汰だった。

 

「それにしても、ひでぇもんだな。」

 

みんなが焦れているというのに、なぜかひとり熱を下げた土方さんは、群れから離れた場所にいて遠くに立ちのぼる煙を眺めていた。

長州の残党が敗走を始めたと聞いて、気持ちに余裕ができたのだろうか。北西を見据えた彼の目が、何を思ってなのか切なげに細められていく。決して言葉には出さないけれど傍にいて伝わってくるその胸中に触れ、こちらもつい心が痛んでしまった。

 

(三日間も燃え続けるんだったな…)

 

歴史に残る大火。

もし、現代の消火技術があれば、被害を少なくすることができただろう。こうして見て見ぬ振りのようなことを続けている自分が、情けないような悔しいような気持ちになる。

そうしてしばらく自責のようなものに駆られていると、空を泳ぐようにして着物の端切れがゆらゆら飛んでくるのが見えた。

まるで、戦や火事のことなどお構いなしといったように、独自のリズムを刻みながら泳いでくる。

 

「あ…」

 

目線の高さに降りてくるまでそれを追ってから、私はようやくあることに気づき、はっとして息を呑んだ。

 

(選べないんじゃなくて、私が選んだ結果なのかもしれない)

 

そう思えば、すべてに合点がいくじゃないか。どうして今の今までそれを思い出せなかったんだろうか。とても大切な記憶なのに、どうして忘れていたんだろうか。

 

(私と彼女の出発点は、ここだったのかもしれない)

 

はじめてまともに口を訊いた大門の夜の出来事よりも、私たちが真に結びつきを強めたこの日こそがふさわしいのならば、これより先の行動がはじまりへと繋がっているのだろう。

 

(私には、やるべきことがあるじゃないか!)

 

私がこの場所へ戻ってきた理由はひとつ。それが、俄にわかりはじめた瞬間だった。

 

火事に巻き込まれていないだろうか。怪我をしていないだろうか。

心配の種がいくつも並び、いても立ってもいられなかったあの頃のことがまさしく鮮明に甦ってくる。

無事を確かめたくて、飛び散る火の粉をくぐり抜け、彼女の姿を見つけるまでは生きた心地がしなかったあの頃。もしも心のままに行動していなかったとしたら、きっと星さんをとり戻せなかったのかもしれない。

 

(行かなくては)

 

天色(あまいろ)の切れ端が、時の合図を送っていた。

今こそ彼女を迎えに行かなければ――。

 

「土方さん。会えてうれしかったです。でも、私には真っ先にやらねばならないことがあるんです。」

 

隣に佇む横顔に少しの未練もなくそう言って、再会の喜びを伝えようと心からの笑顔を浮かべた。

すると、場をすんなり明け渡した土方さんは、なんの引っかかりもなく笑って応えてくれた。暴れ馬をどうどうとさせる仕草で、私の肩を軽妙に叩きながら。

 

「半分は言ってる意味が分からねぇが。まぁ、そう粋がるなって。連中も時間の問題だ。」

 

(私が率先して斬り込みに行くとでも思ってるのか?)

 

土方さんの様子からそんなことが窺えたけれど、残念ながら今の私にそれは期待できなかった。なにしろ愛刀を帯びるのは数年ぶりだ。腕が鈍っているに違いない。

 

(たとえ揮ったとしても、以前のように冴えた剣がつかえるともかぎらないし、何より人の命を奪うことに抵抗がある)

 

互いの温度差に戸惑いを覚えた私も、あの頃と少しも変わらず期待をかけてくれることは本当にうれしかった。だからこそ期待を寄せてくれる分だけ申し訳ないとも思え、訂正する気にもなれなかった。そのせいで、私は尻を蹴られた馬のように慌てて駆け出していた。

 

「いえ、そうではなくて…迎えに行かなきゃ…御免!」

「はぁ? って、おい! 総司! どこへ行きやがる!」

 

頭のいい土方さんをうまく躱すためには俄に思いついた言葉では到底不可能だと悟った私は、逃げるが勝ちと思いながらも心持ち情けなく走り去っていく。

 

(未来から星さんを迎えに来ただなんて、どんなに言葉を尽くして説明しても笑い飛ばされるに決まってるだろうから)

 

さもなくば、おつむの中身を疑われておしまいだ。

相手が土方さんだからなのかは知らないが、適宜に要領よく振舞うことができない自分がいるのだった。

 

(言い訳なら後からでも考えつくだろうし)

 

逃げのつもりではなく、いったん預かるという気持ちで向こう岸を目指した。足にまとわりつく袴の裾が、たっぷりと水気を含んで重たい。それらを押し切るように、ずんずんと進んでいく。次にいつ会えるともわからない仲間たちと、勘違いしたままの土方さんを置いて。

 

(きっと、また会いましょう)

 

追いかけてくる怒鳴り声は次第に遠のいていき、強すぎる夏の陽射しと舞い上がる火の粉が蒼穹を激しく焦がしていた。


 
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