第三話 過去をもたないあの人の魅力
「では、
先生の声に、はい、と葵が立ち上がる。結衣の肩がぴくりと震える。葵は何食わぬ顔でぴんと背筋を伸ばすと、国語の教科書を朗読しはじめた。
「サロメ。望むものを答えるがよい」
透き通るような声音が教室中に響く。
一時間目は現代文学の授業。
生徒たちはみな、葵の透き通るような朗読に、静かに耳を傾けている。
「命にかけて、この冠にかけて、わが神々にかけて、なんなりとお前の望むものを遣わそう。たとえこの国の半分と言われようとも。お前の踊りを見せてくれればな。おお、サロメ。俺に踊りを見せてくれ!」
葵が読み上げているのはサロメという物語だ。
妖しい美しさでエロド王の心を奪ってはなさぬ王女サロメ。
踊りとひきかえに、王女はとあるものを所望するという――そんなお話。
それは特別残酷なことで知られており、あまりの背徳性にどこの劇場もしばらく上映を控えていたという。そんないわくつきの戯曲でもある。
「では、王様。今すぐここへ。銀の大皿を乗せて」
「かわいいことを言うではないか。言え、何でもいい。おれの財はことごとくお前のものだぞ、サロメ。銀の皿に、何を乗せればいいのだ。サロメよ」
「はぁ……」
結衣は机に突っ伏しながら、深くため息をついた。
教科書を読み上げる葵の声が、右から左へと通り抜けていく。
まだ一時間目だというのに結衣の身体には、疲れが重りのようにのしかかっている。
それもそのはず。
あんなことがあった後では、授業内容がいまいち頭に入るわけがない。
結衣はいつものように遅刻間際でパンをくわえて曲がり角を曲がっていた。
その先に、運命の出会いがあると信じて。
(運命の相手、ね)
結論からいえば、運命の相手は見つかった。
いや、運命を握られているといった方が正しいだろう。
結衣の涙ぐましい努力は、ようやく実を結んだ。
パンをくわえて曲がり角を曲がった先に待ち構えていたお相手は殺人鬼だった。
巷で話題になっている連続通り魔事件の犯人。
しかも結衣のクラスメイトだというから笑えない。
世界ってやつは、思っていたよりも狭く出来ている。
”――あたしのモノになって頂戴”
葵の言葉が脳裏によみがえった。
あれはどういう意味なのか。
殺人鬼の言葉だ。
良い意味なんてあるわけがない。
そもそもの話、葵がなぜ自分を殺さなかったのか。
そこから先の展開ときたら訳が分からないことだらけだ。
(人質……っていう意味かな?)
それだと余計に意味が分からない。
早い話が、目撃者を殺してしまえばいい。
だって、そのほうが手っ取り早いではないか。
目撃者を生かしておいても良いことなんて何一つない。
死人に語る口なし。
それに勝る口封じはない。
なのに、葵はそれをしなかった。
リスクのある方を選んだ。
自分という目撃者を生かすことで。
彼女はそこを分かっているのだろうか。
分かったうえでやっているのだとしたら、これほど手に負えないモノはない。
(ああ、もう……っ!)
もう私にはお手上げ。
これ以上考えたら頭から煙が噴き出そうだ。
どうしたらいいのかてんで分からない。
葵さんは、あたしに何を望んでいるのだろう。
結衣が、何度目になるかも分からないため息をついた、そのときだった。
「――私に、ヨカナーンの首をくださいまし」
葵の言葉に、背中をつららで撫でられるような悪寒が走った。
思わず結衣は振り返っていた。
そこにはいつものように無表情の葵がいて、ひんやりとした冷たい声音で、教科書をつらつらと読み上げている。
「ならぬ。それはならぬ」
「王さま。あなたはお誓いになりました」
「ならぬ。それだけはならぬのだ」
「私にヨカナーンの首をくださいまし」
ぞっとするような迫力だった。
演技だとしてもいやに熱がこもっている。まるで葵本人がそれを望んでいるかのような、そんな錯覚に取りつかれそうになる。
事実、結衣以外のクラスメイトたちも、びっくりしたような顔で振り返っている。
怪演。
そう呼ぶにふさわしいものが葵の声から立ち込めていた。
「不埒な女だ。あれのしたことは大きな罪だ。おれたちの知らぬ神に、あれは罪を犯したのだ」
「なにか災いが起ころうとしているのだ。途方もなく大きな翼の羽ばたく音を聞いた。いずれもこの上ない不吉の前触れだ。サロメ、まさかお前は望んでいるのか。この俺に災いあれと。お前がそのようなことを望むはずがない。とにかく、俺の言うことを聞いてくれ!」
はい、そこまで、と教師の声。
「葵さん座ってください」
葵は形の良い腰を折り曲げて着席する。
あの熱っぽさが嘘だったかのように、静かで無駄のない動作だった。
教師はそれを見届けてから教科書に視線を戻した。
「戯曲サロメは、ワイルドという劇作家によって執筆されましたが、その作品の不道徳さから、イギリスではなかなか上演されませんでした。そもそも作者のワイルド自身が同性愛者だったということもあり、当時の社会では受け入れられなかったのです」
「はぁ……」
結衣は机に突っ伏しながら、またしてもため息をついた。
頬杖をつきながら、教師の解説そっちのけで思案にふける。
(あれは遊びや冗談なんかじゃなかった。だって葵ちゃんの目は本気だったから)
あの情熱的な眼差し。あれはどう見ても、恋する乙女のソレだった。
(もしかして……告白、とか?)
恋愛経験がゼロの結衣でさえ分かる。
そこに最もらしい根拠や、ご大層な理論があるわけではない。
科学技術や文明社会がどれだけ発展を遂げようと、とうてい解明出来る事柄ではない。
それはいわば女のカン。
結衣の本能的な部分が導き出した答え。
それ以外に何か言葉を重ねる必要があるだろうか。
(もしかして葵ちゃんって同性愛者なのかな)
腕組みして考えること数秒。
「やぁだ、わたしったら! そんなわけないでしょ! 地球がひっくり返ってもあるわけないってば!」
自分の恥ずかしい妄想を振り落とすかのように、ばぁん、と机を叩いた。
落ち着いて、落ち着くのよ。
いくらなんでも思考が飛躍しすぎてる。
望美ちゃんにこんなところを見られたら、また夢見がちなんだからって笑われてしまう。
奇声を上げながらわしゃわしゃと髪をかきむしる。
「結衣さん。どうしたのですか。体調でも悪いのですか」
先生の咎める声で、はっとなった。
なんたる失態だろうか。
まさか自分の心の声が漏れていただなんて。
しかもすっかり忘れかけていたが、今は授業中だ。
気づけば、教室中から刺すような視線が突き刺さっていた。
「結衣さん、聞いているのですか?」
「え、あっ、はい。聞こえていますよ!」
「そうですか。では、教科書の続きを読み上げてください」
「えっ……えーっとぉ」
慌てふためきながら教科書のページをめくる。
当然、授業を聞いていないので、どこから読めばいいか分かるはずもなく、
「廊下に立ってなさい」
ぴしゃり、とそう言い捨てられた。
クラスメイトたちの笑い声が、背中に突き刺さる。
ぼっと火が噴き出そうなくらい顔が赤らんだ。
結衣は逃げるよう廊下に飛び出していった。
あぁ、穴があったら入りたい。
◆
昼休み。
クラスメイトたちが席をくっつけあって仲良く談笑しながら弁当をつついているのを尻目に、結衣はむずかしい顔で腕を組んでいる。
悩み事が深すぎて食事も喉を通らない。
自分の置かれている状況を鑑みれば当然だろう。
(状況的証拠から推測してみましょう。最初に着目すべきは……)
考える。
まず葵が、人を殺していたこと。
人殺し。
殺人鬼。
すなわち人を殺す鬼。
それが意味するのは一連の連続通り魔殺人事件の犯人。
結衣はその目撃者。
唯一、真実を知る人間である。
以上の出来事を鑑みてみれば、葵の意味深な言葉も180度意味が変わってくる。
”――あなたを一生逃がさない”
葵の冷たい声が脳裏に蘇り、ぶるっと背筋が震えあがった。
(ひょっとして、わたしって、かなり危険な状況だったり……?)
なんとなしに背後を振り返る。
お目当ての人物はすぐに見つかった。
頭に真っ白なカサブランカをつけた少女なんて、この教室には唯一人しかいない。
葵はぴんと背筋を伸ばしながら、分厚い本を一心不乱に読み耽っている。こちらを監視しているような素振りは一切見られず、目下の興味は読書にしかない様子。
(普段と、何も変わってない)
あれから何も接触はない。
今朝の衝撃的な邂逅が嘘であったかのように、よそよそしい態度だ。
まるで結衣のことなんか眼中にないと言わんばかりに。
(何読んでんだろ……葵ちゃん)
じっと目を凝らしてみる。
本のタイトルは『タイタス&ロニカス』。
作者の名前はシェイクスピアとある。結衣には、見たことも聞いたこともない題名だ。
(面白い……のかな?)
ふと、昔を思い出す。
結衣がまだ幼稚園に通っていた頃。
母に絵本を読んでもらったときのこと。寝る前に、このお話を読んでほしいと母にせがんでいたときのこと。
そのときのことは、数年の年月が経過した今でも、昨日の出来事のように思い出せた。
シンデレラ、白雪姫、赤ずきん――といった定番のおとぎ話。
小さかった結衣にとってはどれもが新鮮で目新しいものばかり。
母の口から語られる世界をいつでも心待ちにしていた。
そんな優しい物語に触れるうちに、いつか自分のところにも特別な出来事が起こるに違いない。
そういった憧れにも似た思いが、結衣のなかに芽生えるようになった。
白馬の王子様が迎えに来てくれたらどんなに素晴らしいだろう。
王子様の口づけで目覚めることが出来たらどんなに素敵だろう。
そう思っていた時期がたしかにあった。
だけど、楽しい夢の時間はもう終わり。
(結局、わたしはシンデレラになれなかった。シンデレラになれる条件を生まれつき備えていなかった。だから、白馬に乗った王子様は迎えに来てくれなかったんだわ)
結衣を迎えに来たのは、カサブランカの似合う少女。
死体の前に立って、鮮血でてらてらと輝くナイフを携えながら、こう囁いた。
(放課後まで待つわ。私の言葉、考えておいて)
そう言うと、葵は薄暗い路地裏から姿を消した。
分かっていることといえば、葵は今どき珍しい文学少女だということ。
最近の女子高生が片手に持っているのはスマホと相場が決まっているのに。
小難しい本と向き合う方が、葵にとってはスマホをいじるよりも数十倍価値のある行いなのだろう。
そして、葵は殺人鬼だということ。
もちろん結衣に殺人鬼の知り合いはいない。
だから彼女のことを考えても、殺人鬼の生態なんて分かりっこない。
考えるだけ時間の無駄。
そんなときだった。
(ねえ、結衣)
ふいに、望美の声がよみがえった。
過去からの声。
不敵な笑顔が脳裡に思い浮かぶ。
(葵さんって、うちのクラスにいるじゃない。いつも無口で押し黙っていて、何を考えているかよく分からない子。あの子って、昔はよく笑う子だったんだって)
(笑う? あの葵ちゃんが?)
(ええ、そうよ。今よりも明るくて、中学時代までは友達も多かったんだってさ)
(ちょ、ちょっと、信じられないかも)
望美は結衣と違って、社交的で交友範囲がとても広かった。
おまけに噂好きでクラスメイトたちの秘密なら大抵のことは何でも知っていた。
誰が誰のことを好きだとか、誰と誰が付き合っているとか、事に及んでいるとか、そういう類のことを。
まさか葵の過去まで知っているとは思わなかったけれど。
(葵さん。なんか中学で揉めごとがあったんだって)
(揉めごと?)
(うん。私にもそれが何なのか分からないんだけど……それ以来、葵さんは一切笑わなくなっちゃったんだって。当時の友達ともみんな縁を切ってしまったらしいよ)
葵の性格を捻じ曲げてしまうような出来事。
それは一体、何だろうか。
クラスの友達みんなと縁を切ってしまったというところに、妙な引っかかりを覚える。
(友達とケンカでもしたのかなぁ?)
(きっと友達の彼氏を寝取ったとかで雰囲気が険悪になったんじゃない?)
(望美ならともかく、葵ちゃんに限ってそれはないでしょ)
(ちょっと結衣。人を盛りのついたケモノみたいに言わないでくれる)
(えぇ……)
(いくらなんでも、あたしはそこまで飢えちゃいないわよ)
◆
回想終了。
思考を現実に引き戻す。
もっと大きな何か……集団的な何か。クラスというコミュニティから疎外されてしまうような事件。
(もしかして……いじめかなぁ?)
ものすごくありふれた答えだと思う。
同時に、それが一番あり得そうな話だとも思う。
それが彼女を変貌させるきっかけとなったのか。
平気な顔で人を殺してしまうような鬼へと。
(そもそもわたし、なんで生かされているんだろう)
そこが一番腑に落ちない部分であった。
わざわざ目撃者を生かすリスクを背負ってまで、見張っておく必要はない。
そんな面倒なことをするくらいなら結衣の息の根を止めて黙らせてしまえばいい。
それが一番簡単だ。
だけど、不思議なことに葵はそうしなかった。
「うーん、とはいえ……」
このことを誰かに相談しようにも相談出来る相手はもうどこにもいない。
一番事情に詳しそうな望美は、すでに死んでしまっている。
近所の空き地から、望美の死体が発見されたのは一週間前のことだ。
警察によると、望美の全身は無数の傷が刻まれていたらしい。
ひどく乱暴されたのだろう。ただの肉の残骸に成り果てていたという。
(――望美ちゃんを殺したのは、葵ちゃんなのかな)
結衣は、葵の言葉にまだ返事を返していない。
そもそもどう返事をしていいのか。
そこから分からなかった。
もし葵の申し出を断ろうものなら、どうなるのだろうか。
ひと思いに頚動脈をすっぱりと切り裂かれて、今度こそ殺されてしまうのだろうか。
だからといってイエスと答えようものなら、想像するだに恐ろしい出来事が待ち受けてそうで気が気じゃいられない。
「どうしよう……」
盛大にため息をついて机にうなだれた――そのときだった。
「どうしたの、結衣さん?」
そっと優しく吹きつけるような声。
顔を上げてみれば、そこには息を飲むような美青年がいた。
「難しそうな顔ばかりしてると、可愛い顔が台無しだよ」
「山田くん……」
意図せず、感嘆の息が漏れた。
どんなにキザったらしいセリフも、彼の前では全てが華やいだ。
彼は学校中の人気者で、必ずと言ってもいいほど女子たちの話題の中心に上がる。
理科部の部長を務め、掛け持ちしているサッカー部でエース級の活躍をしているのだとか。
この学校で、その名前を知らない者はまずいない。
「何か悩み事でも?」
教室中から痛いほど視線が突き刺さってくる。
それは嫉妬や羨望。
とても落ち着いて話が出来るような雰囲気じゃない。
(なんで? なんで山田くんが、わたしなんかに話しかけてくれるの?)
とりあえず何かを話さなければ。
無視をして相手に恥をかかせるような事態だけは避けなければ。
だが、そんな結衣の思考に反して言葉が出てこない。
何かを話さなければと思えば思うほど、頭の中が真っ白になる。度を越した緊張で、頭が上手く回らなかった。
そんなときだった。
結衣の手を、山田がそっと包み込んだ。
思わず相手の顔をまじまじと見つめると、山田は白い歯を覗かせながら微笑み返した。
「ここじゃ話しづらいみたいだし、場所を変えようか」
まるで結衣の内心を見透かしたかのように、優しげな手つきでリードしてくれる。
(うわぁ、なんだかお姫様になったみたい。シンデレラも王子様に選ばれたとき、こんな気分だったのかな?)
山田に手を引かれながら、夢見心地で教室を振り返る。
クラスメイトたちの好奇や嫉妬の視線も、今となっては心地よい。
結衣の心を優越感で満たすための肥料でしかなかった。
唯一人――葵だけが冷め切った瞳で、二人の後ろ姿を追いかけていた。
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