No.816090 Essentia Vol.3「ことのは散る」扇寿堂さん 2015-11-28 11:36:03 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:239 閲覧ユーザー数:238 |
「午後から応急救護の実習があってね。セッティングを頼まれちゃったんだ。」
幼馴染みに向けるくつろいだ笑顔。あんなふうに親しげに微笑む彼女を見ていると、あんなに恋し合った私たちなのに、今はもう他人なのだと改めて現実を突きつけられた気がした。
恋人だったはずの私と、幼馴染みの彼。比較すること自体が馬鹿げているかもしれないけれど、その差は大きく逆転し、手を伸ばしても届かないほどに隔いている。
(
同じ高校に通っているだろうことはなんとなく予想がついたけれど、立て続けに再会するなんて偶然にしてはあまりにできすぎているような気がした。
(もしかして、彼と再会したのも何かの意味があるんだろうか?)
そんなことを疑ってみるけれど、こんなふうに都合よく考えるのはもう何度目だろう。埒が明かない。
(どのみち彼もまた私のことなど知らないのだろう)
さっきからまるで蚊帳の外となっている自分を思うと、彼が私をどう見ているかなんて火を見るより明らかだった。
だったら会話が終わるのを黙って待つよりほかにない。
「そっか。なら、手伝おうか?」
「ううん。せっかくの昼休みがもったいないよ。自分のクラスのことを、他のクラスの子に頼めないし。」
「そんなの気にしなくていい。俺が手伝いたいんだからさ。」
こうして二人がやりとりを始めてすぐ、友達は彼を置いて先に行ってしまったようだ。こんなふうに廊下でばったり遭うと話し込んでしまうあたり、明け透けで仲のよい幼馴染みだということを物語っている。思春期特有の冷やかしややっかみもなく、周りの同級生たちは二人の間柄を公然と認めているような気がした。それが、単なる幼馴染みという枠組に収まるのかどうかは別としても。
(なんだか立場がない気がする…)
すっかり手持ち無沙汰になってしまった私は、先生や生徒の行き来が多いこの廊下で邪魔にならないようにと窓際へ寄り、仕方なく裏庭の花壇を眺めていた。なんという名前なのかはわからないけれど、橙や黄色の丸い花が規則正しく列をなして咲き誇っている。夏といえばひまわりだけど、花弁の色が夏らしくていいと思った。
「あの!」と、やや強めの声で注意を引かれ弾かれたように振り返ると、「俺も手伝います」とさわやかに微笑みながら彼は言った。
手伝ってくれるのはもちろんうれしいのだけど、許可を出すのは自分ではないと思い少しばかり戸惑ってしまう。そんな私に構わず、待ってましたとばかりに彼女はうれしそうな声を上げた。
「ありがとう翔太くん。」
今にも飛びつきそうなほど弾んだ声は、彼と過ごす時間がいかに有意義であるかということを物語っていた。
もしかすると私が知らないだけで、二人はとっくに恋人同士なのかもしれない。勝手に私が幼馴染みだと決めつけているだけで、この世界では二人が恋人同士なのはみんなの常識なのかもしれないじゃないか。
(そうだとしたら、私は一体なんのためにここにいるのだろう…?)
知りたくもない現実を突きつけられるのなら、あのまま死んでいたほうがマシだった。終わってしまったほうがよかったんだ。それなのになんでまた生かされているのだろう。
「やっぱり迷惑ですか? 人手があった方がいいと思ったんですけど…」
「そんなことないよ翔太くん。そうですよね?」
「え? あぁ、そうですね。うん。彼女の言うとおりです。」
せっかく彼女に同意を求められたのに、何を聞かれたのか私にはまったくわからなかった。つい考え込んでしまっていて、彼の話を聞いていなかったのだ。当然ながらそれは私の返答にも表れていた。
形のきれいな眉をわずかに寄せたように見える彼女は、ちゃんと聞いていたのかと澄んだ瞳で暗に問うている気がした。出会ってから着実に印象は悪くなっていくのに、それを止める術がもう私にはわからない。何をしても彼女の機嫌を損ねてしまうんじゃないかと思うと、下手に何かを口走ったりしないほうがいいと思った。
「ほらね。救命士さんもこう言ってるし、急いで準備しちゃわないと。」
「そうだな。そろそろ予鈴がなりそうだし…って、あと5分しかないじゃん! 星、急ごう。」
二人は互いを急き立てて、廊下の突き当たりにある連絡通路へと駆けていく。彼らの息はぴったりで、私がともに行動することが憚られるような気がして、駆けていく二人の背に「待って」という一言を投げかける気も失せてしまった。結果、私は置いてきぼりになった。
遠ざかる後ろ姿二つを淡々と見つめていると、片方の背中がくるりと反転するのが見えた。振り向いたのは星さんではなかった。
「どうかしましたか? 沖田さんも早く! 行きましょう!」
ごく自然に言い放ち、急いでいるという割にその場で立ち止まる彼。その横では、困ったような顔の彼女が立ち往生している。
(私の名前を…呼んだ?)
そう。彼は確かに私の名を呼んだ。聞き間違いなんかじゃない。
(どういうことだろう?)
手のひらに嫌な汗が浮かび、指先がぎこちなく固まっていた。
この現実が意味することとは、一体なんだろう。
矢も楯もたまらず急いで追いついた私は、彼の目を見据えながら震える唇から声をひねり出す。
「君は…」
「はい?」
「どうして私の名前を知っているんですか?」
被害者のような気持ちで、彼の瞳をまっすぐに見る。
彼には、私の正体を知るための機会などなかったはずだ。
(彼女が何も知らないのに、あなたが知るはずないでしょう?)
彼女の記憶から私が失われているということは、同時に彼の記憶からも私の存在は抹消されているべきだろう。それなのに、どうして彼は私の名前を知っているのだろう。あの頃だってただ名前と顔を知っている程度で親しくした憶えはないし、むしろ思想の異なる者同士いつ白刃を交えてもおかしくはない状況だった。まともに口を訊いたのだって、江戸の隠れ家に移ってからだ。
(だったら——)
考えられることはひとつしかない。
(彼は、最初から私を知っていた?)
目の前の平凡な男が、かつての沖田総司だと知っての発言だと言うのなら話は別だろう。でも、それならなぜ彼女だけ記憶がないのだろう。何らかの理由による記憶喪失なのだろうか。それとも、何か別の真実が隠されているのだろうか。
結城くんの不用意な発言をきっかけに、私の心は激しく揺さぶられていた。
「えっ? …どうしてって…」
大きな目をまん丸く見瞠いて絶句してしまった彼は、とんでもない失態を犯したという様子でしばらく放心していた。言葉を失った彼の横顔を覗き込み、星さんは後ろから腕を引いて軽く揺さぶっている。
「…翔太くん?」
「あ、いや…その…」
彼女にせっつかれてさすがの彼も何かを言おうとするのだが、言葉にならずにばつの悪そうな顔で俯いてしまう。答えに窮するあまり、沈黙を守るしかなかったのだ。
そんな彼の心情を思いやりたい気持ちはあったのだけど、私には今この場で明らかにしたい気持ちの方がいくらか勝っていた。
もう少し探りを入れてみる必要がありそうだ、とそんなことを企んだときだった――
こほっ…こほんっ
最初は何が起こっているのか、にわかには理解ができなかったけれど、咄嗟に出た口を覆う手のひらが乾いたままの手触りだったことに唖然とし、咳をしているのは自分でないことを理解したときに、初めてそれが彼女の口から洩れ出る苦しげな音だということに気がついたのだった。
結城くんも私もそれに注意をとられ、止まらずに続く彼女の咳に立ち竦む。やがてそれは回を追うごとに激しくなっていった。
その咳に共鳴するかのように、私の脈は加速をつけて乱れていく。あの頃の嫌な感覚がよみがえるかのように。
「星? あれは持ってるのか?」
激しさを増す咳のせいで立っていることができなくなった彼女は、強ばる体を沈めその場にうずくまってしまった。庇うように立ち膝をついた結城くんが、落ち着いた声音で問いかけながら震える背中を撫でている。
スカートのポケットを必死にまさぐっている彼女の手が見えるのだけど、手ばかりが焦って動き、肝心の中身を拾えないでいる様子だ。
(もしかして喘息なのか?)
急なことで気が動転しているのかもしれないけど、さっきから手は必死になってスカートの襞をまさぐり、見当違いな方向へ気忙しく動いている。見ている私としては気が気ではなく、手を貸してあげたくなるくらいもどかしかった。
「落ち着けよ。大丈夫だ。俺がついてるからな。」
咳をしながら何度も頷く彼女だけど、目当てのものが一向に出てこない。ようやくポケットに入った手が掴んだのが彼女に必要な吸引器だったならよかったのに、戻ってきた手のひらには残念ながら何も握られてはいなかった。
あっと呻きそうになる自分よりも早く、結城くんは元来た道を戻り駆け出していく。
「無いんだな? よし! 俺が教室を見てくる! ちょっと待っててな!」
職員室を通り過ぎてすぐそこの曲がり角、二階への階段に向かい、彼が驚くほどの速度で走っていく。
幸い、人の気配は感じられなかった。
「すみません。詳しくは後にしてもらえますか? それと、彼女のことお願いします!」
走りながら彼はそんなことを言い置いて、やがて階段を駆け上がる音とともに消えていった。
それは一陣の風のようにあっという間に通り過ぎ、消えた後の通り道はとても静かで、さっきまで一緒にいたことがまるで嘘みたいに信じられなかった。
(彼は何かを隠してるようにも感じられる)
彼の行動を複雑な心境で見送った私は、今にも消え入りそうな彼女に触れようとし、震える肩先に手を伸ばしかけて…やめた。
今この場で触れてしまえば、彼女が私の知っている星さんではないことを一瞬だけ忘れてしまいそうだったからだ。
たぶん、触れてしまえば止められない。今すぐ溢れ出しそうなこの思いを、何も知らない彼女に押しつけてしまいそうだから。そしたら、彼女はきっと嫌な思いをするに違いないのだ。だったら、この一線を越えるべきではないのだ。
「彼が来るまでもう少し。頑張って…」
背中を撫でてあげる代わりに励ましの言葉を重ねるけれど、自分にとってはそれがかえって虚しいことのように感じられた。
本人にとって必要なのは、私の言う励ましの言葉なんかより、頼もしい幼馴染みが持ってくる吸引器ではないだろうか。
(こんなときに言葉しかかけてあげられないことが虚しく感じられる)
他人である以前に、自分は役立たずなのかもしれない。彼女には、自分なんてもう必要ないのかもしれない。隣にいる資格すら、ないのかもしれない。
――いつでもあなたのそばにいます
星さんが枕元に座っているだけで、孤独を感じずに済んだんだ。
私はひとりぼっちなんかじゃないって、あなたが教えてくれたから。
――手を握っていますからね
咳が止まらない私の手を、ずっと離さずにつないでいてくれた。
私はその手にしがみついて、胸に引き込んで、嵐が過ぎるのを待ったんだ。嵐は何度もやってくるけど、あなたの優しい手があるだけで、うんざりするほどの苦痛も忘れられたんだ。
――大丈夫 怖くありませんよ
どんなに絶望的な闇がよぎっても、あなたがそう言って微笑んでくれるだけで、闇に打ち勝つための勇気がわいてきたんだ。
あなたと二人なら、どんなことも乗り越えられる気がした。病すら怖がって逃げるような、まぶしい光だったあなた。
(ああ、そうか…)
(彼女もおそらく苦しかったんだろう)
泪が溢れそうになった。
大切な人が目の前で苦しんでいるのに、言葉しでしか伝えられない歯がゆさというのを、私は身をもって知ってしまった。
現実におののきながらも、いっさいの不安も口に出さずに見守り続けてくれた彼女。その心の中を今なら覗くことができる。
(残酷なことをしてしまった)
どれほど心細かったことだろう。
どんなに励ましの言葉を重ねたとしても、骨と皮だけになって弱り果てていく私を四六時中見続けていたんだ。気丈に振る舞ってはいたけれど、流した涙の数は計り知れない。苦しくないわけがないじゃないか。
(もっと、彼女にかけるべきふさわしい言葉があったんじゃないだろうか)
(私は彼女に何を伝えた?)
私たちはその結末を避けたがった。そのことには触れないように、なるべく明るい話題を探して笑い合った。
「あの猫はあなたに似ていますよ」とか、「あの雀は私にそっくり」だとか。他愛もないことを次々と口にして、最初から何事もなかったかのように消えてなくなることを願ったのかもしれない。叶わないと知りつつ、無意味だとわかっていながらも願ったのかもしれない。
(もっと、ちゃんと伝えればよかった)
たとえ彼女を泣かせることになったとしても、ちゃんとありのままの現実を伝えればよかった。やさしい騙し合いなんかせずに、二人でわあわあと声を上げて泣けばよかったんだ。
(本心を彼女に告げなかったことは罪だ)
彼女に支えられ、癒され、最期を穏やかに暮らせたこと。そのありがたみを、私はひとことも伝えていなかった。感謝の言葉を伝えた瞬間、もしかしたらそのまま死んでしまうんじゃないかとビクビクしていたのを思い出す。
死ぬのが怖くて臆病すぎた自分は、昼間の夢を見すぎるあまり自らの本心に目を背け続けていたのだった。
(言葉が足りなすぎた)
(足りない言葉を補うほど、私は彼女に何かしてあげられただろうか?)
――共に未来へ行きます
そんな嘘までついて。
なにひとつ真実を伝えられなかった。
男の意地――ちっぽけな見栄。
最後を嘘で終わらせてしまった。
だから、私は罪だ。
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元ネタは艶が~るです。