涼州の治安に問題無し。五胡の侵攻に対しては、部族連合が魏と連携してこれに当たることを約束。
元より常駐予定で派遣した部隊を残し、そんな報告と共に霞たちが帰ってきたのは予想よりもかなり早い日数の後だった。
風と稟をも派遣して万全の態勢で送り出したが故か、との予想はしかし、報告によって否定された。
稟の口から為された報告から浮かび上がるは、馬騰の非凡さ、その一言に尽きた。
己が為の理由で去る西涼を、さりとて漫然と放置するでなく、その後の各勢力の動きを予測した上で五胡から防護しきる最良を選ぶ。
それが敵に塩を送る行為となり得ようとも、着実に準備を整えてから発っていたことが判明したのである。
魏にとっては諸々が楽に進んで助かった面があるものの、諸手を挙げて喜べるかと言えばそうもいかない。
この一連から感じる、馬騰の本気の度合。それだけ大きな壁となることが推察できるのだから。
これに危機感を一層強く持つことが出来た武官勢は、自主的に鍛錬を激化。
釣られる形で他の将までもが過酷と言いたくなるような鍛錬に身を削るようになっていた。
血反吐を吐くかの如き基礎鍛錬をやり通せば、自然と全体の実力が底上げされていく。
基礎鍛錬の後は仕合を中心とした実戦を模した鍛錬。
戦闘勘を、技を磨き上げ、上も下も無く全武官が一丸となって切磋琢磨して高め合う。
立て続けに刺激され、無理にでも盛り上げる方向へと持っていかれたモチベーションにより、理想的な状態が構築されていた。
しかし、未だに残る懸念が一つ。恋である。
先日の一件で恋は調子を取り戻しているかに見えた。が、どうやらそれは一時的なものだったらしい。
未だに恋は一刀に勝つことが出来ていない。
だがこの件に関しては進展が全く無いわけでは無かった。皆の感想や一刀自身の所見、他者と恋との仕合の観戦の結果を撚り合わせ、原因らしき事象に行き着いたのである。
その鍵は恋の戦績にあった。
端的に言ってしまえば、恋に対して急に強くなったのは一刀のみであり、その直後に仕合をした者も多少の影響を感じていただけであった。
これだけでは単に一刀が強くなっただけなのでは、と思ってしまう。
が、本人も言っていたように一刀の実力は劇的に変化などしていない。
仕合運びかはたまた剣筋か。どこかしらに原因があるはずだと突き詰めてみた結果。
恋は一刀の虚の攻撃、つまりフェイントに惑わされやすくなってしまっていたのだった。
これは事実と照らし合わせても辻褄は合う。
魏において虚の攻撃を織り交ぜた戦闘スタイルを持つのは一刀のみなのだ。
直後の戦闘では恐らく負けたことによる内心の動揺が恋の中にあるのだろう。
そこに行き着いて、一刀は仮説を立てる。
恋は馬騰に負けたことで攻撃に対する認識が過敏になっているのかもしれない、と。
敏感に反応し過ぎるが故に、今までは虚であると見抜けていたものも、ひょっとすると、との疑心から引っ掛かってしまうのではないか。
これはつまり恋がトラウマ、重い言い方をすればPTSDを患ったことになる。
さすがの一刀と言えど、これの治療法などは聞いたことも無い。
ただ、もしもこの仮説が真実であれば、下手に素人が手を出せば拙いことだけは分かる。
さてどうすべきか、と一刀は悩む。否、悩もうとする。が。
最近では恋の方から積極的に仕合を持ち掛けて来るのだから、ちょっとした困り事になっていた。
恋自身も自らの変調を自覚してどうにかしようとしているのだろう、戦闘中にも一刀をじぃっと見つめ続けている時がある。
それでも見極めるどころか余計にフェイントに引っ掛かるようになり、本末転倒もいいところなのであった。
「はぁ……どうしたもんかなぁ……」
とある日の夕方。
この日の鍛錬等仕事を全て終えた後、一刀は溜め息と共に独り言ちながら街を歩いていた。
今一刀の頭の中を占めるのはほとんどが恋に関する問題。
恋が今後も戦に参加する意志を見せている以上、その多大なる戦力は計算に入れておきたいところ。
その為にも恋の問題をどうにかしたいのだが、いくら考えようとも一刀にはその解決法が思いつかないのである。
自室に籠って考え続けたところで煮詰まってしまった思考は進展を見せない。
だから、気分転換を兼ねて一刀は街を歩いていたのであった。
そうして唸りながら街を歩き、道端の相当な数の人集りを通り過ぎようとした時のことだった。
あまり通行の邪魔にはならないように~、と集団に声を掛けた一刀の耳に、不意に懐かしい声が届くこととなる。
「お?今の声は……一刀!久しぶりだな!元気にしてたか?」
「ん?おぉ、華佗!久しぶり!ちょっと色々あったが、概ね元気だったよ。
華佗の方こそ、大事無かったか?ちょくちょく報告を聞いてはいたけど、本当に大陸中を回ってるそうじゃないか」
「俺は問題無いさ!何せ、いざとなっても俺にはこいつがあるからな」
言って華佗は手に持つ鍼を軽く掲げて見せた。
どうやら今は路上販売ならぬ路上診療を行っていたようで、この人集りは華佗に診てもらおうと集まった民たちなのであった。
「それにしても、驚いたよ。戻ってきていたんだな、華佗。
最近は他が慌ただし過ぎて、そっちのことは全く知らなかったよ」
「まあ俺の旅路は気まぐれだからな。っと、すまない。
先に皆の治療を済ませてしまう」
「ああ、そうだな。少し待たせてもらうとしよう」
会話を一旦切り上げて治療に戻った華佗を、一刀は待ちつつ眺める。
相も変わらず摩訶不思議な治療法だが、腕は確かなもの。掠り傷から自覚症状の無かった重めの病まで、瞬く間に氣を用いて治療していく。
治療に掛ける時間も他の医者に比べて圧倒的に短く、まさに”神医”の名に相応しい働きぶりであった。
玉に瑕なのが治療に際して発する気合の叫び声だったが。
そんな調子なものだから、華佗が人集りを捌き切るのに四半刻もかからなかった。
「すまん、一刀。待たせた」
「いやいや、むしろ早いくらいだろう?
天の国にすら、あれだけの人数をこれほど早く診療出来る医者なんていなかったよ。さすが華佗だな」
「ははっ、一刀にそう言ってもらえるのは嬉しいな。
だが、俺はまだまだだ。どれだけ腕を上げたと思っても、大陸を旅すればするほど、俺の腕では癒せない人に巡り合ってしまうんだからな……」
華佗の見せる悲し気な目は救えなかったその人たちを思ってのものだろう。
医者の鑑。そんな言葉が一刀の脳裏を過ぎる。が、すぐに打ち消した。華佗のこれは、そんな言葉に収まるようなものでは無い、とそう感じたのだから。
「そう言えば、華佗、大陸を巡っているにしては許昌に戻ってくるのが随分早かったな。
もしかして、華佗の旅に回している支給品に不足があったか?」
「何を言うんだ、一刀!むしろ十分過ぎるほどだ!」
予想外だ、と。そして心外だ、と。そんな心情を綯い交ぜにした表情で華佗は即座に一刀に返した。
それからコホンと咳を入れて気を落ち着けてから、華佗が続ける。
「実はな、今回許昌に来たことだけはただの気紛れじゃないんだ。
何にしても丁度良かった。実はあの後にでも城に行ってお前に会おうと思っていたんだ」
「俺に?……どうやら、単純に再会の盃を、って話じゃ無さそうだな?」
「ああ、そうなんだ。確かめたいことと、それから頼みたいことがある」
一刀に向けられる華佗の瞳は真剣そのもの。
切羽詰った様子や焦った様子は無いので、緊急を要する危機の類では無いようであるのがまだ救いだった。
一刀が視線で先を促すと華佗は自身の用向きを話し始めた。
「ここ最近の話だが、大陸の各地である噂を聞く様になった。魏が陛下を保護している、ってやつだ。
一刀、これは本当のことなのか?」
「ああ、本当だ。一応補足しておくが、無理矢理連れてきただとかそういうことは無い。
飽くまで協と弁が自主的に付いてきた。それを便宜上保護と称した。ただそれだけだ」
頷きつつの即答。瞳も逸らさず表情も真剣なものを返すことで、一切の虚偽は含んでいないことを示唆する。
それを読み取ったか、そもそも一刀が嘘を吐くとは思ってもいないのか、華佗は欠片も疑うことなくこれを信用した。
「やはり本当だったか。何があったかまでは聞かないことにしよう。
それで頼みなんだが…………
一刀!俺が陛下に会うことは出来ないか?!どうしても直に聞いておきたいことがあるんだ!」
ド直球な華佗のこの要望には一刀も一瞬面食らう。
普通ならばまず許可などしないだろう。
魏に留まることとなった経緯も経緯だし、何よりまだ皇帝というその地位は生きているのだから、迂闊な真似は出来ない。
だがそれも、望んでいる者が華佗となれば話は別であった。
華佗は純粋に、ただ協と話がしたいと訴えている。それを信じるに値する程度には親交を深めたつもりだし、隠すつもりがさらさらないその性格も饒舌なまでに物語っている。
それに、仮に華佗が何かしらよからぬ企てをその胸中に秘しているのだとすれば、かつて洛陽にあった時に為しているはずなのだ。
故に、一刀の答えは一つだった。
「一応聞いておくが、華佗が一人で、なんだよな?
だったら問題は無いだろう。俺が場を作ろう。
正式な場がいいか?」
「そこまで大したことをするつもりじゃないから出来れば個人的にの方がいいんだが、いいのか?」
「普通は問題有りなんだが、まあ大丈夫だろう。
洛陽で一応面識があるだろう?協が承諾しさえすればすぐにでも。
但し、念のために俺もその場に同席させてもらうが、それでもいいか?」
これほどすぐに色よい返事をもらえるとは思っていなかったのか、華佗は満面の笑みで答える。
「ああ、構わない!
それよりも、悪いな、一刀。都合よく利用ばかりしているみたいで」
「なに、気にするな。こっちも華佗の支援には条件を付けてはいるんだからな。
…………近く、大きな戦が起こるかも知れない。大陸の命運を懸けた大戦が、な。
きっとその時には…………」
「分かってるさ、一刀。その時は、俺も魏の内陣にいよう。
俺はお前を信じると決めたからな。それくらいの協力ならば喜んでするさ」
「……ありがとう、華佗」
深刻な表情と声には真剣な表情と篤い信頼で。
華佗は本当に素晴らしい人物だ、と改めて思う一刀であった。
華佗との約束が決まったとは言え、さすがに時間も時間である。
協達との面会は翌日に繰り下げることになった。
華佗はずっと集まってくる民の治療をしていたということで、まだ夕食を取っていないと言う。
そこで今は夕食を取るために二人並んで飯店を目指していた。
その道中のことである。一刀はふと思い立って華佗に尋ねてみた。
「なあ、華佗。お前って体の病は大抵治せてしまうんだよな?」
「ものと患者にも依るな。大きな病や強い毒なんかが相手だと、患者次第になるところが大きい。
正直なところ、お前はかなり幸運だったんだぞ、一刀。
前にも言ったが、附子毒の治療なんてお前相手以外に成功するとも思えない。
あの奥義はそれこそ名を馳せるような将より上の患者にしか使えないな。それがあの一件でよく分かったよ」
「それでも十分過ぎるほどなんだがな。
ところで、華佗。心の病ってものは、治すことが出来るのか?」
これが本題だと言外に示す一刀。
それが華佗に伝わり、真摯な返答が為された。
「基本的には無理だ。人の心ってものは五斗米道の神髄を以てしても干渉することが出来ないんだ。
だが、心の病に見えるだけの体の病であれば、可能性はあるぞ」
「それは……多分、違うだろうな……」
残念だが、と一刀はそう言う。
その様子を見て、華佗は何事かを察した。
「お前の周りで、誰かが心の病を患っているのか、一刀?」
「あぁ、実はそうなんだ」
「誰なんだ?良かったら教えてくれないか?
もしかしたら、俺にも出来ることがあるかも知れない」
問い返してくる華佗からは心から力になりたいと思っていることが読み取れる。
例え困難な病が相手であっても、患者の情報を目の前にして関わらずに放っておくことが華佗には出来ないのであった。
不器用だが、暖かい。華佗のそんな想いをありがたく感じ、一刀もこれに応えることにした。
「そうだな。是非、頼みたい。
意外かも知れないが、武将の一人だ。誰なのかだが、それが――」
「……あ、一刀」
不意に後方から声。
振り返れば、そこには今まさに話題に出そうとしていた当の本人がいた。
「恋か。今日はどうしたんだ?」
「…………何となく?」
「何で首を傾げるんだか……いや、まあいい。
悪いけど恋、今は――いや、丁度良かったか。
恋、良かったら一緒に夕食に行かないか?今から華佗と行くところだったんだ」
一刀は今から華佗と夕食を囲みながら話を詰め、明日に協たちの件と共に片付けてしまおうと思っていた。
だが、考えてみれば華佗と詰めるべきものが少ないのであれば、このまま恋も連れていけば話が早くなる、とそう考えなおしたのである。
「……ん、行く」
恋が頷く。
そこまで見て、華佗は得心したようだった。
「一刀、さっきの話、あれは呂布将軍のことだったんだな。
確かに、意外と言えば意外だ。だが、あれは誰にでも起こり得ることだからな。
例えお前であってもだぞ、一刀。だから、気を付けてくれよ?特にお前は無茶をする奴だからな」
「はは。ああ、分かってるよ。毎度心配を掛けてしまっているようですまないな、華佗」
友としてか医者としてか、はたまた両方か。華佗の心遣いに感謝の言葉を述べる。それから、そろそろ行こうか、と声を掛けた。
諸々は夕食の後で、ということで、三人は談笑しながら飯店へと向かい、夕食を取るのであった。
「話を聞いた限りじゃあ、何とも言えないな……」
夕食を取り終えた後、その場で聞いた話を纏めて華佗がそう呟いた。
言わば問診のようなものになるが、さすがに話だけでは華佗にも正確な診断は出来ないということだった。
「なあ、華佗。どういった症状までなら、華佗に治すことが出来る?」
気になっていたことを一刀が問う。ついでに今日これからの行動指針のためでもあった。
「さっきも言ったことだが、もしも原因が体の中にあるんだったら可能性は高い。
だが、本当に心に原因がある場合は、申し訳ないが俺にはどうしようもない」
「そうか。まあそれは仕方が無いか。
その見極めには、やっぱり氣を使うんだよな?」
「まあそうだな。五斗米道の治療は氣を以て病の核を見極めるところから始まるからな」
華佗が氣を用いる。これはつまり、あの気合と溢れんばかりの氣の放出があると言う事だ。
さすがに店内や日も落ちた街中でこれをさせる訳にはいかない。
となれば、と一刀は華佗にもう一つ問う。
「華佗、今日の宿は決めているのか?」
「いや、まだなんだ。何せ昼にここに着いてからずっと治療に時間を費やしていたからな」
「だったら、城の一室を提供しよう。
その代わりと言っては何だが、そこで恋を診てやってはくれないか?」
「ありがたい!そんなのはお安い御用だ」
「恋も、それでいいか?」
「……ん」
食事中に恋にも自身の容体についての一刀の予想が伝えられていた。
その内容が原因か、今日の恋はいつもよりも食べる量が少なかったような気が一刀にはしていた。
確証が持てないのは普段からの量が量だからなのであるが。
ともかく、華佗の同意も恋の同意も両方得られたことで、店を後にした一刀は二人を連れて城へと足を向けることとなった。
華琳に話を通せば、華佗の部屋の用意はすんなりと済んだ。
以前に説明した華佗を支援しておくことの魏にとってのメリット。それは各地から報告される華佗の活動内容によってより強固に主要人物の間に根付いていたのである。
華佗に宛がわれた部屋に着くと、すぐに恋の診察が開始される。
例によって例の如く、華佗の気合に呼応するようにして高まった氣が華佗を包み込む。
そして、人とは違うものが見えるようになった目で華佗は恋の全身を隈なく観察した。
やがて、フッと証明が消えるようにして華佗を包む氣が霧散する。
軽く溜め息を一つ吐いてから華佗は診察の結果を話し始めた。
「残念だが、呂布の体に悪いところは見られなかった。
どうやら俺に出来ることはこれ以上無いみたいだ。すまない」
「謝らないでくれ、華佗。元々こっちが無理を言ったようなものなんだし。
ということで、恋。恋も知ってしまったことだし、どうやったら治せるのか、明日から色々と試してみよう」
「……ん、分かった。華佗、ありがとう」
恋の礼にも若干恐縮気味だった華佗だが、恋の為人をそれなりに知っているだけに、ここは素直に受け入れることにしていた。
「それじゃあ、華佗、また明日。
協と話を付けたら呼びに来るよ」
「分かった。すまない、一刀。ありがとう。
また明日な」
別れの挨拶を交わし、一刀は恋と連れ立って華佗の部屋を出る。
と、恋が彼女の部屋とは別方向へと足を向けた。
「ん?どうしたんだ、恋?」
「……中庭、行く」
「そうか……分かった。
俺は部屋に戻るよ。何かあったらそっちに来てくれ」
「……ん」
離れていく恋の背中はいつもと違うようには見えない。
それでも、その行動がいつもとは異なる状態にあることを雄弁に物語っていた。
今、恋が何を思うのか、それはさすがの一刀にも分かり得ない。
出来る限りのサポートはしていこう。そう一刀は心に決めるのであった。
翌日、朝。
早朝と言うほどでは無いが、それでも遅いというほどでも無い時間に、華佗の部屋の扉がノックされた。
この風習を知らない華佗は音に気付きつつも不思議そうに首を傾げる。
「誰かいるのか?」
「へ?……ああ、そうか。華佗は知らなかったか。ごめんごめん」
そんな言葉を発しながら扉から入ってきたのは一刀。
そして軽くノックの風習についての説明を華佗に行った。
それを終えてから、一刀はここを訪ねた用件を話す。
「華佗、協の許可が取れた。今日は特に早急にするべきことも無いからいつでもいいらしい。
どうする?すぐ行くか?」
「そうだな、そうしてもらえるとありがたい。
二、三質問がしたいだけだからそう時間は取らせないと思う」
「そうか。分かった。
それじゃあ、行こうか」
どのような質問をするのか、など野暮な問い掛けはここではしない。
単純に二度手間となることもあるが、もしかすると他人には聞かせたくない話の可能性もある。
どちらにせよ、一刀はその場に立ち会うことになっているのだから、今焦って聞き出す必要性を感じないのであった。
二人揃って部屋を出て、城内最奥に近い協たちの部屋へと向かう。
特に何事もなく目的の部屋へと到達し、一刀は扉をノックした。
中からの声がこれに「どうぞ」と答える。
一刀が扉を開ければ、協は既に服装を整え、椅子に座って待っていた。なお、弁はいつものように協の斜め後ろに立っている。そこが既に定位置となっているのだろう。
「白、朱。さっき話した通り、華佗を連れてきた。
何でも尋ねたいことが二、三あるそうだ」
「そうですか。華佗さん、でしたよね?お久しぶりです」
「お久しぶりです、陛下。それに劉弁様も。
このような不躾なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます」
洛陽において一応の面識がある両者は対面の挨拶を簡単に済ませる。
ここで協の話し方に違和感を覚えて言葉を詰まらせたりしないのは華佗が物事を良く受け入れる人間だからだろうか。
何にせよ、問題らしい問題もなくその場が始まった。
「問いたいこと、とは何でしょう?
私に答えられることでしたら、可能な限り答えましょう」
「それでは遠慮無く尋ねさせて頂きます」
スゥッと息を吸い込み、顔付きを変化させる華佗。
その口から発せられる声もまた、真剣味を増していた。
「陛下は東西南北、各地における細かい情勢は把握しておられましたでしょうか?
陛下に限らず、前皇帝・劉弁様、前々皇帝・劉宏様におかれても、どうであったかをお聞きしたい」
「各地の情勢、ですか……申し訳無いのですが、私に関しては大きな動向は掴んでいた、としか言えません。
お姉さまは……」
「私は全く知り得ませんでした。それどころか、政に関わる一切の詳細も届けられていない始末でした……
政変の最中だったとはいえ、皇帝としての立場でこれでは、今になっても悔いが尽きることはありません」
「お母さまが把握していたかについては、私たちは知り得ていません。
何分、お母さまが御在位なさっている時は、まだ私たちも幼く、政についても学び始めたばかりでしたので」
一つ目の問いに対しては、このように協と弁が交互に分かる範囲を答えた。
総合して一言で表せば、否となってしまう答え。
だが華佗はそれで気分を害した様子は無い。事実、眉すらピクリとも動かさなかった。
ただ、答えられた事実を捉え、続く質問の内容を整えていた。
「大きな動向、ですか。その中には、疫病の情報も入っておりますか?」
「疫病……飢饉も含め、その類の話が入ったならば伝えてほしいと詠さんには頼んでいました。
疫病に関しては特に何も報は無かったはずですけど……?」
訝し気に問い返す協。チラと横目で見れば弁も同様であった。
対して華佗の表情は渋い。それは”予想外”を答えられたのでは無く、”予想通りに悪い”答えが返された反応に見えた。
「やはり、中央にまでは報告が行っていなかったのか。
この分だと劉宏様の坐した時でも同じかも知れないな……」
答えを得ると、ブツブツと自身の考えを纏めに入る華佗。
その一種鬼気迫るような様子に誰もが不用意に言葉を掛けられず、妙な沈黙が場を包み込むこととなった。
そのまま暫し、やがて華佗が顔を上げる。
「陛下、そして劉弁様。私は師匠より五斗米道の奥義を授かってよりこちら、ずっと大陸を旅してまいりました。
その過程で様々な街や邑を訪れては風土病や疫病に苦しむ民を見つけて助け、治療を終えたら去る。そんな当てもない旅でした。
ですが、いつからか、奇妙な噂を耳にするようになりました。
弱い地揺るぎの後、正体不明の疫病と共に人が消える摩訶不思議な現象に見舞われる。そのような噂を。
陛下のお耳には届いておりませんか?」
「な、なんですか、その話はっ?!それは民が亡くなっているということですかっ?!」
「いえ、それが不思議な現象というのはその後のことも含んでおりまして。
実は消えた民なのですが、二、三日もすれば何事も無かったかのようにそれぞれの街や邑に戻っているのです。
実際、私もその当事者と思しき者に会い、診察に託けて体内の氣の巡りを探ってみました。
ですが、異常は全く見当たらず……精々、例の二、三日の記憶がごっそりと無いくらいのものでした」
華佗の答えに協は安堵の息を吐いた。
「なんだ、そうだったのですね。良かった……
ですが、確かにとても不思議な現象ですね……あの、兄上?」
「……ん?」
突然話を振られ、矛先が来るとは思っていなかった一刀は思考に沈んでいたために若干返事が遅れてしまう。
が、協の方は特に気にした様子も無く問う。
「兄上は何かご存知ではないでしょうか?もしかすると、天の国の知識に該当するものはありませんか?」
「残念ながら無……ん?だがもしや、あれなら……いや、無い。うん、無いな」
「そうですか……」
協には申し訳ないが、一刀はそう答えることを選択した。
実を言えば、二つほど可能性は考えられた。
一つは次元の裂け目が発生した説。
かつて一刀が飛ばされたあの白一色の世界。あそこへの道が何か突発的な理由により開いたのではないかというもの。
だが、これは即座に却下。
理由は至極単純で、この世界には正史の人間は一刀しかいない(と思われる)からである。
あの時、貂蝉はこう言っていた。『ここは正史と外史の狭間の空間だ』と。その辺りの説明のニュアンスから考えて、あの空間に入れるのは正史の人間のみなのだろう。
そして二つ目が、キャトルミューティレーションである。
そう、言わずと知れた宇宙人による誘拐事件のことだ。
だが、これも即座に却下――――といきたかった。何せ、本当にこれだとすれば数が多すぎて目立ち過ぎているからである。
ところが、忘れてはならないのは、ここは”外史”だと言う事。
つまり。もしも。もしもの話だが、この外史に影響を及ぼし得る多くの人間が、『宇宙人の登場』を願ったらどうなるか。
――――そう、きっと宇宙人がこの外史のどこかに現れるに違い無い。
貂蝉曰くこの外史は既に自立したものとなり始めているとは言え、まだまだ想いの上書きは起こり得るものと考えておくべきだろう。
ただ、この二つ目の理由は誰にも話すに話せないものであった。
まず諸々の概念がこの世界の各種学問水準では理解出来ないだろうし、徒に不安を煽るばかりになるだけだからである。
一刀としても、可能性は僅かばかりあるかも知れない、程度に留め、頭の片隅に押しやることにしたのだった。
「分かりました。
華佗さん、私から華琳さんにお頼みして噂の詳細を掴んでもらおうと思います。
よろしいでしょうか、兄上?」
「そうだな。確かにこれは調べておく価値はありそうだ。
俺からも口添えすることにするよ。
情報が固まり次第、華佗の側付き役を担っている兵士に伝言で飛ばす。
それでいいか?」
「ああ、それで構わない。頼む、一刀。
陛下も、お時間ありがとうございました」
「いえ、有意義なお話をお聞きすることが出来たと思っています」
深々と頭を下げ、華佗は下がっていく。
彼に合わせて一刀もまた退室していった。
「すまなかった、一刀。助かった」
「いや、全然問題無いよ、これくらい。
それにしても、さっきの話……あれ、いつ頃からとかは分かるのか?」
一刀の問い掛けに華佗は腕を組み、首を傾げて考え込む。
「ん~~……………………ああ!お前の毒を治療して、それ以降の旅で耳にするようになったんだ!最初の内は特に何も無かったんだけどな」
「…………定軍山辺り、か?」
一刀の予想。これがとある出来事とピッタリ一致する。
そう、それは先ほども述べた、一刀が白一色の世界へと飛ばされた出来事である。
これが一刀を益々混乱させることとなった。
上手く情報を整理出来ていない。それは分かっているのだが、これを為す術を一刀はほとんど持っていないのだった。
今回ばかりは桂花を始めとする軍師勢を頼りにすることは出来ない。
どうにかこうにか、一刀が一人で行わねばならないのだった。
「っと。今は置いておこう。泥沼化しそうだ。
さて。それじゃあ、華佗。俺は華琳に早速話を通しに行ってみるよ。
華佗はどうする?」
「俺は俺の本分に戻らさせてもらう。街に出て病に苦しむ民を治癒してこよう」
「分かった。それじゃあ、またな」
「おう!」
とある廊下の分かれ道で互いに手を挙げて別方向へと去っていく。
その時の両者の表情は互いの進行方向のように対照的なものであった。
華琳はいつも朝は早い。
この時間ならば既に執務室にいるだろう。そう踏んで一刀は華琳の執務室へと足を向けた。
その扉が視界に入った時、逆に中から扉が開かれる。そこから出てきたのは秋蘭であった。
秋蘭は執務室へと歩いてくる一刀を目に留めるとフッと笑んで挨拶をした。
「おはよう、一刀。華琳様に用事か?」
「おはよう、秋蘭。ああ、まあな。とある噂に関して、収集に力を入れるよう進言する。
……ここだけの話、黒衣隊を使ってもいいと思っているくらいだ」
最後の部分は声を潜めたため、自然二人の顔は近づく。
とは言っても、どちらも最早その程度で慌てふためくような初心な反応は持っていなかった。
「一刀がそう言うほどか。ならば、許可程度は問題ないんだろうな。
まあ、頑張ってくれ」
「ああ、ありがとう」
二人とも極々自然体。それはもう憎らしいほどに。
もしもこの光景をかの東京の友人が見たらきっとこう言うだろう。「リア充爆発しろ!!」。
そんなバカなことを考えていると、ふと秋蘭の目つきがとても優しいものになっていた。
それは母が子の成長を慈しむかのような、そんな慈愛に満ちたもので。
その様子からどんな言葉を発するつもりなのか、一刀には寸分の予想もすることが出来なかった。
「なあ、一刀。一つだけ言わせてくれ。
今日か明日、何があっても、お前はこの大陸の人間として決断を下してやってくれ。
”天の御遣い・北郷一刀”として、な。
お前が未だ、偶に口にする”未来の常識”なんて、今は捨て置いてほしい。
今、私から言えることはそれだけだ」
「ん?……悪い、どういう意味か分かりかねる」
「ふふ。なに、すぐに分かるさ」
意味深な言葉を残して秋蘭は去っていく。
後に残されたのは首を捻り続ける一刀のみであった。
その後、一刀は華琳の執務室に入室。ものの数分で話を取り付けてしまった。
尤も、華琳もその必要性を認めたのだから、話はトントン拍子で当たり前だったのだが。
こうして朝にすべきことも一段落し、ようやく一刀は落ち着けるようになった。
いくつかの新たな謎を抱えつつ、一刀もまた昼前辺りからの仕事をこなすべく、城外へと歩を進める。
そこからの仕事は余裕を持って行い、全てそつなくこなしていった。
そして、その日の太陽も傾き、赤い光を放ちながら西の地平へと沈み始めた頃。
一刀はとある人物に調練場へと呼び出される。
それが秋蘭の掛けた謎の言葉に繋がった事象だとは、一刀も薄々感じていた。
だが、その内容までは全く掴めていなかった。
いいさ、直接この目で、この身で、確かめてやる。
そう心構え、一刀は調練場へと足を踏み入れたのであった。
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第九十三話の投稿です。
久方振りのあのお人の登場。