三人が許昌に帰ったのは一週間後の夜だった。
春蘭と秋蘭はすぐに一刀の部屋に向かった。当然、風呂にも入っていないし、服も着替えていないから所々が汚れてしまっている。
それでも二人はすぐに一刀の部屋に向かった。
そして一刀の部屋の近くに来た時、部屋から一人の侍女が出てくるのが見えた。
「…秋蘭、見たか?」」
「あぁ…また、北郷は女を作ったのか」
「「はぁ」」
二人は盛大に溜息を吐いた。
部屋から出てきた侍女がこちらの方に歩いてきた。こちらに気づいているらしく、廊下の端に寄りながら視界に入ったところで一礼し二人のきた方に歩いて行こうとする。
「おい、ちょっと待て」
春蘭が声をかける。
「夏侯惇将軍、なにか御用でしょうか?」
「いや、先ほどお前が北郷の部屋から出てきたのが見えたのでな。…大丈夫だったか?」
「大丈夫、とは?」
「あやつは優男に見えるが相当に鬼畜でやり手だからな。なぁ秋蘭」
「確かに。北郷にはほどほどにしてもらわないとな」
二人の脳裏に“種馬”の二文字が浮かぶ。
「ご、誤解でございます!私と北郷様はそんな…私はただ北郷様の看病をしていただけで――――」
侍女は顔を真っ赤にしながら必死に否定する。だが、二人はそんなことは聞いてはいなかった。
『看病』
その言葉はそれぞれに受け取り方は違うが、二人の心を握りしめた。春蘭はここでやっとあの夜にあったことを思い出す。
「もしや、北郷はあの日から眼を覚ましていないのか!?」
「―――えっ?い、いえ。北郷様は夏侯惇が御出陣された夜から数日後に目は覚まされたのですがそれから体調が優れないとのことで…。先日、お医者様に診てもらったところ体に異常は見られなかったとのことで、心労からくる疲労だろうと」
「そんなことは聞いていなかったのだが…どういうことだ、姉者?」
秋蘭は表情こそ変わっていないが、あきらかに怒っていた。普段から感情をあからさまに表に出すことはしないがなにかしら柔らかさがあるのだが、今は完全に無表情。感情を全て殺している。
「しゅ、秋蘭、すまん!状況が状況で私も気が動転していたんだ!すぐに伝えようと思ったのだが」
「まぁいい。それで姉者が出陣した夜に北郷に何があったのだ?」
「あ、あぁ。あの夜、北郷は私に秋蘭が危ないと伝えている最中に突然倒れたのだ。北郷は気を失うまで秋蘭を助けてくれ、と言ってな」
秋蘭は話を聞くにつれ顔が強張っていき、そして緩んだ。
「そうか、北郷には感謝せねばならんな。それで」
秋蘭は侍女の方に向き直る。
「北郷の体に異常はないのだな?」
「はい。今は大事をとってお仕事はお休みになられていますが、体調も段々とですが快方に向かわれています」
「今、部屋に入っても大丈夫なのか?」
「はい。すでに就寝なされていますが、お顔を拝見されるくらいであれば」
「わかった。それでは下がってよいぞ」
侍女は再び一礼し去っていった。
「姉…」
「何をしているのだ、秋蘭。早く入るぞ」
秋蘭が声をかけようとした時には既に春蘭は一刀の部屋の前におり、扉に手をかけていた。秋蘭はそれを見て軽く微笑を浮かべ、扉の方に向かった。
部屋の中には規則正しい呼吸音だけが響いている。就寝中にも関わらず僅かな明かりを灯しているのは何時でも一刀の容態を診ることができるようにだろう。
そんな中で一刀は静かに眠っていた。春蘭と秋蘭は寝台を挟むように立ち、一刀の顔を眺めていた。
その眼差しはただただ優しく我が子を慈しむような母親のようであり、慕っている男性にだけ見せる熱に浮かされたようでもあった。
静けさの広がる室内。
寝台に眠る青年を見ているだけの二人の女性。
奇妙な光景であるとしか言いようがない。第三者が見れば気味が悪く感じるかもしないが、その部屋を包む空気は暖かく優しかった。
少なくとも春蘭と秋蘭はそう感じていた。
「こうして見ると北郷も年相応の少年にしか見えない、そうは思わないか姉者?」
「そうだな。この顔だけ見れば北郷が魏の種馬などと呼ばれているとは誰も思わんだろうな」
「不思議なものだ。華琳さま以外に我らをこれほど惹きつけてやまない者がいるとはな。それも男だ。以前の私から信じられないな」
秋蘭は寝台の端に腰を下ろし、そう言いながら一刀の頬を撫でる。
「同感だ、馬鹿でスケベで仕事もろくにできなかったくせに。それでも妙に憎めないのだ。よもや華琳さまにまで気に入られるとはな」
春蘭も同様に一刀の頬を撫でる。一瞬むずがる様な仕草をしたがすぐに気持ちよさ気な表情になった。二人はそのまま一刀の頬を撫で続けた。
どちらからともなく二人は笑い合った。
そこで不意に一刀の眼が見開かれた。
まだ寝ボケているらしくボーっとした表情で目だけを動かしている。
「すまないな。起こしてしまったみたいだな」
秋蘭が先に声をかけた。手はいまだ一刀の頬に当てられている。
一刀の視線も秋蘭の方に向く。
「いつまで寝ているのだ。我らが必死に戦っている間も寝てばかりいたらしいではないか」
春蘭は言葉こそ辛辣だが、その声色は柔らかい。
一刀は言葉を発しないで毛布の中から手を出し、二人の眼の前に差し出した。二人は一刀の意図に気づき差し出された手を自身の空いている手で手繰り寄せ自らの頬に当てた。
手を重ねたまま一刀は二人の頬を撫でさすり、そのまま二人の髪を指で梳く。土埃に汚れた髪はけして滑らかとは言えないが一刀は撫で続け、梳き続けた。
「よかったぁ」
心底安心したように呟き、一刀は屈託のない笑みを浮かべた。
それを見た春蘭はテレを隠すようにそっぽを向き「ふん」と鼻息をはく。秋蘭は笑みを浮かべる。その顔にはわずかに朱が差していた。
「俺の言ったこと信じてくれてありがとう、春蘭。生きててくれてありがとう、秋蘭」
「礼を言うのはこちらの方だ。北郷のお陰で生きながらえることができた。本当に感謝している」
「そうだぞ、馬鹿者。私が秋蘭を見捨てるわけがないだろう。私と秋蘭は姉妹なのだからな」
「それでもだ。秋蘭にもう会えないなんて嫌だよ。だからまた会えてすごく嬉しい。それに俺があの日、春蘭に言ったことが突拍子もないことだったはずなのに、それでも信じてくれたことが嬉しいんだ」
一刀は二人を交互に見てから言う。
「だからありがとうで間違ってないよ」
当然のことだと言わんばかりに満足気な表情で笑う。
「…卑怯だ!そうは思わんか秋蘭?」
「あぁ、卑怯だ。だが、こういう男だからこそ我らが惹かれるのだろう」
二人はやれやれといった感じで頷き合う。
「へ?秋蘭、今なんて?」
一刀は驚いたように聞き返した。
「好色漢の癖に色恋沙汰に鈍いとは始末に負えないな」
「ちょ、好色漢って!」
「違わないだろうが、自分が周囲の者たちに何と呼ばれているか忘れたか?」
春蘭の言葉に一刀は声を詰まらせる。
「別にそれについてはどうこう言うつもりはない。むしろその名声は高まるかもしれないがな」
「ごめん、ちょっと混乱してて二人が何を言ってるのかわからない」
突然の二人の発言に一刀は動揺して目を閉じ、眉間を指で揉みながら唸る。
二人はそんな一刀の耳元に吐息がかかるほどまで顔を寄せる。
「一度しか言わんぞ、よく聞け」
「まだきちんと伝えてはいなかったが」
二人は深呼吸するように深く息を吸い込み。
「我らは」
「お前のことが」
「「好きだぞ、一刀」」
流石は姉妹といったものなのだろうか、最後の言葉は一字一句違わずに同調していた。
二人の告白を聞くと同時に一刀は目を見開いた。その顔に戸惑いはない。驚きと喜びを綯交ぜにしたような表情を浮かべていた。
一刀は二人の腰に手を回し引き寄せた。二人は一刀の突然の行動に体をビクリと震わせたがそのまま一刀に身体を委ねるように密着させた。
二人は覆い被さる様なような形で寝台に身体を沈める。
「ありがとう。俺も春蘭と秋蘭が好きだよ」
一刀が告げる。
これ以上、三人の間に言葉はいらなかった。
長い時間と障害越えて、器用で不器用な二人の恋は成就した。
もう彼と彼女等を縛るものは何もない。
その夜、三人は濃密な情を交わし合った。
灯った火は激しく燃え上がる。
火は炎になりさらにその勢いを増してゆく。
その炎はいずれ彼女等自身を焼き尽くしてしまうだろう。
そう遠くない未来に。
たった今、愛は育まれ始めたというのに。
それに気づかず走り始めた二人を止めることはできない。
目的地という名の終端は否応なく訪れる。
ここからの歴史の直線状に一刀はいないのだから。
再び男女の契りを結んだ二人と一刀は以前にもまして親密になっていった。同時に一緒に過ごす時間も増えて行った。
中庭で茶を飲んだり、秋蘭の作った料理に舌鼓を打ち、買い物に行ったり、時に春蘭の作った殺人料理を食べさせられたりもした。
それは過ぎてしまった時間を取り戻すようにも見えた。
余談だが、一刀と男女の関係のある女性から不満の声が出て華琳に直訴するという事件が起きたこともあった。
そして時間は流れる。歴史の分水嶺をむかえることになる。その決定権は一刀の手の中に握られていた。
望む地は赤壁。
魏軍が呉・蜀の連合軍に大敗を喫する場所である。これにより魏・呉・蜀は三竦みの泥沼の時代に突入してゆく。
ここで一刀は知ることになる、自らの運命を。
運命なんていうモノは残酷でしかない。もしそれを知ったとしてもただ待つしかできないのだから。抗うことすら許してはくれない。
あの心優しい青年ならば自分が傷つくだけで済むのならば容易くそうするだろう。だが、北郷一刀は他人が傷つくことを一番嫌う性格だ。
もしその対象が好きな女性達であるならば…。
華琳により南征が下令され、決戦の地は赤壁と決定された。
広大な長江を下り、魏の大船団が布陣する。総兵数は百万にものぼった。岸辺にも陣を布き来る決戦に備えた。
一刀は華琳のいる天幕に向かっていた。むろん、天の世界の歴史を教えるためである。
厳重な警備を抜けて天幕に辿り着いた一刀は中に声をかけた。
「華琳、いるか?」
「入りなさい」
華琳の許可が出てから中に入る。いくら親しいからと言って主君の天幕にみだりに入ることはできないからだ。無視すれば殺されても文句は言えない。
「んじゃ、お邪魔するよ」
「それで一体どうしたのかしら?忙しいから手短にね」
「わかってるさ。華琳に話しておかないといけないことがあって来たんだけど」
「なにかしら?」
華琳は卓上に広げられた地図から目を離さずに言葉だけを返す。
「華琳、真面目な話なんだ。ちゃんと聞いて欲しい。そうじゃないとこの戦―――」
「黙りなさい!!!」
華琳は突然、一刀を一喝した。それに伴い天幕外に控えていた兵士が入口の方に駆けて来る音が聞こえる。
「曹操様」
「なんでもない。下がって警護を続けなさい。それと私が許可するまでここには誰も近づけないように」
「はっ!!」
足音が遠ざかっていく。
「どうしたんだよ、華琳?」
華琳は地図から目を離そうとしない。その瞳の先にあるのは卓上の地図ではなく、掴みどころのない虚空を見つめているようだった。
「一刀、あなたは覚えてる?前に会った占い師の言っていたこと」
「いきなりなんだよ?…まぁ覚えてるけどさ。華琳のことを奸雄だとか言ってたな。それでそれを聞いた春蘭が怒って」
「もう一つの方よ」
「なんだったかな?大局に逆らうなとか言ってた気がするんだが」
「まだ続きがあったはずよ。逆らえば身を滅ぼす、そう言ってたわ。ずっとそれは私が言われたことだと思ってたわ。でも…」
華琳は初めて一刀の方に顔を向けた。その顔は無表情であるようで、でも苦痛を隠し切れていないそんな感じだった。
ここまで言われれば鈍い一刀でも気がつく。
「…俺のことだったのか……」
誰に向けた言葉でもない。あえて言うなら自分自身に。
一刀の胸の中でずっと燻っていたものの正体はこれだった。許昌で医者に診てもらっても、精のつく料理を食べても、何度朝日を拝んでも消えてくれなかった得体の知れないモノが理解できた。
喉に刺さった魚の骨が抜けたような爽快感、その後、圧倒的な不安が一刀の心を掻き乱し、染め上げていく。
全身の力が抜けていく気がする。世界が揺れて、自己が崩れていく。立っていられなくなって卓に両手をついて身体を支える。
「―――しっかりしなさい、一刀!」
華琳の声で我に帰る。
「あ、あぁ。ごめん、ちょっと気が動転して」
「もう下がりなさい。あなたに心配されるほど私の軍は弱くはないわ。私は覇王なの。欲しいものは自らの手で手に入れる。これまでだってそうしてきたし、これからもそうするわ」
華琳は話は終わりとばかりに再び地図に目を落とす。
それでも一刀はその場を立ち去ろうとはしなかった。
「私は忙しいと言ったでしょう?それとも身体の具合が悪くなったのなら救護兵を呼ぶわよ?」
一刀は何も答えない。
「ちょっと一刀?」
「…やっぱり話さないと駄目だ」
「え?」
華琳は呆けたように一刀の方を見た。視界に入ってきた一刀の眼はしっかりと華琳の瞳を見据えていた。
「このままだと華琳は確実に負ける。相手が仕掛けてくる策は」
「待ちなさい!!話さなくていいと言っているでしょう!?」
「…俺は、なんで華琳の家臣になったんだ?盟友…華琳はそう言ったよな?」
「それは…」
「気づいたんだ。俺が華琳の所に来たのはこの為なんだ、って。天の御遣いは乱を鎮めるために降り立つんだろ?そこで華琳に出会ったんだ、天の、未来の知識を知った俺が。なら、することは一つしかないじゃないか」
「本気で言ってるの?あなたが消えてしまうかも知れないのよ!」
かも、と言葉を濁したのは華琳の願望だろうか。
「わかってるさ!それでも…俺は、華琳たちを救えるかも知れないのを黙って見てるなんてできないんだ。華琳の天下が見たいんだよ、それで皆が幸せに暮らせる世の中にしてくれるって信じてるから。だから、俺の話を聞いてくれないか?」
華琳は眼を閉じて見えもしない空を仰いだ。そしてゆっくりとした動作で視線を戻す。その瞳の蒼はとても悲しく一刀の姿を映し出した。
「…そこまで言うのだったら話しなさい」
無感情に華琳は告げる。それが一刀に対する死刑宣告だと知りながら。
一刀は自分の知る赤壁の戦いの全貌を話し始めた。
鳳統による連環の計、周喩と黄蓋の苦肉の策による偽降からの火計、諸葛亮の祈祷により風向きの変化。
その一つ一つが戦局を大きく揺るがすであろう内容に華琳は驚きを隠しきれない。それでも華琳の判断は早かった。
すぐに各部署に指令を出す。華琳自身もすぐに直接指揮を取ろうと天幕を後にしようとする。
しかし、さっきまでいたはずの一刀の姿が見えない。
「一刀!?返事をしなさい!」
華琳は天幕の中を見渡す。一刀は卓の影になるようにうつ伏せに倒れ込んでいた。
「大丈夫なの!?」
華琳は一刀のもとに駆け寄り、抱き起こす。
一刀は顔面蒼白で額からは多量の汗が噴き出し、苦しげに荒い息を吐いていた。事態を把握した華琳はすぐさま救護の兵を呼ぶ。
そして一刀を預け、天幕を後にした。
この時、華琳は知らなかった。一刀との話を聞いていた者がいたことを。普段の華琳ならばすぐに気付いただろう。しかし、この時ばかりは気づくことができなかった。
好奇心、ほんのちょっとの嫉妬。
動機はその程度のものだった。
兵に指示を出し終え、自分の天幕に戻ろうとしていた時に一刀の姿が見えた。声をかけようとも思ったが、なにやら急いでいるようだったので声はかけずに後をついていくことにした。
言っておくがけして後をつけたわけではない。
ついて行くうちに一刀は華琳さまの天幕に向かっていることに気づいた。当然だ、愛しい華琳さまの天幕の位置など見ずともわかる。
同時に惚れた男と愛する主人が会うことに少し、ほんの少しだけ、面白くないと思ってしまった。
さらに後を追うことにする。
そして一刀は天幕の中に入っていった。天幕のすぐそばまで近づいたが中に入ることは華琳さまの許可がいるので用もないのに失礼するのは躊躇われたので仕方なく来た道を引き返そうとした。
突然、華琳さまの声が響いた。何事かを警護の兵も天幕の方に駆けていく。しかし、華琳さまはそれを追い返した。しかも、誰も近づけないように命令された。
気にするなという方が無理だというものだろう。私は上官の権限を利用し兵たちにここは自分が見ているから離れているように命令した。
最近、華琳さまは一刀のことを気にしているような節がいくつかあった。天幕の中で何が起きているかなんて押してはかれるというものだろう。
いけないことだとわかりつつも気配を消しつつ天幕に近づき耳をすませた。
中で何か話をしていることは分かるが自分が想像したようなことが起きている訳ではないらしい。
もう天幕から離れるか、と思った瞬間、華琳さまの口から怒声が飛び出した。
いきなりの不意打ちに体をビクッとさせてしまうがすぐに平静を取り戻す。大丈夫、ばれなかったようだ。
さらに天幕に横顔をくっつける様にして耳を澄ます。
一刀がなにか言っている。しかし天幕越しではよく聞こえない。
「本気で言ってるの?あなたが消えてしまうかも知れないのよ!」
華琳さまの言葉の意味が理解できなかった。
“一刀が消える”
そんな、まさか。
ありえない。
認めたら、理解したらだめだ。
そう思ってももう遅かった。
華琳さま声が耳にこびりついて離れない。
世界が色を失ったような錯覚に襲われる。
視点が定まらない。
私はふらふらと歩きだした。気配なんて消す余裕もない。
歩き始めて、少し、いや正確にはどうかもわからないが時間が経った、と思う。目の前によく見知った姿が見えた。
私は駆け出して縋るように抱きついた。
「いったいどうしたというのだ、姉者?」
急に抱きついてきた春蘭に秋蘭は困ったような声で尋ねた。
「華琳さまと!一刀が!」
春蘭は目元を薄っすらと滲ませる。余裕がないためか周囲に誰がいるかもわからないのに北郷ではなく一刀と呼んでいる。
「二人になにが起こったというのだ!?」
秋蘭も事態がただ事ではないとわかったのか語気が荒くなる。
「このままだと…らしいのだ……」
「姉者、もう少し大きな声で言ってくれ」
「一刀が消えてしまう…」
「なんだと!?…冗談なのだとしたら笑えないぞ」
「冗談で私がこんなこと言う筈がないだろう!」
そう言えばそうだな、秋蘭は呟く。姉は人をだませるほど器用ではない。
「だとしたらなぜ、一刀が消えてしまうのだ?理由を教えてくれ」
「私にもわからんのだが…華琳さまがそう言っておられたのだ」
二人にとって『華琳』は絶対であった。華琳がカラスを白いと言えばカラスは白い生き物になる。それほど二人は主君に対して信を置いていた。
だからこそ突き付けられた話の内容はこれ以上なく残酷なものだった。
「華琳さまか一刀に話を聞く必要があるな。詳細を知らねば如何(どう)することもできないだろう?」
「そ、そうだな!華琳さまならまだ天幕の方におられるはずだ」
「行くとしよう」
二人は華琳の天幕のある方に駆けだした。
焦燥、不安、いずれも久しく味わうことのなかった感覚だ。今、私はそれに激しく苛まれている。
自分以外の人間などどうなってしまおうと構わない、そう思っていた。でも、たった一人の男が私の心を掻きみだす。
何かをしていないとどうにかなってしまうほどに。
私は無心に指示を出し続けていた。
だからこそ私は思った。こんなに辛いことを皆に味あわせることはできない。私一人で十分。私なら耐えられるから。
そう、私は魏王・曹操なのだから。
華琳は自分の天幕に子飼いの諸将を呼び出した。隠し事のできそうにない春蘭には伝えるのをやめようと思ったが秋蘭と一緒に自分の天幕の近くにいたので同席させることにした。
呼び出した全員が到着した所で華琳は説明を開始した。
初めは突飛な話だと皆が訝しんでいたようだが話をしていくうちに三人の軍師の顔色が変った。もし、敵の策が成功した場合の被害が換算できたのだろう。
他の面子も一刀の名前を出したところで信じたようだった。現金なものだ、そう思ったが顔には出さなかった。
華琳自身、人のことを言えないからだった。
緊急の軍議が終わり、諸将は自分の持ち場に戻っていった。だが、そこに残っているのが居た。
華琳が絶大の信頼を置き、従妹でもある春蘭と秋蘭だった。
「貴女たちも自分の持ち場に戻りなさい。やるべきことは山ほどあるはずでしょう」
「「……」」
二人は黙りこくっている。
「どうしたというの?」
口を開いたのは秋蘭の方だった。
「先ほど軍議の時に北郷の未来の知識によって知り得たと仰られていましたが、その北郷自身は何処に?」
華琳の顔が一瞬強張った。それを二人が見逃すはずがなかった。
さらに春蘭がとどめを刺した。
「申し訳ありません華琳さま。実は先ほど華琳さまと北郷が話しているのを聞いてしまいました」
懺悔するように告げて、深々と頭を下げた。
「っ!?……どこまで聞いたの?」
「……北郷が消えてしまうと」
「そう」
華琳は一言だけ呟いた。
辺りを静寂が包みこんでゆく。誰も言葉を発しようとしない。
「二人には罰が必要ね」
華琳は厳しい口調で告げる。
「違います!悪いのは私だけで、秋蘭はなにもしていません!」
春蘭は懇願するように何度も頭を下げる。
「お待ちください。姉者の悪気があったわけではないのです。それに姉者から無理やり聞きだした私の方にこそ非があります。なにとぞ姉者だけでも寛大な御沙汰を!」
秋蘭も頭を下げる。
華琳はそんな二人の様子に値踏みするような視線を浴びせた。
「ダメね」
是非もない淡々とした口調だった。
二人の表情が凍りつく。
「「華琳さま…」」
「しっかりと聞きなさい。あなた達には一刀付きの侍女になってもらうわ。全ての世話をすること。そしてこのことは誰にも言ってはならない、これがあなた達に課する罰よ」
「「え?」」
「なに?聞こえなかったのかしら」
「いえ…それだけでよろしいのですか」
「えぇ、そうよ。でも侍女の間は一刀の命令に絶対服従すること、一刀の命令は私の命令だと思いなさい」
「そんなぁ、華琳さまぁ」
「これは罰なのよ、それとも私の命令が聞けないとでもいうつもりなのかしら?あと将軍としての仕事も普段どおりこなしてもらうわ。ホントになる暇もないかもね」
華琳は絶対者としての嗜虐的な笑みを浮かべる。
そんな敬愛する主人を見て二人はこの御方には一生勝てないなぁと思い、むろん勝とうなどとは毛頭思っていないのだが。そして二人は被虐的快感に身を浸すのだった。
それから二人は華琳から一刀に関するすべてのことを聞いた。それらは人間がどうこうできる範疇を完全に超えていた。
絶望感に押しつぶされそうになる心にさらに追撃が加えられる。一刀が再び倒れたと。
二人は天幕を出てすぐに一刀の休んでいる別の天幕に向かったが、顔だけは見ることができたが一刀が目を覚まさなかったので話をすることはできなかった。
一刀は一向に目を覚まさず時間だけが過ぎて行った。
そして戦がはじまった。
圧倒的数で連合軍を圧倒していき、魏軍は戦局を有利に進めていく。
それに伴い、敵も策を講じ始める。まず黄蓋の偽降があり、華琳はそれを受け入れる。そこに同伴してきた少女の助言により船同士をつなぎ合わせた。そして風向きが変わり敵の火計が発動する。
しかし、一刀の天の知識により前準備を済ませていた魏軍はそれを最小限に抑え、再逆襲を開始した。
秘策を破られた連合軍はなすすべなく、蜘蛛の子を散らすように退散していった。
これで大勢は決まった。大国・魏を阻むものはもういない。後は各個撃破するだけとなった。
赤壁の戦から数日後に一刀は目を覚ました。
すぐに春蘭と秋蘭は一刀の所に向かった。
「入るぞ」
春蘭は一刀の返事も聞かずに天幕に入る。秋蘭も苦笑いしながらそれに続く。
「あぁ春蘭、それに秋蘭も。どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。せっかく見舞いに来てやったのだ、もっと嬉しそうな顔をしろ!」
「ってなんで俺が怒られないといけなんだよ!」
簡易式の寝台から上半身を起して春蘭の理不尽発言にツッコミをいれる。
「その様子なら大事はないようだな」
「うん、もうだいぶ良くなったよ。それで戦、勝ったって聞いたよ。おめでとう」
「当然だ。華琳さまの率いる軍が負けるはずがなかろう!」
胸を張って春蘭は嬉しそうに話す。
「なにを言うか。この戦に勝てたのはお前の天の知識があってこそだろう?感謝せねばならないのはむしろこちらの方だ」
「そんなことないよ。俺一人じゃどうしようもなかったさ。皆が居て頑張ったから勝てたんだよ。これで華琳の覇道を邪魔するモノはなくなったな」
「そうだな。華琳さまが天下を手にするのも時間の問題だ」
「そういえば大陸が平和になったら二人はどうするんだ?戦もなくなるだろ?」
「当然、華琳さまの傍にいる!」
「いや、だから仕事は?」
「??……あっ!?そうだ仕事がないではないか!どうしよう秋蘭」
「あ、あぁ追々考えればいいのではないか?」
「わかった。ん~~」
春蘭は何やら考えるような仕草をしている。その様子に一刀を秋蘭は笑みを隠しきれなかった。
「…北郷、お前はどうするつもりだ?」
秋蘭はちょっとためらいながら聞いた。
「俺?…そうだな、俺も追々考えるさ。先のことより俺は華琳の天下が早くみたい、それが大きいかな」
一刀がそれを言い終えたとき、二人の表情は先ほどの朗らかなモノとは一変していた。
「どうしたんだよ、俺なんか変なこと言ったか?」
「そんなことはないさ。今日、ここに来たのは一つ話さないといけないことがあったのだ」
秋蘭は春蘭に目配せをする。それに春蘭は普段見せないような神妙な面持ちで頷く。
「なんだよ、もったいぶらずに離してくれよ。気になるだろ」
「我らは聞いてしまったんだ。先日、華琳さまと北郷が話していたことを」
「!?………」
一瞬で一刀の表情が変った。血の気が引いてしまい、病み上がりでけして良いとは言えない顔色がさらに悪くなって本当の重病人のように見えた。
「すでに華琳さまもご承知だ」
「そっか…聞いたんだな」
「あぁ…」
「ゴメン」
「なぜ謝るのだ?お前の所為ではないだろう?」
「…うん」
「私と姉者は華琳さまよりお前付きの侍女に任命された。これから具合が悪くなったりして欲しいことがあれば我らに言うといい」
「……はぁ!?」
「実はな、我らがこの話を聞いたのも姉者が華琳さまとお前の会話を盗み聞きしたことが始まりなのだ」
「な、ななななにをいうか秋蘭!!べ、別に盗み聞きなどしていない!偶々耳に入っただけだ!…偶々」
「なんで偶々を強調するんだよ…そんなことしたらばればれだろ。それに華琳の天幕の周りは人払いしてたはずなんだけど」
「そ、それはだな…」
「はぁ、もういいよ。二人にお願いがあるんだけど、このことは誰にも言わないで欲しい」
「それは大丈夫だ。華琳さまからも厳命されている。…もう、どうにもならないのか?」
「…たぶん」
一刀はコクリと頷いた。
「そんなことは許さん!!」
「あ、姉者!?」「春蘭!?」
「許さんと言ったのだ!勝手に消えるなど絶対に許さん!」
「……」
「そうだな、姉者の言う通りだ」
「しゅ、秋蘭!?」
「北郷、お前は情を交わした女を捨てて、自分は消えてしまうというのか?」
「っ……」
「我らは認めないぞ。それにやっとの思いで捕まえた男だ、そう簡単に手放したりはしないさ」
「秋蘭…」
「なにか手があるはずだ。これから我らはできるだけのことをしてみるつもりだ、そうだろう姉者?」
「うむ、それまで絶対に消えるんじゃないぞ!」
二人の表情に笑みが戻る。
「頑張ってみるよ。俺だって皆を残して消えたくはないからな」
「そこは皆じゃなくて私の名を呼んでくれたらもっとよかったのだがな」
「「しゅ、秋蘭!?」」
それから三人はまったりとした時間を過ごした。
魏軍の南征はとどまるところを知らなかった。破竹の勢いで進軍を続け、遂に呉の首都・建業に辿り着いた。
背後に首都を抱える呉軍の抵抗はすさまじいものがあったが、勢いに勝る魏軍になすすべなく撤退した。退却先は建業ではなく、同盟国の蜀に向かったようだ。
そして一刀が再び倒れたのは首都・建業に入城した夜のことだった。現地の医者に診てもらったりもしたが原因不明、多分疲労からくるものだろうとしか言われなかった。
春蘭と秋蘭以外にも華琳を始めとする多くの将が一刀の見舞いに来た。北郷一刀という人間がこれだけ皆にとって大きな存在になっているのかが見て取れる。
それから一週間、一刀は昏々と眠り続けた。諸将は呉領内に散在する豪族の平定や次の目標である蜀攻略の準備に追われていた。それと華琳も所用で親衛隊の季衣と流琉を連れて首都・許昌に戻っていた。
なので、城内に残る主だった将は秋蘭だけとなっていた。
「北郷、入るぞ」
「あぁ」
「具合はどうだ?」
「大丈夫だよ、もう頭も痛くないし」
明らかに痩せ我慢しているのがわかる。
「そうか、それはよかった」
秋蘭はなにもしてやることができない自分が不甲斐なくて、一刀に見えないように拳をギュッと握りしめた。
「それでなにかして欲しいことはないか?」
「う~ん、別に何もないかな。それに今の俺は秋蘭になにもしてあげられないし、だからお見舞いに来てくれるだけですごく嬉しいよ」
一刀はそう言って屈託のない笑みを浮かべる。
「お前というやつは…、今は別に何もしてくれなくていいんだ。その分は全てが終わってからしてもらうことにするからな」
「そっか、そうだよな。じゃあ一つお願いしていいか?」
「いいぞ。私ができる範囲であればな」
「俺の手を握ってくれないか?」
「そんなことでいいのか?」
秋蘭は不思議に思いながらも差し出された一刀の手に自分の手を触れあわせた。触れあった手と手からジンワリと温かさが広がっていく。
それはとても心地よく、いつまでもそうしていたいと思わせるものだった。
「ありがとう」
「いいさ、もう今日は仕事もない。好きなだけそうしているといい」
言った瞬間、秋蘭の手が一刀に引かれた。
それほど強い力ではない。でも秋蘭は抵抗できなかった。
引き寄せられるがまま、秋蘭は唇を奪われた。突然のことで目を見開いてしまうが、それも僅かな間だった。
一刀の熱を身近に感じながら、秋蘭はそっと目を閉じる。
舌を絡ませることもしない、ただそっと唇同士を触れあわせるだけの接吻。
普段、身体を重ねる時よりも近いようなそんな感じがした。
そして一刀はゆっくりと唇を離し、自分の顔が見えないように秋蘭の腰に手を回し、抱きしめた。一刀の体は微かに、でも確実に震えていた。
秋蘭はすぐにそれに気づき、自らの手も一刀の背中に回し、強く抱きしめた。どこにも行ってしまわないように、消えてしまわないように、ギュッと抱きしめた。
「心配するな。絶対にお前を消させたりはしない。絶対だ」
噛みしめるように言う。一刀の頭がわずかに上下したような気がした。
秋蘭は一刀が眠るまで一緒にいた。そして残してきた仕事に取り掛かるために自室に向かった。
「今日は徹夜だな」
一刀を救う手だては今日も思い浮かばなかった。
それからほどなくして蜀への侵攻が開始した。一刀も皆を心配させないように参戦している。傍には春蘭か秋蘭のどちらかが常についている。
前哨戦となる呉の残党との戦は危なげな感じもなく勝利を収めた。しかし、呉の主だつ将は成都方面に撤退していき討ち取ることはできなかった。
そして魏軍は進軍を続け、成都とほどほどの距離の場所に野営の準備をした。諸将は華琳の下に集められ成都攻略の最終確認が行われた。しかし、そこに一刀の姿は見受けられなかった。
それに気づいた春蘭と秋蘭は皆に一刀がどこにいるか尋ねるが誰も知らないと言う。そこで華琳は二人に一刀を探すように命じる。
二人は陣内を隈なく探した。捜索するうちに一人の兵士から一刀が森の方に続く道に歩いて行くのを見たと言う証言が入った。
二人は一刀に何かあったのではと思い、戦いでの疲れも忘れて目撃情報のあった森の方に駆けだしていった。
森の中を中ほどまで進んだ頃に小川の近くにある大きな岩に背中を預けるようにして座り込んだ一刀を発見した。
「おい、どうした!!」「大丈夫か!?」
同時に駆け寄る。
一刀はゆっくりとした動作で顔を持ち上げる。
「ははっ…ちょっと具合が悪くなってさ」
どこからどう見てもちょっとどころではない。薄暗く顔もよく見えないが、相当消耗してしまっているのがわかる。
「少し待っていろ。すぐに救護の者を呼んでくる」
「行かないでくれ」
一刀は駆けだそうとする春蘭の服の裾をつかんだ。一度はあがった顔は俯いてしまって表情を読み取ることはできない。
「なぜだ!?」
「…知ってるだろ?普通の治療じゃどうにもならないって」
「それはそうかもしれないが、我らとて今はどうすることもできないのだ。せめて天幕に戻って休もう」
秋蘭は一刀の腕をとって立ち上がるように促す。しかし、一刀は立ち上がろうとしない。
「立てないのなら背負っていくぞ?」
それに対しても一刀は首を左右に振る。
「…なんとなくわかるんだ。俺が、それの存在が薄くなってきてるのが、さ。このまま意識をなくしちゃったらもう二度と目が覚めないんじゃないかって」
「「……」」
「それに俺がこんな状態で戻ったら皆が心配するだろ?だから話をしてくれないか?」
「はぁ?」
「どうしたのだ?いきなり話をしてくれなどと。そもそも何を話せというのだ?」
「内容は何でもいいんだ。もう一瞬でも意識を途切れさせたくないんだよ。そうしたらもう戻れない気がする」
「……わかった。まずはそうだな、――――」
春蘭と秋蘭は交互に話を続ける。どちらかが話をすれば片方がツッコミや補足、訂正をしながら話を進めていく。
それに対して一刀の笑ったり、頷いたりした。
出会った時の話、戦に出た時の話、一刀と会う前の話、華琳さまに関する話、挙げれば数え切れないほどの話の数々。
一刀と出会い、ともに生活したのは二人の人生からすればほんの一部のできないような時間だった。それでもその存在は大きく、本当に大切な物になっていた。
もうどれだけ時間が過ぎたのかわからない。東の空がうっすらと明るくなってきている。話をしていた二人も強烈な睡魔が襲い、意識が朦朧としていた。
ふと一刀の方を見ると一刀は微動だにしていない。
「一刀!?」
秋蘭は慌てて一刀の体を揺さぶる。その声で目を覚ましたのか春蘭も一刀に近づく。
「おい!大丈夫なのか!?」
声をかけるが一刀は返事をしない。二人の脳裏を最悪の事態が過ぎる。意を決して二人は一刀の胸に手を当てる。
トクントクン
心臓の鼓動が掌に伝わる。生きている。二人は緊張を解き、一刀の顔を覗きこむ。
鼻孔から空気を吸い、吐いているのを感じ取ることができた。
「寝ているだけか」
「まったく、心配して損した!」
二人は眠りこんでる一刀を担ぎ、天幕の方に戻っていった。
安心している二人を尻目に終端はすぐそこまで迫っていた。
そして最終決戦の火蓋が切って落とされた。
数で勝る魏軍だが連合軍の異常なまでの士気の高さに戦局は膠着していた。ぶつかりあう武と武は戦場を紅く染める。
連合軍の誇る軍師達は様々な策を講じてくる。しかし、それも最終的には意味をなさなくなり両軍は力で押し合った。
戦局はだんだんと魏軍に傾いてきた。そこで華琳が先陣に立ち、蜀の心を折ってしまおうと劉備との一騎打ちを要求した。
劉備は周囲の者たちから反対されながらも、自身の信念を貫こうと一騎打ちの申し出を受ける。
二人の力量の差は一目瞭然だった。終始華琳の独壇場だった。そして劉備は負けを認めた。
しかし、勝利を手にした華琳の口から飛び出した言葉は皆を驚愕させるものだった。
蜀・呉の統治をそのまま劉備・孫策にそれぞれ任せるというのだ。それも立場は対等だという。
初めは誰も信じられないようだったが最終的に劉備も孫策も快諾し、そのまま三国が対立しいがみ合う関係が打破されたことを喜ぶ宴が成都で催されることになった。
おそらく華琳がこの決断をしたのは魏の一国統一ではなく他の二国を残したことで一刀を消さないようにする華琳の出来る最後の抵抗だったのかもしれない。
一刀が目を覚ましたのは日が暮れてしまった後だった。部屋の中には誰もおらず、一人きりだった。
遠くで何やら楽しそうな声が聞こえた。一刀は寝台を抜けだし、その声のする方に向う。体が異常に軽く感じた。
城の中というのはわかるが初めての場所なので声がする方にどうやっていけばいいのかわからなかったのでとりあえず城壁の上に登ってみることにした。
篝火の焚いてあるのが見える方に歩いて行く。たぶん中庭なのだろうと思われる場所にたくさんの人影が見えた。
そこには魏・呉・蜀の主要な将達が酒宴をひらいていた。皆一様に笑顔だ。自分もそこに加わりたい。でもなぜか後ろめたいような気がする。
宴もたけなわといったところだろうか、宴の盛り上がりは最高潮に達していた。各国の王も上座のようになっている場所で酌を交わしている。
その様子を一刀は遠くからじっと見ていた。
「ねぇ~華琳さ~ん」
蜀王・劉備こと桃香は顔を真っ赤にして華琳にが気ついてくる。
「離れなさい桃香、もう飲み過ぎよ。ほどほどにしておきなさい」
「まぁまぁいいじゃない。ほら桃香、杯だして」
呉王・孫策こと雪蓮は明らかに楽しんでる様子で桃香の差し出された杯に並々と酒を注ぐ。
「雪蓮さん、ありがと~。…んっんっ」
杯に満たされた酒を桃香は一息に飲み干してしまう。
「二人ともいい加減にしておきなさいよ」
「せっかくの祝いの席なんだから少しぐらい羽目をはずしてもいいでしょう?」
「はぁ…そうね。それじゃあ私も頂きましょうか」
華琳も杯を満たした酒を口に流し込む。
「ふぅ」
臓腑に染み込んでいくような感覚とその後に燃えるように熱くなる感じが心地よい。今まで自分がしてきたことが報われた、そう思えた。
華琳はなんとなしに夜空を見上げた。中天に真円の月がぽっかりと浮かんでいた。それは優しく自分も見守ってくれているようで不思議と心が落ち着いてくる。
視線を戻そうとした時に城壁の上に人影が見えた。初めは見張りの兵士かとも思ったが違うみたいだ。その人影が纏う衣服は月光に照らされ白銀に輝いていた。
それは天の御遣いの証。まぎれもなく北郷一刀の姿だった。
一刀もこちらの方を見ているようだ。そして視線がぶつかる。遠くてよくはわからないが一刀は微笑んでいるようなそんな感じがした。でも、どこか儚げで。
「ちょっと席を外すわ」
華琳は席から立ち上がる。
「え~、まだ料理もお酒もいっぱいあるよ?」
「少し飲み過ぎたみたいだから夜風に当たってくるだけよ」
「じゃあ私も~」
「やめときなさい、桃香。ほら行きなさい桃香の相手は私がしておくから」
雪蓮が桃香を宥めながら華琳に目配せする。華琳はこの時ばかりは雪蓮の勘の良さに感謝した。
華琳は一刀が居た城壁の上に登った。ここからは宴の喧噪も遠く聞こえる。それと夜風がとても心地よい。
「一刀」
「華琳か、いいのか抜けだしてきて?」
「いいんじゃないかしら?もう私でも収拾がつかないくらい盛り上がっているようだし」
「そっか」
「目を覚ましたのならあなたも宴に参加すればよかったんじゃない?皆、喜ぶわよ?」
「…そうだな。でも、もう時間がないんだ」
「それであなたはどうなるの?」
「わからない。元居た世界に帰るかもしれないし、俺という存在が消えてしまうかもしれない。一つだけ確実なのは、もうこの世界から消えてしまう、そう感じる」
「本当にもう駄目なの?」
「…うん」
「皆、許さないわよ」
「悲しませちゃうかな?」
「……そうね」
「一つ、頼みがあるんだけど」
「私に命令する気?」
「命令じゃないさ。ただのお願いだよ…」
「…言ってみなさい」
「うん、俺は旅に出たと皆に言ってくれないか?いつ戻れるかもわからないけど、絶対
俺は帰ってくるって」
「そんなこと…自分の口から言ってあげなさい」
「お願いだ、俺の最後の」
華琳はそっと一刀の方に近づき、その胸に自分の額を預けた。
「華琳……」
一刀は華琳の肩にそっと手を回そうとする。しかし、華琳は一刀を突き放す。その衝撃で一刀は尻もちをついてしまう。
華琳は倒れた一刀に馬乗りになった。一瞬のことだった、華琳は自らの唇と一刀のそれを重ね合わせた。
触れあったのはほんの刹那の時間。華琳は自分との関係がこうだ、と言わんばかりに一刀を上から見下ろした。
一方の一刀は何が起きたかわからないといった表情で固まっていた。
「もう遅いわ」
「え?」
華琳が不意にそう告げた。
「いるのはわかってるわ。出てきなさい」
華琳がそう言うと城壁の影になっている部分から春蘭と秋蘭が出てきた。
「「申し訳ありません」」
「構わないわ。あなた達がついてきているのは知っていたし」
二人は気まずそうに頭を下げている。
華琳は一刀から離れ、二人の方に近づいて行く、そして二人の耳元で囁きかける。
「“今回は”あなた達に譲ってあげる。春蘭、秋蘭、あなた達二人がちゃんと最後まで見届けてあげなさい。…あとで私に報告するように」
「「はっ」」
そして華琳は宴の行われている中庭に戻っていった。
月明かりだけが三人を照らす。一刀も春蘭も秋蘭もどんな顔をしていいかわからなかった。
残された時間は少ない。
「本当に逝ってしまうのか?」
「…ごめん」
「待て!まだ何か手が!!」
「もう時間がない。ほら」
一刀は二人に自分の手を見せる。差し出された手は透けて一刀の顔が見えた。
「そんな…」
「待てと言っているだろうが!!」
「俺だって…まだこの世界に居たいよ。大切な、大事な人も物もたくさんあるんだ。ちゃんと『ココ』に俺の、北郷一刀の居場所があるんだ」
一刀は噛みしめるように言う。
「「……」」
「でもさ、俺は歴史を変えてしまったことを間違ったことだとか後悔しているとかそんなことは全然思ってないよ。だって俺は華琳の望みを叶える為にここに来たんだ。それは俺自身も望んだことで…、けど、けどさ………」
一刀の顔がクシャリと歪む。今に泣き出しそうで、それを耐えているような、そんな表情だった。
「「馬鹿者」」
二人は一刀の肩を掴み引き寄せ、その顔を互いの胸の間に埋めさせた。そして優しく頭を撫でた。
第三者の目から見れば弟をあやす二人の姉のように見えたかもしれない。
「嫌だ!皆と離れたくなんてない…」
「うん、そうだな」
「我らもそうだ」
「なんで俺だけがこんな目に合わないといけないんだよ!」
「一刀は何も悪くない、悪くない」
二人は感情を吐露する一刀の頭をやさしく撫でながら言葉をかけてやる。次第に一刀の声は聞こえなくなり、くぐもった嗚咽だけが辺りに響いた。
やがて一刀も平静を取り戻したようで嗚咽はおさまっていた。一刀は一度だけギュッと二人を強く抱きしめて、体を離した。
「ははっ、カッコ悪いとこ見せちゃったな」
「全く、軟弱なやつだ」
「でも嬉しくもあったぞ。お前が弱音を吐くことができるほど信頼してくれているということだからな」
一刀は照れ隠しに頬をポリポリと掻いている。しかし、一刀の顔の輪郭はもう透けてぼやけてしまっていた。
「一刀、お前…顔が」
「あぁ、もう本当に時間がないみたいだ」
「私は自分が不甲斐なくて仕方ない。お前はすぐそこにいるのに、そこにちゃんといるのに…もうすぐ消えてしまう。…それを止めることもできない」
秋蘭は唇を噛みながら話す。その瞳には薄っすらと涙が溜まっていた。
「うん、俺は知ってるよ。春蘭も秋蘭も俺を助けるために寝る間も惜しんで調べ物をしてくれてたこと。だから気にしなくていいよ」
もう一刀の身体はほとんどが透き通ってしまっている。
「すまない、すまない…」
秋蘭は俯く、表情は見えないが、地面に水滴が零れはじめる。
「顔をあげろ、秋蘭!」
秋蘭を一喝したのは姉の春蘭だった。
「姉者…?」
秋蘭は春蘭の方に視線を向ける。
「華琳さまの命をわすれたのか?我らの任務は一刀を最後まで見届けることだったはずだ。ならばけして目を逸らすな。消えてしまう一瞬まで目を見開いていろ!!」
春蘭の眼帯の隙間からすっと一筋の液体が伝った。
「…わかった」
秋蘭は顔を上げ一刀の顔を視界におさめた。自慢の弓手としての眼の良さも涙腺から和溢れる涙で霞んで全てがぼやけて見えた。
「ありがとう春蘭、秋蘭。俺はもうすぐ消えてしまうけど、絶対に戻ってくる。一番に二人に会いに行くよ。だから…すこしだけ待っていて欲しい」
一刀の言葉が途切れると同時に辺りを強烈な光が包みこんだ。二人は眩さに目を閉じてしまう。
そして目を開けた時、一刀が居た、そこには何も残っていなかった。
二人は無言で涙を流し続けた。
「秋蘭、あやつは寂しがっているだろうから、お前の矢でこれを届けてやってくれないか?」
春蘭はそう言うと自らの左目に巻かれた眼帯を外した。
「…そうだな。届けてやるとしよう」
秋蘭も矢筒から一本の矢を取り出した。それに春蘭の眼帯を結びつける。そして弓に矢をつがえ中天に浮かぶ月に目標を定め、弦を引き絞る。
「ちゃんと届くだろうか?」
「当然だ、弓上手の秋蘭が射るのだからな」
「そうか」
弦を離し、矢を放った。解き放たれた矢は夜空を斬り裂きながら飛んでく、そして二人の視界から消えていった。
それでも二人の眼は見えなくなった矢とその先にあるものをじっと見つめていた。
一刀がこの世界を去ってからいくつかの季節が過ぎた。慌ただしかった魏軍内も表面上は落ち着きを取り戻すくらいの時間は経っていた。
それでも心のどこかで一刀のことが抜け落ちたような感覚が抜けない。
そんなある日にことだった。春蘭と秋蘭の元に届け物がきた。それはお世辞にも綺麗だとはいえない布に細長い物が包んであるだけだった。
それが届いたのは二人で城門の上に登っていた時のことだった。空の、いや天からそれは降ってきた。
ゆったりとした速度で、二人にその姿を見せつけるようにゆっくりと城壁の上に舞い降りた。
中を確認すると、そこには一本の矢と眼帯が一つ入っていた。
二人は目を見合わせる。
それと同時に澄みわたる空を一筋の流星が駆けた。
「まさか…」
「決まっている!行くぞ、秋蘭!!」
「…おう!」
二人は駆けだす。
初めて出会った場所に。
愛した男の元に。
あとがき
本当は3回ぐらいの投稿で終わらせる短編として書き始めたにもかかわらずこんなに長くなってすみませんでした。
それなりにプロットは練っていたつもりでしたが書いていく過程で新しいアイデアを思いついたり暴走したりとかでだらだらと長くなってしまいました。
ただこんなに投稿が遅くなってしまったのは自分の所為です。いいわけをさせてもらいますと積みゲーを片づけていたらこんなことに(汗)ですが、おかげでPSP版の『うたわれるもの』と『air』と『CLANNAD』を無事に終わらせることができました。
それに影響されている所が多々あるかもしれません(汗)
それでもやっと魏改変シナリオ・夏侯姉妹√を終わらせることができてすごくホッとしています。
これから大学の方が忙しくなってしまうのでなかなか投稿できることができなくなってしまうかもしれませんがご了承ください。
あと、ゆっくりとですが偽√の方も進めていますのでそちらもよろしくお願いします。次の投稿は桂花の話になると思います。
最後に自分の書いた作品を最後まで見て下さり本当にありがとうございました!!
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遅くなってしまいましたが夏侯姉妹√の最終話を投稿したいと思います。
少々長くなってしまいましたがよろしくお願いします。
誤字、おかしな表現がありましたらご報告していただけると嬉しいです。
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