黒のロングコートに、丈夫そうな黒の靴。
その男を見た瞬間、綾菜の心に衝撃が走った。
とは言え、恋愛フィクションに有りがちな、恋に落ちたとかそういう類の話では無い。
綾奈を襲ったその感情は、恐怖に近かった。
「あ……ああ…………」
だが、その綾菜の様子に、男は少し眉を顰めただけで、特に何も言わなかった。
「私は警察の者だが。自殺未遂した岡崎美代子さんについて、聞きたい事があってね。君が岡崎さんと親しいと聞いたもので」
「け、警察…………?」
男は警察手帳らしきものを取り出し、綾菜に見せ付ける。
言われて見れば、警察らしく見えない事も無い。警察手帳というものを実際に見たのは初めてだが、確かにそれっぽい。その事実を確認して、綾菜はホッと胸を撫で下ろす。
そう言えば、教師がそんな事を言っていた。
警察の人間が調査のために学校を訪れると。そのため、何か聞かれたら支障の無い範囲で答える様に、と。
なんでそんな事を? と初めは疑問だった。そういうものは、個々の家を訪問して行うものでは無かっただろうか、と。結局、学校側が認可しているのなら『そういうもの』なのだろうと、皆納得していたが。
一度は安心感を覚えたが、男が警察手帳をしまう動作に、やはり反応してしまう。
何故そこまで過剰に反応するのか。
それは、以前に一度、綾菜にどうしようもない恐怖を植えつけた人間の雰囲気に、目の前の男がとても似ていたためだ。
「あの…………。私に、何か? 確かに、美代子は親友ですが…………」
自殺未遂をした美代子と綾菜は親友同士で、中学からの付き合いだった。
美代子の自殺未遂に、綾奈は当然として衝撃を受けた。PTSDだったか? そんな感じで心的外傷を受けた生徒も居て、カウンセリングを受けている生徒も居るほどだ。美代子は未だ面会謝絶の重態で、病院まで行っても門前払い。
そのため、所属するバスケットボールの部活動にも参加せず、ここ数日、ぼ~っとした日々を送っている。
今日も放課後、教室で何でもない思考に耽っていた所、警察を名乗る男が現れたのだった。
美代子は確かに衝撃を受けた。何故なら、その自殺があまりにも突然に起こったからだ。
確かに数日前から元気が無かったが、そんな様子には見えなかった。自殺をする人間というものは、ある種の予兆を見せるものだと思っていた。
その予兆に気が付かなかった、という可能性は…………まあ、確かにある。それは親友としてとてもショックな事で、認めたくは無いが。
「いや、君に何が、という事では無いのだけどね。そう、岡崎美代子さんに何か、という方が正しい」
「美代子に、ですか?」
「例えば、イジメとか」
「イジメ? いえ、とんでもない。むしろクラスでは人気の有る方で…………」
『イジメ』という単語を聞いて、ああなるほど、と思った。学校は今、そんな調査を行っていたはずだ。教師から直接呼ばれた生徒もいる。つまりは、そういう調査の一環なのだろう。
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
警察がどうしてそんな事で動くのだろうか。
自殺発生の当初は警察官が複数名で捜査を行っていた。そうした捜査の結果、事件性は無いと判断されたはずだ。
事件性の無いただの自殺に、警察が人員を割くものなのだろうか?
…………まあ、一年前も同じ様な事があったから、過敏になっているのかもしれない。一年前に。起こった、連続自殺現象。
まあ、自分が考えることでは無い、と綾菜は思った。
イジメがあったかの調査は、しかし徒労に終わるだろうと確信していた。美代子は本当にいじめられる様なタイプでは無かったからだ。
「それでは、最近感じが変わったとか、そんな事は?」
「いえ、ああ、まあ確かに最近、元気は無かったかもしれませんが…………」
「元気が無かったと。…………ふん、判断し難いな」
後半は警官の呟きで、綾菜まで声が届く事が無かった。
「では、どんな風に元気が無かった…………というのは判りますか?」
「どんな風に?」
妙な事を聞いてくるものだ。自殺で元気が無かったと言えば、普通はその原因を知りたがるものでは無いだろうか。『どんな風に』では無く、その『因果関係』を調べるから調査になるのでは無いか?
「どんな風に、と言われてもちょっと…………」
「例えば、岡崎さんは無気力に近かっただろうか?」
その質問に、やはり眉を顰める。妙な警官だ。
「ま、まあそうだったかも知れませんが…………すいません、あまり覚えてなくて」
親友が自殺未遂をしたという事で、なんとなく記憶が混乱している。それに、自殺未遂が起こった当時も、そう、その直前まで綾菜は美代子と何時も通り接していた。美代子の様子に対しての記憶は、日常のちょっとした隙間にもぐりこんでしまっていた。
「ただ……………」
「ただ? 何か引っかかる事があるのですか?」
「ちょっと、似てるなって」
話ながら、綾菜は男がメモを取っていない事に気付いた。そういうのは刑事ドラマだけの話なのだろうか?
「何に似ていたと?」
「自殺未遂…………というか、その……ああいったものって、皆ああいう風になってしまうんですか? 私が以前見た子も、いえ、知り合いじゃないんですけど…………あんな感じで……」
美代子は、授業中に自殺未遂を起こした。
突然、奇声をあげて、シャープペンで自分の手首を引き裂いたのだ。その様子はどう考えても尋常では無かった。まして、直前の昼休みまで、確かに元気は無かったが、その様子は何時もと変わりが無かったのだから。
自殺をする人間というのは、皆あんな風なのだろうか。無論、自殺というものは思い詰めて行われるのが普通だろうから、精神的な状態としては尋常であるはずが無いのだが。尋常の精神で自分を殺せるものなど、すでにそれ自体が尋常では無い。
自殺を行うものの精神は、普通では無い。…………だが、アレは違う様な気がする。綾菜はそう思っていた。普通では無いにしても、程が有る。
もっと、何か別の。そう、別の何か。
何か、特別な悪意が潜んでいる様な気がした。だって、自分は出会ってしまったのだ。悪意が存在する事を知ってしまったのだから。
…………それは、一年前の事だった。
高校受験を控えて、日頃勉強で溜まっているストレスを発散。
そんな目的のために、綾菜は美代子と共に大型デパートへ来ていた。
是非着こなしてみたい流行の洋服、マニキュアやネイルケア用品、化粧品、読みたい本など、そんなものを見るために。
ほとんどが本当に見るだけだったが、小遣いの少ない身分では仕様が無い。見て、お喋りをしているだけで楽しいのだ。友人のほとんどがそうなのだから、大体間違いは無いだろう。
勉強というのは本当に嫌になる。
何のために勉強をしているのかと、一度、親に聞いてみた事がある。自分は何のために勉強をしているのか、と。
その答えは、『意味なんて無い』。
しかし、勉強しなければ勉強する事の意味が無い以上に、無意味を噛み締めるらしい。
ならば勉強はせざるを得ない。だが、釈然としない。
「あー、もう! いっその事、高校なんて行かないでおこうかな」
「またその話? そうは言うけど、高校は行った方が絶対楽しいって。綾菜は勉強出来ないわけじゃないし、ほら、バスケもあるじゃん?」
「…………だよねぇ」
肩を落として呟く。
これはアレだろうか? 楽しみを得るためには相応の苦しみを味わうべき、という事だろうか。
高校へ行く事が本当に楽しい事なのかどうかは分からないが。
綾菜は嘆息した。
止めよう。
今日は勉強のストレスを発散するためにデパートへ来たのだ。こんなネガティブな思考はデパートのゴミ捨て場にでも捨てておけばいい。
今日は思う存分楽しむ。そう決めた。
そう強く心に思い、洋服店に足を運ぼうとしたその時だ。
一人の子供とぶつかってしまった。
五歳くらいの子供で、片方の手は母親としっかり繋がっている。
ぶつかったと言っても、本当に軽く接触した程度なので、ぶつかった当人以外は気がつかず、母親はそのまま子供の手を引いて、出口へ向かった。
今日は日曜日。
これからまた何処かへ買い物へ出かけるのだろうか?母親の手には、少量の買い物袋しか握られていなかった。
だが、例えその母親にその後の予定があったとしても、その予定が予定通りに行われる事はまず無くなってしまった。
綾菜が子供とぶつかって数秒。
まだ、綾菜は子供を見ている。
子供が母親と歩いて数歩。
突然、子供は母親の手を放して、立ち止まった。強引に手を離したのでは無い。突如、腕の力が無くなってしまったかの様な、不自然な脱力。
母親が子供に眼をやった次の瞬間。
綾菜は、何故この日買い物へ出かけようなどと思ったのか、この先ずっと後悔する事になる。
耳をつんざく、聞いた事の無い音。超音波の様な、黒板を爪で引っかいた様な、腹の底から人を不安にさせる音。
その音の発生源は、立ち止まった子供の口だった。
子供は奇声を発しながら、急に頭を抱えてうずくまり…………。
ノドを、両手で思い切り引っかき始めた。
血が吹き出て、母親は悲鳴を上げる。周囲の人間は、何が起こったのかを、まだ把握しきれていない。
母親が必死に子供の自殺行動を止めさせようとして、床に血溜まりが出来る頃、ようやく人々が動き始めた。
救急車を呼べ、という怒号。従業員が集まってくる。
綾菜は動けなかった。何かに魅入られたかのように動けなかった。だが、決して好きで見ているわけではない。恐怖が鎖となって体中を縛り上げているのだ。
「ね、ねえ、綾菜…………」
泣きそうな声で、美代子が服の袖を引っ張ってくる。
だが、綾菜はそれどころでは無かった。
実の所、綾菜が恐怖で動けない理由は子供の奇行によるものではなかった。もちろんそれも有るのだろうが、それ以上の恐怖で子供の奇行は塗りつぶされてしまった。
デパートの入り口付近に立っている人物。
綾菜の視線の先には一人の女が居た。外人だろう。肌はとても白く。髪の色はブロンドだった。
その女は喉を掻き毟る子供を見て、薄笑いを浮かべていた。
綾菜は、その笑みを見て恐怖し、その女が発する異様な雰囲気に縛られているのだった。普通の人間とは明らかに異なる雰囲気を持った人間だった。
そして、綾菜の視線に気付いたのか、女は視線を返してきた。驚きで一瞬、息が止まる。
綾菜はそれほどに残酷な笑いを初めて見た。子供がイジメの際に浮かべる、無邪気な残酷さなど及びも付かない。黒色の大気に、無理矢理押し込められた様な圧迫感。
視線を合わせてきた女は、こちらをしっかりと見て、確かにこう呟いた気がした。
『壊れてしまったな』
女が視線を外して何処かへ行っても、綾菜はしばらく動けなかった。
「待ち伏せなんて、趣味が悪いわよ。アッシュ」
先程、綾菜に話を聞いていた自称警察のアッシュは、今は住宅街の電信柱にその身を預けていた。
「勝手に上がりこんでいた方が、良かったかな」
アッシュは高層マンションを指して言った。
街でも有数の高級高層マンション。それが如月葉月の現住居だった。親は居ない。かなり前に彼女を捨てて、何処かへ逃げてしまった。
「そうしていなくて良かったわね。貴方の顔写真を印刷した紙に、変態と書いて街中に張り出す所だったわ」
葉月がせっせと街中にビラを貼っている光景を想像して、むしろ是非見てみたいと思ったが、それは言わなかった。彼女なら本気でやりかねない。
「…………冗談だ」
「もちろんよ。…………で、今日は何の用かしら? 顔を見せるのは久しぶりね」
「三ヶ月ぶり、だ。…………しかし、君も人が悪い。呼んだのは君の方だろう」
アッシュは常にこの街に留まっているわけではない。一年前の事件以降、しばらくこの街に駐留していたが、彼の様な優秀な構成員を、組織は一所に留まらせたりはしないのだった。
「そうだったわね。…………で、どうだったの?」
「君の言うとおりだったよ。学校へ入って驚いた。彼女の能力の気配が渦巻いていたよ」
「それはやはり、グレーは…………一年前の事件を起こしたあの女は生きている、という事かしら」
「いや、それは無い。遺体は組織が処分した。止めを刺したのは私だ。…………第一、君は彼女の遺体を眼にしたのだろう?」
葉月がグレーの死を確認した一番の人物である事は、彼女自身から聞いている。その時は一般人も居たらしいが。
「では、どういう事かしら。まさか、死人が生き返るなんて、12使徒も驚きね」
「悪い冗談だな。だが、分からん。これから調査をさらに続ける。学校に配属されている構成員…………それと、あの生徒会長の情報網は非常に役に立つ。改めて礼を言っておいてくれ」
「彼は優秀かしら? 確かに、最近貫禄はついてきたわね」
「可能性を引き出したのは君だろう。十分優秀だよ」
そう言うと、アッシュは葉月に背を向けて歩き出した。
空はオレンジ色に染まり、すぐに夜が訪れるだろう。
あの夕陽を見ていると、無性に胸騒ぎがする。
グレーは確かに死んでいる。そう断言できる。しかし…………。
アッシュには、胸に引っかかってどうしようもない、一つの言葉があった。
死に際のグレーが残した言葉。
学校に足を踏み入れたその瞬間から、あの言葉がどうしても耳から離れないのだ。
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この話は、過去に起きた出来事と現在起きている出来事を同時進行で描いてます。
なので、判りづらい描写があるでしょうが、それは完全に私の力不足ですね。
なにか上手い方法はないものか。