一 ひぐらし
はじめてこの博物館を訪れたときも、やっぱりせみがやかましく鳴いていた。
中学二年の夏休み。強烈なはずの夏の日差しは、杉の梢にさえぎられて少しだけやわらいでいた。かすかに潮のかおりが混じる空気はねっとりと湿っぽくて、けれどもちょっとだけやさしくそよいでいた。林を抜ける上り坂のむこうに、その博物館はひっそりとたたずんでいた。
「お姉ちゃん、早くはやく!」
入口のところで、奈子ちゃんがぶんぶん手を振っている。この暑いのに元気いっぱいだ。
かりんは奈子ちゃんを追って走っていってしまった。わたしはとてもそんな元気はなく、しばし足を休めてその建物を見つめた。
暗くて陰気な建物を想像していたのだけれど、そのイメージはだいぶ違っていた。レンガ作りの、ちょっとしゃれた外見の建物。とても博物館には見えない。これが東京の街なかだったら、きっとレストランかなにかと間違えてしまうだろう。
「はやくおいでよ、みさき!」
「みさき姉ちゃん、おいてっちゃうよ!」
口々にそう叫ぶと、ふたりはさっさとなかに入ってしまった。――ちょっとぐらい待っててくれてもいいのに。わたしはあわてて走りだした。
* * *
「藤崎さん、ちょっといい?」
村岡さんが――この頃はまだ『かりん』ではなかった――そう声をかけてきたのは、その年の春、一学期がはじまってからいく日か過ぎた、ある日のこと。ホームルームが終わり、わたしが教室を出ようとしたときのことだった。
村岡さんは色白で、ちょっと線の細い印象の女の子だった。長い髪をうしろで三つ編みにして、右の肩からまえに垂らしている。ひかえめで、おとなしくって、あまりめだたない子。
一年のときは違うクラスだったし、春になっておなじクラスになってからも、まともに言葉を交わしたことはない。だからこの日、こんなふうに急に話しかけられて、わたしはびっくりしてしまった。
「うん。なに?」
「あの……藤崎さん、文芸部だったよね」
「うん、そうだけど」
村岡さんは照れたようにうつむいて、か細い声で、
「あのね、あの……わたしも入部させてもらおうかな、と思って」
わたしはとたんに舞いあがってしまった。両手で彼女の手を握って、
「ホントに? 本当に入ってくれるの!?」
「え、うん。……もし良かったら、だけど」
「もう大カンゲーだよ! よかったあ。うちの部、二年生の女子って、あたししかいないんだよね。本当、すっごくうれしい!」
握った手をぶんぶん振りまわす。きっと村岡さんは痛かったことだろう。けど、そんなことはおくびにも出さず、
「そんなに喜んでもらえると、わたしもうれしい」と、にっこり笑ってくれた。
「ね、これから部室に行ってみない? どうせ誰もいないだろうけど。時間ある?」
部室といえば聞こえはいいけど、ほんとのところは一階の階段わきにある社会科の教材室。スペースが空いていたので、机と椅子をみんなでこっそり持ちこんで、いすわってしまったのだ。だれにも文句を言われてないから、たぶんかまわないんだと思う。
休みが明けてから部室に入ったのは、わたしたちが最初だったらしい。鍵をあけてなかに入ると、部室はほこりまみれだった。
「うわ、きったなあ」
「お掃除しないと、使えないね」
「とりあえず、机と椅子だけ拭いちゃおう。残りは他のみんなにやってもらえばいいよ」
パッパッと拭き掃除を済ませて、村岡さんとわたしは向かいあわせに腰をおろした。――と、話すことがない。それはそうだ。まともに会話をするのははじめてなのだから。必死に話題を探す。
先に口を開いたのは村岡さんだった。
「藤崎さん、どんなのを書くの? 小説?」
「あ、うん。あたし詩は書けないんだ。小説ばっかり。ドタバタの学園もの。読む?」
わたしは部員用のロッカー(これも勝手に持ちこんだもの)から、原稿用紙の束を引っぱり出した。
「えっと、これと……これと、これが短めのやつ。すぐ読み終わるよ」
わたしの原稿用紙と交換に、村岡さんは一冊のノートを渡してくれた。ずいぶん古めかしいかんじの、なんの飾りっけもないノート。
「わたしは詩しか書けないの。このノート、いっつも持ち歩いてるんだ」
ぱらぱらとめくってみる。最初のページから三分の一くらいが、横書きの小さなか弱い文字で埋められていた。村岡さんがわたしの原稿を読みはじめたので、わたしもノートの一ページめを開いた。
しばらくすると、村岡さんはくすくす笑いだした。
「これ、すっごくおもしろい!」
わたしは答えなかった。答えられなかった。顔をあげることさえできなかった。
ノートから目が離せなかったのだ。
村岡さんのノートには、本人の言葉どおり、詩篇ばかりが並べられていた。二十といくつかもあっただろうか、長い詩もあれば短いものもある。小さくてはかない、いかにも村岡さんらしい文字で書かれた、その詩は……。
古語体、とでも言えばいいのだろうか。現国の教科書には載っていない、昔ふうの言葉づかいで綴られていた。完全な古文じゃないみたいだけど、決して現代の言葉ではない、あいまいな文章。
――いまになって、この詩をひとつでも思い出せないのが、くやしくてしかたない。わたしが覚えている詩は、このノートには書かれていない、ひとつだけ。こんな文体だから、覚えづらいのは当然なんだけど。
「これ……すごいよ」
やっとの思いでそれだけ言うと、わたしはふたたびノートに顔を埋めた。それ以上の感想や感嘆は出てこなかった。口から出るのは、ただ、ためいきばかり。
わたしがノートを読み終えるのとほぼ同時に、村岡さんもわたしの原稿から顔をあげた。
「ありがと。楽しいお話ばっかりだね」
村岡さんは原稿の束を差しだした。わたしもノートを返そうと手を差しだして――ためらった。
「ね。これ、コピー取らせてくれない?」
村岡さんはちょっと困ったような顔になった。ずいぶん迷っていたみたいだけど、しばらくしてから、村岡さんはようやくこっくりうなずいてくれた。なぜか、妙に悲しげな表情を浮かべて。
図書室へ足をはこぶ。ここには十円いれて動くコピー機が置いてある。わたしはありったけの小銭を使って、ノートに収められた詩編のすべてをA4の紙に写しとった。――徒労に終わるとわかっていたら、こんな苦労はしなかったのだけど。
次の日の放課後。わたしは文芸部のみんな(わたしを含めて五人しかいない)に声をかけて、部室にあつまってもらった。部室の大掃除を済ませてから、わたしはみんなに村岡さんを紹介した。
「村岡です。よろしく……」
消え入りそうな彼女の自己紹介のあと、わたしはコピーさせてもらった詩のひとつをみんなに見せた。――いまではタイトルも思い出せないけれど、せみに関する内容だったということは覚えている。それと、みんなの反応も。
「うわあ……」
「これ、すごいね。きれいな文章……」
「ちょっと真似できねえぞ、これ」
わたしは鼻高々だった。なんだか自分がほめられたような気がしたのだ。けれど、村岡さんは照れたようにうつむいたまま。もっと胸を張ってもいいのに。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
そう言ったのは富田先輩。うちの部長さんだ。
「どうして蜩の鳴き声が『てて、てて』なの? あれって普通は『かなかな』って鳴くのよね」
そう言われるまで、わたしはそのフレーズに意味があるとは思っていなかった。ただの変わった表現、としか捉えていなかったのだ。さすが部長さん、目のつけどころが違う。
そしてやっぱり、それにはちゃんと深い意味があったのだ。
「えっと、それは、あの……」
耳まで赤く染まった顔で、村岡さんはしどろもどろに説明をはじめた。
「『てて』というのは、昔の言葉で『お父さん』っていう意味なんです。さっきまで頭のうえで『てて、てて』と鳴いていた蜩が、力つきて地面に落ちてしまう、っていうのは、つまり……」
わたしたちは言葉を失くしてしまった。この詩にそんな想いがこめられているなんて、だれ一人考えもしなかったのだ。
「おい藤崎、時期部長の座があぶねえぞ」
しばしの沈黙のあと、伊藤くんが肘でつついてきた。彼はなにかにつけ、わたしを次の部長にしたてあげようとする。おなじ二年生なんだから、自分がなったっていいのに。
「別になりたくないもん、部長なんて。村岡さんがやってくれるんなら、大カンゲーだよ。ね、村岡さん」
村岡さんはますます小さくなってしまった。
二 たまごやき
受付には白髪のおじいさんがひとり。入場料を払ってチケットを受けとり、わたしは博物館に足を踏みいれた。ドアがきい、ときしむ。エアコンの気持ちいい風がわたしをむかえてくれた。
なかはがらんとしていた。わたしたち三人のほかは誰もいない。教室ふたつぶんくらいの広さの部屋がひとつ。白い壁の三辺にそって、ガラスのショーケースが並んでいる。残りの一辺は出入り口。それだけ。裏口もなければ窓もない。壁には『順路↑』と書かれたプレートがあるけど、そんなのあんまり意味がなさそう。
天井から下がった電球が、オレンジいろの光を投げかける。聞こえるのはわたしの足音と、エアコンのうなり声だけ。そとではうるさいくらいのせみの鳴き声も、部屋のなかまでは届かない。
奈子ちゃんは左奥のすみで、わたしにむかって「みさき姉ちゃん、こっちこっち!」と手まねきしている。かりんは律儀に順路どおり、左手前のショーケースの端にいた。
「だめよ奈子、ちゃんと順番があるんだから」
そう言われたらしかたない。奈子ちゃんには悪いと思ったけど、わたしはかりんのいる左がわのショーケースに向かった。
「受付におじいさんがいたでしょ。あの人、ここの館長さんなの」
かりんにそう言われても、べつに不自然だとは思わなかった。こんな小さな博物館だもの、わざわざ受付の人を雇うなんて、もったいないと思う。そもそも、お客なんてめったに来ないだろう。
わたしがそう言うと、かりんはくすくす笑った。
「館長さんに聞こえるよ、みさき」
最初の展示物は、お弁当箱。最近の丈夫なものとは違い、見た目からしてぼろぼろ。仕切り板もなにもない、ただのシンプルな箱そのものだった。手前に解説文の書かれたプレートがある。
『小学校跡に落ちていたもの。持ち主は不明。おそらく生徒の一人のものと思われる』
わたしはその持ち主を想像してみた。それほど大きくはないから、このお弁当箱の持ち主はきっと女の子だろう。小学生の男の子だったら、この大きさでも大丈夫かな。……でもあのころって、食べるものにも困ってたんじゃなかったっけ。
お米もろくに手に入らなかった時代。
このお弁当箱には、なにが入っていたんだろう。
* * *
村岡さんの入部から数日が過ぎた。あたらしいクラスにも次第に慣れて、あたらしい友だちもできた、そんなころ。
うちの学校には給食というものがない。お昼休みには学食に行くか、お弁当持参か、購買でパンを買ってくるか、そのどれかになる。わたしはパン組だった。
その日、購買から教室に戻る途中で、わたしは村岡さんとすれ違った。腕にちいさな紙袋を抱えている。
「あれ村岡さん、どこ行くの?」
「噴水のところ。あそこでお弁当食べるの」
「へえ。いっつもあんなところで食べてるんだ」
「うん」
「……一人で?」
「うん」
そういえば、お昼休みに村岡さんの姿を見かけたことがなかった。
そのまますたすたと歩いていってしまいそうな村岡さんを、わたしはあわてて呼び止めた。
「ねえ、あたしも一緒に行っていい? 一緒に食べよ」
村岡さんはちょっと困ったような表情を浮かべたけれど、やがて恥ずかしそうにこくん、とうなずいた。
わたしはほっとした。あれから一度も部のあつまりがなく、いっしょに部室に行くこともなくって、村岡さんと話す機会がつかめなかったのだ。いいきっかけになった。廊下ですれ違えて、よかった。
ここしばらく続いている水不足で、噴水は休眠していた。その噴水のへりに腰をおろす。目のまえに正門があって、その向こうは国道。右手に校庭、左手には花壇。わたしたちのほかは誰もいない。
サンドイッチの包みを開けながら、わたしは訊いてみた。
「いっつもここでおべんと食べてるの? 一人で?」
村岡さんはうなずいた。ひざのうえに載せたお弁当箱を、じっと見つめたまま。
「ここが好きなの。花壇のお花がきれいだし、国道を走ってる車を見てると、飽きないし」
「でも、一人でさびしくない? 教室にいればいいのに」
村岡さんは目線を落としたまま。お弁当箱の底に書かれた、難しい数学の問題でも読んでるみたいな顔つきだった。
「わたし一人が好きなの。友だちいないし」
――わたしは頭にきた。じゃあ、あたしはなんなの? そう叫びそうになった。叫ぶかわりに、わたしはサンドイッチをひとくちほおばった。
そんなつもりはないんだろうけど、なんだか人をばかにしている。まるで、わたしがいないほうがいい、みたいな言いかたじゃない。
意地でも友だちになってやる。そう心に誓った。
「ねえ、村岡さん……」
言いかけて、わたしは途中で口をつぐんだ。村岡さんは顔をあげ、たずねるように首をかしげてわたしを見つめる。
村岡さん。村岡鈴子。
むらおか れいこ。なんて堅苦しい名前なんだろう。
『村岡さん』なんて呼んでるかぎり、永遠に友だちとして認めてくれないような気がする。なにか別の呼びかたを考えなきゃ。鈴子ちゃん、れいちゃん、リン……。
「かりんちゃん」
村岡さんはきょとんとして、わたしを見つめかえした。
「かりんちゃん、って呼んでいい? 『むらおか』の『か』と『鈴』の字で、『かりん』。かわいいでしょ?」
ずいぶん強引だけれど、ほかに思いつかなかったのだからしかたない。それに、おとなしくてひかえめな村岡さんに、花梨のイメージはぴったりだと思う。
「ね、いいでしょ? かりんちゃん」
村岡さんは――かりんは、さっきと同じような困った表情を浮かべていたけれど、やがてこっくり、とうなずいて、
「うん……いいよ、藤崎さん」
「みさき、って呼んで。みんなそう呼んでるから」
それがわたしの名前だ。藤崎 岬。ずいぶんふざけた名前だけれど、実はけっこう気にいっている。
「かわいい名前だね。ちゃんと韻を踏んでるし」
かりんもそう言ってくれた。こういうのを韻を踏む、というのかどうかはわからないけど、とりあえずほめてくれるのはうれしい。
「ね、かりんちゃん、ツナサンドひとつ食べない?」
「あ、ありがとう。――みさきちゃん、卵焼き食べる? わたしが焼いたの」
『ちゃん』は余計だよ、と言おうとしたけれど、やめた。こっちだって『かりんちゃん』だもの。
「へえ、かりんちゃん自分でお弁当作るんだ。すごいじゃん!」
わたしがそう言うと、かりんはもうおなじみとなった、ちょっと困ったような顔をしてみせた。かりんがうれしいときにはこんな表情になる、と気づくのに、そう時間はかからなかった。
その卵焼きは、最高においしかった。
三 かさ
「みさき姉ちゃん、はやくおいでってば」
奈子ちゃんがまた声をかけてくる。まじめに順路をたどるかりんと、その先で手まねきしている奈子ちゃんのあいだで、わたしは板ばさみになってしまった。
「奈子ちゃん、ちょっと待っててね。すぐ行くから」
奈子ちゃんにそう告げてから、わたしはショーケースに顔を戻した。二番めの展示は、ゴム製らしい雨がっぱ。すそのところがぼろぼろに破けてしまっている。
『製糸工場の跡地に落ちていたもの。詳細は不明』
ずいぶんあっさりした解説だ。これじゃよくわからないよ、とわたしが言うと、
「この雨がっぱ、館長さんの思い出の品なの。館長さん、戦争がはじまるまでは、豊橋の製糸工場で働いてたんだ。……このかっぱ、たぶん、そのときの知り合いの人の遺品なんだと思う」
ショーケースのほうに顔をむけたまま、かりんはそんなことを言った。
「かりん、館長さんと知り合いなの?」
「……ううん。そういうわけじゃないんだけど……」
ほとんど聞きとれないような声で、かりん。なんだか話しづらそう。わたしはそれ以上訊ねるのをやめにした。
* * *
梅雨。毎日雨ばかりつづく、憂うつな季節。
わたしは別の意味で憂うつだった。かりんのことだ。
あれから毎日、かりんとわたしはお昼休みになると、噴水のところで一緒にお昼ごはんを食べる。かりんはお弁当、わたしはパン。文芸部のみんなが部室にあつまるときは、もちろんいっしょに顔をだす。
けど、それだけだった。
休み時間には、かりんはいつもひとりで本を読んでいるか、じっと窓の外をじっと見つめているか。わたしとも、他のだれとも、話そうとはしない。
なんだか声をかけづらい雰囲気だったので、わたしのほうから話しかけることもなかった。それに、わたしには他の友だちもいる。その子たちをないがしろにはできない。
けど、かりんを放っておくのも嫌だった。休み時間、ひとりでぽつんと座っているかりんを見るのは、つらい。なにか話しかけるきっかけがあればいいんだけど。
そのきっかけは、突然やってきた。
その日は朝からくもり空だった。お昼休みのおわりごろになって、とうとう大粒の雨が降ってきた。いつものように噴水のところでお昼を食べていたかりんとわたしは、大あわてで校舎に駆けもどった。
「やっばあ。置き傘持ってかえっちゃってるんだ。帰りどうしよう、あたし傘ないや」
下駄箱に靴を放りこみながら、わたしはかりんに訊いてみた。
「かりんちゃん、傘持ってきた?」
「……うん」
ちょっと口ごもってから、かりん。その返事に、わたしは内心飛びあがって喜んだ。
「やったあ。じゃあ今日の帰り、傘入れてってよ。一緒に帰ろ」
「え……」
かりんは困ったような顔になった。――この頃にはまだ、かりんが嬉しいときの顔と、ほんとうに困っているときの顔の区別がついていなかった。あとから考えると、この時、かりんはほんとうに困っていたんだろう。
「かりんちゃんの家、どっちのほう? まだ聞いてなかったよね」
「あ、あの……」
わたしの問いかけに、かりんはふたたび口ごもった。かりんが視線をさまよわせてうろたえているうちにチャイムが鳴ってしまい、わたしたちはあわてて教室に走った。
雨はますます強くなる。わたしは雨に感謝した。ホームルームが終わって、手早く教科書をかばんに詰めたわたしは、ななめ後ろのかりんの席をふりかえって、
「かりんちゃん、帰ろ」
かりんの席は、からっぽだった。
「……ねえ、かりんちゃん、もう帰っちゃったの?」
うしろの席の男子に訊いてみた。と、その男子は不思議そうな顔で「だれだって?」と訊きかえしてきた。
「あ、えと、村岡さん」
「さあ、知らね。いないんだから、帰ったんじゃねえの」
「ありがと」お礼もそこそこに、わたしは教室をとびだした。廊下を走りぬけ、階段を駆け降りて、かりんの姿を探す。どこにも見あたらない。……かりん、そんなに足早かったっけ? そのまま走って昇降口へむかう。
雨はざあざあ降りになっていた。ちょっと迷ったけれど、わたしは傘を持たないまま、雨のなかに飛びだした。
あっというまに、わたしのからだはぐしょぬれになった。気にしないで走る。泥水がはねあがって、白いソックスはしみだらけになった。かまわずに走る。
「かりんちゃん!」
校門の手前まで来て、わたしはようやくかりんに追いついた。かわいい赤い傘をさしたかりんは、わたしの呼び声に足をとめ、ゆっくりとふりむいた。
「はあ、はあ、はあ……」
教室からここまで走りっぱなしだったわたしは、すっかり息がきれてしまっていた。まともに声が出せるようになるまで、しばらくかかった。かりんは無言で待っている。
「はあ、はあ……。かりんちゃん、歩くの早いよ」
「……どうしたのみさきちゃん、そんなに慌てて」
「どうしたの、って……。いっしょに帰ろう、って言ったじゃない。忘れちゃったの?」
「あ……、うん。ごめん……」
ぐしょぬれになっておでこに張りついたわたしの前髪に気づいて、かりんはあわてて傘を差しだした。
「ありがと」わたしは制服のそでで額をぬぐって、
「ねえ、かりんちゃんの家って、どっちのほう?」
「あ、あの……あっちのほう」
ちょっと口ごもってから、かりんはその方角を指さした。
「じゃ、あっちの大きな公園のほうだよね」
「えっと……うん」
「よかったあ。うち、あの公園の近くなんだ。ね、公園のとこまででいいから、傘入れてってよ。いっしょに帰ろ」
かりんは困った顔になった。……またこの顔。眉毛がななめにかたむいて、口がへの字にまがっている。
わたしは急に不安になってきた。やっぱりこれ、喜んでるわけじゃなさそうだ。断りたいのに断れなくて、困ってる。そんなふうに見える。
「……かりんちゃん、あたしといっしょに帰るの、いやなの?」
だまって目をふせたまま、かりんはなにも答えない。わたしは一歩さがって、かりんの傘の下から出た。
「ねえかりんちゃん。……あたしがこうやってしつこく話しかけるの、迷惑? よけいなお世話、かな?」
やっぱり目をふせたまま、かりんは小さくかぶりを振る。
わたしは少し悲しくなって、そして少し頭にきた。だったら、なんでそんな顔するの?本当はうれしいくせに。
「ね。……あたしのこと、きらい?」
かりんははっと顔をあげて、首をぶんぶん横に振った。
「ううん。……そうじゃないの。そんなことない」
「じゃ、いいよね」
わたしは無理に笑ってみせた。おもいきって傘のなかに戻り、かりんの手、傘の柄をささえているかりんの手に、自分の手を重ねる。
「ね、いっしょに帰ろうよ」
するとそのとき、かりんの表情がちょっとだけ変化した。やっぱり眉毛はかたむいたまま、口はあいかわらずへの字にきゅっと結ばれていたけれど、目は――ほんのちょっと――笑ってた。
わたしも笑った。おもいっきり。ほら、やっぱり、うれしいくせに。
「行こっか」
「……うん」
恥ずかしそうにうつむいたまま、かりんはかすかにうなずいた。
学校から公園まで、ほんの五分くらいの距離だけれど、わたしとかりんはひとつの傘をふたりで持って、並んで歩いた。いろんなことを話しながら。
つぎの日、雨はとっくに止んでいたけれど、わたしとかりんは一緒に帰った。そのつぎの日も、またそのつぎの日も。
――あとから考えると、わたしがかりんに取った行動は、やっぱり余計なことだったらしい。わたしがあんなふうに、しつこくつきまとったりしなければ、あとになってあんなに悲しい思いをしなくてすんだのに。
でも、この時わたしは、これでいいんだ、と思っていた。
いまでも、わたしはそう思っている。余計なことだったかもしれないけど、これでよかったんだ、って。
四 れもん
脈絡のない展示物がつづく。欠けたお茶碗、時計、まねきねこ。
「ねえねえ、ほら、みさき姉ちゃん。これ、かわいいでしょ?」
やっとのことで、奈子ちゃんが待っているショーケースの端までたどりついた。ガラスのケースに収められているのは、ちいさな、色とりどりの、お手玉。
『中山 加奈子さん(当時七歳)の家の跡にあったもの。彼女はこのお手玉が大のお気に入りだった』
運動会の玉入れでしかお目にかかれないような、布製のお手玉。使われている生地はまるで統一されてなくて、きっと古着とかあまった布の切れはしとかをつなぎ合わせたんだろう。ところどころ縫い目がほつれて、なかの小石が顔をのぞかせている。
……小石?
「あの当時って、食べるものがなかったでしょ。子供のいる家では、お手玉をほどいて、なかの小豆を食べたりしてたの。だから、このお手玉、小豆のかわりに石が入ってるの」
わたしの疑問を読みとったみたいに、かりんが説明してくれた。
「ふうん、大変だったんだね」
と言いながらも、正直、わたしにはあまりぴんとこなかった。奈子ちゃんに顔をむけて、
「そっか。奈子ちゃん、これを見せたかったんだ」
「うん!」
奈子ちゃんはにっこり笑ってみせた。はじめてあったときとおんなじ、得意げな笑顔。
――いまでもはっきり思い出せる。うちの台所で、とびっきりの笑顔をふりまいていた奈子ちゃんの姿と、その声を。
「ねえ、みさき姉ちゃん。これできる?」
* * *
その日、学校からの帰り道。わたしは――あまり期待しないで――訊いてみた。
「ね、かりんちゃん。今日、うちに遊びに来ない?」
かりんはちょっと困ったような表情を浮かべた。喜んでるわけじゃなくて、ほんとに困ってるみたいだった。
かりんと話をするようになって、もうずいぶんになる。一緒に部活に出たり、お昼を一緒に食べたり、一緒に帰ったりはしていたけれど、一緒に遊びに行ったことは一度もない。たまにどこかへ誘ってみても、いつもこの困ったような顔で「ごめんね」と言われてしまう。
教室にいるときにも、かりんはわたし以外の子と話をしようとはしなかった。まるで、かかわり合いになるのを避けてるみたいに。よけいな友だちは作らない、とでも言いたげに。彼女がそんなふうだから、ほかの子もかりんに話しかけたりはしなかった。文芸部のみんなと一緒のときは、もうすこし愛想がいいんだけど。
そんなわけで、わたしは何回断られようと、懲りずにしつこく「遊びに行こ」と誘い続けていた。だれにも誘ってもらえないなんて、きっと、さびしいだろうから。
そしてこの日も、かりんはこう答えたのだった。
「ごめんね。今日はちょっと……」
「なんか用事でもあるの?」
しつこく食いさがる。じつはこの日、ほかの友だちから「買い物に行かない?」と誘われていたのだった。それを断ってきたのだ、いまさら後には引けない。
かりんはさんざんためらったあげく、
「うち、妹がいるの。うちに一人でおいておくと、心配だから……」
初耳だった。「へえ、妹さんがいるんだ。いくつ?」
「七歳。小学校一年生。うち両親がいないから、はやく帰ってあげないと……」
ちょっと気になる言葉だったけど、わたしは気づかないふりをした。
「ふうん、そっかあ。じゃあ……」しょうがないね、というせりふを、わたしは途中で飲みこんだ。そう簡単にあきらめて、たまるものか。
「じゃあさ、妹さんも連れてくればいいよ。ね、そうしよ!」
「え、でも……」かりんは例の困ったような顔になった。すぐに見分けがつく、今度のは、うれしいときの顔だ。
「でも、いいの? みさきちゃん。迷惑じゃない?」
「全っ然。かりんちゃんの妹なら、もう大カンゲーだよ。うち共働きだから、いまうち、誰もいないんだ。ね、連れておいでよ。そこの公園で待ってるからさ」
こうしてわたしは奈子ちゃんと出会った。
かりんの妹とはとても思えない、元気のかたまりのような女の子だった。元気が服着て歩いて、しゃべって、笑っているみたい。おかっぱ頭に濃い眉毛。くりくりの瞳は、ガラス玉みたいにきらきら輝いている。
うちに着いたとたん奈子ちゃんは、それほど広くないわが家の探検をはじめた。
「ねー、この部屋なあに?」
「そこはパパとママの寝室、そっちがあたしの部屋。そこは物置だから、開けても――だめだよ奈子ちゃん、それひっぱり出しちゃあ……あーあ」
もう、ところかまわずひっかき回してくれた。かりんは申しわけなさそうに、
「ごめんねみさきちゃん、この子言うこときかなくて……」
「いいよ、あとで片づけとくから」
ちょっとひきつり気味の顔で、わたしは答えた。なるほど、この子を放っておくのは、危険だわ。
「とりあえず寝室には入れないでね。あたしお茶いれてくる」
「あ、あたしも行くー」と奈子ちゃん。
三人でぞろぞろ台所へ。奈子ちゃんはここでも好奇心を発揮して、
「ねー、これなあに?」
「それはコーヒーメーカー。それは食器棚。そこ開けないで……奈子ちゃん、包丁持ち出しちゃだめ!」
お茶をいれるどころじゃなかった。しょうがない、冷たい麦茶でがまんしてもらおう。わたしが冷蔵庫を開けると、奈子ちゃんはすばやく飛びついてきて、
「あ、リンゴだ。おいしそー。ねーねー、なにこれ?」
「奈子、いいかげんにしなさい!」
奈子ちゃんが冷蔵庫に頭をつっこんでいる隙に、わたしはグラスに麦茶を注いだ。冷蔵庫にポットを戻そうとしたわたしは、ちょうど振りかえった奈子ちゃんとはちあわせしてしまった。
奈子ちゃんの手には、レモンが三つ。――うちの家族は紅茶が好きなので、冷蔵庫にレモンが常備してあるのだ。
得意げににっこり笑いながら、奈子ちゃんは言った。
「ねえ、みさき姉ちゃん。これできる?」
そして、レモンでお手玉をはじめた。
ぽん、ぽん、ぽん、と、テンポよくレモンは宙に飛びあがっては、落ちる。空中には常にふたつのレモン、奈子ちゃんの手元にはひとつだけ。
「へえ、すごおい」
わたしが感心した声をあげると、奈子ちゃんは演技を中断して、わたしにレモンを手渡した。
「ね、できる? やってみて!」
「うーん、ふたつならできるけど……」
お手玉なんて、ここ何年もやったことない。しぶしぶレモンを受けとって、トライ。……三つめのレモンを投げあげるまえに、最初のレモンが床に落ちてしまった。
奈子ちゃんがくすくす笑う。かりんは奈子ちゃんの頭をこつん、とやって、
「こら。失礼でしょ」
癇にさわったわけではないけど、わたしはむきになってしまった。とりあえずレモンふたつでチャレンジ。成功。レモンをひとつ増やして、再度チャレンジ。……最初に投げたレモンは、やっぱり床に激突してしまった。
「おなじ高さに投げないとダメなんだよ。ほら、こう。……ね、レモンなら手も痛くならないし、簡単でしょ」
奈子ちゃんはお手本を見せてくれた。いとも簡単に、三つのレモンをほいほいと操る。相手は小学一年生。すごく、くやしい。
わたしはますますむきになり、意地になって挑戦を続けた。そのうちにレモンはすっかりやわらかくなり、皮が裂けて果汁がしみ出てきた。わたしの両手は、べたべた。
ふと気づくと、かりんは壁によりかかって、ノートになにごとか書いていた。
「? なに書いてんの?」
「あとでね」
かりんはいたずらっぽく笑ってみせた。
数分後。床がレモン汁でべちょべちょになるころ、わたしはようやく音をあげた。
「もうダメ。ギブアップ。――奈子ちゃんには、かなわないや」
奈子ちゃんはとびっきりの笑顔を浮かべて、
「みさき姉ちゃん、下っ手だなあ!」
……こんな顔をされたら、とても怒る気にはなれない。
べたつく床を掃除して、わたしの部屋に移動。奈子ちゃんがTVゲームに夢中になってくれて、かりんとわたしはようやくひと息つくことができた。
「そうだ。ね、かりんちゃん、さっきノートになにか書いてたでしょ。あれ見せてよ」
「だめ。見せると怒るから」
かりんは意地の悪い笑みを浮かべた。かりんのこんな顔、はじめて見る。
「なによお。あとで見せてくれる、って言ったじゃない」
半分奪うようにして、わたしはかりんからノートをとりあげた。いちばん新しいページを捜して、開いてみる。
またなにかの詩だろう、と思ったら、そうではなかった。
それはイラストだった。レモンでお手玉をしている、ふたりの女の子の。
「……これ、あたしと奈子ちゃん?」
訊くまでもなかった。言うことをきかないレモンを必死の形相でにらんでいる、ショートカットの女の子。それを見つめるもうひとりの少女は、瞳をガラス玉みたいにきらきら輝かせていた。
「……かりんちゃん、絵も上手なんだね。すごいなあ」
かりんは恥ずかしそうにうつむいて、
「でも、絵は奈子のほうが上手なんだよ」
「ほんと?」
「うん。いまもノート持ってるはずよ」
かりんは奈子ちゃんのカバンから一冊のノートを取りだした。かりんのものと同じ、なんの飾りっ気もない、地味なノート。いまどきの女の子にしてはめずらしい。
「ねえ奈子ちゃん、ノート見せてもらってもいい?」
「うん、いーよお」
ゲームに夢中になっている奈子ちゃんは、ふりむきもせずに答えた。聞いているんだか、いないんだか。
ノートを開くと、そこにはイラストの数々。
動物の絵が多かった。犬とか猫とか、そのへんを歩いていそうな動物から、なんだかわからない動物まで。
「なにこれ?」
「イタチ。田舎にはいっぱいいたの」
「ふうん。田舎ってどこ?」
「豊橋」
ページをめくる。奈子ちゃんの描く動物たちは、なんだかちょっと変わった雰囲気がただよっていた。かわいいんだけど、どこか不気味。目つきが悪かったり、手足が異様に長かったり。でもそれは全部、いまにも動き出しそうなほど、リアルだった。
いくつかの絵の下には、ちょこちょこと横書きの言葉が添えられていた。――これもよく覚えていないのだけれど、たとえば『ねこがあそんでる、楽しそうだな』とか『雪がふった、きれいだな』とか、いかにも奈子ちゃんらしい、素直な言葉で綴られていた。かりんが書くような洗練された文章ではないけれど、イラストとあわせて見ると、すごく、かわいい。
「あ。これ、かりんちゃん?」
最後のページには、女の子の絵があった。長い三つ編みの女の子。どこかの家の縁側に腰かけて、静かに本を読んでいる。
その下に書かれた言葉だけは、いまでも思い出せる。元気いっぱいのおおきな字で、ただ一行だけ、
『だいすきなおねえちゃん』
「仲いいんだね。いいなあ」
わたしはひとりっ子だから、こんな仲良しの妹がいるなんて、うらやましい。わたしがそう言うと、かりんは照れたみたいに顔を伏せた。
「ああー!」
TVゲームから顔をあげた奈子ちゃんが、いきなり叫び声をあげた。驚くわたしの手からノートを取りあげて、
「みさき姉ちゃん! 勝手に人のノート見ないでよ!!」
かりんとわたしは顔を見あわせて、ぷっと吹きだした。
五 べんち
「ねえ、みさき。そんなに慌てないで。もっとゆっくり見ようよ」
うしろからかりんが声をかけてくる。……だって退屈なんだもの。かりんには悪いけど、あんまりおもしろくない。解説文がなければ、ただのガラクタばっかりじゃない。
『林 はじめくん(当時十歳)のもの。彼は野球選手になるのが夢だった』
そう書かれた札があるのは、ちょうど入り口の反対がわ。ショーケースのなかには、傷だらけの野球のグローブ。大人用だ。
「この説明文って、ぜんぶ本当のことなの?」
「館長さんは、半分は本当だ、って言ってたよ」
「……じゃ、のこりの半分は?」
わたしがそう言うと、かりんはいたずらっぽく笑って、
「それは訊いちゃいけないんだよ、みさき」
* * *
「みさきちゃん、今日は部活に行かなくっていいの?」
「いいのいいの。週に一回も出れば充分だって。帰ろ」
わたしはかりんの肩を押して下駄箱に向かった。どうせ、部室にはめったに人は来ないのだ。
一学期もおわりに近づき、日差しも強くなりかけたころ。
あの日以来、かりんと奈子ちゃんは何度かうちに遊びに来てくれたけれど、みんなでどこかに遊びに行ったことは一度もなかった。わたしがかりんの家に行ったこともない。
「今度は、うちにも遊びに来てね」
かりんがうちに来るたび、彼女がそう言ってくれるのを期待していた。でも、かりんは決してそう言ってはくれなかった。……ちょとさびしいけど、でも、きっとなにか事情があるんだろう。そう思うことにしていた。
それでもやっぱり、たまにはどこかに遊びに行きたい。それがだめなら……。
うちの近所の公園にさしかかったとき、わたしはこう言ってみた。
「ね。今日奈子ちゃん、いる?」
「うん。もううちに帰ってるころだけど」
「じゃ、ちょっと呼んできてくれない?」
かりんは訊ねるように首をかしげた。わたしは公園通りの一角を指さして、
「あっちに、あたらしいクレープのお店ができたんだ。みんなで行ってみよ」
「くれーぷ……って、なに?」
かりんは目をまるくしている。わたしの目もまるくなった。
「……嘘でしょ。かりんちゃん、クレープ知らないの?」
かりんはこっくりうなずいた。あちゃあ。この子、いつの時代の子なんだろ。
「だったらなおさら食べなきゃ。行こうよ、おごったげる」
いつものように公園で待つ。やがてかりんがしずしずと、奈子ちゃんがばたばたとやってきた。三人で連れだってクレープ屋さんへ。
わたしは「チョコレートにナッツのトッピング」を注文した。かりんと奈子ちゃんは「同じの」。それぞれひとつずつクレープを持って公園に戻る。軽くなったサイフを手に、わたしはちょっとだけブルーになった。尊い犠牲だ。
公園のベンチにたどり着くころには、奈子ちゃんはちゃっかり自分のぶんをたいらげてしまっていた。
「おいしかった!」にっこり笑って、「ありがと、みさき姉ちゃん!」
それだけ言うと、奈子ちゃんはさっそく公園の探検に出かけてしまった。
「もっとゆっくり食べればいいのに」
思わずつぶやく。わたしのその言葉どおり、かりんはちま、とひとくちかじり、
「……おいしい!」
「でしょお? これを知らないなんて、不幸だよ」
ベンチに並んで腰かけて、わたしたちはちまちまとクレープを食べた。いっきに食べてしまうなんて、もったいない。
どこかの男の子がふたり、広場でキャッチボールをしている。夕陽に照らされたその光景は、とってものどかで、優しかった。わたしたちは無言でクレープを食べた。
「ごちそうさま。すごくおいしかった」
からっぽになった紙包みをきれいにたたんで、かりんはにっこり笑って言った。
「どうもありがとね、みさき」
――わたしはおどろいて顔をあげた。かりんはしまった、という顔をして、
「あ、ごめん。……ごめん、みさきちゃん」
よっぽど慌てていたのだろう。頬をまっ赤に染めて、うろたえている。
「ごめんね、ごめんねみさきちゃん。……怒った?」
怒ってなんかいない、ちょっとびっくりしただけ。そう答えるかわりに、わたしはこう訊いてみた。
「家ではいっつも、みさき、って呼んでるの? 奈子ちゃんと話すときとか?」
「うん。……頭のなかでは、いっつも」
かりんは暗い顔でうつむいてしまった。――これ以上意地悪するのはやめよう。わたしはかりんの腕をつかんで、
「じゃあさ。じゃあ、あたしもこれから、あんたのこと『かりん』って呼ぶよ」
おどろいて顔をあげるかりんに、わたしはにっこり笑いかけ、
「いやだなんて言わないよね、かりん」
かりんはしばらくためらっていたけれど、やがて困ってるみたいな、泣きたがってるみたいな、なんだか複雑な表情で、
「うん。……うん、いいよ。みさき」
わたしたちは顔を見あわせて――。
それから、どちらからともなく笑いだした。
どうして笑いだしたのか、なにがそれほどおかしいのか、さっぱりわからない。そのことがおかしくて、笑った。笑いころげた。
奈子ちゃんが戻ってきて、笑いころげるわたしたちを見つめて、首をかしげた。その表情がまたおかしくって、わたしたちはまた笑った。涙が出てきた。おなかが苦しかった。
なかなか笑いはおさまらない。それがとってもおかしくて、わたしたちは笑いつづけた。
六 なまこ
今度のショーケースの中身は、釣り竿。解説文を読もうとしたとき、かりんがこう訊いてきた。
「ねえ、みさき。そろそろ小説のアイディア、なにか思いついた?」
……そっか、忘れてた。そのために来たんだっけ。
なにか考えないと、かりんに悪い。わたしは必死にあたまをひねって、
「……こんなのはどうかな。戦争中、ある街が空襲にあって、一面焼け野原になっちゃうの。戦争が終わって、疎開先から帰ってきた男の子が、その焼け跡からいろんな小物を拾って保存しておくの。で、大人になってから博物館を作って、その集めた小物を展示するの」
かりんはくすくす笑いだした。
「なにそれ、そのまんまじゃない。館長さん、怒るよ」
「うるさいなあ」
わたしはふくれっ面をしてみせた。別に怒っていたわけじゃないけど。
わたしたちがそんなことを話しているあいだ、奈子ちゃんは床のタイルを踏み石にみたてて、ぴょんぴょん飛びはねていた。きのうの夕方、岩場でやっていたのと同じように。疲れなんか知らないよ、とでも言いたげに、元気いっぱいに飛びはねている。ぴょん、ぴょん、ぴょん。
* * *
夏休み。遊びと、クーラーと、退屈の日々。
わたしたち文芸部は、休みに入るとやることがなくなってしまう。それで、かどうかは知らないけれど、毎年八月の中ごろに、合宿というものをする。どこかの旅館に一泊して、お互いの作品の発表会と批評会をおこなうのだ。
でも、それは夕食のあとの話。到着してから夕方までと、翌日の出発時間までは、完全に遊びの時間になる。もちろん、宿泊場所は海の近く。
今年の合宿の場所は、愛知県の渥美半島。豊橋からちょっと離れたところにある、太平洋に斜めにつき出た半島だ。ここはかりんの推薦した場所だった。
話し合いのとき、かりんがこの場所をあんまり強く主張するので、わたしは――ほかのみんなも――びっくりした。
「どうしても行きたいんです。ここじゃなきゃ、いけないんです」
ほかに案があったわけでもなく、場所はあっさりと決まった。……でも、普段はおとなしいかりんが、あんなに強引に話をすすめるなんて……。
「そういえば、かりんって豊橋の生まれだったっけ」
わたしが言うと、みんなは納得したような顔になった。わたしを除いて。
わたしは腑に落ちなかった。なんだか、いつものかりんらしくない。
出発の当日になって、その思いはいっそう強くなった。行きの新幹線のなか、かりんはみんなとの会話には加わらずに、ただぼーっと窓の外を眺めていた。
「どしたの? 元気ないじゃん」
わたしが話しかけると、かりんはあわてて作り笑いを浮かべて、
「ううん、なんでもない。気にしないで」
そう言われても、それは無理な相談だ。今日のかりん、やっぱり、どこか変。
わたしの心配そうな表情に気づいたのか、かりんはけなげに微笑みながら、
「ね、みさき。……あしたの自由時間、ちょっと行きたいところがあるの。一緒に行ってくれる?」
「いいけど……どこ行くの?」
「博物館。『豊橋焼け跡博物館』っていうところなんだけど」
「……へ?」
わたしが間抜けな声をあげると、かりんはくすくす笑って、
「このあたりって、むかし空襲にあったところなの。焼け跡に残った街の人たちの遺品を拾いあつめて、展示してるところがあるの」
「……そこに、行くわけ? 明日?」
「うん」
「……はぁ」
声だけじゃなく、顔も間抜けだったに違いない。なんだって、そんなところにわたしを連れていきたがるんだろう。たいしておもしろくもなさそうなところに。
「ね、行こうよ。小説の題材が見つかるかもしれないよ」
と、かりん。本当に、そんなつまらないことが理由なのだろうか。
そこまで考えて、わたしはもっと重要なことに気づいた。理由がどうのこうのなんてことより、はるかに重要なこと。――かりんが自分から「どこかに行こう」って誘ってくれたのは、はじめてだ。
「うん、行こう! 行きたい、一緒に連れてって!」
「よかった」かりんはにっこり笑った。
「ねえお姉ちゃん、みんながトランプやろう、って。おいでよ!」
奈子ちゃんが声をかけてきた。彼女もちゃっかり合宿に同行していた。顧問の先生に頼んで、かりんが連れてきたのだ。家に一人で置いておくと不安だから、と。行きの新幹線での二時間ほどのあいだに、奈子ちゃんはすっかりみんなのマスコットになっていた。
ゲームの最中も、かりんはぼーっとしていることが多かった。自分の番がきても気づかないことが何度もあって、そのたびにわたしは肘でつついて催促しなければならなかった。――奈子ちゃんはいつもどおり、はしゃぎまわっていたけど。
豊橋で新幹線を降りる。想像していたよりも大きな街だった。市電なんかも通っていて、住みごこちもよさそう。夏休み中だからだろうか、子どもの姿を多く見かける。
ここから半島まではローカル線が走っているけど、わたしたちには旅館のバスが出迎えにきてくれていた。お昼をすぎたころ、現地に到着。
先生の話では、この渥美半島は藤村の『椰子の実』の舞台で、歌碑なんかもあるそうだ。啄木がカニとたわむれた場所でもあるらしい。でも、そんなことを気にかける部員はひとりもいなかった。
宿に荷物を預けて、みんなはさっそく海辺へ向かった。わたしたちも同様。
天気は最高。真夏の太陽がギンギンに輝いている。海もわりときれいだし、言うことなし。砂浜でしばらくみんなと泳いでから、わたしとかりん、それに奈子ちゃんは、ひと気の少ない岩場に移動した。
わたしとかりんは、岩場に腰をおろしてひと休み。疲れを知らない奈子ちゃんは、ウサギみたいに岩場をぴょんぴょん飛びはねて、なにか変わったものを見つけては
「お姉ちゃん、これなーに?」と叫ぶ。
「ねー、このぶよぶよしてるの、なあに?」
「ナマコ」とわたし。
「なまこ?」
「そ。奈子じゃなくて、ナマコ」
「……あたし、こんなにぶよぶよしてないよお!」
隣でかりんがくすくす笑う。
「ナマコちゃん、転ばないように気をつけてね」
「……みさき姉ちゃん、きらい!」
ぷくっと頬をふくらませて、奈子ちゃんは遠くへ飛んでいってしまった。わたしはかりんと顔を見あわせて、笑った。
雲ひとつない青空に、負けないくらい青い海。夏の日差しが肌をじりじり焦がす。頭上で輪を描いているのはカモメだろうか。
近くに漁港があるらしく、ときおりちいさな船が通りすぎてゆく。波の音が、耳に心地いい。
「空が青いよねえ」わたしが言うと、
「なによそれ。あたりまえじゃない」
「そうだけど、でも東京じゃ、そんなこと考えないじゃない」
「……そうね。東京じゃ、なかなか空が見えないもんね」
つぶやくみたいに、かりん。わたしたちはしばらく黙って、空を見あげた。
「……楽しいね」
「うん。来てよかったね、かりん」
「うん……」
かりんの声が、急に暗い色を帯びた。わたしが視線を向けると、かりんはさっき新幹線のなかで見せた、うつろな顔つきをしていた。
「でも、なんだか、寂しいよね」
「? どして?」
「だって……だって、この楽しい時って、いつまでも続かないでしょ。明日になったら、わたしたち……」
正面の海を見つめたまま、つぶやくようにかりんは言った。
「でも、それはしょうがないよ。いつまでもここで遊んでるわけにはいかないじゃない。いつかは、帰らなきゃ」
理由はわからないけれど、かりんはものすごく落ちこんでるみたいだった。少しでも元気づけてあげたくて、わたしは無理にあかるい口調で言った。
「ここで、めいっぱい遊んでさ。おもいっきり楽しんで、帰ろ。思い出いっぱい作って」
「思い出……」
「そ。すてきな夏の思い出だよ」
かりんはもう、海のほうを見てはいなかった。うつろな目で足もとの岩を見つめ、小石をもてあそんでいる。
「でも、思い出って、いつかは無くなっちゃうでしょ。いつかは忘れて、頭のなかから消えちゃうでしょ」
わたしは心底おどろいて、かりんの顔を見つめた。――そりゃ、決して明るい子とはいえないけど、でも、あのかりんが、こんなに暗い、悲しい言葉を口にするなんて……信じられない。
かりんの顔を見ているのが、つらくなってしまった。わたしは海に視線を戻して、
「そんなの……そんなこと、ないよ。そりゃ、年とってボケちゃったりすれば、さすがに忘れちゃうかもしれないけど、そうじゃなくて……。
すくなくとも、今日のことは忘れないな、あたし」
言葉をきって、わたしは視線をめぐらせた。――この青い空、澄んだ海。強烈な太陽と、やさしい波の音。頭上を横切る白い鳥に、海面を横切る白い漁船。岩場で飛びはねる奈子ちゃん、それに、並んで座ってるかりんと、わたし。
「……あたし、ぜったい忘れない」
かりんはなにも答えない。じっと足もとを見すえたまま。わたしはわざと声を荒げて、
「なによぉ。かりんは今日のこと、すぐに忘れちゃうつもりなの?」
かりんはあわててかぶりを振った。
「ううん、そんなことない」
「なら、いいじゃん!」
わたしは立ちあがって、手を差しのべた。
「行こ! もっと思い出作ろうよ」
わたしが笑いかけると、かりんはいつもの困ったような顔――うれしいときの顔をしてみせた。わたしの手をとり、立ちあがる。
なんだか照れくさくなって、わたしはあたりを見まわした。遠くの岩のうえで、奈子ちゃんが手を振っているのが見えた。
「ナマコちゃん、待ってよ!」
「イーだ!」
顔を見あわせてくすくす笑ってから、わたしとかりんは手をつないだまま、岩場を歩きだした。
七 さそお
「ねえ、みさき……」
最後の展示にさしかかったとき、かりんがうしろから声をかけてきた。
「なに?」
「うん、あのね、あの……」
かりんは言いよどんだ。金魚みたいに口をぱくぱくさせて、
「……やっぱり、いい。なんでもない。ごめんね」
「なによぉ。なんだかかりん、変だよ」
あかるい声を出すのは、すごく苦労した。かりんが落ちこんでるのはわかるんだけど、でも、なにも話してくれないんじゃ、どうしようもない。
話してくれるまで、待とう。そう思った。――そんな時間が残されていない、なんて、思ってもみなかった。
「ごめんね。ほんと、なんでもないの」
「変なの」
気にしていないふりをして、わたしはショーケースに視線を戻した。最後の展示は、半分焼け焦げた、ノート。
『少女の死体が、大切そうに抱きかかえていたもの。前半のページが焼けてしまったため、なにが書かれていたのかは不明』
たしかに、ノートの前半が焼かれて、なくなっている。残った白紙の部分が、なんだかとっても寂しげに見えた。いかにも昔のものらしい、なんの飾りっけもない、古くさいノート。
「ね。これ、かりんの……」
かりんのノートみたいだね。そう言おうとして、わたしは途中で息を呑んだ。
思考が停止する。ぱちぱちまばたきして、自分がなにを見ているのかを確かめようとする。見まちがいなんかじゃ、ない。
白紙のノートに、なにかが浮かびあがってくる。
なにも書かれていなかったはずのノートに、まるであぶりだしか何かみたいに、じんわりと横書きの文字が浮きあがってきた。もちろん、あぶりだしなんかじゃない。えんぴつ書きの小さな文字で、
うそのうつつが 美しすぎて
消すに消せない 幻の景色(かげのいろ)
「かりん、ちょっと、これ見て!」
わたしは叫んで振りかえった。
……誰もいない。
あわててあたりを見まわした。さほど広くない部屋。隠れる場所なんて、あるはずない。もし外に出たのなら、ドアのきしむ音が聞こえていたはず。
消えてしまった。ふたりとも。
ついさっきまで、奈子ちゃんの飛びはねる音が聞こえていたのに。ついさっきまで、かりんがうしろにいたのに。わたしの、すぐうしろに。
「かりん……奈子ちゃん?」
無駄とは知りつつ、わたしは呼びかけてみた。――そう、呼んでも無駄だということは、うすうす気づいていた。だってこの、ノートに浮きでてきた、この字は……。
「かりん! 奈子ちゃん!!」
それでも叫ばずにはいられなかった。返事はない。聞こえるのはクーラーのうなり声だけ。なにかに引き寄せられるように、わたしはノートに視線を戻した。さっきの文字の下に、またなにか書き加えられている。
それはイラストだった。公園のベンチに腰かけてクレープを食べている、ふたりの女の子の。
さらにその下に、横書きの文字が続いた。
いろ鮮やかな いろどりだから
残していくね 幻の景色(かげのいろ)
えんぴつ書きの、小さな、か弱い文字。
間違いない、これ――かりんの字だ。
「かりん、ねえ、かりん! お願い、返事して!」
自分の声が震えるのがわかった。頭が混乱して、なにも考えられなかった。呆然と見つめているうちに、ノートの文字は現れたときと同じように、なんの前触れもなく、ふっと消えてしまった。
それで終わりではなかった。つづいて現れたのは、大きな字で力いっぱい書かれた、こんな言葉。
うそで始めた 思い出だけど
うそで飾った 思い出だけど
いままで ほんとに楽しかったよ
ありがとね、幻の景色(かげのいろ)
困惑しながらも、わたしはおもわず吹きだしてしまった。これ、奈子ちゃんの詩だ。
途中まで語呂をあわせて、字数もあわせてあるのに、後半の二行で台なしになってしまっている。――けれど、とっても素直で、かわいくて、奈子ちゃんらしい、詩。
その詩の下には、やっぱりイラストが現れた。海辺の風景。岩場に並んで座っている女の子ふたりと、岩から岩へと飛びはねる、ひとりの女の子。
その絵もさっきと同じように、文字と一緒に消えていった。じんわりと、溶けるように。
わたしはもう叫ぶのをやめていた。もう、なにがなんだかわからず、ただ呆然とノートを見つめるだけだった。ぐちゃぐちゃの頭で、わたしは次の文字が出てくるのを見守った。今度は縦に、三文字。
さ
そ
お
『誘お』という意味か、と思い、わたしは首をかしげた。意味がわからない。けれど、それには続きがあったのだ。三つの文字の右側に、流れるように一連の文字が現れた。
さよなら
そして
おげんきで
最初のと同じ、小さな、か弱い文字。
「かりん……」
かすれた声でつぶやいた。のどの奥が、痛い。それは叫んだからではなさそうだった。
ノートの文字は、それまでのと同じように、じんわりと消えていった。
そしてそれきり、なにも浮かびあがってはこなかった。
八 ひぐらし
あれから毎年、夏になると、わたしはこの街をおとずれ、博物館に足をはこぶ。
杉の林を抜ける小道のむこう。その博物館は、あのときと同じようにひっそりと建っている。あたりの景色も、あのころとちっとも変わっていない。せみの鳴き声も、梢からもれる夏の日差しも、あのころのまま。
受付の老人に『瓦礫の博物誌』のコピーを渡した。館長さんがモデルなんです、と言うと、照れくさそうに笑ってた。どこかのコンテストに応募したいんです、と話したら、館長さんは素直に喜んでくれた。応援します、とも言ってくれた。
ドアをきしませてなかに入ると、クーラーの冷たい空気がむかえてくれる。床のタイルも、がらんとした雰囲気も、あのころとおんなじ。
* * *
かげのいろ。
あのときはちっとも意味がわからなかった、この言葉。ようやく意味がわかったのは、あの日の夜、家に帰りついてからのことだった。
おもいっきり混乱しながらも、わたしは博物館を出るとき、受付の老人に訊ねることは忘れなかった。
「あの、すいません、あたしと一緒に来た女の子ふたり、どこに行ったか知りませんか?」
「いや、知らないよ」という答えを予想していたのだけど、それはちょっと外れていた。老人は不思議そうな顔で、こう答えたのだ。
「ここには、あんた一人で来たろ? 今日はほかにお客さんは来てないよ」
もう、なにも考えられなかった。とりあえず駅前の集合場所に戻って、文芸部のみんなに訊いてみた。
「ねえ、かりん――村岡さんと奈子ちゃん、見なかった?」
今度の答えは予想どおりだった。みんな口をそろえて、
「村岡? だれ、それ?」
きつねにつままれた気分だった。なんだかもう、わけがわからない。呆然としたまま家までパニックを持ち帰ったわたしは、思いついて机の引き出しに飛びついた。
もしも――考えたくないけど――もしも、かりんと奈子ちゃんのことが、ぜんぶ夢だったとしたら、この引き出しにはなにもない。でも、かりんのことがすべて本当のことならば、ここには図書室で写しとった、かりんのノートのコピーがあるはずだった。祈るような気持ちで引き出しを開けた。
コピーは、あった。白紙のコピーが。
どの紙にも、なにも書かれていなかった。あのとき、たしかにコピーをとったはずなのに。まっしろ。白紙。からっぽ。
全身の力が抜けてしまい、わたしは床にへたりこんだ。
そしてこのとき、わたしはようやく「幻の景色」の意味を悟った。
思いおこしてみると、一年のときにかりんと一緒のクラスだったという子は、だれもいない。一年のときに『村岡』という生徒がいた記憶は、ない。まるで、二年の始業式の日に、かりんが突然あらわれたみたいに。
夏休みが明けて学校に戻ると、『村岡』という生徒の痕跡はどこにも残っていなかった。机もないし、ロッカーもない。下駄箱の名札にも『村岡』という文字はない。誰に訊いても、誰と話をしても、『村岡』という生徒を覚えている人は、いない。
なにも残っていなかった――わたしの思い出のほかには。
はっきりと覚えてる。はじめて話しかけられた、あの日の放課後。ほこりだらけの部室で、お互いの作品を見せあったこと。うちの台所での、奈子ちゃんとのお手玉合戦。公園のベンチで食べた、クレープの味。そして、合宿の日、岩場で話しあったこと。なにもかも、すべて。
あれが夢だったなんて、考えられない。あれは確かに、本当に起こったことだったんだ。絶対そう。
たぶん、こういうことなんだろう。二年の始業式の日、かりんはさりげなくわたしのクラスにまぎれこみ、そのまま生徒のひとりとして生活をはじめた。文芸部に入って、夏の合宿の目的地が渥美半島になるようにしむけた。そして部員のひとり――わたし――を、あの博物館に連れていった。すべては、ただ、そのためだけの行動だったんだ。
目的を果たしたあと、かりんはみんなの記憶を消した。いきなり一人の生徒が姿を消すのは不自然だ。はじめからいなかったことにしたほうが、都合がいい。
けれど、そこで、わたしは余計なことをしてしまった。なかば強引に、かりんと友だちになってしまったのだ。
かりんとの偽りの日々を、とっても楽しい、素敵な、忘れられないものにしてしまった。――すくなくとも、わたしにとってはそうだった。きっと、かりんも同じ思いだったに違いない。
だから、かりんは、残していってくれたんだ――わたしの記憶を。
合宿から帰ったわたしは、しばらく呆然と時を過ごした。無理もない。友だちがひとり、いなくなってしまったのだから。
一週間ほどうつろな日々が過ぎたあと、わたしは原稿用紙に向かった。
* * *
あれから数年がかりで、わたしはようやく『瓦礫の博物誌』を完成させた。図書館でいろいろと調べものをしたり、納得のいく仕上がりになるまで書き直したりで、ずいぶんと時間をかけてしまったのだ。そのあいだにワープロも使いこなせるようになったし、いくらか文章も上手になったような気がする。
背も伸びたし、髪も伸びた。けど、意地っぱりで負けずぎらいの性格は、あのころからちっとも直っていない。
館長さんにも話したとおり、この小説はどこかのコンテストに出すつもり。賞がほしいわけじゃない。ただ、より多くのひとに読んでもらいたいだけ。それが、かりんの望みなのだろうから。
――けれど、その裏側に流れる、もうひとつのものがたり。
かりんという名の少女のものがたりは、誰にも話すつもりはない。
これは、わたしたちふたりだけの、大切な思い出だから。とっても楽しい、素敵な、そして――悲しい思い出。
あれから毎年、夏になると、わたしはこの博物館を訪ねる。がらんとした部屋の雰囲気も、ショーケースの中身も、あのころと同じ。お弁当箱、雨がっぱ、お手玉、グローブ、釣竿、それに……。
あの焼け焦げたノートは、もうなにも語りかけてはくれない。ただ無言で、わたしの視線を受けとめるだけ。
追って調べようと思ったことは何度もあった。お手玉の持ち主だった中山加奈子さんの写真が残っていないか、とか、空襲で亡くなった人のなかに、村岡鈴子という名の女の子がいなかったか、とか。でも、結局はなにもしなかった。わたしにとって、奈子ちゃんは奈子ちゃんで、かりんはかりんだ。それでいい。
部屋を出るとき、わたしはちょっと振りかえって、かりんのノートに別れを告げる。また来年、と約束して。
館長さんにかるく頭を下げて、博物館を出たわたしは、すこし遠まわりして駅へむかう。林のなかをのんびり歩きながら、せみの鳴き声に耳をかたむける。
――ひとつだけ心残りがある。かりんのノートに書かれていた、詩。あの詩をひとつでも覚えておけばよかった。せめて、あの蜩の詩だけでも。
もしも――もしももういちど、かりんに出会うことができたなら。
そのときは、あのノートに書かれた詩を、暗記するまで読みかえそう。コピーなんか取らなくてもいいくらい、くりかえし、くりかえし。
それまでは、あの詩で我慢することにしよう。
わたしがひとつだけ覚えている、あの詩。
わたしが生まれてはじめて書いた、あの詩。
あの夏の日に、かりんと、奈子ちゃんと、わたしが、三人で書きあげた、あの詩で。
せみが奏でる 夏のしらべに
褪せることない 幻の景色(かげのいろ)
――かりん、なこ、みさき。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
中学二年の夏。私はかりんに誘われて、ちょっと変わった博物館を訪れた。最後の展示を前にしたかりんは、なぜか悲しそうで――。
物静かな女の子との出会いと、たくさんの思い出。ちょっと不思議で悲しい物語。かなり以前に書いた作品です。「幻の景色」と書いて「かげのいろ」と読みます。恐れ入りますが脳内で変換してお読み下さい。