No.803350

「GRAVITATION」

蓮城美月さん

剣士×考古学者。素直になれない二人のストーリー。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 104P / \200
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2015-09-20 22:21:59 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:10497   閲覧ユーザー数:10482

◆CONTENT◆

 

TEMPTATION

FAKE OR TRUE

水面下の攻防

LUNA SEA

彼女の理由

アンフェアゲーム

IMPULSE

REACTION

PRISONER

存在証明

 

LUNA SEA

 

――――月の海に浮かぶ一隻の柩。そこに静かに眠るのは…。

彩られた色は余韻も残さず、広がるのはモノクロームの世界。

乾いた灰色の海が讃えるのは、生命を持たぬ荒廃の大地。月に眠る暗闇の漂流。

それがわたしの心の中にある景色――――わたしの箱庭。

 

夢を見た。子どもの頃の哀しい夢。たった一人生き残り、海から海への逃亡生活。足はすりむけ、服の裾は破け、暗い路地を早足で逃げる。傷だらけの身体を抱え、廃屋に身を隠した。昼間は太陽がわたしの姿を露にする。夜は闇がわたしを隠してくれるけれど、決して安息の刻ではない。

ずっと眠れない夜を過ごしていた。一条の光も差し込まない、暗闇が心を覆う。孤独と不安、未来と絶望、耐えきれない恐怖と救いのない現実。足元には底の見えない穴が開いていて、いつでもわたしを呑み込もうとしていた。二度と戻れない、深淵の樹海に。堕ちたくないと必死であがき、心は疲弊していく。真っ暗な闇の中で一人、肩を震わせながら泣いていた。だれか助けてと。

わたしには味方なんていない。周りの大人たちはみんな敵。優しくしてくれた人は、その温かさごと裏切って。包囲された海軍の中から必死の思いで脱出した。それ以来、なにを信じたらいいのか分からない。だから、もうなにも信じないようにした。

そうしないと生きていけそうになかったから、わたしは心を捨てた。生き残るために感情を切り捨てた。他人に取り入って、利用して、裏切って。だれにどう思われようがかまわない。死にたくないのなら生きるしかないのだ。そんな生き方に、捨てきれない感情が泣いていても…それ以外の生き方を、わたしは知らなかった。

 

――――嫌な夢。寝苦しさのあまり目を覚ました。自己嫌悪を含んだ、深いため息をつく。ぼんやりとした、だけど明確な痛みだけは実感する意識。鈍い覚醒の頭を抱えながら、上半身を起こした。背中に冷たい汗が貼りついている。同時に寒気が全身の皮膚に伝わり、鳥肌を立てた。

異常に乾いたのどが、体内に水分を求める。わたしはベッドを抜け出した。健やかに眠る航海士さんを起こさないよう、気配を潜めて。部屋を出ると、静けさが聴覚に印象を残す。だれもが眠りに揺れている真夜中の船内。あまりにも静かすぎて、不安の影が押し寄せてきた。

けれど、少し耳を澄ませば聞こえてくる人の気配に安心する。隔てられた壁を越えて男部屋から聞こえてきたのは、彼らのいびき。ここまで聞こえるということは、部屋ではさぞ大きないびきが合唱しているのだろう。ほっとして、小さな笑みを浮かべた。

立ち止まっていた場所から再び足を踏み出す。人の気配というものは、警戒するものだと思っていた。だけど、この船に乗ってからはそうじゃないと知った。信じられる人たちの気配なら、自分を強く支えてくれる。生きる強さを与えてくれる。

そんなことを考えながら、キッチンの扉を開けた。いつもとは違う空気が伝わってくる。だれもいない、ひんやりとした空間がそこにあった。蛇口をひねると清浄な水がコップにあふれ出る。のどと同じく乾いていた心が、補給された水によって癒されていった。

大きく深呼吸して、逼迫した精神を落ち着かせる。この船に乗ってからは、あまり見なくなっていたあの頃の夢。毎日が穏やかで楽しかったから、幾分遠ざかっていた。そんな風に油断しているときにあの夢を見ると、ダメージが大きい。うなされて目を覚ます羽目になる。

これは警告なのだ。半分水の残ったコップを置く。机に後ろ手で身を預け、天井を仰いだ。わたしが己の立場を忘れているから、戒めるための警告。今ここで平和に過ごせているけれど、これは泡沫の幻。執拗に追ってくる自分の運命が、恒久の安息など許さない。

自分がどういう人間で、これまでどのように生きてきたか。この先、どう生きていくべきなのかは分かっていたはずなのに…。この船にいるとうっかり忘れてしまう、見過ごしてしまう。ここにいてもいいのだと、居心地のよさに浸ってしまう。

わたしはそれではいけない人間なのに。平穏な、幸福な日常など許されない人間なのに。あの箱庭の景色のように、水のない乾いた世界で朽ちていく。光のない灰色の月に眠ってしまうだけ。底なしの闇が背後から忍び寄る。わたしを丸ごと呑み込もうとする、不気味な律動が聞こえた。

『わたしは、世界を滅ぼそうなんて思ってない』

『政府を転覆させようとか、世界のことなんてどうだっていい』

『ただ、歴史を知りたかっただけ』

必死に訴えたけれど、そんな言葉は信じてもらえなかった。なにひとつ、わたしの主張は受け容れてもらえなかった。彼らにとって、わたしは一人の人間ではなかった。世界を滅ぼす悪魔だったから。人間でない者の言葉など、だれが聞いてくれるだろう。

だから、闇の世界を生きてきた。そこはわたしを拒絶しない、溶けるように心地よい。ここがわたしの生きる世界だと思った。他のだれにも分からなくても、わたししかそこにいなくても…。闇の誘惑が今にもわたしを捉えようとしていた――――そのとき。

鞘走りの音がして、なにかがキラリと閃いた。幾億光年離れた闇すら切り裂きそうな強烈な光。その鋭いきらめきに怯え、闇は急速に後退していく。わたしを呑み込もうとしていた闇が、一瞬でかき消された。不意に人の気配を感じ、窓から外を覗く。

前部甲板に人影、強い意志の力。それがだれなのかはすぐに分かった。わたしは息を呑み、同時に納得する。あの刃がわたしを闇から救ってくれたのだと。無意識にラウンジを出ていた。脳が指令を出すより前に身体が勝手に動く。頼りない足取りで、でも視線は彼を捉えて離さない。

澄んだ風が通り過ぎていった。半分だけ満ちた月が幾千の星々と輝きながら、優しい夜を見下ろしている。彼は月明かりの下、一本の刀を抜いて佇む。白く映し出される刃には、紙一重の狂気が介在していた。その狂気に負けず、支配して使いこなすのは強い精神力があるから。

ゆっくりとデッキへの階段を上がっていく。彼は背を向けたまま、刀を鞘にしまった。わたしが甲板に出たとき――――いや、もっと前、キッチンに上がったときには、こちらの存在に気づいていただろう。だが一度もわたしに向き直ることなく、足元に置いてあった酒瓶を拾う。欄干にもたれ、手中の酒を流し込んだ。わたしは反対側の手すりに肘をついてもたれかかる。

真下から船体へ寄せる波の音が聞こえていた。まっすぐに海を見つめ、瞳の端に彼の姿。この男の存在は、わたしを安心させてくれる。

人影を見つけたとき、迷うことなく断定できたのはその背中。思わず寄りかかってしまいたくなる、心休まる場所。なにも言わず、そばにいさせてくれる。彼はわたしを追い払うこともせず、そこにいてくれた。夜の海の狭間で、二人は同じ空気を共有している。

静かで平穏な雰囲気に、心はとても満ちていた。こんな時間に起きてきたわたしに、彼はなにも訊かない。黙ったまま見守ってくれる。どちらとも口を開こうとはしない静寂の中、お互いの間合いに存在を許し合いながら、相手の気配を感じていた。

二人でいるとき、話しかけるのはいつもわたしだ。わたしがなにも言わないときは、彼も無言を貫くことが多い。言葉を求めてはいないわたしを知っているから。言葉なんてなくても分かってくれる、気持ちは伝わる。ただここに、同じ空間にいることで、心は安息を得られるのだから。

そんな自問自答を繰り返していたら、視線を感じた。彼が難しい表情でこちらを見ている。わたしが思い詰めているように映ったのだろう。伺うような眼差しが注がれた。なにか説明したほうがいいと思い、わたしは口を開きかける。すると、それを遮るように彼は酒瓶を差し出した。無言のまま、左手だけを無造作に突き出して。言葉に出さずとも、表情が「飲めよ」と語っている。

戸惑いながら酒瓶を見た。彼が自分の飲んでいるお酒を勧めるなんて初めてだ。こんなことをしてくれるとは、よほどわたしはひどい顔で考え込んでいたらしい。どうせ、ろくでもないことを考えてるんだろう、と彼なりに心配してくれたようだ。その厚意が嬉しくて、素直に受け取る。

渡された酒は、アルコール度数が高そうなリキュール。酒好きの彼が飲むのだから、度数の低いお酒ではないだろう。たしなむ程度にしかお酒を飲まないわたしには多少きつい。だけど、嫌な夢をさっぱり忘れるためには好都合かもしれない。余計なことを考える間もなく眠れるはずだ。思い切って瓶を傾けると、液体がのどを通って体内に沁みこんでいく。

体内に摂取されたアルコールは、即座に身体に反応した。血液の流れが速くなり、頬が赤らむ。苦味の濃い味が舌に残った。彼はいつも、こんなものを平然と何本も空けているのか。ほんの一口飲んだだけでむせてしまった、わたしのほうが子どもみたいだ。

今度はむせないように、もう一度酒を口に運ぶ。一回飲んで免疫ができた分、すんなりと器官を流れた。しかし悔しいけれど、この酒をおいしいとまでは思えない。真っ赤な顔で酒瓶を彼に手渡す。あまりにも酔いが顔に出ているわたしに、気がかりそうな表情。これくらいで酔っ払ったりはしないわ。そんな意思を込めて微笑すると、彼は顔を背けた。

本当に不器用な人、優しい自分は認められないなんて。そう思いながら、一歩二歩と彼に接近する。自分がなにをしようとしているのか、よく分からない。多分、酔っているせいだ。彼はこちらの動きに硬質な反応を見せる。だがそんなことは気に留めず、彼の隣へ腰を下ろした。挙動の鈍る彼のことなどおかまいなしに寄りかかる。ちょうど頭が肩の上に乗る格好だ。

ごめんなさい、今日だけだから。きっとわたしは酔ってるの。だから、少しの間だけこうして酔いを醒まさせて。心の中でそう告げながら、彼の体温を感じていた。

やっぱりこの場所は安心する。不安も怯えも消し去ってくれる、力を与えてくれる。大丈夫だと信じられる。目を閉じて、その温かさに触れていた。

硬直していた彼の身体が、ぎこちなく動く。片腕が遠慮がちにわたしの肩を支えてくれた。予想外の出来事に、驚きつつも嬉しく思う。淡く笑みを浮かべながら、声を出さずに唇を動かした。

――――ありがとう…。

 

もう二度と、悪夢に負けたりしない。あの夢を見ても、過去に怯えたりしない。ちゃんと言えるから。大丈夫だって、自分に言えるから。心の奥底に眠っている、あの頃の自分にささやく。大丈夫、大丈夫だから。

今は哀しくて苦しいけれど、いつか出逢えるから。本当に大切だと思えるものにめぐり逢える。信じ合えるものが見つかるから…暗闇に負けないで。信じる想いが、果てない闇を打ち破ってくれる。強い心で、揺るぎない意志の力で勝つの。

あなたは一人じゃない。人は一人では生きていけない。だから見つけられるわ、大切な仲間たちを。大切な存在も…。

ほら、まわりを見て。ここは乾いた灰色の海じゃない。水の惑星に抱かれた蒼海。あなたの居場所はここにある。わたしの場所はここにある。この船が――――ここがわたしの生きる場所。

 

PRISONER

 

――――あなたに囚われた、心。

 

その瞬間、たしかに二人の視線は交わっていた。唐突な出来事に直面したとき、人はその心の裡を隠しきれない。彼らにとってはまさに今、この一瞬がそうだったのだろう。

普段は己の中に介在するもののためにひとつの感情を黙殺し続けてきた男と、日常は自分の想いを割り切って大人の対応を演じ続けてきた女。何事もなければ露にすることなどない、お互いに目をそらし続ける二人が、無意識な遭遇に直面したとき、隠したはずの真意が映し出される。

ほぼ同時に、両者は相手の眼差しを感知していた。ああ、ダメだ。根拠もない切迫感が不意をついて過ぎる。理由など知らない、分からない。ただ直感としてそう感じたから。なにがダメなのだろう。なにがこんなにも胸をざわつかせているのか。一体なにが、危機を叫ぶ警報を激しく鳴らしているのだろう。

互いの瞳孔に映っている己を自覚すること? 自分の双眸の行方を突き詰めてしまうこと? そうしてしまえば箍が外れてしまうことは目に見えている。これまでのポーズが崩される、不可侵の領域に踏み込まれる。自身にとって、それがどんなに危ういことか知っている。だからこそ――――踏み出せなかった一歩。

感情のままに動くことができたならば、少なくとも楽にはなれるだろう。その先にまた別の苦しみが訪れるとしても、抜け出せない現在からは…心をひねり潰されるような鈍い痛みからは、きっと逃れられただろう。それができない二人だったから、そうすることを選べない二人だったから、精神においての膠着状態をいつまでも繰り返している。

ここから脱却する術は至ってシンプル、ふたつにひとつだ。自分の夢を捨てるか、気持ちを捨てるか。もっと器用な人間ならば、必然的に選択肢は増える。気持ちを通わせた上でそれぞれの夢を追いかけるということ。

けれど、ふたつのものを同時に、そして同じ重さで大切だとしたら、それは不器用な人間には至難なことだ。どうしたらいいのか分からなくなって、互いを雁字搦めにして、身動きさえ取れなくなって…そしていつか途方に暮れる。どこにも行けない気持ちだけが空回りして、動けない。

無意識に本音がさらけ出された彼らは、どうしようもなくて。そらすこともできない瞳の行方を探していた。しかし、それを冷静に考える余裕はなかった。次の瞬間、もう世界は動いていたのだから――――。

 

突然やってきた大波の衝撃で激しく揺れるゴーイングメリー号。落差五メートル以上ある波が、船をシーソーのように上下させていた。とっさにマストへしがみつきながら、ナミは失念していたことを思い出す。前の島を出る際、気をつけろと言われた突発的な大波だ。穏やかな海域だったので、ついうっかりしていた。

大波は一度きりだが、余波でしばらくは波がうねっている。船から振り落とされないように、ナミは必死でマストに身を寄せる。そういえば、サンジ以外は全員甲板に出ていたはずだ。仲間の安否が気になり周囲を見渡した。

見張りのウソップはゴンドラから転げ落ち、ロープに引っかかっている。ルフィは船首に腕を巻いて、シーソー気分を楽しんでいた。チョッパーは『毛皮強化(ガードポイント)』で揺れる甲板上を転がる。昼寝をしていたはずのゾロは、刀を床に刺してその場に留まっていた。心配するだけ無駄だったかも…と思った矢先、無抵抗に船から投げ出されるロビンが見えた。

「ロビン!」

身を乗り出して叫ぶが遅かった。悪魔の実を身体に宿した者は、代償として海に嫌われる。ハナハナの実の能力を持つロビンは、泳げずただ沈んでいくだけだ。その叫びでルフィやチョッパー、ウソップもロビンの危機を察知する。

「た、大変だ!」

チョッパーは青ざめて右往左往し、

「待ってろ、ロビン。このウソップ様が助けに…!」

頼りになる言葉とは裏腹に、ロープに絡まって動けないウソップ、

「ロビン! 今すぐ助けに――――!」

とっさに海へ飛び込もうとするルフィ。

「バカルフィ!」

自分の立場を忘れている船長を捕まえるため、ナミは甲板を走った。船はまっすぐ歩けないほどに揺れているが、そんなことは言っていられない。ルフィが海へ飛び込めば、遭難者が二人になってしまう。

「あんたが行ってどうするのよ!」

ミイラ取りがミイラになる前に、ナミはルフィの頭を殴った。

「痛ってェな。なにすんだ、ナミ。ロビンが海に落ちたんだぞ、助けなきゃ!」

「泳げないあんたが、どうやってロビンを助けるの?」

「…あ、そっか」

猛烈に怒られると、ルフィはハッとして「ごめんなさい」と謝っている。そんな船長に呆れる間もなく、ナミは踵を返した。この場にいる人間で、ルフィとチョッパーは悪魔の実の能力者、イコール泳げない。ロビンを助けられるのは、ウソップ、ゾロ、ナミの三人。ウソップは相変わらず逆さ釣りの姿勢でロープと格闘していた。となると、頼みとなるのは一人しかいない。いや、正確に言えば、最初からあてにしていたのはこの男だけだった。

「ゾロ!」

ナミが駆け寄ってきたとき、ゾロは平然と座っていた。こんな緊急事態なのに、その場から動こうともしない。仲間が窮地に陥っているのに、まるで危機感の欠片もないのか。

「ロビンが海に落ちたの、あんたも見てたでしょ。早く助けて!」

切迫のあまり、怒りに任せて怒鳴ってしまう。けれど、ゾロは表情を変えなかった。行動を起こそうともしない。

「……なにやってるの? 早く助けに行きなさいよ!」

こうしている間にも、ロビンは深く沈んでいくのだ。ナミが胸倉を掴んで揺さぶっても意に介さない。何の事情もなくそうするはずはなく、こんな態度を取ったのは理由がある。

ゾロはただ一人、船から転落する前のロビンを見ていた。船が揺れて、スローモーションのように海へ投げ出される姿を瞳孔に映していた。そのシーンを目撃しながら至って冷静なのは、堕ちていく瞬間、ロビンの瞳を掠めた意図を感じ取ってしまったから。

「どうして、おれが行かなくちゃいけない」

それを知りながら相手の思惑どおりに動くのは、望むところではない。わざと突き放すように言うと、ナミは激しくかみついてきた。

「あんた、それ本気で言ってんの?」

「おれじゃなくてもいいだろ。人に頼む前に自分で行けよ。それが嫌なら、ラウンジからコックを呼んでくれば済む話だ」

「一刻を争うのに、そんなことしてたら死んじゃうでしょ!」

深刻な事態の悪化に、ウソップとチョッパーが不安そうな眼差しで見つめている。

「ちょっと、ルフィ。この刀バカになんとか言ってやって!」

ナミが話を振ると、腕組みをしたルフィが真顔でやってきた。

「おい、ゾロ。――――仲間だぞ」

船長の言葉にも、眉間に皺を寄せたままの戦闘員。説得は難しいと思ったのか、説き伏せるだけの話術を持たないのか、ルフィはくるりと身を翻す。船長命令だと言ってしまえばいいのに、そうしなかった。いつもの動物的な勘で本能的になにかを感じたのか、まったくなにも考えていないだけなのか。じれったく思うナミを傍らに、ルフィは口を開く。

「じゃあ、おれがロビンを助けに行くから、お前はおれを助けてくれ」

あっさり告げた船長の言葉に、ゾロは相手を見返した。どういう理論だよ、とぼやきながら。そして大きな息をひとつ残すと、仕方ないなと肩をすくめた。

「…手間を二倍に増やすんじゃねェよ」

胸倉を掴んだままだったナミの手を引きはがし、立ち上がる。

「こんなやり方で人を試すような女、おれは嫌いなんだよ」

だれにも聞こえない小声でもらすと、刀を置いて海へ飛び込んだ。

 

全身が水という液体に包まれれば、薄く青みを帯びた世界が目に映る。先刻の大波のせいで、海面近くには気泡が散乱していた。そして自らの周囲も人間一人の体積が増えた影響で泡が生じる。一瞬、視界を埋め尽くすほどの白闇。陸とは違い、身体は思うように動かない。必然的に身体を押し上げようとする浮力に逆らって、深みへと潜っていく。

今この空間を支配しているのは水という化合物。世界の半分以上を覆い尽くしている水、塩分を含んだ液体。それは普通の人間にとっては別段どうという対象でもない。しかし、尋常でない悪魔を身に宿した者にとって、海は兇刃となる。ただの塩分を含んだ液体が、身体を鉛のように重くして引きずり込むのだ。

水深が深まるにつれ、水の抵抗が強まってくる。まっすぐ潜水する先に女の姿を見つけた。すでに意識は失っているらしい、身動ぎもせずに沈み込んでいく。その姿を見つけたとき、相反するふたつの感情が心を過ぎった。ほっと安堵した気持ちと、己の胸を刺す痛みに似た怒り。

普段、他のだれかを助けるときにはなにも考えることはない。単に助けるだけだ、そこに複雑な事情も迷いも存在しない。けれど、この女だけは別だった。自分にとって、他の連中とは明らかに違う存在だから…素直に助けることも、試されて期待に応えるようなこともできない。

そろそろ自分も息苦しくなってくる、海は無表情に自分たちを眺めていた。明るさが弱っていく深度でようやく女に追いつく。抗う力をものともせず、女の腕を捕まえた。自分の手元へ引き寄せると、今度は実体のない水を蹴って海面へと上昇する。

間近に見た女の顔は青ざめ、唇は紫がかっていた。全力で浮上しながら、今度ははっきりと女への怒りを感じた。この女はバカだ。勝算が不確かな賭けをした。そのために生命を投げ出した。もしもおれが助けに行かなかったら、本当に死んでいたかもしれないのに…。

 

息を呑んで海面を注視していたナミが、不自然な水の隆起に気づく。直後に緑頭が勢いよく浮き上がってきた。ナミと同じように不安そうな面持ちのチョッパー、ようやく絡んだロープから抜け出し、垂直落下で甲板に墜落したウソップ、ルフィは表情を変えず、黙って状況を見守る。

「ゾロ! ロビンは?」

切迫した声がナミの口から出る。ゾロは自分の左側に視線を向けた。ぐったりとしたロビンが肩に抱えられている。チョッパーが縄梯子を降ろすと、まっすぐ身を泳がせた。水分を含んで重くなった衣服が身体にまつわりつく。ゾロは意識を失ったままのロビンを抱え、梯子に手をかけた。

女とはいえ、ロビンは身長が高く小柄とはいえない。腕力がないウソップやナミでは、ロビンを海面まで運べても、船まで引き上げることは難しかっただろう。それを淡々とやってのけるゾロ。普段から筋トレで鍛えているのでさほどの負担でもないのだが、そうとしても一味の中でゾロの存在は大きかった。戦闘や力が必要とされる事態においては、絶対的な安心感がある。

ロビンを抱えたゾロが甲板へ上がってくると、二人の全身から海水が滴り落ちた。見慣れたはずの黒髪が、不思議と艶っぽく思える。ゾロは気を失っているロビンを床に横たえた。一瞬にも満たない刹那、女の顔を見つめては目をそらす。

「助けただろ、あとは知らねェからな」

冷然と言うと、雫を垂らしながらその場を立ち去った。

「チョッパー!」

倒れている仲間を目の前にして、他のこと――ゾロのおかしな態度――に気を取られていたチョッパーは、ナミの呼びかけで現実に戻る。船医としての役割を思い出し、慌ててロビンのそばに駆け寄った。

 

女の名を呼ぶチョッパーの声が背中越しに聞こえていた。寸刻、ルフィがこちらに視線を向けたような気がする。だが、ゾロは足を止めなかった。振り向きもしなかった。彼らが想像するのとはまた別の意味で、居心地の悪さを感じる。

とにかく甲板上にはいたくない。ゾロはまっすぐラウンジへ向かった。雫によって描かれた軌跡が、足元で道標のように点々と続いている。びしょ濡れの服が肌に貼りついて気持ち悪い。けれど己の弛緩した精神を戒めるためにも、もうしばらくこのままでいたかった。

余計なことに気づかないでいられれば、道の途中で迷うことなんてない。一直線に進める、はずだと思う。しかしなぜだろう。自分の外にではなく、内に敵が現れた。これまでの人生において、こんな障害が立ち塞がったことはない。

そしてそれが己の人生に必要なものだとは思えない。少なくとも現在は。余計なもの、不必要なもの、目的を達するのに邪魔なもの。そんな感情など、想いなど欲しくはない。認めたくもない。だから目を背ける。平行線のままで。そうしていられると思っていた。

密やかな企てが瞳の中に灯っていた、あの眼差しが脳裏を過ぎる。自分が海に落ちれば、おれが血相変えて助けに行くとでも思ったのか。それとも、あそこまでしても動かない男に見切りをつける審判か。

複雑な思考回路の女がやることなんて、まったく分からない。分かりたいとも思っていないが、どうしても考えてしまう。答えの出せない問答を延々と繰り返していたって仕方ない。まずはてめェの脳味噌を冷やすべきだと自省した。ゾロは脳内を切り替えながらラウンジの扉を開ける。

赤いトマト、黄色いパプリカ、緑のズッキーニ。まず目に入ったのは、それら数種類の緑黄色野菜。床にバラバラと転がって、チンパンジーが描いた水彩画を実体化したみたいだ。それを金色の頭が一個ずつ丁寧に拾っている。

どうやらさっきの大波のせいで、カゴに入っていた野菜が散乱したらしい。サンジはトマトを手にすると、あらゆる方向から念入りにチェックし、どこも傷んでないか吟味した上で、元のカゴに戻していた。そういうところは食材を大事にするコックとしてのポリシーのようだ。

「おい、なんだ? その格好」

ラウンジに入ってきたゾロに気づくと、開口一番訊いた。全身ずぶ濡れの格好を見れば、その疑問は当然だろう。

「泳げないバカが一人、海に落ちただけだ」

今は詳細に事情を説明できる気分じゃない。サンジの問いに、ゾロは端的な回答を口にした。

「またルフィかよ」

泳げないバカと聞いて、真っ先に思いつくのは船長だ。何の疑問もなく、サンジはルフィだと思い込んだ。あの大波でふざけていて、うっかり海に落ちたのだろう。そんなマヌケはルフィぐらいだ。まあ、チョッパーかもしれないが。サンジの脳内にロビンの存在は浮かんでこなかった。

彼女がこの船に乗ってから、一度だって海に落ちたことはない。悪魔の実の能力者三人のうち、一番海の恐ろしさを知っている。だから、自分の身を危険にさらすような真似はしないし、常にそういう状況に陥らないように気を配っている。

想定される範囲内で考えれば、ロビンが海に落ちるなんてありえない。逆にルフィが海に落ちるのは日常茶飯事。わざわざ甲板に出て行かなくても大丈夫だろう。そう思って、サンジは野菜の吟味を続けた。

「……なんでてめェ、甲板にいなかったんだ?」

鬱屈した気分に耐え切れず、ゾロは抑揚のない声で告げる。あの場にこいつさえいてくれれば、面倒な状況にはならなかったのだ。ロビンが海に落ちたら、なにを置いても助けに飛び込むはず。そうと分かっていて、故意に海へ転落するようなバカな真似もしなかっただろう。

「あァ? おれにはナミさんとロビンちゃん――ついでにお前ら――の夕食の準備という、重大な使命があるだろうが」

回答の一部に問題はあるけれど、堂々と言い張るサンジ。基本的に反りは合わないが、こういうときはおめでたい思考回路が羨ましくなる。ゾロは反論せず黙り込んだ。冷静になれば、こいつと揉めたって無意味だと気づく。

そんな自分に、救いようもないなと深い息をもらした。これ以上なにを考えても、結局は挑発に乗った自分の負けだ。あとは向こうがどう出てくるか、単細胞と自負する脳味噌で推理するのみ。これまでの人生の中で、こんなに迷いが生じたのは初めてだった。

 

平穏な夜がやってくる。しかし彼にとっては平静ではない。揺らぎ、身体ではなく心を揺るがすもの。それが闇をまといながらやってくる。錨を刺すと、船は自然の揺りかごとなって乗員を眠りへ誘った。

いつもはルフィの特等席となっている舳先で、ゾロは一人佇んでいる。片足を欄干に置き、鋭角な膝に片腕を預けた。瞳は遠くを見つめていると思いきや、瞑想するように閉ざされる。さざ波立てる大気の流れが、皮膚に触れて通り過ぎた。新月に最も近い銀色の光が、頼りなく存在する闇の空。億光年の刻を越えてやってきた輝きは、銀河のフォルムを構成する。

気配が動いた。同時に、ゾロはゆっくりと目を開けた。ドアの開閉音。そっと息を潜めるような気配。それは彼に対してではなく、他のクルーを起こさないための配慮だ。彼女は自分が本気で気配を殺したとしても、彼には捕捉されると知っていた。

普段は音を立てる高いヒールを巧妙に履きこなし、闇と同じ色を持つ女が迫ってくる。彼は一切の身動ぎをせず、瞳孔に瞬時掠めた揺らぎを打ち消した。

「少し、いいかしら?」

ゾロの踏込みなしの間合いから一歩手前、そこでロビンは立ち止まる。装っていないぎこちなさを伴い、言葉少なに訊ねた。

嫌だと言ってもどうせ聞かないんだろうと思いながら、無言を貫くゾロ。彼女は時と場合によって的確に、応諾と不承を判断する。基本的に彼のリアクションはどちらのケースも沈黙と相場は決まっているのだが、外面に漂う雰囲気や状況、意志を表す眼差しで区別しているらしい。

「…昼間は、助けてくれてありがとう」

「船長命令だ。おれの意志じゃない」

予測していた展開に、脳内シミュレーション済みの台詞を返した。正確に言えば、それは嘘だ。ルフィは船長命令などしていない。

「ルフィが…おれが助けないなら自分が助けるって言い張ったから、仕方ないだろ。おれに拒否権はねェよ」

顔は依然として彼方に向いたまま、言い訳がましく体裁を繕ってみるが、本質を見抜かれている場合には滑稽以外の何物でもない。ロビンはそんなゾロを追及せず、傍らの手すりに歩み寄る。

「能力の代償とはいえ、本当に困った体質だわ。海に嫌われているのに、海の上で生活しなくちゃいけない」

漆黒に揺らめく海を眺めながら、自嘲するように呟いた。

「溺れ死ぬのが怖いなら、海へ出なければ済むことだろ。そういう危険から逃れたいなら、船を降りろ」

「この世界の七割以上が海なのよ。そしてわたしは賞金首。狭い陸の上で生きていたら、すぐに捕まってしまうわ。――――あなたは、そんなに気に入らない?」

「なにがだ」

「わたしが、この船にいること」

言葉と同時に、虚言を許さない双眸が注がれる。直線的な意志の強さに根負けしたゾロは、ようやく視線をそちらに向けた。

「船なら、他にいくらでもあるだろうが」

「そうね。だけどわたしはこの船が好きよ。こんな船、他にはないもの。昔は、一人で生きていかなくちゃいけなかった頃は、この広すぎる海は怖かった。ずっと怖いと思っていたの。でも、この船に乗ってからは海のことを好きになった。この身を深く沈めてしまうものだとしても……今は、海が好きだわ」

「そうかよ」

心の底から思うこと、本音を語る様子に、顔を背ける。彼女の存在を肯定する理論に丸め込まれたくなかった。

「わたしね、賭けをしたの」

二人の合間に漂っていた緊迫の糸が緩んだとき、不意にロビンが切り出す。

「あなたは気づいていたでしょうけど」

「……………」

「いつものわたしならば、海に落ちるなんて危険は回避してる。あの瞬間、能力で手を咲かせて船にしがみつけば転落はしなかった。だけど、思ってしまったのよ、心の奥底で。あなたがわたしを助けてくれるかどうか…試してみたくなった」

伏し目がちに告白する様子は艶かしく、男の理性を折ろうとする。感情に流されるのは雄のすること、自分はそうじゃない。これも違った形の挑発なのだと律し、精神をきつく奮い立たせた。

「悪趣味だと言わないの? ふざけるなって怒らないの?」

「どうだっていいことだ、おれにとっては」

「根本的に、あなたはわたしのことを見誤っているわね。なにも必要としない、なにも望まないと思ってる。過大なリスクを負ってまで、欲しいものに手を伸ばすことはないと。…それは大きな間違いよ。わたしはあなたが思っているほど賢くはないわ。愚かで、諦めが悪くて、とてもバカな女なの。間違っているとわかっているほうへ行きたくなってしまう。認めなければ、否定し続ければそれで済むことなのにね。どうしてか子どものように、素直になりたいと思ってしまったの」

月が細い夜は暗黒が侵食して、闇の力が大きくなる。そんな話を聞かせてくれたのはだれだったろう。怖いもの知らずの少年は、闇よりも強くなるから怖くないと言い、すべてを知ることを夢見た少女は、微かな不安と興味を覚えた。

今、銀色の頼りない月光に彩られた女は闇を知る者。しかしその魂は澄んだ色をして、決して闇に支配されることはない。ロビンは天空に広がる宇宙の歴史を見つめながら、話を続けた。

「本来ならば、あなたが想像していたとおりの行動をとるつもりだった。とりあえずこの船を隠れ蓑にして、面倒が起きたらすぐに消えてしまおうと。でも、そんな気もなくなったわ。この船に乗っていたら安心できたから。――――あなたの、存在に」

人にとって、生きる道はそれぞれだ。真っ暗な道もあれば光の道もある。彼女の人生は、ずっと闇の世界だった。わずかな灯火もない暗闇。けれど彼らに出逢ったとき、灯りがともった。小さな灯りだけれど、道標のように長く遠くつながっている。いつかたどり着きたい場所へ、果てしない未来へ道を示してくれる。

「あのとき、もしもあなたが助けてくれたら、わたしの思惑も気づいた上で、それでも助けてくれたのなら……変えられるかもしれないって思ったの、自分を。夢以外になにも望もうとしなかった自分自身が、変わるかもしれないと思ったの」

「そんなことのために、てめェの生命を捨てるのか」

低く苦い端的な言葉。ゾロは感情をセーブしたつもりだった。しかし彼の怒りは内心激しかったらしく、怒気は抑えきれない。

「あなたは、助けてくれたでしょう?」

「おれが助けなかったら…だ!」

「助けてくれると思っていたわ、あなたなら。うぬぼれなんかじゃなくて。あなたは、必ず助けに来てくれるような――――気がしたの」

あの瞬間には、そこまで確信は持てなかった。考える暇もなかった。でもこうして、彼が怒りを露にしたことで確証を得た。彼は、彼女が自身の生命を軽く扱ったことに怒っている。だから不謹慎だけど、少しだけ嬉しかった。

「万が一、本当にあなたが助けてくれなかったのなら…そうね。多分きっと、それでもよかったのかもしれない。深い海の底へ呑みこまれて、もう二度と浮き上がって来れなくても。一条の光も射し込まない冷たい海の柩で、永遠に眠り続けても。少なくとも、わたしは後悔しないわ。自分で決めたことだもの。もし他の人が助けてくれても、この船からは去っていたでしょうし」

飾ることをしない言葉は、頑丈な鍵をかけた心をも揺さぶって、無理に変化球を覚えた武骨な男を惑わせる。ゾロは訝しい眼差しでロビンを見た。さっきは、この船が好きだからここにいたいと言ったくせに、安易に「この船から去る」という発言が出てくるのが理解できない。そんな疑問を表情から感じ取ったのか、ロビンは淡く笑って答える。

「それほどあなたに嫌われているのに、平気な顔をしていられると思う? この先ずっと一緒の船に乗り続けられるほど、わたしは厚かましい女ではないわ」

「なら、思惑どおりに事が運んで満足か?」

「あなたの意志で助けてくれたのならね」

一度は下がっただろう冷たい声に対し、濁った面持ちが月夜に映る。彼女は知っていたから。彼に問い質すまでもなく、答えを。彼が直面した状況下で仕方なく助けてくれたことを、助けられた瞬間に分かっていた気がする。それでもわずかな可能性を見出したかった。自分の本心を明かすことで、彼の真意も開いてくれること。

「あなたの邪魔はしない、これ以上近づかないわ。だから、せめて『ここ』にいることだけでも…許してくれないかしら」

なにを引き換えにしても譲れない夢がある、願いがある。それがあるから、互いに感情を押し殺してきた。だけど、己の制御を不可能にして育っていく想いを隠せなくなってきたから。その気持ちだけは、どうしても認めてほしいと思う。自分と同じ感情を要求しているのではない、ただ想うことだけ。好きな気持ちだけは、どうか否定しないで。

「…いるだけでも、迷惑だよ」

「………そう」

希望を打ち砕く言葉、彼女は凛とした表情を崩さない。けれど瞳は正直で、悲しみに潤んで揺れた。ゆっくりと空を見上げる。光の速度でも届かない向こう側へ、連れて行ってほしいと思った。

彼は意図的にそらした視線の行き場を探している。視界の外にいるロビンが、どんな顔をしているのか心に浮かんだ。錆びたナイフで胸をえぐられるような感覚に拳を握る。この痛みに耐えなければ意味がない。必死で突き放す意味が。

「くそっ」

平常心を保とうとすればするほど、己の脆さを自覚する。どうしようもない焦燥と、複雑に考えすぎてこんがらかる思考。さまざまな要素が起因する精神負荷に我慢できなくなったゾロは、苦々しい想いでもらした。

「人の気も知らねェで…」

「…え?」

沈痛な心を詭弁でごまかそうとしていたロビンは、ゾロの呟きに顔を上げる。

「お前は自分の言いたいことだけ言ってすっきりするだろうけど、おれは…気にするなってほうが無理だろうが。簡単に片付けるんじゃねェよ。後味悪いだろ。それでもなにもなかったように平然としてろってか? 冗談じゃねェ。お前は今でも充分、おれの邪魔をしてるんだよ」

表面的な言葉の意味を受け取れば、それは拒絶だ。しかし、彼の混乱した心は、決してそう言っているのではなかった。

「ごめんなさい、そこまでうとまれていたなんて知らなくて。次の島に着いたら、この船を降りるから…それまでは」

追い討ちをかける痛切さに耐えかねて、彼女は瞳を伏せた。失意に堕ちていく心が悲しみに震えるけれど、涙は決して流さない。どんなに突き放されたとしても、彼の前で取り乱したくはなかった。この船を降りてどうするのか、あてなんてあるはずもない。だけどこれ以上、ここにはいられない。

「――――そんな真似、させるかよ」

覚悟を決めようとする彼女に降りかかったのは、予想外の言葉。話の流れから真逆な展開に、ロビンは唖然とする。

「ルフィは、一度仲間と認めた奴が許可なく船を降りることなんて承知しねェ。お前が理由もなくこの船から消えたら、間違いなく探すに決まってる。連中全員、どこまでも追っていくぞ。お前を見つけるまでな」

一方では彼女の存在を拒みながら、もう一方ではいなくなることを許さない。彼が提示した名目としての理論に、困惑を浮かべる。

「だったら、わたしはどうすればいいのかしら」

「……仕方ねェからここにいろ」

伺うように自分を見つめる瞳に、妙な焦りを感じて顔を背けるゾロ。自身でも言っていることが無茶苦茶だとは分かっている。けれど、そういう建前がないと自分をごまかせない。

「わたしが邪魔をしているんじゃなかったの?」

「おれ一人の些細な感情くらい、気にしなければ済むことだろ。お前が船を降りた場合に起きる事態を考えれば、我慢できることだ」

「あなた、言っていることが矛盾だらけよ?」

「知るか。とにかく、仲間としてここにいる分には文句はねェ」

子どものように突っぱねる彼を目の当たりにすると、だんだん心が軽くなってくる。つまり、彼はあくまで感情は認めないけれど、存在は許容するということ。

なんて強情で頑固な男だろう。彼女はほんの少し呆れた。だけど、自分が惹かれたのは彼の揺るぎない強さだったと思えば、この妥協点で納得するしかないとも思う。

「あなたに嫌われているのは、少し悲しいわ。わたしはむしろ」

演技めいた口調で口を開くと、ゾロは間髪なく遮った。

「その先、一言でも言ったら――――」

「どうするの?」

挑発の笑みで問う、彼女は魅惑している。彼は穏やかな波間を映しながら、淡々と告げた。

「海にでも突き落とすかな」

「そう」

二人の間に漂う緊迫の空気が解ける。先刻には深海の底へ突き落とされた彼女の心は、元の場所まで浮上していた。

「余計なことは、言わないほうがお互いのためだろ」

「いつまでも、そうやって目を背けていられると思ってる?」

「どう思われようが、おれはなにも言わねェよ。言わせるつもりもない」

その点だけは譲れない、結論としてはなにも変わっていない。無理だとしても、育っていく感情を止められなくても、言葉にはしない。必要以上の負荷が精神にのしかかるのを承知の上で、その姿勢を貫くという。

「そういうことだ」

「わたしにも、それを強いるの?」

「この船にずっと乗っていたいならな」

「勝手な人」

海から寄せる風、彼女は頬にかかる黒髪を耳にかけた。向かい合えない会話の応酬は、向かい合えない心と同じ。己の言っていることが刹那的な回避だとしても、彼はそうする。今はまだ、感情に流されてしまいたくはない。

「冷静になれば、己の勘違いに気づいて目も醒めるだろ」

「…あくまでも、そう思っていたい?」

「それ以外、どう思えっていうんだよ」

「ありのまま、心にあるものを受け容れればいいのに」

それができるなら、こんなややこしい事態になんかなってない。のどまで出かかった本音をゾロは呑みこんだ。すべてを抱えながら強くあることができない自分を、知りたくはなかった。

「――――弱くなるのは怖いのね」

ストレートに的を射る指摘、彼女は自分の弱さを怖れない。

「だれかに依存したい気持ちが、そう思わせてるだけのことだろ。勘違いや一瞬の錯覚なんてよくある話だ。正気に戻れば目も醒める。おれは、気の迷いに自分を溺れさせるつもりはねェ」

図星をつかれても事実を認められず、理屈だらけの言い訳でごまかす。そんな自分をみっともないと思うけれど。現在の自分ではダメなのだ。本物の強さを持たないおれでは。

彼女はそんなゾロの心裡を察しているように、穏やかに笑った。見透かされていると同時に、彼自身の気持ちもとっくに気づかれている。それでも今は知らないふりを選ぶ女に心はつながれて。この深い夜が、永遠に明けないような気がした。

 

――――そしておれは、自由を奪われた。

 


 
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