No.803279

「FUTURE NEBULA」

蓮城美月さん

それぞれのキャラクターたちの未来模様。
オールキャラ。カップリング要素あり。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 144P / \200
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2015-09-20 16:56:09 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:677   閲覧ユーザー数:677

◆CONTENT◆

 

Period

June Bride

春色の風

夏への扉

wish to wish

Precious

Fortunate Table

BLESS

よくある話

よくある話~After~

Final Trap

Catch me if you can

ありふれた話

ありふれた話~After~

ありふれない話

 

June Bride

 

――――長く曲がりくねった道、

時には迷い、時には立ち止まってしまったけれど…

揺るがない想いを、絆を信じ続けた。

そしてわたしはあなたにたどり着いた。

この最後の一本道を抜けてあなたと向かい合ったら、二人の永遠を誓おう――――。

 

前日まで断続的に降り続いていた雨は、今朝には上がっていた。梅雨前線も今日という日を祝福して、気を利かせてくれたのだろうか。六月中旬にしては幸運な梅雨の中休み。青々と繁る木々に残る雨の跡が、温かい陽射しに明るくきらめいている。

静かで平穏な日曜の朝。今日は吹雪にとって特別な日だった。人生で最も大きな行事が行われる日。新しい未来を誓い合う大切な日。そんな重大な日を控えて、平静でいられる人などいないだろう。もちろん吹雪も例外ではない。

昨夜は緊張のあまり心が落ち着かず、よく眠れなかった。目を閉じてもなかなか眠りに就けず、眠らなくてはという意識ばかりが先走る。なにも考えないようにしても、走馬灯のようにさまざまな思い出がよみがえってくる。

二十数年間にあった出来事、この家に刻み込まれた歴史。短い時間だったけれど父の記憶、母と弟妹と自分が築いてきた家族の思い出。楽しかったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、つらかったこと。それらすべてが、今はとても懐かしく愛しいものに思えた。

次から次へと流れる家族の光景。明日からそこに自分はいなくなる。ここはもう、自分の帰る家ではなくなってしまうのだ。そんな想いを抱えながら、いつしか眠りに落ちていた。

浅い眠りにまどろみながら、目を覚ましたのは日の出前の閑静な時刻。傍らの時計を見ると、まだ四時前だった。人の気配を感じない、静寂に支配される薄闇。早起きの鳥たちが観客のない音楽会を開いている。

(アイツも眠れなかったかな?)

吹雪はふと、今日の特別な日を共有する相手のことを考えていた。彼は意外とナイーブな性質を持ち合わせているので、自分より眠れていないかも…と思った。

そして自分の部屋を見渡してみた。大方の荷物は新居に運んでいるので、部屋の中は閑散としている。長年付き合った机や椅子とも今日でお別れだと思うと、淋しい感慨を抱かなくもなかった。そう考えると、今までは感じなかったことをはっきりと実感する。

今日この家を出て行くと、わたしの帰る場所はここではなくなる。家族の肖像の中からわたしはいなくなり、もう一枚の絵に描かれることになるのだと。一生を共に生きていく伴侶と新しい家庭を築くのだ。吹雪は神妙な心持ちで、その朝を迎えていた。

 

朝食を済ませ、吹雪は早々に教会へ行く支度を整える。母親の準備を手伝いながら、弟と妹は自分たちの支度もしていた。準備万端な吹雪は、仏間で線香をあげていた。仏壇の前で綺麗に正座して、写真の中の人物に語りかける。

「――――お父さん…」

遺影の父は、穏やかな表情で吹雪に微笑んでいた。一緒にいられたのは幼い頃の本当にわずかな時間だけ。それからはずっと、写真を眺めているだけの父だった。けれどいつだって、自分たちのことを見守ってくれていると思うから、父にはちゃんと伝えておきたかった。

(今日まで見守ってくれてありがとう…。わたし、しあわせになるから…二人でしあわせになるから。だから安心してね、お父さん)

吹雪は父の姿を脳裏に思い描きながら告げると、静かに手を合わせる。吹雪の心の中で、父が優しく微笑んでいた。

『おめでとう、吹雪』

彼方から父の声が聞こえた気がした。

「お姉ちゃん、そろそろ時間だよ」

泡沫の邂逅に揺らめいていた吹雪を、その声が現実に引き戻す。時間が迫ってきたので、妹が呼びかける。吹雪はもう一度、父の写真にまっすぐ向かい合うと、やわらかな笑顔で告げた。

「行ってきます。お父さん」

 

まぶしいばかりの光がステンドグラスから降り注ぐ。バージンロードには真紅の絨毯が敷かれ、花嫁が歩くときを待っていた。十字架の下に神聖な空気が漂っている。会場は準備が整い、式の一時間前にもなると、参列する親類たちが今日という日を祝福していた。

(…あの姉ちゃんが、もう嫁に行くなんて)

廊下を浮かない顔で歩きながら、雪人は物思いに耽っていた。慣れない正装に肩が凝る。式までの時間を持て余して、あてもなく教会の内外をうろついている。

今日の姉の結婚式を、雪人は複雑な思いで迎えていた。家族の前ではしっかり者で男勝りな姉。口うるさく、嫁のもらい手などないように思えた姉だが、あの男の前では違ったのだろうか。

今まで一緒にいた人間がそこからいなくなる。家族の輪から出て行ってしまう。これから新しい場所で生きていく姉に、多少感傷的な気分を抱いていた。

(淋しいわけじゃない…。ただ実感がないだけだ)

心に浮かぶその思惟を、淋しさではないと雪人は言い聞かせた。姉の結婚が気に入らないのではないし、相手に不満があるわけでもない。いつかは結婚するだろうと思っていた。けれど、こんなに早く二人が決断するとは予想していなかったから、まだ完全に許容しきれていないだけだ。

気がつくと、新郎の控え室の前を通りかかっていた。部屋の扉は半分開いていて、中では新郎が友人と雑談している。深雪は『兄』ができることを素直に喜び、早くから『お義兄さん』と呼んでいたが、雪人には戸惑いがあった。それでいつも無愛想な対応になってしまっていたのだ。雪人はしばらく熟考したが、あの男に言っておきたいこともあったので、その部屋に足を踏み入れた。

「あ、雪人クンだ」

雪人に気づいた大和が、にこやかに声を上げた。

「あの……」

その場に居合わせた千尋や燕、そして健吾も雪人に視線を向ける。雪人はどう切り出したものか困惑していた。

「小林クン。吹雪チャンの様子を覗いてこようか?」

なんとなく状況を察した千尋が提案した。二人で話せるように、気を利かせたのだ。

「あ、そうだね。ボク、吹雪ちゃんのドレス姿、早く見たいや」

「先生もどうですか?」

「じゃあ、ワタシも…」

大和と燕が同意すると、彼らは部屋を出て行く。取り残された雪人は、居心地が悪そうに周囲を見渡した。

「……ええと、その…いろいろ心配だと思うけど、ちゃんとしあわせにするから」

ためらいがちに、けれど真摯な口調で健吾は断言する。雪人がここに来た理由も分かる気がしたので、思っていることを率直に言葉に託した。

改めてそんな台詞を言われなくても、雪人には分かっていた。この男は、あの姉が選んだ男なのだ。その選択が間違っているはずがない。この男となら、きっと姉はしあわせになる。ずっと先へ続く長い道には、至福の光が差し込んでいるだろう。

自分が願うまでもないことだと雪人は自嘲する。自分のこんな心労は、まったくの杞憂だ。姉に言えば、「バカね」と笑われるだろう。でも、しっかりと自分の目で確かめておきたかった。あの男の意志の固さを。姉に対する想いの深さも。

相対して健吾の決意を知ると安心した。意識していなかったが、ずっと心が張りつめていたようだ。緊張を解いて冷静になってみると、自分の行動に気恥ずかしさを感じる。けれどずっと一緒にいた家族だから、姉弟だから、大切だから…心配してしまうものなんだと雪人は悟った。

「泣かすなよ」

雪人は顔を上げ、健吾に言った。

「ああ」

その言葉をしっかり受け止め、健吾は即答する。安堵した雪人は踵を返して立ち去ろうとした。だが、まだ言い残したことがあるので足を止め、振り返る。

「姉ちゃんのこと任せたからな、義兄貴」

そう言い放つと、雪人は足早に扉の向こうへ消えた。そのまま廊下を急ぎ足で通り過ぎていく。今の自分の顔をだれにも見られたくない。雪人の顔は気恥ずかしさに赤面していた。

 

「わあ、すごく綺麗だよ。吹雪ちゃん」

花嫁の控え室では、吹雪がドレス姿で椅子にかけている。吹雪が選んだのはシンプルなウエディングドレス。華のように美しい吹雪に、大和が感嘆の声をもらした。

「ありがとう。小林クン」

「いや、ホントに見違えました」

燕も吹雪の花嫁姿に見入っている。

「アンタはこれを見て、なにか言うことはないの?」

吹雪の傍らにいるあげはが、品定めするように眺める千尋に感想を要求した。

「なかなか似合ってるよ。健吾クンがほれ直すこと間違いなしだね」

千尋は微笑を浮かべつつ、本音を述べる。

「ありがと」

それらの言葉を受け止め、吹雪は微笑んだ。自分たちの門出を祝福してくれる人がいることに、心から感謝する。高校時代いろいろなことがあって、さまざまな思いを知り、共に成長した大切な友人たち。卒業と同時に道は別れてしまったけれど、そのつながりが途絶えずに今も続いている。明日からの新しい未来を見守ってくれる。今日の自分は、世界で一番しあわせだと思った。

 

時計の針がもうじき十一時を指そうとしている。友人たちは式場へ向かい、控え室には吹雪と家族だけが残っていた。吹雪はゆっくり立ち上がると、静の前に歩み寄る。

「…お母さん。今まで、ありがとう。お世話になりました」

感慨深く告げ、頭を下げた。

「おめでとう、吹雪。しあわせにね」

静が包み込むような口調で答える。

「はい」

感極まって緩む涙腺を、必死で押さえながら吹雪は頷いた。

「お姉ちゃん…」

潤んだ瞳に笑顔を浮かべた深雪が、吹雪にブーケを差し出す。

「深雪、雪人。お母さんのこと、お願いね」

「大丈夫だよ。任せて」

一歩下がった場所で佇んでいる弟妹を交互に見ながら、吹雪はあとのことを頼んだ。深雪は明るく笑って返事をした。

「母さんのことは心配いらないから。それより、間違っても出戻ってきたりするなよ、姉ちゃん」

ずっと黙り込んだままだった雪人が、ためらいがちに口を開いた。弟がくれた祝辞に、吹雪は目を細める。

「うん。わかった」

まぶしいほどの姉の表情に、雪人は小さく微笑んだ。そして、ずっと言いたくて言えなかった言葉を初めて口にした。

「結婚、おめでとう…。姉ちゃん」

「ありがとう」

 

――――この先に続く長い道を、ずっと一緒に歩いていこう。

二人で並んで歩いていこう。

どんなに険しい道や障害があっても、あなたとなら越えていける。

大丈夫だと信じられる。

つないだ手を離さないで。

永遠に続く未来へ、二人で行こう。

今日の誓いが、明日を作っていく。

果てしない未来の希望になるの。

ねえ、しあわせになろうね――――。

 

Final Trap

 

「たかち。ダンススクールを卒業したら家を出るって、本当?」

春の薫り漂う三月上旬。ダンボールや衣類などで散らかる鷹士の部屋に、突然真央子が現れた。

「なっ、なんでおまえがここにいるんだよ、真央子」

唐突な出現に驚いた鷹士は、長年の経験から染みついた防衛本能で思わず後退する。

「家の用事を頼まれて来たのよ。いけない?」

「いや、それなら…いいけど……」

鷹士は口ごもりながら、散乱している衣類を箱につめ込んだ。物が雑然と床を埋め尽くしているので、足の踏み場もない。昔からこんな惨状を目の当たりにしてきた真央子は、平然と部屋を見渡す。慣れているので、この程度では驚かない。気に留めず周囲に視線を循環させていると、机の上にある書類に気がついた。どうやら、伯母から聞いた話は本当のようだ。

鷹士は高校卒業後、仲間数人とストリートライブをしながらダンススクールに通い、踊りの勉強をしていた。今春スクールを卒業したあとはどうするつもりなのか気になっていたが、本格的にダンサーとしての道を進むらしい。仲間と協力しながら定期的に活動し、実力を備えていくという。いつか大きな舞台で、たくさんの観客の前で自分たちの踊りを披露することを夢に見ながら。

「たかちに一人暮らしなんてできるのかしら。ゴミの分別方法、知ってる?」

住むところは決めているらしく、机の上には契約書類が置かれている。知らないうちに事が進んでいたことが、真央子は面白くなかった。何の相談もなく蚊帳の外だったから。昔は目前の石に転ぶくらい頼りなかったのに、いつの間に一人で自分の道を歩けるほど成長していたのだろう。

「大丈夫だよ。オレだってもう立派な大人だぜ。いつまでも、おまえにからかわれているガキじゃねぇよ。真央子、おまえもオレのことにかまってないで、ちゃんと自分のこと考えろよ」

今までの幼さを感じさせる表情は、鷹士のどこにもなかった。自分の意思で未来を切り開いていく青年の顔。堂々とした口調で告げられ、心ならずも怯んでしまった真央子は腕組みしながら考え込む。そして、ある謀略を思いついた。

「そういう台詞は、一人で契約書類を書けるようになってから言うのね。この欄、判を押してないわよ。ついでにここはフリガナがない」

とっておきの罠を閃いた真央子は、アパートの入居契約書類の不備を次々に指摘していく。

「わかったよ。どこだよ…ここか?」

鷹士は苦い表情で、指摘された箇所を直していった。あちこち真央子が指し示すので、名前を書いて判を押してと右往左往する。

「これで全部か?」

数十箇所の不備を修正すると、鷹士は真央子に確認した。真央子の指示に従い、やっつけ仕事のようにこなしていった鷹士は、やさぐれてペンと判子を持っている。こんなに多く、記入もれや捺印もれがあるとは思っていなかった。

「あと、この書類にも署名と捺印してくれる?」

そこに真央子が一枚の書類を差し出す。それは机の上にあった書類ではなく、真央子が持っていたもの。だが、言われたとおりにサインと判を押してきた鷹士はまったく気づかない。素直に示された場所へ署名と捺印をしてしまった。

「………あれ? コレ、何の書類だ?」

あとになって疑問を持ち、その書類を確認しようとしたのだが、すぐ真央子の手中に収められてしまう。書類に真央子の名前もあったような気がして、鷹士は嫌な予感に襲われる。

「お…おい、真央子。その書類って…」

不安そうな面持ちで訊ねる。一方、鷹士の署名を確認した真央子はご満悦の様子。

「この書類がどうかした?」

「それ、何の…」

問いかけると、真央子は微笑む。

「何の書類か確認せずに判を押したの? そんな甘い認識だと、この先悪い人に騙されるわよ」

「そんなことどうだっていいだろ。それより、その紙切れちょっと見せろよ」

動揺する鷹士にサド心が満たされた真央子は、その書類を掲げて見せた。鷹士と真央子、二人の名前が並んでいて、左上にはこの書類の名称が印刷されている。――――婚姻届。

「――――――!?」

鷹士は驚きのあまり、百面相しながら声を失った。頭の中が混乱し、脳が正常に働かない。

「………ま…まお、こ…」

口をパクパク開きながら、呆然とその紙を指す。

「どうしたの、たかち。まさか結婚する気もないのに、婚姻届に署名捺印したりしないわよね?」

「ま、真央子。おまえ…それ、どうする気だ?」

罠満載の笑顔で告げる真央子に、鷹士は辛うじて言葉を返した。

「どうするって…さあ、どうしようかしら。今ならまだ市役所は開いてるし」

「……ちょっと待て。それ、本当に本物の…?」

「偽物に書かせて何の意味があるの? 正真正銘、本物の婚姻届よ」

恐ろしすぎる状況に、どうしていいか分からない。世にも恐ろしい物語が自分の身に起こって、パニック状態だ。そんな鷹士の動揺ぶりに、真央子はますますサド心をくすぐられた。

「どうせいつか出すことになるんだから、いいじゃない。さあ、市役所に行かなきゃ」

真央子が軽い口調で言うと、鷹士は断末魔の叫びを上げる。

「うわあ、真央子! それだけはやめてくれ!」

大林家に鷹士の悲鳴がこだましていた。

 

ありふれた話

 

「またケンカ?」

呆れた声色の千尋が、グラスを運ぶ手を止めた。繁華街にある一軒のやきとり屋。金曜日の夜も七時をまわり、店内は会社や家庭での憂さを晴らそうと盛況だ。今日は久しぶりに男だけで飲むことになり、面々が揃う。健吾と千尋が並び、テーブルの反対側に燕と大和が座っていた。

「懲りないね。これで何度目?」

「そんなこと数えていられるか。とにかく、今日は朝から一言も喋らなかった」

「ふうん。それは相当怒ってるね、吹雪チャン」

「…オレにどうしろって言うんだよ」

周囲の雑音の中、疲れたようにぼやく健吾。

「それは自分で考えることだよ。健吾クンさ、どうしていつもこういう話をオレにするの?」

「どうしてって…」

答えを濁しながら、向かいの二人に視線を注ぐ。燕と大和は話に没頭していた。熱心に互いの話に耳を傾けている。二人で盛り上がっているというか、共感し合っているので、こちらはこちらで近況などを語り合っていたのだ。燕は烏龍茶、大和はオレンジジュースを飲んでいるのだが、傍目にはすでに酔っ払いの雰囲気が漂っている。

年下の相手と結婚し、尻に敷かれている者同士、同じ境遇だからこそ分かる毎日の気苦労を励まし合っている。健吾が吹雪とケンカをしたと言っても、それに勝る苦労話を聞かされることになりそうで、とても相談にならない。だから、あの二人にこういう話はできないのだ。

「おまえのところが一番平和そうだから…」

燕や大和の家庭に比べたら、たしかに落ち着いてはいるなと納得し、千尋は話の続きを促した。

「で、今回はなにが原因?」

「背広のポケットから、なにか見つけたみたいで」

「女の子の電話番号とか?」

「いや、メールアドレスだったらしい」

健吾は直接それを見ていないが、発見した吹雪の説明からするとそのようだ。肝心のメモは、吹雪が破り捨ててしまっていた。

「隅に置けないね、健吾クン」

「知らない間に勝手に入れられてたんだよ。背広にこっそり忍び込ませたらしくて」

「そんなの、隙があるから入れられるんだよ」

「おまえはないのか、そういうこと」

「ないよ。書類にメモを挟まれたことはあるけど、すぐ本人に返すから」

それはそれで気の毒だが、この男相手にそういう真似をするなんて、ある意味で怖いもの知らずだと健吾は思う。

「家に帰る前の時点で気づいておけば、捨てればいいだけの話。向こうが一方的に押しつけてきたんだから、どう扱おうがこっちの自由。そこまで気を使うことはないよ」

自分の大切な人間以外には、限りなく無情になれる。それが小林千尋という男だった。

「それで吹雪チャンが怒った?」

「猛烈にな」

「ヤキモチ焼くなんて、可愛いものだよ」

吹雪の激怒を脳裏に浮かべ、肩を落とす健吾。それに対し、千尋は軽い口調で楽観的だ。

「ヤキモチって言われても…」

「妬いてもらえるうちは、少なくとも安心できると思うけど。吹雪チャンは、健吾クンのことを好きだからヤキモチを焼くわけだし」

「にしたって、これくらいのことで大袈裟って言うか、オーバーだろ」

「それだけ心配してるってことなんだから、素直に喜べば?」

「けど、まるきり信用されてない気がして」

不満そうな健吾の言葉に、気持ちは分からなくもない千尋。

「ある程度は、疑われる要素をなくすこともできるんじゃない?」

「そもそも、浮気なんかするはずないのに」

「健吾クンには無理だろうね。浮気するには気力も体力も、なによりマメさが求められる。両方に気を配ってバレないよう手回しや小細工をするなんて、難しすぎて不可能だよ」

「…じゃあ、おまえにはできるのか?」

「浮気なんてものは、家庭や奥さんに不満のある男がすることだよ」

言ってしまってから、千尋は正面の二人を見た。家庭に不満があったとしても、燕と大和に浮気はできないだろう。恐妻家の人間が浮気をするには相当の勇気と覚悟が要る。

「それにしても、燕先生と小林クン…」

「どうしたら、烏龍茶やオレンジジュースで酔えるんだ?」

「話をしているうちに、自分の不遇さに陶酔してしまうんじゃない? あーあ、とうとう泣き出したよ、燕先生。よほどあげはチャンに苦労させられてるんだな」

千尋と健吾が二人の様子を伺いながら話していると、燕の嘆きが大和にも移ったらしい。二人して嘆きの声をもらし、そのうち酔いつぶれたように眠ってしまった。

「…おい。あれ、どうする?」

「どうしようもないよ。オレたちが帰るまでに目を覚まさなかったら、放って帰ろう」

「置いて帰る気か?」

「自業自得。酒でつぶれたわけでもないし。大人の男を抱えるのは、かなり大変だよ」

「……二人が起きるまで、ゆっくり飲むか」

さすがに燕と大和を見捨てて帰ることはためらわれて、健吾はビールに手を伸ばす。少しでも長居をしていれば、目を覚ましてくれるかもしれない。

「なんだかんだ言っても、しあわせな悩みだと思うけどな」

「燕先生と大和が?」

「健吾クンも含めて」

「後ろめたいことがないのに揉めてるんだぞ」

「信用はしていても、別の女の匂いがすると気になって、詮索して、些細なことでも疑ってしまうものなんじゃない、普通は。まったく関心を持たれなくなったときのほうが、問題だと思うよ。自分のことなんて、どうだっていいと思われたら終わり」

「まあ、そうだけどな」

「もしくは、向こうが浮気することだってないとは言い切れないんだし」

「…それはないだろう?」

「自分にとって魅力のある女が、自分にだけそう見えていればいいけど、世の中の男にも同じように見えていた場合、可能性は皆無じゃない。健吾クンは吹雪チャンに浮気されない自信、ある?」

今まで考えたこともないことを訊かれ、健吾は一瞬言葉に詰まる。

「相手にずっと自分のことを好きでいてもらうのは、簡単なことじゃない。現状に甘えて努力を怠れば、その代償は思わぬ形で払うことになるから。まあ、些細なことにすらヤキモチを焼くってことは、執着してる…それだけ好きってことじゃないの?」

「それでも…」

「オレなんて、ヤキモチひとつもないんだよね。そういう身からすると羨ましいけど」

「全然ってこともないだろう?」

「あまり感情を表に出さない人だから、そういう部分では健吾クンと共通してるかな?」

「オレだって、顔に出ないだけでいろいろ考えてるぞ」

「わかってるけど、たまには意思表示してほしい。そういうところも見せてくれたらいいのに」

「…そう思っていても、できない人間だっているだろ」

「やましいことはないし、それを理解しているからなんだろうけど、それでも…あんまり無関心だと、オレがなにしようと興味ないんじゃないかと思うし。少しくらいは気にしてほしいんだよ」

「それだけ信用されてるってことじゃないのか」

「そうだとは思うけどさ」

不満そうな千尋に、それこそ贅沢な悩みじゃないのかと思ってしまう。世の中の男は、妻に信用されるために必死なのに、疑ってほしいなんて珍しいケースだ。

「だったら、一度浮気してみたらどうだ?」

「冗談。オレ、奥さん以外にそういう気は起きない」

平然と言い放てる姿勢は、ある意味で尊敬に値する。健吾は嘆息し、皮肉でもなく呟いた。

「平和な悩みだな」

「そうかな」

「おまえの家は、間違っても物が飛んできたりはしないだろ?」

「しないね。健吾クン家は飛んでくるの?」

「…昨日もクッションが飛んできた」

「そりゃご愁傷様」

「どうしてアイツは手が早いんだ」

「口と手が同時に出ちゃうんじゃないの?」

健吾が疲れた表情で打ち明け、千尋は淡々と話を聞いている。

「よく考えれば、高校時代から何回殴られてきたか」

「たくましいからね、吹雪チャンは」

「たくましいって…」

「男でも、手加減なしに殴られたら痛いってことを知らないんじゃない?」

「…おまえ、殴られたことあるか?」

「吹雪チャンになら、高校のときに数回」

「いや、そうじゃなくて」

「ウチの奥さん?」

納得すると、回想して記憶をたどった。

「三回」

「そんな風には見えないけどな」

「わざと怒らせるようなことをしたから、仕方ないよ」

「男は手を上げられないから、どうしたって不利だしな」

「………まあ…そうだね」

千尋の返答はなぜかぎこちない。ふと健吾に、ある考えが過ぎった。

「…まさかと思うけど」

「………そのまさか」

健吾の言いたいことを察し、あっさり認める。バツが悪そうな顔ですぐに付け加えた。

「もちろん、一回だけだけど」

「どうして?」

「捨て猫拾うのとはわけが違うなんて言われたら、さすがにオレだって傷つくよ」

詳細が不明な段階ではなにも言えない。健吾が対応を迷っていると、千尋が神妙な顔で言う。

「今までの人生で、オレが一番後悔していることだよ」

短い沈黙のあと、漂う空気を打ち破るように健吾が問いかけた。

「そもそも、夫婦ゲンカなんてするのか?」

「基本的にしない。オレがどんな男か見抜いてる人だから、嘘ついたってすぐにバレる」

「一度も?」

「あのとき…一回大ゲンカをして、それ以来はしてない。正確に言えば、夫婦ゲンカじゃないけどね。まだ結婚してないときだから。少し前から微妙なすれ違いが続いていたけど、とうとう糸が切れて口論になって。それから、口も利かないままお互い自分の部屋に閉じこもっていたら、いつの間にか出て行ってた。軽はずみに『出て行けば?』なんて言うべきじゃないね。女っていざとなったら行動力あるから、すぐに実行するんだ」

「原因は?」

過去を思い返し、千尋は語る。今は冷静に事態が判断できるが、当時はそれが難しかった。

「オレの、つまらない嫉妬だよ」

一言告げると、眠り込んでいる二人の様子を伺う。そして声のトーンを下げて続けた。

「同じであることと理解しあえること、それによる共感や感情の範囲を越える同調心。いくら種類が違う感情だと言われても、正直面白くないし、過ぎた労わりや優しさは、度を越えると危険なんだよ。…認識の相違や誤解で、破局寸前までもつれた」

「………よく、修復できたな」

健吾はぎこちない口調で呟く。詳しい話は聞いていないが、彼女に関してはいろいろ複雑な事情があるらしい。詮索はしないけれど、漠然と感じるものもある。そういう背景が二人の関係に影響を与えてきたのも事実で、現在は平穏に見えても、人並み以上の苦難を乗り越えてきたようだ。

「一度手を離したとき、信じられないくらい後悔した。そんな想いを、二度と味わいたくなかったからさ。結婚とか共同生活って、生まれも育ちも違う他人が一緒に生活するわけだから、いろいろなところで習慣や癖や、思い込みによる自分の常識もあるし。そういうのをうまくすり合わせて、自分たちなりの形を見つけていくものなんじゃない? 時には、ひとつのことに対してどちらかが歩み寄らなければいけないこともある。でも相手がそうしてくれたときには、今度は自分も違う部分で相手が努力した分、歩み寄らないとバランスが悪いから。どちらか一方にだけ歩み寄りを強いたら、きっと破綻する。相手が努力してくれていることを見て、わかって、認めて、そうしたら自分も努力することが当たり前だと思うんじゃないの。家庭が常に居心地のいい状態であるためには、両者が無理のない範囲で最低限の努力はしないと、共同生活を維持していくのは難しいよ」

「…だな」

「それに、いつだって相手がそこにいてくれるなんて思っていたら、当たり前だと思ってうぬぼれていたら、すでになにかを失くしているのと同じこと。人の気持ちに『絶対』なんてないし、愛情なんてものは、いつ冷めるかもわからない。いつもそこにいるなんて安心感に浸っていたら、知らない間にいなくなっているかもしれない。だれかにさらわれるかもしれないし、自分を見ていないことに失望して、去っていくかもしれない。たしかなものなんてひとつもないから、いつも存在を確かめ合っていたいんだろう。そういう基本的なことを怠りだすと気持ちに溝が生まれてきて、そこから亀裂が生じていく。ついには、修復不可能なまでにひびがいくことだってあるから、常に初心を忘れるなってことだろうな。今ここにあるものが当然だなんて思わずに、ほんの小さなことでも感謝して、維持するための努力と。まあ、日常の生活の中では、そういう意識を保ち続けるのは難しいけど。気がついたときに対処しておくだけでも、違ってたりするしね」

「そう言われても、実際問題はなかなかできないものだろ」

「自分の視界に入る、範囲内のことでいいんだよ。たとえば夕飯ひとつにしたって、一言あれば作るほうの意識も上がるよ。健吾クン、吹雪チャンの料理に『おいしい』とか言わないでしょ」

「…毎日そんなこと言っていられるか」

図星を指摘された健吾は、言い訳めいた口調。

「オレだって、毎日言ってるわけじゃないよ。大体、箸の進み加減でおいしいかまずいかの判断はつくだろうし。残さず食べていれば、満足してるってことは伝わると思うから。でも、明らかに凝った料理――手が込んで時間がかかっていそうなもの――なんかは、おいしいとか一言あると、作った側としても甲斐があって嬉しいんじゃない? それくらいは気がついてあげなきゃ。奥さんなんて、ほめてあげる人がダンナくらいしかいないんだからさ」

健吾は考え込んだ。千尋の理論には一理あり、改めて自分の今までの言動を振り返る。日常の中でありきたりに過ぎていくうちに、現在の生活が当たり前にあるものだと思っていた。多少は吹雪に気遣いをしなければ、いつ愛想を尽かされてもおかしくない。

「ただし、使い方を間違えると逆効果だから、気をつけてね」

ほめるということも、状況やタイミングを見誤ると、意図と反する思い違いを発生させることになる。真剣に悩む様子に千尋はそう付け加えたが、その忠告は健吾の耳まで届いていなかった。

「…改めて思うけど、結婚って大変だな」

「苦労のない結婚なんてないよ」

「おまえでも苦労してるのか」

「失敬なこと言うね、健吾クン」

「そんな風に見えないから」

「オレの場合は、その前の時点でかなり…」

「その前の時点って?」

「だから、結婚する前」

訊ねる健吾に、千尋はためらいがちに話し出した。

「彼女、結婚とか形式にまるでこだわらない人だから、一緒にいられたら結婚なんかしなくてもいいとか言うし。やっと承諾をもらったかと思えば、揉めたときに一旦白紙に戻されて全部なかったことにされたし。……オレ、一生結婚できないかと思ったよ。いざ話が決まれば、式も指輪も要らないとか言い張るし。必死で説得して了解してもらったけど、そういう点では苦労してるよ。せめてもう少し、わがままになってくれればいいのに」

「…ある意味で、普通は味わえない苦労だな」

普通は逆の要望や要求――指輪や結婚式に対する希望――に男は苦労させられるのだが、なにもいらないのを説得するのも珍しい。

「見かけはやんわりして見えるけど、意外に頑ななところがあるんだよな」

「そうなのか」

「最初の頃よりははるかにマシだけどさ」

「最初の頃?」

「出逢った当初。まるで相手にもしてもらえなかったんだよ。付き合ってと言っても、寝ぼけてるの、って冷たくあしらわれるし。デートしようって誘っても、イヤの一言で片付けられるし。ことごとく、零下三十度くらいの反応だったな」

「…どういう関係だよ」

「仕方ないから、空いた時間に待ち伏せて、一緒に行動して、電話攻勢とか…とにかく付きまとって、いろいろと手は尽くしたよ」

「………それ、ストーカーと紙一重じゃないのか」

「ああ、そうかもね」

健吾の疑義に、千尋はあっさり容認した。そんなことはたいしたことじゃない、それを経ての結果が大事なのだ。

「それくらいのことをしなきゃ、こっちを向いてもらえなかったから。いくらノックをしても開けてくれない扉なら、こじ開けるしか方法はない。最初から勝算があったわけでもないけど、結果的にオレの粘り勝ちかな」

「…謎だな」

「なにが?」

「おまえと彼女」

「別に、普通だよ。お互いにとって、相手の存在が特別だっただけ。どこにでもある、ありふれたことだと思うけど」

「…前に吹雪と斉藤が、彼女に根掘り葉掘り話を聞いたの、知ってるか?」

「ああ、聞いたよ」

「そのとき、彼女がおまえのことをなんて言ったかは?」

「それは聞いてないけど……なんて?」

千尋は平然を保ちながら訊く。内心は気になって仕方ないが、そういう気配は見せられない。

「『優しい人』、だとさ」

「……………」

「一度、彼女に訊いてみたいな」

「…なにを?」

「どうしておまえと結婚したか。吹雪も謎だって言ってたからさ」

「…それは、オレも彼女に訊いてみたいよ」

健吾の台詞に、千尋は額を抱えるようにして呟いた。

「知らないのか?」

「普通訊く? 結婚相手に対して、自分と結婚した理由なんて」

「…訊かないな」

「それに訊くのが怖い気もする。たまたま目の前にいたからとか、そこにあなたしかいなかった、なんて自分の思ってもいない理由だったら、ショックだから」

「それもそうだな」

同意しながら健吾が頷いていると、ふと気づく。いつの間にか、話題が移り変わっている。どうしてこんな話を真剣に語り合っているのか。

「…おい、千尋。何の話からこんな話になったんだ?」

そう訊かれて、千尋も改めて冷静に考えてみる。

「…健吾クンと吹雪チャンの夫婦ゲンカの話から、どんどん話が展開していったんじゃない?」

「で、結局のところ、解決策は?」

「さあね。そんなの自分で考えることだよ」

「少しは考えてくれたっていいだろ」

「夫婦ゲンカは犬も食わないって言うじゃん。他人がとやかく口を挟むだけ野暮だって。それに、よくケンカする夫婦にとっては日常茶飯事。ケンカした次の日には元に戻ってたりするし。そういうケースでは本気で心配したほうがバカを見る。健吾クンと吹雪チャンの場合は、ケンカするほど仲がいいっていう実例じゃない」

「……――――」

「どうしても、吹雪チャンの機嫌が直らないなら」

浮かない顔でため息をつく健吾に、千尋は声を潜めて耳打ちした。

「…って手もあるし」

言われた内容に、健吾は思わず脱力する。

「…おまえ、いつもそういう手を使ってるのか?」

「いつもじゃないけど、効果的ではあるからさ」

含み笑みの千尋を見て、健吾は彼女に同情した。と同時に、この男に一生付き合っていく決心をしたのは、よほど理解があるからだと感心する。

「極力そんな手は使わないで済むよう、帰ったら話をしてみる」

「ふうん。ま、次の物が飛んでくる前に仲直りすることを祈ってるよ」

とりあえず前向きにケンカを収めようと、健吾は考えた。それに対し、千尋は半分笑いながら彼なりの励ましを送る。

「まさか、おまえとこんな話題で語り合う日が来るなんて」

「それなりに大人になったってことじゃない」

学生時代の自分たちを思い返し、二人は小さく笑った。当時は想像もできなかった、未来に並んで酒を飲んでいる姿など。

「そのうち、子どものことでボヤいていたりするんだろうな」

「ああ、ありえそうだね。でもいいんじゃない、そういうのも」

「そうだな」

千尋が明るい口調で言うと、健吾も笑みを浮かべて頷いた。どこにでも転がっていそうな、ありふれた話。

 


 
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