◆CONTENT◆
Festival Day
ラビリンス~恋の行方~
JUDGEMENT
恋
スタジアムへ行こう~坊っちゃんスタジアム編~
スタジアムへ行こう~甲子園に連れて行って編~
Avenue
女の子の事情
男の子の事情
シーソーゲーム
代打デートにご用心
木洩れ日の中で…
Graduation
Philosophy
Colors
Why?
HANA-BI
If ~もしも…~
Festival Day
向日葵高校はその日、朝から騒然としていた。各教室はさまざまな装飾に彩られ、生徒たちは時間に追われながら作業に勤しむ。いよいよ明日に迫った『ひまわり祭』のため、放課後になった今も校内では多数の生徒が準備を続けていた。
2‐A委員長の小林吹雪も同様で、朝から息をつく暇もないほど多忙だった。それというのも、担任がまったく頼りにならないので、すべての責任が吹雪にかかっていたからだ。
「燕先生!」
怒声と同時に被服室の戸を開ける。その声に、燕は条件反射的に机の影へ隠れようとした。
「ど、どうしたんですか? 吹雪サン」
おずおずと訊ねる燕。怒っているときの吹雪は、燕にとって毘沙門天より恐ろしい存在だった。
「どうしたんですか…? 燕先生を探してたに決まってるでしょう! 校内放送をかけても出てきてくれなかった先生を!」
吹雪は燕を睨みつけながら説明する。その刺々しい視線に耐えかね、小さな人影に逃げ込んだ。
「助けてください、小林クン」
「小林クン。なんだ、ここにいたんだ」
大和の存在に気づいた吹雪は、猫撫で声に豹変する。
「うん、燕先生と一緒にお手伝いしてるんだ」
大和はにこやかに答えた。作業机を見ると、向日葵の種やリボンが大量に置かれている。
「あのね、向日葵の種を袋につめて、明日来てくれた人たちに配るんだって。校長先生から頼まれたんだ、ボク」
「そうなんだ」
「ところで吹雪サン。ワタシに何の用、でしょうか?」
吹雪の逆鱗に触れないよう、控えめな口調で訊いた。
「ああ、これに担任印押してください。この書類、全部にね」
「なんですか、これ?」
「これですか? これはねえ、わたしたちのクラス全員の残留届、というものです。とても規定時間内に作業が終わりそうもないので!」
その迫力に怯えた燕は、一枚ずつ書類をめくって判を押していく。
「ごめんね、吹雪ちゃん。このお手伝いが終わったらすぐに行くから、待っててね」
「ありがとう、小林クン」
「ワタシもこれが済んだら、すぐ行きますから…」
「当然でしょ!」
吹雪は燕が差し出した書類を奪い取ると、押印もれがないか入念にチェックする。
「そういえば、あげはここに来てませんか?」
「いえ、来てませんけど」
「一体どこにいったのよ。それに千尋も…」
吹雪はぼやきながら、被服室を出ていった。
「委員長」
早足で渡り廊下を急ぐ吹雪を、健吾が呼び止める。
「日影が探してたぞ」
「あ、うん。これ提出したら、すぐ行くわ」
「…大丈夫か?」
今日一日、ずっと走り回っている姿を健吾は見ていた。
「へ、平気。大丈夫だって。それじゃ、急ぐから」
自分の中で体温が上昇するのを感じた吹雪は、慌ててその場から逃げ去る。健吾は浮かない顔でその後ろ姿を見送っていた。
「うん。全員帰ったみたいだよ、委員長」
準備の整った教室内を日影が確認した。時刻は八時前。窓の外はすっかり夜に侵食されている。
「当然残ってなきゃいけない人まで帰ってるけどね」
「あ…なんか、もー●すの特番があるとかで」
「あのアイドルおたくが!」
遠慮なく不平を訴える吹雪に、日影は苦笑いを浮かべた。
「じゃ、委員長。また明日」
「ん、お疲れ」
そこへ、校門の前で立っていた人影が声をかける。
「委員長」
「びっくりした。なにしてるの?」
「…家まで送る」
「え…。いいよ、遠回りになるじゃない」
健吾の不意打ちの登場に、吹雪は顔が紅潮していくのが分かった。
(暗くてよかった…)
「一日中走り回ってただろ。ずっと気を張ってたら、明日まで持たないぞ」
「で、でも」
「たまには、人の厚意を素直に受け取れ」
結局押し切られて、吹雪は健吾に家まで送ってもらう。
(ホントに、もう…)
吹雪は心の中で呟きながら、平常ではない心拍数を必死でごまかしていた。
『ひまわり祭』は花火の音で始まった。校庭には屋台が軒を連ね、食欲をそそる匂いが風に乗って流れていた。
2‐Aの出し物はプラネットカフェ。プラネタリウムを模した教室で、生徒が時間交代でカフェを運営する。どうやら軌道に乗ったようなので、吹雪もいつものメンバーで校内をまわりだした。
「腕、放してくれませんか。サイトーさん」
「イヤよ、放したら先生、逃げちゃうじゃない」
あげはは早々に燕の身柄を捕まえ、しっかり腕に抱きついていた。
「委員長、この全校イベントってなんだ?」
「ああ。それは校長先生が主催のイベントよ。三個の指令をクリアして、最初に校長先生を見つけた人が優勝者。賞品は毎度の、よいこの盾」
「ボク欲しいな、よいこの盾」
パンフレットを眺めながら、大和はその盾を想像しながら呟く。
「オレとしてはこっちの副賞のほうがいいな。『あなたの一番欲しいもの』だってさ」
「『学校内にあるものに限る』って書いてあるでしょ?」
「じゃあ、オレが優勝したら小林クンが賞品だね」
「だったら、わたしは燕先生をもらうわ」
「ボク、物じゃないよ」
「ワタシも…勝手に決めないでくださいよ」
「その前に指令をクリアしないと、言うだけ無駄だと思うけど」
「第一指令は…アトラクションに参加したらもらえる、向日葵マークを三個集めろ、だって」
「なんだ、意外と簡単じゃない」
「あ、ボクあれやってみたいな」
大和が指差したのはスポーツイベントのコーナー。『マッスルチャレンジ』といって、いくつかの競技が並んでいた。
「ストラックアウトだ。健吾クン、やってみてよ」
大和にせがまれて渋々挑戦した健吾は、見事にパーフェクトを達成した。
「すごいや、健吾クン」
一枚もプレートを抜けなかった大和は、尊敬の眼差しで見つめる。
「吹雪チャンが見てるからって、張り切っちゃって」
千尋は健吾にしか届かない小声でささやいた。
「うるさい!」
「じゃ、オレはナインフープにでも挑戦するかな」
千尋はひとつだけミスしたが、それでも現在までのトップに記録を残した。賞品としてバザー券が付いてきたので昼食をとると、次はお化け屋敷へ向かった。
「二人ずつだって」
「じゃあ、先生。行きましょうか」
「い、いえ。ワタシは小林クンと…」
抵抗するも、燕はあげはに強制連行される。
「さあ、小林クン。入ろうか」
「ボ、ボクはいいよ」
「おや、お化けが怖いのかな? 男の子なのに」
「…怖くなんてないもん! ボク、全然平気だよ」
「それはよかった。じゃあ行こう」
千尋の言葉に誘導されて、まんまと罠にかかった大和。蒼白な顔色のまま、強引に連れて行かれてしまった。その直後、大和の悲鳴が聞こえてくる。
「どうする? やめとくか?」
すっかり取り残されていた二人だが、緊張気味の吹雪を見て健吾が訊ねた。
「や、大丈夫。小林クンだって入ったんだし」
強がった吹雪だが、中に入ってみるとやはり怖くなって、健吾の服の裾を握りしめる。進行方向からは、燕の奇妙な叫びと大和の悲鳴が響いていた。
「先生、だらしない」
「怖いものは怖いんですよ」
「…ボク、もう二度と千尋クンとは一緒に入らないからね」
「あんなに楽しんでいたじゃないか。小林クン」
「おい、委員長?」
「へっ、あ…もう出口?」
どうやら吹雪は目を閉じていたらしい。ずっと健吾の服を掴んでいたことに今さら気づくと、慌ててその手を放した。
「ねえ。次、あそこに入ってみない?」
「…占いの館ですか?」
「あのクラス、コネで本職を呼んだって言ってたわ」
健吾や燕は嫌がったが、結局一人ずつ順番に占ってもらうことになった。出てきた彼らは大和以外、全員神妙な顔つきをしていた。
「…まあ、当たるとは限らないしね」
各人の占いの結果は以下のとおり。
あげは『想像以上に長くて険しい道のり。けれど、道は続いている』
吹雪『雲は知らないうちに晴れている。すでに自分の中で選択を下している』
大和『微笑んでいる限り、希望は満ちている』
千尋『新しい世界が広がったとき、あなたの運命は大きく動くでしょう』
健吾『気づかない間に、あなたの手の中に入っている』
燕『あなたの幸福への拒絶は、あなただけでなく他者も不幸にします』
「次の指令はなんだろう?」
大和はワクワクしながら、指令が書かれた紙を開く。第二指令は、カードに書かれたものを本部まで持っていく、借り物競争だった。
「で、なにを借りてくればいいの? 小林クン」
「えっと、燕先生のサングラス、だって」
「よかったな、大和」
「わあい」
「やけに簡単じゃない。これは次の指令が相当難しいのね」
「まあ、校内にあるものの中から校長先生が考えた内容ですからね」
本部へ向かう大和を見届けたあと、カフェの様子が気になって吹雪は教室へ戻る。数分後、最終指令のカードを手に戻ってきた大和は真剣に悩んでいた。
「千尋クン、健吾クン。ボクには解けないよ」
二人は揃ってそのカードを覗き込む。
「『校内にあるもので、今は輝いてないけど、将来光り輝くもの』ってなんだ?」
「さあね。謎かけじゃないの?」
「燕先生、あげはちゃん」
大和は二人にも聞いてみたが、だれも答えを出せなかった。
夕暮れが校舎を赤く染める頃、キャンプファイヤーに火が灯る。バンド演奏やダンスパーティーが校庭で行われていた。
「この指令って、閉幕がタイムリミットじゃないのか?」
「そうだけど、ボクにはわからないよ」
「もう無理なんじゃない? それより先生、フォークダンスを踊りましょ」
「えっ。ワタシ、踊りは…」
「わたしが教えてあげるから」
またしても強引に連れて行かれる燕。そして千尋は千尋で、多数の女子からダンスの申し込みを受けていた。
「こんなときに吹雪ちゃんがいてくれたら…」
「どうしたの、小林クン?」
大和が嘆いたとき、クラスの片付けを済ませた吹雪が戻ってきた。大和は縋りつく思いで吹雪に助力を求める。
「吹雪ちゃん。これ、なんだか教えて!」
大和から差し出されたカードを見て、吹雪は難しい顔で考え込んだ。
「――――…」
「ボクにはとても、難しいのよ」
よいこの盾がどうしても欲しい大和は、吹雪に希望を託した。ふとあることを思い出し、吹雪は明るく微笑む。
「小林クン、耳かして」
そっと大和に耳打ちする吹雪。
「コウキ…?」
この単語の意味を知らない大和は、疑問の声を上げる。
「……………」
吹雪は続けてその意味を教えた。途端に大和の顔が明るくなる。
「ありがとう。ありがとう、吹雪ちゃん!」
吹雪に最上級の笑顔で笑いかけると、大和は急いで走っていった。
「片付け、終わったのか?」
吹雪がベンチで一息ついている隣に、缶コーヒーを二本持った健吾が座った。一本を吹雪に差し出してくる。
「サンキュ。大方、終わったわ」
素直に缶コーヒーを受け取ると、健吾は自分の缶を開けて一口飲んだ。
「さっき、大和になんて教えたんだ?」
「ああ。最終指令のあれね。受付のところにまだ残ってるはずだから」
「なにが?」
「向日葵の種よ。向日葵の花言葉には『光輝』っていう意味もあるから」
「なるほどな」
吹雪はコーヒーを飲んでから少し考えた。
「小林クンの一番欲しいものってなんだろう?」
「…大和のことだから『みんな仲良く一緒に』じゃないか?」
「そうだね。でも改めて訊かれると、すぐにはピンとこないよね。一番欲しいものなんて」
「………そうか?」
「じゃあ、アンタの一番欲しいものは?」
「…物じゃないから」
ぶっきらぼうな回答に、吹雪の好奇心は疼いている。
「物じゃないなら、なに? だれにも言わないから、ちょっとくらい教えなさいよ」
興味津々の様子に、困惑しながら健吾は言った。
「オレのうぬぼれじゃなければ、半分は手に入ってる…のかもしれない――――」
「………なに、それ?」
「わからなければいい」
顔を背けて呟く健吾の姿に、吹雪は真剣に考え込む。
(物じゃない…? 半分手に入ってる?)
しばらく熟考して、ある解答が思い浮かんだとき、吹雪の顔は真っ赤だった。
(まさか…。イヤ、でも………)
心の中で自問自答を繰り返してみるが、一向にこっちを見ない健吾が答えを暗示しているのだとしたら、その答えが正解ということになる。動悸が高鳴っていく吹雪は、思わず呟いた。
「ホントに、もう……アンタといると、平熱上がる」
「――――!」
両者とも真っ赤な顔で互いを見られないでいる光景を、フォークダンス中のあげははしっかりと見ていた。
(ホントにムッツリカップルだこと)
半分呆れながら、それでもフラフラの燕を引っ張ってダンスを続けていた。
「校長先生!」
お地蔵様の前で佇む校長先生に向かって、大和が走ってくる。
「やあ、小林クン」
「ボク、これ――――」
息を切らせながら、昨日自分が包んだ向日葵の種を見せる大和。
「キミが優勝です。おめでとう」
校長先生は穏やかに微笑んだ。
「小林クン、キミが一番欲しいものはなんですか?」
その問いかけに、大和は笑顔で首を振る。
「ボクの一番欲しいものは、みんなの笑顔です。だから、もうもらってます。たくさん、たくさんもらっています。今日はいっぱいみんなの笑顔が見れて嬉しかったです」
「そうですか。そのキミの心は、みんなにとっても宝物です。大切にしてくださいね、小林クン」
「はい!」
大和は元気よく答えると、喜びをみんなに伝えようと駆け出した。その後ろ姿を見つめながら、校長先生は思った。
最終指令の真実の正解は、向日葵の種ではなく生徒たち自身のことだ。彼らこそ、未来に光り輝くものであり、その可能性を未知数に秘めたものだからだ。生徒全員が持っているその原石を、可能性を、磨き上げて未来に輝いてほしいと、校長はお地蔵様に心から祈っていた――――。
JUDGEMENT
――――恋の決着は、意外なカタチで訪れる。
ある冬の休日、吹雪の家に電話の音が鳴り響いていた。
「深雪、ちょっと電話出てよ」
吹雪は玄関の鏡で全身をチェックしながら、リビングの妹に向かって叫んだ。そしてもう一度、腕時計に目を落とす。集合場所への所要時間を考えれば、もう出ないと間に合わない。
今日は小林四人で動物園へ行く約束をしていた。行き先が動物園になったのは、もちろん大和の意向によるものだ。あげはと燕も誘ってみたが、今日は用事があるらしく、二人揃って断られた。
迷子や遅刻の可能性を考慮し、千尋と健吾が大和を家まで迎えに行く段取りだ。このままだと、自分だけ待ち合わせに遅れてしまう。支度に手間取った吹雪は、慌てて玄関を出ようとする。
「お姉ちゃん、電話!」
ドアに手をかけたと同時に、妹の声が背後から聞こえた。
「もう、こんなときに。だれよ」
「美形の小林さんから」
「今から出るところなのに」
吹雪はぼやきながら、靴を脱ぎ捨て電話口まで戻る。
「なによ、今から行くわよ!」
てっきり自分を急かす電話だと思い込んだ吹雪は、開口一番に怒鳴った。
『…そうじゃなくて、こっちが時間に遅れそうだから連絡しておこうと思って。吹雪チャンがまだ家にいてくれてよかったよ』
いきなり怒声を浴びせられた千尋は驚くが、すぐに用件を伝える。
「アンタたち、小林クンを迎えに行くから、早めに着いてるかもって言ってたじゃない」
『迎えには行ったよ。でも小林クンの家から駅に向かってたとき、ちょっと事故っちゃってさ』
「え……?」
事の重大さの割に軽い口調だ。吹雪は状況をうまく呑み込めない。
「事故って…?」
『健吾クンが小林クンをかばって、車と接触し――――』
千尋の説明は続いていたが、吹雪の耳にはもうなにも聞こえていなかった。
『ちょっと、吹雪チャン。聞いてる?』
語気を強めた千尋の声で正気に戻る。
「病院、どこっ!?」
迫力ある物言いに気圧され、千尋は市内の総合病院の名前を告げる。その途端、吹雪は受話器を放り出し玄関を飛び出していた。
「お姉ちゃん…?」
放り出された受話器を拾いながら、深雪は姉の行動に首を傾げた。
(どうしてこんなに怖いんだろう…)
発車寸前のバスに乗り込んだ吹雪は、息を切らせて座席に座る。少し落ち着こうと、深呼吸を繰り返した。大きな不安が目の前に立ちはだかっている。吹雪の心の中には、果てしない混乱と途方もない恐怖が入り混じっていた。
嫌なイメージが浮かんでくる。憶えているはずもない、遠い昔に味わった悲しみを。言いたかった言葉が、伝えたかった想いが…永遠に届かなくなったあの日――――。
知っていたはずだった。大切な人が明日も一緒にいてくれるとは限らないということ。だから言わなければいけない言葉は、残さず相手に伝えようと決めていたのに…。聞いてもらえなくなってからでは遅いのだから。届かなくなってからでは遅すぎるから……。
(お父さん――――)
心の中で、吹雪は父に呼びかけた。答えがないのは分かっていても、なにかに縋りつきたい気持ちだった。そうでもしていないと、無限に続く暗闇に自分が覆い尽くされてしまいそうで。
(連れて行かないでよ…お願いだから)
祈るような心で吹雪は願う。
(まだ、アイツに言ってない言葉があるの。言わなくちゃいけない…言葉が――――)
不安に震える身体を必死に抱きしめていた。
(なにも言ってないのに…まだなにも言ってないのに。その前にいなくならないでよ…)
停留所に止まったバスを駆け下りると、吹雪は病院の入口まで全力で走った。休日なので病院のロビーは薄暗く、人影もほとんど見当たらない。靴音だけが静寂に響いていた。
「吹雪チャン」
長椅子に座っていた千尋が気づいて声をかける。
「吹雪チャン。人の話は最後まで聞かないと――――」
「アイツは!?」
その剣幕に挙動を静止させた千尋は刹那の無表情。そして口の端で微笑した。
「吹雪ちゃん。落ち着いて」
吹雪の視界には映っていなかったが、千尋の隣から大和がひょっこりと顔を出す。
「小林クン…」
頬に絆創膏を貼った大和が心配そうに吹雪を見ていた。もちろん大和の身も案じていたけれど、ここに来るまでの間、自分の心を占有していたのがだれだったのか、改めて思い知らされた。
「…無事だったの? 小林クン」
そんな自分に吹雪は戸惑う。大和のことは好きで大切なのに、なにが違うのだろう。アイツへの感情とは異質な大和への好意に、吹雪は困惑していた。
「うん。健吾クンが助けてくれたから」
「……で、その健吾は?」
震える声。それは吹雪の心の動揺を証明しているように。
「健吾クンなら――――」
言いかけた大和の口を、千尋が背後から塞いだ。そして無言のまま、一室を指差す。
「………………」
足が地についているのか、自分でも分からない。不確かな足取りで歩いていく。
(――――なんでもいいから、生きていて)
一心に願いながら、吹雪は中央処置室と書かれた部屋のドアに手を伸ばした。そのとき、部屋の内側から扉が開く。吹雪は目の前に現れた人物を見て、言葉を失った。
「委員長」
健吾は額と腕に手当てを受けていたが、他に外傷は見当たらなかった。吹雪はまるで幽霊にでも会ったかのように唖然としている。
「…なんで、生きてんの?」
「は?」
思ってもない台詞に、健吾は呆れたように答えた。
「人を勝手に殺さないでくれ…」
「え…だって、事故に遭ったって」
「おい、千尋。ちゃんと説明したんだろうな」
状況を理解していない吹雪を見かね、健吾は怒気混じりの声で訊ねる。千尋は薄笑いを浮かべながら、大和と並んで近寄ってきた。
「だって吹雪チャン、最後まで話を聞いてくれなかったから。電話、途中で切っちゃうし」
「ボクが説明しようとしたら、千尋クンが邪魔するんだもん」
「そのほうが面白いと思ったからね」
悪びれなく言う千尋に、健吾は鋭い視線を向ける。
「あのね、ボクが悪かったの。駅まで行く途中、公園からボールが飛び出してきて、それを追って車道に飛び出しちゃったの。そしたらそこに車が走ってきて、健吾クンが助けてくれたの」
大和は呆然としたままの吹雪に向かって、当時の状況を語った。
「車が寸前で止まってくれたから、ボクはすり傷だけだし、健吾クンも打撲くらいで済んだんだ」
「オレたちは大丈夫だって言ったんだけど、車を運転していたのがこの病院の医者で、無理やりここまで連れて来られたんだよ。元はこっちの不注意なんだけどな」
大和と健吾はここに至った経緯を話す。だが、当の吹雪は何の反応もない。
「吹雪チャン、聞いてるの?」
千尋が横から覗き込んだ。その瞬間、緊張の糸が切れた吹雪は弾かれたように泣き出す。
「…ちょ……なんで泣くんだよ、委員長!」
「吹雪ちゃん、どうしたの?」
突然の異変に健吾は慌て、大和は慰めようとする。千尋だけが冷めた瞳で吹雪を見ていた。
「だから、心配で仕方なかったんでしょ。それで無事な姿を見たら、気が抜けちゃったんだよ」
その推測に、吹雪は肯定も否定もできない。顔を覆ったまま、すすり泣くだけ。
「吹雪ちゃん。ボクら全然元気なんだから、泣かないで」
言葉を尽くす大和の声さえ耳に入っていないかのように、吹雪の涙は一向に止まらなかった。
「どうやら役不足みたいだよ、小林クン」
千尋は大和の肩に手を置いて、そっとささやく。
「吹雪チャンが泣いてるのは健吾クンのせいなんだから、あとは健吾クンに任せたら?」
その提案に、大和は一旦両者を見たあと、健吾に向かって穏やかに微笑んだ。
「じゃあ、健吾クン。吹雪ちゃんのこと、頼んだからね」
まだ戸惑いの最中にいる健吾は、強い意志を含んだ大和の表情をまっすぐに受け止める。
「…ああ」
「お邪魔虫はさっさと消えよう。行こうか、小林クン」
千尋は足早に去っていく。大和は一度だけ二人を振り返ったが、すぐに向き直って、先を行く千尋を追いかけていった。
再び静寂に支配される広いフロア。吹雪の泣き声だけが、途切れがちに聞こえている。いつまでたっても泣きやまない吹雪に、健吾は困ったようにため息をついた。
「…委員長」
ぎこちなく声をかける。こういう場合の対処法が、健吾には分からない。
(どうしろって言うんだよ…)
困惑しながら吹雪を見つめ続ける。どうしたら涙を止めてくれるのか、頭を悩ませた。だが、その涙がすべて自分のためのものだと実感すると、制御しきれない感情が健吾の中に湧いてくる。
「――――吹雪」
名前を呼ぶのと同時に、健吾の腕は吹雪を抱きしめていた。いきなり引き寄せられた吹雪は、なす術もなく健吾の腕の中で硬直している。すべての思考能力が飛んでしまい、脳裏は真っ白になっていた。自分が今どこにいるのか、健吾がなにを言ったのか。そしてこの感情はなにを示しているのか。吹雪はパニック状態に陥っていた。
「…心配をかけて、悪かった」
耳元に注がれる声に、吹雪の心は少しずつ落ち着いていく。心を覆っていた不安がいつの間にか消えていた。吹雪は自分を包み込んでくれている温かさに寄りかかる。
「……かった………怖かった――――」
途切れがちな声で呟いた。健吾はその痛々しさに、たまらなくなって瞳を伏せた。
「……ごめん」
健吾の存在をしっかりと確かめたくて、吹雪の手はその背中にしがみつく。心細さを感じさせる吹雪に、健吾はそっと頭を撫でた。
「ここにいるから。…オレ、ちゃんとここにいるだろ?」
慈しむような健吾の大らかさに、吹雪は涙を止めて小さく頷いた。
「ホントは淋しいんじゃないの、小林クン」
結局、二人だけでやってきた動物園。大和も千尋も口数少なく、園内を回っていた。ペンギンに見入っていた大和に、千尋は抑揚のない声で訊いた。
「どうして?」
大和は振り返って明るい笑顔を見せる。
「健吾クンも吹雪チャンも、小林クンと遊ぶ時間が確実に減るよ?」
「ボク、それでもかまわないよ。だって、二人ともいなくなっちゃうわけじゃないもん。あの二人が笑っててくれるなら、もっと笑顔でいてくれるなら、淋しくなんかないよ。むしろ嬉しいくらいだよ。二人とも、ずっと前から好き同士だったんだから」
屈託のない笑みを浮かべ、大和は答えた。
「淋しいのは、千尋クンでしょう?」
「オレ?」
「無理しちゃダメよ、千尋クン」
自分の本心を知られることに極度にナーバスな千尋に対して、こんな台詞を言えるのは大和しかいない。千尋は静かに微笑んでみせた。
「じゃあ、小林クン。オレと付き合おうか?」
「な、なんで、いきなりそうなるのよ」
「残った小林同士、仲良くしようよ」
「千尋クン。ボクは男の子なんだよ!」
大和の怒りに、千尋は感傷を切り捨てるように笑っていた。
「…送ってくれてありがとう」
自宅の前で、吹雪は健吾に礼を言った。その瞳は兎のように赤く腫れている。
「いや…」
恥ずかしさのあまり、まっすぐ健吾を見れない。吹雪は俯いたまま、門に手をかけた。
「――――あのさ」
衝動的に開きかけた門を押さえて、健吾は告げる。
「明日…」
驚いた吹雪は、反射的に顔を見上げた。
「…話があるから。放課後、図書室で待っててくれないか?」
真摯な眼差しの健吾に、吹雪は頬を赤らめながら答えた。
「……はい」
「なにかな? 健吾クン。こんなところに呼び出したりしてさ」
翌日の放課後、千尋は健吾に呼び出されて新館の屋上にいた。
「…用件は、わかってるんだろう?」
挑発しているような千尋の微笑を、健吾は受け流す。
「まあね。吹雪チャンと付き合うなら、好きにすれば。オレに断る必要はないでしょ。それとも、邪魔するなって釘を刺しに来たのかな?」
「――――だれにも、渡すつもりはないから。だから…」
茶化して逃げられない真剣さを目の当たりにして、千尋の顔から笑みが消える。
「…泣かせたら、横からさらっていくから。覚えといて、健吾クン」
「もう二度と、泣かさない」
「そう。それなら、いいんじゃない」
千尋は健吾に背を向けて、グラウンドを見下ろしながらそう言った。
「どうしようもない男ね、アンタって」
健吾が屋上から去ったあと、しばらくそのままでいた千尋に、不意をついて話しかける声。千尋はゆっくりと振り返り、その人物の姿を視界に捉える。
「立ち聞きは、いい趣味じゃないと思うよ。あげはチャン」
「あら。わたしのほうが先客だったのよ」
悪びれる様子もなく、あげはは言ってのける。
「自虐はほどほどにって、忠告したでしょう」
「そんなつもりはないんだけどな。――――ねえ、あげはチャン。これも失恋っていうのかな」
本当にどうしようもない男ねと、あげははため息をもらす。
「アンタに言えた台詞じゃないわね。まだ本気の恋に堕ちたことがないくせに。本気になったら、そんな風に冷静でなんかいられなくなるわよ」
「そうかな?」
「……そのときになれば、わかるわよ」
憂いを抱いた表情の千尋に、平静を装いながらあげはは告げた。
「大和!」
渡り廊下の途中で、健吾は大和を呼び止める。
「どうしたの、健吾クン」
走ってきた健吾に、大和はなんだろうと訊ねた。
「……委員長のことなんだけど」
健吾はどう言ったものかと少し悩んだが、決心して大和に告げる。
「――――アイツ、オレがもらってもいいか?」
その言葉を聞いた大和は、最上級の笑顔で答えた。
「よかったね、健吾クン。吹雪ちゃんのこと、大事にしてあげてね」
「ああ。わかってる」
健吾がやって来るのを、吹雪は緊張の面持ちで待っていた。いつから、こんなに好きになっていたのだろう。自分でも答えられない疑問が浮かんでくる。
(きっと、ずっと前から――――)
そう自分に呟くと、吹雪は小さく微笑んだ。
一番、大切な人はだれ? やっと、その答えが見つかったの。
わたしに魔法をかけられるのは、あなただけ。
あなた以外では代わりにならない…。
世界中のだれよりも大切なあなたへ。
ずっと前から好きだったの。
きっと、そばにいてくれないと淋しい。
もうどこにも行かないで。ずっと一緒にいてほしい。
あなたが一番好きだから。
――――もうすぐ、迷宮の扉が開く。
Graduation
――――ここで過ごした日々を、たくさんの想い出を、ボクは決して忘れない。
彼方まで澄み切った青い、蒼い空。穏やかに降り注ぐ陽光は、人々に微笑んでいるかのように優しく。そっと頬を通り過ぎる風は、春めいて温かい。中庭の花木はその蕾を膨らませ、開花のときを待っている。一年で最も重要な役目を果たした校長は、ゆっくりと校庭を歩いていた。
校舎や中庭のあちこちで生徒たちが語り合っている。今日までの日々と、明日からの新しい未来を。正装と緊張で肩の凝っていた校長は、新鮮な空気を吸い込んで空を見上げた。今日の晴れ渡った空が、羽ばたいていく彼らを祝福しているようで。
安堵の息をもらすと、人気の少ない校長室の裏手へ向かう。毎日顔を合わせているお地蔵様は、今日も向日葵高校を見守っていた。
「今年も無事に生徒たちを送り出すことができましたよ」
日々、生徒たちの安全と幸福をお地蔵様に願ってきた校長は、今日という日を迎えられたことに感謝し微笑む。毎年、こうして生徒が向日葵高校を巣立っていく光景を見届けることができて、本当に嬉しい。校長という自分の職務にやりがいを感じる瞬間だった。
式での彼ら一人一人の顔を思い浮かべては、この先に輝いていてくれるよう祈る。今年は特にその思いは強かった。ずっと気にかけていた生徒が含まれていたから…。
「校長先生!」
校長が感慨に耽っていると、一人の生徒から呼びかけられた。ちょうど脳裏に浮かんでいた生徒だ。受け取ったばかりの卒業証書を手にこちらへ駆けてくる。
「おや、小林クン」
息を切らせ目の前へたどり着いた大和に、校長は笑顔で話しかけた。
「あの…校長先生」
「卒業おめでとう、小林クン」
卒業証書を握り締め、大和は口を開く。
「三年間…ボクはそれより少し短かったけど――――お世話に、なりました」
真摯な眼差しで告げると、深々と頭を下げた。
「ボク、ここに来れてよかった。向日葵高校に転校してきてよかった。みんなと…大切なみんなと出逢えて、大事なことを教えてもらったんです。一人じゃないってこと、時を経ても変わらないものはあるということ。自分という存在に対する意味も…。ボク、本当にここに来てよかった。みんなと出会えて……向日葵高校に来れて、本当によかった」
ぎこちなく、言葉を詰まらせながらも心に思う本音を語る。大和は涙腺が緩みそうになり、慌てて表情を引き締めた。
「…わたしも、キミやたくさんの生徒たちと出会えて、しあわせでしたよ」
ずっと道を塞いでいた大きな壁を乗り越えた大和。その彼を見守ってきた校長は、たしかな成長を感じ取りながら穏やかに微笑む。彼は長い間抱えていた心の重荷を、ようやく下ろすことができたのだ。彼を大切に思う、たくさんの人によって。ゆっくり顔を上げた大和は少し恥ずかしそうに笑い、校長の背後に目を向けた。
「あ! お地蔵様にも報告しなくちゃ」
そそくさと地蔵の前に走る。向日葵高校の生徒たち同様、親しみを持って接してきたこの地蔵とも今日でお別れだ。
「お地蔵様。ボク、今日で向日葵高校を卒業します。今までありがとうございました。これからもずっと、新しく入ってくる生徒たちを見守ってください」
両手を合わせて地蔵に願うと、遠くから大和を呼ぶ声が聞こえてきた。
「――――小林クン!」
吹雪の声だ。大和は立ち上がり、そちらを振り返る。吹雪と健吾、千尋にあげはがここへ向かっていた。
「みんな!」
大和が満面の笑みで走り寄る。
「どこに行ったかと思ったわ、小林クン」
「捜したぞ、大和」
「こんなところでなにしてたのよ」
「罠でも仕掛けてたのかい? 小林クン」
それぞれ大和の姿を確認して、ほっとした笑顔。
「お地蔵様に挨拶してたんだ」
にっこり答えた大和が、背後の地蔵を指し示す。
「そうだ。今、燕先生に聞いたんだけど、小林クンの卒業後の進路…」
担任がもらした寝耳に水の話に驚き、彼らは大和を捜していたのだ。
「うん。燕先生に紹介してもらったお仕事なんだ。あすなろ園っていう児童支援施設。親を亡くした子どもや、事情があって親と暮らせない子どもたちが生活している福祉施設だよ」
そう説明する大和の顔つきは、しっかりとした一人前の顔で。この向日葵高校で育まれた彼の成長を感じさせた。戸惑いを隠せない吹雪は、伺うように訊ねる。
「どうして、そういう仕事に就こうと思ったの?」
他の三人も多かれ少なかれ疑問に思っている様子だ。大和はどう言えばいいのか熟考してから、慎重に話し始めた。
「ボク、今までずっとたくさんの人に助けられてきたんだ。家族がいなくなってからは、守ってくれる人はいない、自分しかいない、だれも守ってくれないって思ってたけど、そうじゃなかった。いつもどこかで――――たとえ遠く隔てられていても…想ってくれていた。守ってくれていた。支えてくれていた。ずっとボクのことを…。ボクは気づかなかった。自分のことに精一杯で気づかなかった。そのことに気づいたとき、とても嬉しくて。言葉にできないくらい嬉しくて。初めて、自分のことを『好き』って思えたんだ。たくさんの人たちがボクにくれたもの、温かい気持ちを、だれかに与えられる人間になろうって思った。一人で苦しんでいる人間はどこにでもいるから、みんながボクの力になってくれたように、今度はボクがだれかの力になりたい。だれかの苦しみを取り払う、なんて大きなことはできないけど、ほんの少し痛みを和らげること、傷を癒すことくらいならできる…できるって信じたい。人の心のぬくもりで癒せない傷なんてない。どんな深い傷だって癒せるよ、きっと。ボクは、ボクのできることを…ボクがだれかのために、自分のために。強くなりたいから。自分の弱さをも認めて許容してしまえる、心の強さを持ちたい。よろけて、転んで、道に迷って、たとえ泥だらけになったとしても、ボクはこの道を行きたい。自分の意思で選んだ道だから。綺麗な人生なんてないんだから、美しくなくていい。たくましく生きる。自分が選んだ道を、自分らしく、自分のやり方で、自分のペースで歩いていく。ボクの人生だから、だれよりもボク自身のために。かけがえのない未来を手に入れる。悲しい夜は永遠に続かない、必ず夜明けが訪れて朝が来るんだから。暗闇に迷っているだれかに、光が降り注ぐ世界を見せてあげたい。無限に続いていく『希望』という明日を」
率直な気持ちを自分の言葉で伝える。彼らは大和に芽生えた強さを感じていた。本当の強さは、澄んだ心にだけ生まれるものだから。まっすぐな瞳で自分の生きる道を語った大和を、みんな温かい表情で見届けた。
「そっか。そういう気持ちで自分の未来を決めたんだ、小林クン」
もう幼さが見える少年ではない大和に、吹雪は感慨一入に呟く。
「頑張れよ、大和」
頼もしく成長した姿に安心する健吾。
「子ども相手の仕事なんて、どっちが子どもだかわからなくなるんじゃないの?」
素直に思いを伝えられないあげはの、彼女なりの励まし。
「…子どもたちに泣かされないようにね」
真剣さをわざと茶化して笑った千尋。
「ありがとう、みんな」
彼らの言葉に、大和は笑顔で応える。その大和を、校長は慈愛の眼差しで見守っていた。
「あ、オレ行くところがあるから」
五人で並んで校庭を歩いていると、健吾が思い出したように言い、校舎へ入っていった。その姿を見送った吹雪は、閃いて足を止める。
「そうだ、忘れてた。わたしも用事があったんだ」
独り言のように口に出すと、この場を去っていった。吹雪が校舎に消えるのを眺めていた残りの三人には、二人の行き先は分かっている。
「…健吾クンも吹雪チャンも、最後まで変わらないね」
「わたしたちどころか、クラス全員にばれてるのに、気づいてないのかしら」
千尋とあげはが呆れたように言うと、大和は嬉しそうな笑みを浮かべて。
「二人とも、そういうところは不器用なんだよ。きっと」
心から二人を祝福している表情だ。
「あ、わたしも燕先生を捜さなきゃ」
健吾と吹雪のことに気を取られていたあげはは、我に返った。他人のことをどうこう言っている場合ではない。自分のことが一番大事だと、燕を捜しに行く。
「頑張ってね、あげはちゃん」
奮起するあげはに声援を送った。残された二人は春の香り漂う中を歩いていたが、ふと大和が立ち止まる。それに気づき、千尋が怪訝そうに大和を振り返った。
「あのね。ボク、ずっと千尋クンに言いたかったことがあるんだ」
強い意志を秘めた瞳。直視して向かい合い、勇気を振り絞る。
「最後の最後に罠返しでもしようって?」
いつもの笑みで軽口を叩くが、大和は目をそらさなかった。
「違うよ。そうやって本心をごまかすの、悪い癖だよ、千尋クン。そんなに自分を偽らなくても、ごまかさなくても、装わなくても…わかってくれる人はいる。必ずいるから。本当の千尋クンを見抜いて、理解してくれる人はいるから。…見つけてね、そういう人。これから出逢う人の中にいるはずだから。千尋クンが本当の自分で向き合える人。信じあえる人を見つけて」
大和の熱意のこもった訴えに、千尋は真顔に戻る。沈黙が支配し、内心「敵わないな」と小さく笑った。そしてありのままの気持ちで口を開く。
「………いればいいけど、そんな存在」
頼りない台詞に、大和は力強く語った。
「いるよ、この世界のどこかに必ずいる。だれにだって、そういう人はいるんだから。神様が引き逢わせてくれるよ。だから…見つけてね、そういう人。絶対どこかにいるから」
「…ああ」
まるで自分のことのように懸命になる大和に、千尋は静かに頷いた。
「で、言いたいことってこのこと?」
「ううん、そうじゃないよ。あの…あのね――――」
千尋が訊くと、ためらいがちに口ごもる。戸惑いに負けそうになったが、どうしても言っておかなければいけないことだから。大和は拳を握り締めた。
「ありがとう。今までずっと助けてくれて…ありがとう」
感情のこもった台詞に、千尋は驚いて息を呑む。
「ボクのこと、見ててくれたでしょ。苦しいときやつらいとき、気づいて助けてくれた。悪い方向へ進んでしまいそうになったとき、止めてくれた。ずっと守ってくれてた。だから、ありがとう。助けてくれてありがとう。ボクはもう大丈夫。強くなるよ。いつまでもだれかに心配かけてたら、一人前の大人になれないから。強くなる。生き抜く力を蓄えたから、もう心配いらないよ」
大和は笑顔で断言する。たくましさが芽生えた心を実感した千尋は、素直な微笑で応えた。
燕が教卓から感慨深く教室を眺めていると、廊下を走る足音が接近してくる。なんだろうと目を向けると、扉が開きあげはが現れた。
「燕先生!」
燕の姿を確認すると、あげはは一直線に突進する。
「あげはサン、どうした――――」
問いかけた燕だが、それは最後まで言葉にならなかった。
「わっ!」
あげはが体当たりのように抱きついてきた。勢いを受け止めきれず、燕は教壇に尻餅をつくように倒れこんだ。おまけに教卓の角で頭をぶつけてしまう。
「イタタ…。急になんですか、あげはサン」
痛む頭を抱えながら、身体を起こす。だが、あげははしっかり抱きついたまま、一向に離れようとしない。
「ちょっと、校内じゃ困りますよ。サイトーさん」
「………………」
「あげはサン…?」
黙りこんでなにも答えないあげはを、燕は訝しそうに見た。
「…う…もう、先生と同じ場所に…いられない………」
途切れがちに告げる声は涙に濡れていた。しがみつくあげはが肩を震わせていることに気づき、困ったように挙動を止める。
「先生と逢えなくなるくらいなら、わたし…卒業なんてしたくない」
あふれてくる雫。あげはは縋りつくように訴えた。
「そんなこと言わないでくださいよ。担任としては、生徒全員が無事に卒業してくれて嬉しいんですから」
「でも…っ!」
泣きやまないあげはに、やれやれといった面持ちでため息をもらす。
「あげはちゃん。卒業したからって、一生逢えなくなるわけじゃないんですから。いつでもここに遊びに来ればいいじゃないですか」
温かい口調で諭すと、あげはの震えは収まり、ゆっくり顔を上げた。
「…ホント? 本当に逢いに来てもいいの?」
「卒業生が母校を訪ねるのに、なにか問題がありますか?」
間近で燕が優しく笑うと、あげはは歓喜する。
「じゃあ、毎日でも逢いに来るから!」
満面の笑顔で宣言すると、また燕に抱きついた。元気づけるつもりが裏目に出てしまった燕は、途方に暮れる。
「毎日は困りますよ。それに…早く離れてください、あげはちゃん」
図書室の扉を開けると、健吾が待っていた。扉を閉めてから、吹雪はそちらへ歩み寄る。
「こんな風にこっそり逢うのも、今日で最後だな」
「そうだね。けど、慣れれば意外に面白かった気もする」
内緒の交際を続けてきた二人は、その期間を振り返った。
「でも…これからは普通に付き合えるんだよね」
「ああ。それでな…」
やっと普通の恋人同士。気を使わず付き合えると思うと、吹雪は嬉しくなる。健吾はなにかを言いかけて、ポケットから紙切れを取り出した。
「なに? これ」
手渡されたメモに首を傾げる。折れた紙を開くと、十一桁の数字が記されていた。
「やっぱり大学生ともなったら、あったほうがいいだろうと思って…携帯」
ぎこちない健吾に、吹雪の表情は明るく一変する。吹雪は少し前に自分専用の携帯電話を持っていた。これでいつでも周りを気にせず連絡が取れる。
「なら、ちゃんとそっちからもかけてきてよね」
いつも電話をかけるのは自分で、それが不満だった吹雪はしっかり釘を刺す。
「わかったよ」
自発的に電話をかけるのは得意ではない健吾だが、渋々了承した。
「お互い、大学に無事合格したことだし――――これからもよろしくね」
ぎこちなく言うと、吹雪はそっと右手を差し出す。その意味を察した健吾は優しく笑い、自分の右手を伸ばした。
「こっちこそ」
握手のあと、顔を見合わせた二人は静かに寄り添う。そのシルエットはひとつに重なった。
――――四月。
国立E大学。
正門の前で、自分が通うことになった大学を見つめる吹雪。ここには健吾も、大和も、千尋も、あげはもいない。向日葵高校で過ごした日々が懐かしく脳裏を過ぎった。それらを大切に心にしまいこんで、気持ちを切り替える。
「四年間、よろしくね」
新しく始まる生活に挨拶をして、吹雪は大学のキャンパスへと足を踏み出した。
公立M工業大学。
「健吾クン」
キャンパスを歩いていた健吾は、知っている声に呼び止められた。
「日影。おまえもこの大学か?」
「うん。電子関係を勉強したくてね。健吾クンは工学部だったよね。学部は違うけど、これからもよろしく」
新しい世界で広がるつながりと、変わらないつながり。健吾はそれを感じながら笑顔で応えた。
「ああ」
公立M大学。
「経済学部は…こっちか」
千尋は自分の入学する学部の校舎に向かっていた。キャンパスは緑が多く、向こうの並木道には桜が鮮やかに咲いている。大和に言われた言葉を思い返しながら歩いていると、一瞬なにかを感じて足を止めた。
桜並木に視線を向ける。ちょうどそこを通りかかっていた女子学生も桜景色に見入っていた。刹那、春風が通り過ぎ、桜の花びらが雪のように舞う。それがあまりに綺麗だったので、千尋はしばらくその景色から目を離せなかった。
私立M女子大学。
家政科と書かれた案内板に向かい合っているあげは。進路をここに決めたのは、ある目的のためである。
「頑張らなきゃ!」
あげはは自分に気合を入れた。そして闘志を燃やしながら、その方向へ進みだした。
M市立児童支援施設「あすなろ園」。
「今日からここで働くことになった小林大和です」
大和が元気よく挨拶すると、子どもたちは一斉に顔を見合わせた。
「ホントに先生?」
「オレたちと変わらないじゃん。そんなでも先生になれるのかよ」
見た目が幼い大和に、子どもたちは口々に呟く。
「先生って言えるほどのことは教えられないかもしれないけど、ここでみんなと一緒に勉強していきたんだ。よろしくお願いします」
はっきりした声で告げると、大和は満面の笑顔を見せた。
――――どんなに月日が流れても、
あの向日葵高校での日々は、
たくさんの想い出たちはボクの中で永遠に輝き続ける。
いつまでも…いつまでも――――
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