赤壁決戦の前日。
自らの臥牀で目を覚ました周公瑾は、辺りを見回してこれがまだうつしよの光景であることを認識し、ほっと息をついた。
さりとてしっかりと睡眠が取れたとは言い難かった。
闇の中で目を瞑っても安息の眠りは訪れてくれない。そもそも軍務に忙殺される毎日であり、床につくこと自体が稀であるに加え、横になっても孫呉の行く末が気にかかり、脳内を思索が占領する。
「雪蓮……」
断金の絆で結ばれていた盟友の真名を口にする。
孫伯符は既にこの時空にはない。魏の王である曹操の奸計により亡き者とされてしまった。跡を継いだ孫仲謀こと蓮華は、未熟ながら、血のにじむような努力をもって偉大だった姉の背を超えようとしている。その総決算が目の前に迫っている赤壁の大戦だった。
参戦する国すべてが乾坤一擲の思いだろう。
(それは勿論我らも同じ)
孫呉の未来と大陸の覇権がこの一戦で決する。
我が一生はこの刻の為だけにあった。目の前に見えるもの、その奥に有る筈のもの、それを思うと、そんな想いすらも湧いてきた。
「あるじさま」
「起きている」
声が幔幕を開ける。現れたのは、最近身の回りの世話をさせている老婆だった。
元々家人だったのだが、先日暇乞いをしたいと申し出があった。聞けば戦乱によって新婚の娘の失ったという。生きる気力もなく死にゆくに任せたいとのことだったので、死ぬ前にもう一働きせよと命じて残した。他の家人は十分な給金を渡して暇を出した。孫呉の周家はここで没する。それに皆で付き合う必要はない。
「朝のお食事は……」
「すまないな」
公瑾が首を振る。病魔が巣くい、死ぬ寸前まで追い込まれた体は、粥のような軽い食事さえ受け付けなくなっていた。
老婆が代わりに一杯(ひとはい)の水を差しだしてきた。これが決まり決まった朝のやり取りだった。
水に口を付けた公瑾は、すべての飲み干してから感心したような表情を浮かべた。
「……うまいな。水を変えたのか」
「はい。よくぞお気づきくださりました」
老婆は嬉しそうに笑った。
「先日より献上させていただいていた魯の水に勝る品があるというので、取り寄せました。少しでもお体に宜しいように、と」
その言葉に、公瑾は昔を思い出すような顔をした。
「周家に仕えて何年になる?」
「……幾年に、なりましょうか。物心ついた折よりお世話になっておりました。永過ぎて数えられませぬ」
「そうか。よくぞこれまで仕えてくれた。……感謝する」
体を傾がせ礼の姿勢を取る。それを見た老婆は、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして呻き声を上げた。
「もったいなき、何ともったいなきお言葉……」
公瑾の眼は既に老婆を捉えていなかった。陣地を見回るために外へと出た。
孫呉の陣地は気勢に満ちていた。これは先王・孫伯符の敵を取る戦であり、孫呉千年の礎となる戦争である。それを考えればどれだけあっても物足りない。
明日の本決戦に臨むにあたって出来る限りの手を打った。宿将である黄蓋などは、それこそ身を擲って曹魏の牙城を崩すための機会を作ってくれた。
(祭殿……)
敵軍深く侵入した、豪快な同僚のことを想う。呵々大笑とする姿が浮かび、思わず笑みがこぼれた。
呉軍の中にあって唯一の先達に対しては、気負ったところを見せる必要がなかった。若く未熟だった頃を知っている相手に対し、格好をつける必要などない。孫策がいない今、公瑾が唯一自然体で接することの出来る相手だった。
(蓮華さまたちに見せている姿が偽物だとは言わないがな……)
そう思いながら一つひとつ陣地の様子を確認していく。皆が明日の決戦に向けた最終準備に追われていた。忙しく辺りを駆け各将に伝達する者、武具を力強く持ち上げ船に積み込む者、船の様子を確認し明日に備える者。それぞれ仕事は違うが、ここで自分の為、ひいては孫呉の為に命を燃焼させようとしている者ばかりだ。
その光景に、公瑾の胸の裡には深い感謝の念が生まれていた。同時に孫権の時代の訪れを感じた。
孫呉の母、孫堅が生み、そして孫策が育てた国は南方の強国にのし上がった。しかし、孫策が兇矢に斃れ、一時は存亡の危機すら迎えた。劉備には同盟を打ち切られ、曹操の軍勢が都を窺おうとした。そのとき立ち上がり、曹操の軍勢を一気に打ち払った孫権は王としての器を十分に見せてくれた。それは正に新時代の息吹だった。
(この国は、もう自分が居なくても十分に羽ばたいていくことができる)
盟友の姿はすでになく、新時代がすぐ傍まで来ている。自分の時代の清算をすれば後は次代に引き継げよう。それが孫策の死後、自らの体調も省みず、執務に没頭した公瑾の偽らざる気持ちだった。
(どうせこの身は長く保たない。それならば出来る限りを尽くして次代への遺産を作りたい)
この赤壁の決戦で公瑾は持てるだけの知謀を絞って策を考案した。全ての可能性を想定し、数多の結果から孫呉にとって最も良い道筋をつけんと、限界まで自分の追い込み、思索を繰り返した。
それは求道の姿であったかもしれない。決して出ない答えを、求め、追い続ける。
自らを削り、何よりも鋭い直刃にする。振るった後、折れてもいい。振るった相手に致命傷を与えることが出来るなら、それでいい。
(雪蓮から託されたモノ。孫呉の宿願。それはもう、引き継ぐことが出来たのだから)
その時、公瑾の眼に、孫呉の王・孫権と、彼女を支える、北郷一刀の姿が映った。
北郷一刀。人物批評家として名高い許子将が予言した天からの使い。孫呉の名前を高めようと孫策が拾った男の子。
それは正に慧眼だったという他ない。恐らくは、孫策が思った以上に、一刀は孫呉に根を張り、影響力を持つ存在になった。
見ていると、孫権が柔らかい笑顔を浮かべ、一刀が少し困ったふうに笑った。
(北郷。蓮華さまに王の孤独を感じさせないでやってくれ)
王の孤独。それは王が持つ最大の病い。
自分は果たしてそれを盟友に感じさせることなくやれただろうか。
次に逢ったとき、聞いてみるのも悪くない。公瑾はそう思って、談笑するふたりに頭を下げた。
それは―――
それは、万感の想いの篭もった礼だった。
誰の眼に触れることもない、静かで厳かな礼だった。
公瑾は、ひとり自分の幕舎に戻った。
その夜、公瑾は、今まで最も大きい病の浸食を感じていた。
咳が止まらず、しかもそれは常に血を伴っていた。
断続的におとずれる大きな苦痛に死への誘惑が頭を過ぎったぐらいだった。
しかし、彼女はそれを振り払い、体の中の病魔が治まるよう気持ちを落ち着けようとした。
呉で最も腕の確かな医師にすら匙を投げられた公瑾の体は、薬ぐらいではもうどうにもならない。後は本人の気持ちだけが壊れきった身を支えることが出来る。
(たとえ崩壊寸前だったとしても、この夜だけは乗り越えなければならない)
どれだけの苦痛があったとしても、盟友との誓いを破ることの方が余程に痛かった。
公瑾は、臥牀で横になることを諦め、床に座すことにした。
眠ってしまえば、もう眼が覚めることはないかも知れない。乱れた髪を整え、眼を瞑り、思索に入る公瑾は、唯一それを恐れていた。
最後に、と、公瑾は自らの策を振り返る。戦場は想定外の事象の宝庫だ。ただ、そのすべてを読み切る為に、軍師は存在する。そして自分は赤壁の一戦にこの命を懸けた。
見通した未来、その過程。それらはあまりに膨大だった。寸暇を、寝る間を惜しんで時間を作ってそれらを考えた。
すべてはこの世紀の一戦で勝利するために。
自分と、自分を盟友と呼んでくれた彼女のために。
彼女が残した孫呉、その想いを継いだふたりのために。
負けることは出来ない。たとえ、この身を燃やし尽くしたしても。
チチチという鳥の囀りが幕舎の中に入ってくる。
夜の帳は上がり、今度は朝靄が辺りを包んでいた。
公瑾は―――
その夜を生き抜いた。
しかし、力という力を失ってしまっていた。骨と皮だけの生き物に成り下がってしまっていた。
(だが、それで良い)
欲しかったのは、命でも、力でもない。
全く力の入らない壊れかけの我が身をどうにか奮い立たせながら公瑾は立ち上がる。
息を整え、拳を握ろうとする。が、手が震え、その願いが達成されることはなかった。
諦めたように、公瑾は笑った。
「我が名は周公瑾。先王・孫伯符の盟友にして、呉の大都督。赤壁の一戦で曹魏の野望を砕き、孫呉千年開闢の刻を造る者」
(雪蓮。私の最後の戦いを見ていてくれ。次に雪蓮と逢うとき、胸を張れるように、ここで命を燃やすから)
幕舎から出た公瑾を、朝日が包んだ。それはまばゆいばかりの光だった。
「冥琳」
透き通った王の声が、光の向こうから聞こえた。それは正に新時代の光だった。
(この光は、決して消させはしない。それが私の最後の役割)
東南の風を身に受けながら。
周公瑾は最後の戦場へと向かった。
<了>
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Baseson『真・恋姫†無双』より、冥琳。
呉ルートにおける赤壁前夜を妄想。この冥琳は少し可哀想なので、誰か幸せにしてあげてください。