にぎやかな夕食を終えた後、彼女はまだ喧噪の収まらない食堂を抜けて、寮に戻った。だが、そのまま部屋には戻らず、階段を上る。階段を上り切ると、屋上への扉がある。簡易的な施錠だけしかされていない扉を解錠し、屋上へ出る。ふわりと、生暖かい風が髪をなびかせる。まだ夏は遠いというのに、最近は夜になっても気温が下がらない。浜風も、他の艦娘も、もう夏先取りの格好でいる時間が長い。かわいいキャミソールと短パンで、惜しげも無く肌をさらす者もいれば、浜風のように裾の長いTシャツと七分丈のパンツをあわせて、夏本番までもう一段階置く者もいる。ただ、共通しているのは、涼を求め始めているということである。だが、屋上に来たのは、別に涼を求めているわけではない。鎮守府に着任してから、何ともなしにここから海を眺めるのが、彼女の数少ない自発的な行動の一つであった。
「浜風、差し入れだ」
いつの間にか、同室の磯風が隣に立って缶入りの緑茶を差し出していた。彼女は、腕まくりこそしているものの、長袖で丈もしっかり足首まであるつなぎを着ている。工廠などで使用する官給品で、艦娘は全員持ってはいるが、私服代わりにしている者は片手で数えられる程度だろう。特に駆逐艦娘であれば、陽炎型の極限られた数人以外には見ない。普通は艤装の調整やら清掃やらの時以外には着ないものだ、と浜風は経験から知っている。
よくも暑くないものだ、と浜風は感心しているが、本人は意外と暑さを感じていないのかもしれない。
浜風が手を伸ばすと、磯風は掌の上に、そっと缶を置く。浜風の手にひんやりとした結露がこぼれる。
「ありがとう。丁度のどが乾いてたんだ。……それにしても、よくここがわかったね」
「難儀したぞ。何も言わずにいなくなったからな」
「それはすまなかったね」
浜風は、プルタブを引いて缶を開けると、すぐに一口緑茶を飲んだ。程よい甘みが口の中一杯に広がる。このお茶は確か、購買で一番高価な飲み物だったはず、と思い至ると、磯風の笑顔にほのかな苦みを感じた。
「……どうしたの? 不機嫌ね」
「何でもお見通しだな」
「多少は、ね」
磯風は自分の飲み物を一口あおる。そちらは、ごく普通のサイダー。それは寮の自販機でも買えるものだ。つまり、磯風は寮の一階でサイダーを買った後、購買までお茶を買いに行ったか、或いは、購買でお茶とサイダーを買ったことになる。後者だったら、磯風はサイダーを選ぶことは無いだろう。
「どうも、あの自動販売機というものは、好きになれん」
一息にサイダーを飲み干し、炭酸ガスをうまく咽から空中に吐き出してから、磯風は動揺に言葉も吐き捨てるように言った。
「ああ、だから購買まで行ってきたんだ。これ、自販機にはないもんね」
浜風は改めて缶を見つめる。缶はただのっぺりとした黄緑色で、表には黒字で緑茶とだけ書かれている。デザインも何もあったものではないが、それは、どうせ限られた販路でしか供給されない商品だからだろうか。
「わざわざ悪かったね」
「それは構わん。どうせ、暇を持て余しているからな」
「……そうね」
磯風の言葉に、浜風は一度、視線を遠くに移す。駆逐艦寮の屋上から見えるものと言えば、先ずは海。そして、反対側からは、わずかな平地にひしめきあう建物群と、すぐに迫る山並み。今の時間になれば、街中のわずかな灯が集まって、夜景と言うには物足りなさがあるが、ともかく人の営みの一端を見ることができる。だが、浜風は、その灯には背を向け、とっぷりと暗くなった海と、港湾施設のわずかな赤や黄の光の明滅を見ていた。
「で、何が気に食わないの?」
浜風と同じように両腕でフェンスにもたれかかりながら、磯風は眉をひそめている。
「曲がりなりにも、人様が買ったものを、一度落とすんだぞ。気に入らん」
磯風の言葉に、浜風は思わず吹き出した。磯風の目が、心外だ、とでも言うかのように浜風を見る。浜風は笑みを作ってそれに向き合う。
「えっと、相手は機械」
「機械だとしても、だ。機械を作ったのは人だろう。設計したものの思惑がそれということにはならんのか?」
「その方が合理的だからね。仮に下から上に持ってこようとしたら、それだけで構造は複雑化するし」
「では、何故そこまでして機械に仕事をさせる? 購買は別途あるからな。人を極力使わないようにしたいわけでもあるまい」
確かに磯風の言うことも、浜風にはわかる。が、それ以上に、自分達の特異性が、先に別の意見を持たせてしまうのもわかった。
「それは、私にはわからないね。少なくとも、人をあまり関わらせないというのはあるのかもしれない。この区画だけに関して言えば、ね。それが私達の存在から出た答えだというのも、理解できるね」
「……すまん。少し頭に血が上った。お前に嫌なことを言わせたいわけじゃなかったんだが」
浜風の静かな、しかし強い口調に、磯風は瞑目した。
「いいよ、別に」
いつものことだし、と浜風は心の中でつぶやく。
「浜風は、ここで何をしている?」
磯風は気を取り直したのか、フェンスを背にして、無造作に座り込んだ。長い両足を投げ出し、興味津々と言った面持ちで浜風を見上げる。先ほどとは打って変わって、浜風を見上げる瞳は穏やかで、彼女特有の落ち着いた大人っぽさと、子供っぽい無邪気さとを抱いて輝いている。自販機に対する悪態も、どうやら、浜風がいなくなったことに対して含むところがあったためのように、浜風には感じられた。
「海を見てる」
「夕食後、ずっとか?」
「ええ」
浜風の言葉に、磯風は目を丸くする。
「一度出撃すれば、ずっと海の上だというのに、陸でも海を眺め続けるのか?」
「特にすることもないし」
「他の娘は色々しているんだろう? 陽炎と不知火は飲みに行くと言ってたぞ。雪風達は甘味甘味と騒いでいたな」
「いつもじゃないよ。みんな結構暇を持て余してる」
「そんなものか。そうならば、非番というのもそれなりに厄介なものなのだな」
磯風が腕を組んだ。まだ艦娘になって日の浅い磯風は、非番らしい非番の日は経験していない。当然、その時に皆がどう過ごしているのかもわからないし、自分がどう過ごせばいいのかも、よくわからないといった風に見える。
「磯風も、何か打ち込めるものを見つけた方がいいね」
先輩としての浜風が言えるのは、わずかなことでしかない。浜風が好むことを全て磯風が好むとは思えないし、磯風に向いていることは本人にしかわからないから、どうしても漠然としたことしか言うことはできない。
「そうだな、考えておこう。……一日中、海を眺め続けるのはごめんだしな」
浜風は苦笑してから、飲みに行くと言う陽炎と不知火の姿を頭にぼんやりと浮かべた。
「そういえば、陽炎が、今度磯風を連れて外出しようって言ってたね。街に連れ出したいって」
「街か……。ふむ。一度くらいは見ておいて損は無いな」
「結構楽しいよ。基地の中と違って、色々なものがあって」
「お前も行くのか?」
「時々、ね。申請する娘が多いから、そうそう出られるものでもないし、急な状況の変化で取りやめになることも多いけどね。外出許可が下りたら、相当幸運かな」
「なるほど」
「そうだ。磯風のお出かけ着を用意しておかないと」
「この格好ではまずいのか?」
磯風は両腕を広げて、自分の体をしげしげと眺める。
「まずい、というか、よくない。制服は艤装の一部だから、まあ、正装と言えば正装なのかな? でも、さすがにつなぎで外出はどうかな……。そういえば、磯風、私服持ってないでしょう」
「うむ。官給品で十分だ。官給品と言っても機能性はすこぶる高いからな。むしろ、これ以上の性能を求めるのは間違っているのではないか?」
「不知火と同じこと言ってるね。でも、若い女の子はつなぎや体操着で街中を歩いたり、買い物したりはしないから」
浜風の言葉に、磯風は幾ばくか声のトーンを下げる。
「それは少々難儀だな。外出前に服を買う必要があるのか。外で服を買うのならまだわかるのだが……」
「そう。不知火も、さっきみたいなこと言ってたけど、今では街に出る時は、普通のお洒落をしていくよ。ああ、違う。お洒落させられて行く、だった。陽炎や黒潮に」
磯風が眉をひそめて浜風を見上げる。
「それは、……随分と暗示的だな。私も見習えというのか?」
「もちろん。とりあえず鳥海さんにお願いしてみようか」
「何故、そこで鳥海が出てくる?」
「上手だから」
「何がだ? 見立てか?」
「まぁ、後でのお楽しみ。今度、変身してもらうからね」
「あまり気乗りしないが……、まぁ、いいか……」
浜風の無邪気な微笑みに、磯風もわずかに唇の端を持ち上げた。
じゃあ約束ね、と浜風が左手の小指を差し出すと、磯風もそこに左手の小指を絡ませた。
「わかった。約束だ」
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浜風と磯風との会話。
磯風着任後、さほど時間が経っていない辺り。