夜闇はなお濃く、東の空が白んでくる様子はまだない。
傾いた月の明かりが降り注ぐ下で、彼女は己が身を抱きすくめた。
身にまとう白い着物と赤い袴はところどころ煤け、胸当てにはひびが入っている。
肩から二の腕にかけて装着した飛行甲板はあちこちが欠け、焦げている。
唯一、長い銀の髪だけは艶やかさを保ち、星の光を映してきらめいていた。
柔和そうな面立ちは、いまこの時はかすかに苦痛にゆがんでいる。
だが、海面に立つ彼女の視線は、まっすぐ闇の彼方に向けられていた。
そのいでたち、そのたたずまい。常人のできることではない。
彼女は人間ではなかった。海においては無類の戦士、人類の藩屏なのだ。
艦娘。人類の脅威たる深海棲艦に対抗しえる唯一の存在。
「――皆、無事で……」
視線の先で光と音が途絶えて久しい。
それが凶報であるか吉報であるか、判然としがたい。
夜明け前の海は闇がなお深く、遠く離れた洋上を窺い知ることは困難であった。
自らの体を抱きしめる力が、より強くなる。それは痛みに耐えると共に、心細さを紛らわせる慰めであり、そして友の健在を願う祈りでもあった。
航空母艦、「翔鶴(しょうかく)」。
それが彼女の艦娘としての名前である。
「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。
それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。
艦娘の間でひとつ言い伝えになっている事柄がある。最初に言い出したのは誰であったかは明確ではない。それを見た艦娘には、吉事が舞い込むとも、願いが叶うとも言われている。だがおそらくは、そもそもは大仰なことではなく、素朴な感嘆から生まれたものであるのかもしれなかった。
「翔鶴姉、だいじょうぶ? 痛くない?」
気遣わしげな声に、翔鶴はふっと微笑んで答えて見せた。
「平気よ。痛いのは確かだけど我慢できないほどじゃないわ」
そう伝えると、相手が夜闇の中で息を呑む音がかすかに聞こえた。
月明かりでおぼろげに姿は見える。青紫の弓道着と薄茶色の袴。姉である自分に良く似た銀髪はツインテールに結わえている。潮風に吹かれて髪が揺れているのか、かすかな光がちらちらと躍っていた――妹の瑞鶴(ずいかく)だ。
「なんだか、またわたしだけ無傷で、ごめんなさい……」
しょげた声で言う瑞鶴に、翔鶴はそっと指を伸ばした。
彼女の唇に指を当てて、ふるふるとかぶりを振ってみせる。
「そんなこと気にしないの。わたしの不運はいまに始まったことではないわ」
作戦行動において、二人は同じ艦隊に配属されることが多かった。「五航戦」とも呼ばれる彼女たちは鎮守府において一線級の航空戦力だ。練度も性能もほぼ同じ。違うところといえば、ツイているかどうか――瑞鶴が無傷で戦闘を切り抜けるのが多いのに対して、翔鶴はどこか一撃二撃もらうのが常であった。「幸運艦」に対して「被害担当艦」などと口さがない艦娘に言われたこともある。
そう、彼女たちは出撃任務に就いていた。
ここは作戦海域の最深部。敵中枢戦力との交戦の場だ。
とはいえ、いまの状況下にあっては、空母が活躍できる目はない。
「やきもきするなあ、もう」
瑞鶴がいらだった声でつぶやく。無線封鎖を行っているため味方と連絡をとることもできない。翔鶴は肩をすくめてみせた。
「空が白むまで待つしかないわ。夜は飛ばせられないもの」
空母が活躍できるのは周囲が充分に明るい昼のうちだけだ。夜になっては艦載機の離発着は困難になる。よって、戦闘が長引き、追撃戦が夜にまでもつれこんだ場合は、空母は必然的に置物となってしまう。
それでも従来の人類兵器は暗視装置などで夜間離発着は実現できている。艦娘の装備でも実現できるはず、と研究は進められているが、はかばかしい成果は上がっていない。
現状において、夜戦では空母は戦場を退避して決着がつくのを待つしかない。味方の邪魔にならぬよう、また敵に察知されて攻撃されぬよう、息をひそめるほかにない。
「砲撃の音も光も収まっているわ。なんらかの決着はついてるはずよ」
翔鶴が言うと、瑞鶴は心細そうな声で問うてきた。
「勝った――と思う?」
「負けてない、と思いたいたいわね」
「ああ、航空戦でもっと敵の数減らせていればなあ」
瑞鶴がため息まじりに慨嘆した。
「そうしたらもうちょっと皆も楽できたのに」
その言葉に、翔鶴は退避前の艦隊の状況を再度思い浮かべた。
戦場に残った艦娘で無傷な者は誰一人いなかった気がする。小破か中破していた者が隊伍を組んでいたが、大破した者がいなかったのも事実だ。夜戦に持ち込んで勝てる確率は五分五分だろう。
それでも、誰も撤退しようとは言わなかった。
“生きて帰る”と同時に“勝ち目があれば諦めない”は艦娘たちのモットーだ。
「信じて待ちましょう。いまのわたしたちにできるのはそれだけよ」
翔鶴は言った。妹に向けた言葉であったが、声の響きはどこかくぐもっている。
まるで、自分自身に言い聞かせているかのようであった。
東の空が白んできた。夜の闇が天と海と、二つに分かたれようとしている。
「明るくなってきた――!」
瑞鶴の声が躍る。活発な妹は、反面、待ちの姿勢が苦手であった。
「偵察機出そうよ。皆を確認したい」
言いさして弓に矢をつがえようとする瑞鶴を、翔鶴は手で押しとどめた。
「待ちなさい。偵察機はわたしが出すわ」
「でも、翔鶴姉のその甲板じゃ……」
瑞鶴が姉の飛行甲板に目をやる。夜闇が薄れ始めたいま、改めて確認すると損傷は軽いものではなかった。とても艦載機の着艦が望める状態ではない。
「ええ。わたしは飛び立たせるだけ。回収は瑞鶴がおねがい」
「任せてもらってもいいのに……」
「そうはいかないわ。万が一のことを考えて用意して」
翔鶴の言葉に、瑞鶴が大きく息を呑み、眉をしかめる。
負けていた時は――敵が逆に追撃してくる時だ。味方はおそらく満身創痍。逃げだすのでやっとだろう。その時は空母の手持ちの航空部隊で援護せねばならない。
第三次攻撃隊の準備をしろ、と翔鶴は言っているのだ。
そして、いま万全の状態で艦載機の展開ができるのは瑞鶴しかいない。
「……翔鶴姉は本当に苦労性なんだから」
瑞鶴が肩をすくめるのに、翔鶴は苦笑交じりの表情を浮かべてみせた。
そうして、翔鶴が短弓に矢をつがえ、放つ。
飛び立った銀光が転じて艦載機となり、唸りを立てて空へ飛び立つ。
翔鶴は目を閉じた。飛び立った偵察機と意識を重ね合わせる。
まぶたの裏に視界が広がる。空から見た猛禽の視界だ。
偵察機の目を借りながら、翔鶴は洋上を見渡した。
明るくなってきた空のもと、暗い海原が広がる。
ところどころ海の色が変じているのは、深海棲艦の骸から流れたものか。
残骸が海面に浮かび、その狭間にぽつぽつと人影が見える。
敵か――味方か。偵察機でぐるりと円を描いてみせる。
と、人影が手を振って見せた。かすかに声も聞こえる。
それは一名ではなく、複数の声であった。
疲れ果てていて、だが、どこか晴れ晴れとした声。
苦闘を乗り越え、勝利をもぎ取った者たちの凱歌だ。
「……全員、健在ね」
翔鶴がつぶやいた言葉に、瑞鶴がほうっと胸をなでおろした。
「良かったあ……勝ったんだね」
「帰りが大変よ。皆、海を駆けるのがやっとじゃないかしら」
「だいじょうぶ。わたしが皆を守るから」
瑞鶴が拳をつくって、とんと胸当てをたたいてみせる。
と、その時。
まばゆい光が海原に差し込み、東の空が鮮やかに彩られた。
翔鶴も瑞鶴も、そろって目を向ける。
水平線が黄金の輝きに包まれ、曙光が洋上をくまなく照らしていく。
戦いの痛みも、苦しみも、すべて拭い去っていくような優しい光。
いままさに昇らんとする金色の太陽を見て、翔鶴はつぶやいた。
「……暁の水平線……」
そこに“勝利を刻め”とは誰が言い出したことだろう。
もっとも暗き闇を乗り越えたものだけが見ることのできる景色。
戦場の死闘を潜り抜けたものだけが目の当たりにできるもの。
艦娘の間では語り草になっている光景だ。
それは、勝利のあかしであり、そして明日への希望でもあった。
「また、この朝を迎えられたね」
瑞鶴が笑みながら言う。その銀髪が日の光を浴びてきらきら輝く。
微笑み返して、翔鶴はそっと胸に手を当てた。
目を閉じ、顔を少しうつむけ、何事かを口中でつぶやく。
「どうしたの?」
不思議そうな顔で訊ねる妹に、姉は目を閉じたまま答えた。
「感謝しているの。誰かはわからないけど、わたしたちを守ってくれる誰かに」
生き残れたこと、皆無事で帰れること、勝利をつかめたこと。
日輪に礼を言ったところで通じるかは分からない。
それでも、“暁の水平線に勝利を刻んだ”喜びは本物だから。
翔鶴はそっと微笑んだ――どこまでも穏やかで清らかな笑み。
そんな姉を、妹は目を細めて優しい表情で見守っていた。
〔了〕
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鶴姉妹が主人公ってTicoの作品では初めてではありますまいか。
というわけで艦これファンジンSS vol.48をお届けします。
pixivの二次創作小説道場での企画SS「朝の情景」をお題に描いたものですが、
前二作が鎮守府で迎える朝だったのに対して、こちらは
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