No.786961

少年の日の思い出(ヘッセ) 中学生編

二ノ宮さん

ヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」を基に、原作では主人公ではなかったエーミールを主人公とした中学生編を書きました。

他人を見下してばかりで、友達もろくにいないエーミール少年の鬱屈とした思春期の、罪と罰の物語です。そして同時に、かつて軽蔑した、クジャクヤママユを盗んだ少年との再開を通じ、少年達が成長する物語でもあります。

2015-07-01 20:47:10 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:543   閲覧ユーザー数:543

 

「そうかそうか。つまり君はそういう奴だったんだな」

 

蝶を盗み、謝りにきた少年を、エーミールは許さなかった。怒りもせず、ただ冷ややかに侮蔑の目を向けた。その早熟な少年は、そうすることが人の心に最もダメージを与えることを知っていた。

 

それから数年、少年たちは14歳になっていた。思春期のエーミールはと言えば、相も変わらず優秀で、同学年の子供達を見下す厭な少年だった。それ故に、周囲からも浮いていたし、友人と呼べる友人は殆ど居なかった。しかし、彼も年相応の男子である。陰ながら想う女の子の一人はいた。名をエミリーと言う彼女は、ある時、本を読む彼に気さくに話しかけた。

「貴方は優秀で真面目で、将来きっと大臣になるわね!」

明るく、誰にでも善意を振りまく彼女にとって、その言葉はそれ以上でもそれ以下でも、何の意味も持たなかっただろう。暑い夏の昼下がりに外に出て、暑いな、と言うのと何も変わらない。そこに特別な意図は無く、ただ思ったことを口に出しただけ。彼女にとって、その言葉はきっとそういう類のものなのだ。本来人間の心に備わっているべき「弁」のようなものを、生まれる時に神様から貰い忘れているような、恥ずかしいことでも何でも照れずに口に出してしまうような、エミリーとはそういう女の子だった。

 

しかしそれでも、皆に疎まれ、成績優秀を鼻にかけているといつも陰口を叩かれ、女の子とも録に話したことがないエーミールにとっては、そのささやかな賞賛は天使のささやきに近かった。ただそれだけの言葉を、中毒みたいに何度も何度も頭の中で思い出しては、自分の支えにした。便所に行く時に、廊下の隅で男子達にニキビのある顔が気持ち悪いと笑われようが、記録会で幅跳びする横で、ヒキガエルが無様に跳ぶよと女子達に歌われようが、彼にはどうでも良かった。自分はエミリーという天使に祝福された存在なのだから。

 

それでいながら、聖なる存在の彼女で毎晩妄想を繰り広げた。天使のように白いレースで着飾った彼女が、理知的な男の子が好き、だとか、貴方はこんな世界にはふさわしくないわ、だとか、あれやこれやと甘い言葉を自分の耳元で囁く。優しく指を背中に這わせ、脚を絡ませ、そのまま包み込むように、小柄な身体を密着させて自分を抱き締めてくれる。体温が伝わる身体と身体を、お互いに擦り付けて、鼻の頭と頭をぶつけ合って、エミリーの身体と顔の形を確認する。そうして、少し気にしているその金髪を撫でると、照れながらも、エミリーが柔らかな唇でキスをしてくれるのだ。その女性的で艶やかな表情に、彼は興奮していき、呼応するように、エミリーの奉仕が始まっていく。そんな想像を日々巡らせた。

 

しかし、自我を取り戻すその度に、エーミールはそんな自分が嫌で嫌で堪らなくなるのだった。何故なら、彼は知っていたからである。エミリーが好きなのは、貧乏だが、サッカーが上手く、友人も多いアダムだった。ああエミリー!そんな男は辞めるんだ。君は一番自分を愛してくれる僕の許に来るべきだ。君なら分かる、分かるだろう。 彼女への想いが毎晩毎晩膨らむ度に、それは烈火の如き嫉妬に変わっていった。

 

パアン!

だから、放課後、赤く染まった夕暮れの教室で、エーミールは微笑んでいた。アダムが何よりも大切にするサッカーボールに、針を刺して破裂させたのである。

小さな罪悪感が、チクリとエーミールの胸を突く。それでも、彼は大した問題ではないと思った。もし騒ぎになっても、エーミールは金持ちの家の子だ、こんな薄汚れたボールではなく、新品のボールを親に買って貰い、こっそりアダムの机に置けば良い。そうすれば帳消しどころか得じゃないか。だから良いのだ。これは自分の中の鬱憤を少しでも晴らす為のもの。どうせ想いが叶わぬならば、この小さな抵抗に悲しむ彼の顔を、一瞬でも見られればそれで良い、それだけで、心の中でいつまでも嗤っていられる。大切なものを失って悲しんで、また手に入って喜んで、何も知らないお前は僕の手の上で転がされるに過ぎない愚か者だ。

鳴って響いた音は、もはや塗り替えられぬ罪にふさわしく、渇いた音で高く大きく、一瞬鼓膜に傷をつけて、そのままずっと、小さな痛みを残すことになる。

 

明くる日、彼の予想通り、学級会議が開かれた。誰がやったのか、あれは彼の大切なボールで云々、下らない定型句がエーミールの耳に入る。こんなものは予想通りだ。自分の中では全くもって大した問題ではない。僕が見たいもの、聞きたいものはそんなものではない。アダム、アダム、その悲しい顔が見たいのだ。授業を潰してまで開かれたこの学級会議で、この空虚に続く時間で、誰もがお前を好いている訳ではないと痛感し続けろ! さて、当のアダムはと言えば、ついぞ泣き出してしまったではないか。最初は堪えた泣き方だったのが、段々大きくなって、次第にはわんわん泣き出した。皆もその様子に驚き、黙ってしまう。

エーミールは心の中で嗤った。 っふん、何だ何だ、男たる者が! ボールを破裂させられたくらいで女子の様に泣くのか! 全くこれは良い。愉快極まりない見世物だ。とんでもない強敵と思っていた男も、ただの小物ではないか! アダムがこのまま醜態を晒すことでエミリ-が彼に失望し、自分を見てくれるならば、これはとんだ副産物になるぞ、などと想像しては良い気分になった。

 

が、いつもは喋らない、でくの坊の様な女が、空虚に泣き声が叫ぶ教室で、弱弱しく手を挙げた。何だ、貴様もこの男に惚れていて、窮地の奴に励ましの言葉でもかけようというのか。普段なら他の女に勝ち目がない貴様が、そうすることで自分の好感度が最大限高まるとでも思っているなら、それほど滑稽なこともない!アダム、アダム!貴様にはこの女がお似合いだ!エミリーは貴様には高尚に過ぎる!

 

「昨日の放課後、エーミール君がアダム君のボールを破裂させていたのを…私見ました。」

 

泣き声が止むと、クラスは途端に静かになり、80の目玉がエーミールを一斉に睨み付けた。何だ?何が起きている? この女、今何を言った? 教室の端から、アダムの親友がこちらに来るのが見える。

 

「エーミール…!あのボールはドイツ代表からアダムが貰った唯一無二のボールだったんだぞ!」

 

ぐるんと視界が回る。何が起きた? 未だにエーミールは事態を把握できていない。

頬が地面に着いている。痛み? 血…その先の白い物体は、歯…? 僕は殴られたのか? 罵声が遠くに聞こえる。自分の椅子が蹴られて飛ぶ。先生が止めようとする中、複数の男たちが袖を掴み、脇を持ち上げ、エーミールを廊下に引っ張り出そうとしている。相変わらず、皆は僕を見ている。そうだ、君は。エミリー。いつも可憐に笑う僕の聖女は。

 

「最低」

 

目が合った彼女はただ一言、そう吐き捨てた。

 

 

 

それからのことを僕は良く覚えていない。気付けば、家の、自分の部屋のベッドに一人座っていた。

 

…そうだ。

僕の行いは見られていて、告発されたのだ…。一心の憎悪を込めて殴られたのだ。そして、エミリーの目が脳裏に焼き付いている…細められ、ひらすらに冷たく、道端を走るドブネズミでも見る様に、ただ嫌悪と軽蔑を僕の心臓に突き刺す為だけに存在していた…。まぶたを閉じると、その二つの目が僕を捉えて離さない。焼き尽くすように燃え盛りながら僕を見つめている…熱い…熱い!!! やめてくれ…!!! さげすまれている…汚らわしいと思われている! 

そうだ、きっと、恐らくきっと…

 

エミリーは二度と、僕に話しかけてくれない。

 

 

 

「そうかそうか。つまり君はそういう奴だったんだな」

 

 

 

うわあああああああああああああああああああああああ!!!

エーミールは顔を枕に押し付けて咽び泣いた。彼の背にとてつもない重りのように乗って、腰を頭を上げさせまいとする意識はひたすらに「罪」と「恥」だった。彼は自らの過ちを漸く理解したのだ。彼が想像したような補償など出来もせぬ。もう関係はすべて壊れてしまった。真っ白くてふわふわのシーツに、黒いインクを乱暴にぶちまけた。後は周囲に見下され、打ち捨てられるしかない。彼女の目に永遠に苦しめられるのだ。

 

更に彼ははっきりと理解した。自分にも責められることになることを。かつて、人の気持ちなど想像もせずに賢しらに取った軽蔑が今、その身体に跳ね返った。クジャクヤママユの少年。昨日自分が取った行いの、数年前近所の少年に行った行為の、その浅はかさよ!

ひたすらに自らを呪いながら、枕を濡らして、彼は眠った。

 

翌日エーミールは学校に現れなかった。当然のことだろう。もはや、彼には聖女の加護も無く、むしろ呪縛が彼の胸の奥にはあるのだから。彼にとってのエミリーはもはや、痛みの代名詞でしかなくなった。

それでも、エーミールの陰として、その事件は校内と村中を駆け巡り、金持ちで嫌味な優等生の失態と罪として、これでもかという程に人々の笑い話になって、優越感を満たした。彼不在の村にあって、それほどに彼が存在感を発揮したのはこれが初めてのことだった。

 

翌朝はいつも通りの熱い夏日だった。

建物と木々の隙間からこぼれる光が常に形を変えて、かつてエーミールの蝶を盗んだ少年の家にも降り注ぐ。その扉が開き、学校に向かう少年が現れることも、何の変哲もない日常の一風景だった。

ただ一つおかしなことがあるとすれば、門の前に座る少年がいたことだ。目元を大きく腫らしたその少年は、一瞬分からずとも、間違い無く件のエーミールだった。

 

少年は未だ、エーミールが苦手だった。クラスが変わろうと、廊下や帰り道で彼を見るたびに、自分の罪悪を思い出させられる気分だったからである。その彼が今、自分の家の前に、恐らく何らかの意図を持って訪れている。それは彼にとって嬉しいことでは決してなかった。それでも、少年は心を強く持つことが出来た。彼は今までの様な暗い気持ちで、エーミールと対峙することはもはやないのだ。そこに恥を感じることはない。と言うのも、目の前にいるこの少年もまた、罪人であり、同類だからである。少年には彼を馬鹿にし、非難し、糾弾する権利があった。君はかつて僕を存分に軽蔑したが、それがどうだ、君も同じじゃないか、と。

拳を握り、少年はエーミールに向かって歩みを進める。それに気づいたエーミールは、立ち上がる。

 

「すまなかった」

 

そうして、短い、明らかに言葉足らずな一言を発して、彼は頭を下げた。その道を通る者がいても、何のことなのかは想像もつかぬ程に、それは文脈と呼べるものの中に無かった。それなのに、少年は一瞬でエーミールが言わんとしていることを理解出来てしまった。

その時に彼が感じたのは、間違いなく、戸惑いと、小さな喜びと怒りであった。長年の罪が本人によって、今この瞬間、許された。そのことは、彼の心の重荷を下ろすことに確かに、確かに、繋がった。彼は安堵し、気付かずとも、肩を降ろし、小さく息を吐いた程である。自然と笑みがこぼれそうになる。しかしながら同時に、言いたい言葉が口に出せない不快感のように、どこかで何かがひっかっかている。そうだ、彼はこうも思ったのだ。

自分も同じ側に回って、初めてこの苦しみを理解し、それまでに僕が感じ、幾百日も耐えた辛ささえも、その一言と行為で許されようという浅はかさよ、僕が今ここで、君を軽蔑し、更なるどん底に突き落としてやってもいいんだぞ。言葉の槍は既に口の中に装填され、後は突き出すのみである。この目の前に立つ風船を、今その先端で破裂させることが出来る! そう、確かに、強く、彼は思った。実際に彼はそれが出来たし、そうすることによって彼もまた、巷に溢れる大衆の如く、この罪を犯した一人の少年を、大義の元に共通敵と狂喜乱舞して非難することが出来た。仲間と共感をし、怒り、嘲り、優越を感じ、仲を深めることが出来た。確かに、彼にはそれが可能だったのだ。

 

だが、顔を上げたエーミールの顔を見て、彼はもう一歩が踏み出せなくなった。痛ましく、苦虫を噛み潰したような、どこにも行けず今にも泣いてしまいそうなその表情は、かつて鏡に見た自分と疑いようもなく同じものだったからだ。その悲しみの激流が、一瞬で、胸に流れ込んでしまう。許されるまで出ることの叶わないあの閉塞。寝ても覚めても胸の奥に残るような異物感と不快感。夢の中にも現れ、罪人よ!罪人よ死ね!と自らを責め続ける幻影。そうして誰にも言えず、共感もして貰えぬ感情。それらは、そうなった者にしか分からない苦しみだった。

詰まる所、少年は、この仇敵とも言える男に同情してしまえたのだった。その顔を見ているだけで、こちらまで悲しくなってくるようであるのだ。

彼には、心の奥で湧き出る喜びと同情を、この男に伝えたい気持ちがある。だが、貴様も苦しめと、心中ほくそ笑みたい気持ちもある。

彼をどうする。弾劾するか、手を差し伸べるか、それによって彼が今後背負うことになる苦痛が少年には想像出来た。だからこそ同感も出来るのだ。そして、彼は今それを自由に選択することが出来る。手の中でエーミールの心臓を握りつぶすことも出来るのだ!

それでも、それだからこそ、クジャクヤママユを盗んだ少年は、考えることを放棄した。どの道、理性でどうにかなる物ではないと彼は直感していた。そういう物がこの世の中にはある、彼がそれを分かっていたこと、それだけが、恐らくエーミールという少年にとって唯一の幸運であり、チャンスだった。彼は目を閉じて、エーミールと同じ感情の奔流に流されながら、流木に掴まり、目を閉じ、自らの声帯を震わせることにだけに神経を集中した。

 

「…いいんだ」

 

そうして、ようやく絞り出した音は、許しを意味する言葉になっていた。

ああ…良かった。少年は心からそう思う。何故そう思ったのか、彼にも説明が出来ない。ただ、二人の間にこれ以上の禍根は残らなかったし、多分、この世でエーミールを最も理解できるのは、その少年であり、逆もまた然りだった。

泣き出し、眼鏡ごと顔を擦るエーミールの傍で、彼は何も言わずに、その背に手をあてて、そっと前に押した。

 

そうして、今日も馬鹿みたいに暑いこの田舎道を、並ぶことの無かった二人が歩き出す。

 

 
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