/1
虹色の世界にオラウスは一人立っていた。いや、立っていたという表現は少しおかしいかもしれない。なぜならばオラウスに立っているという感覚は少しも無かった。かといって寝ている、というわけでもない。
平衡感覚がまったく無いのだ。上も下も右も左も、方角なんてものは存在しようはずもない。見渡す限り虹色、遠近感も存在していないためとてつもなく広いのか、それともとてつもなく狭いのか、どちらか解からなかった。
溜息を吐きながら腰の刀を抜き放ち、魔力を込めて振ってみるが何も変化は起こらない。
人間であったころならばともかく、今のオラウスは邪神の眷属である。神と呼べるほどの力は得ていないにせよ、人間では到底不可能なことも簡単にできるようにはなっていた。例えば、次元の間を移動してみせる等もできる。
だが、どうやらこの空間ではそれが出来ないらしい。四次元なのか五次元なのか、それとももっと多くの多次元なのか。あるいはそれら多次元の間に存在する狭間なのか、おそらくは後者が正解なのだろう。
周囲を取り囲むようにして広がる虹色には、時折ではあるが隙間が現れそこから様々な世界を垣間見ることが出来た。醜悪な生物がなにやら文化的な生活を送っている光景、ある時には星が生まれる瞬間の閃光、ある時は亡者が助けを求めてうめいている光景、等など様々な世界への窓が現れるのだ。
何度かオラウスはその窓のような隙間に体を滑り込ませて次元間の移動を試みたのだが、どのような力が働いているのか理解できなかったが、この虹色だけの世界から出ることは叶わなかった。
どうしたものかと考えてみるが、何も良い方法は思いつかない。通常の方法ではこの空間からの脱出はできないのは既に明らかだ。オラウスをこの空間に閉じ込めた張本人ならば、オラウスをここから引き出すこともできるのだろうが、そんなことをしてくれるとは思えない。
自分の持てる限りの力を駆使して移動を試みても不可能となれば、助けを待つほかはないのだが、果たして助けに来てくれる人間はいるのだろうか。可能性がもっとも高いのはネアトリアハイム騎士団の国王直属部隊である。
彼らはオラウスに協力して欲しそうだったし、オラウスがこの空間に閉じ込められる現場も目撃している。彼らが魔術研究所等、様々な機関や魔術師に働きかけてオラウスをここから助け出そうとしていることは充分に考えられた。
だが、彼らではおそらく出来まいとオラウスは思うのだ。今の人間が持っている魔術技術では空間同士を繋ぐことは難しいだろう。中には出来る人間がいるかもしれないが、必要なのは三次元と別次元を結びつける力である。そのような人間がいるとは考えづらい。
もしそんな人間が存在していたとしても、騎士団の目の届かない場所で隠遁生活を送っていることは容易に想像がつく。時間の感覚すらもないこの空間ではどれだけの時間が経っているか分からない。オラウスがここに来てから、外でどれだけの時間が経過しているかもまた分からなかった。
下手をすれば優に一〇〇年は過ぎている可能性もある。人外の力を得たオラウスではあるが、流石に時間を逆行するほどの力は持っていない。そのような力を得ているのならばこの空間からの脱出も容易だったのだろうが、おそらくこれから先、永劫に等しい時間を過ごすことになるオラウスだが時間を逆行させるような力を得ることは無いだろう。
人間の助けはまず望めないが、オラウスを人外へと変貌させた張本人ならばどうだろうか。あれはオラウスに興味を持っておりいたく気に入っているようだった。オラウスが次元の狭間に閉じ込められているとなれば助けてくれる可能性はある。
しかし、あれは邪神だ。人間の常識で物事を考えるようなものではない。神の眷属となってから三〇〇年が経過しているオラウスではあるが、未だに人間の常識に縛られている。それに捕らわれなくなった時、新たな可能性が開けてくるのだろうがオラウスは人間の常識に縛られたままでいたかった。
全ての感覚が消失している世界の中でオラウスは胡坐を組み、顎を手に乗せる。今のオラウスを助けに来れるのはイロウ=キーグぐらいだろうが、イロウ=キーグが動いてくれるとは考えづらい。
しかし、一縷の望みを掛けて待つしかないのが今のオラウスの現状なのだ。
/2
ネアトル=プトゥスにある国王の居城の一室に、属に御三家と呼ばれる三人が集まっていた。エルザ・ウォルミス、クラウディオ・フェーエンベルガー、ストラス・フェトゥンの三人は円卓を囲んでいる。
元々この円卓のある部屋は全部で一三名いる国王直属部隊専用の部屋なのだが、今は人払いをしておりこの三人しかいない。三人しかいないと円卓が広く感じられる。
「で、その話は本当なのかクラウディオ?」
エルザの質問のクラウディオは頷き、一枚の紙をそっと円卓の上に乗せた。そこに書かれているのは傭兵組合に出されていたとある依頼の依頼文だ。
「本人かどうかの確証はまだ取れてませんが、イロウ=キーグの名前を出した男が依頼を出していたのは事実です。場所はハーヴェン=フス」
「けれど、それで私たちが動く必要があるんですか? まだイロウ=キーグだと決まったわけじゃないんでしょう?」
そのストラスの言葉にエルザは「ある」と、短く応える。
イロウ=キーグと名乗った男が本物かどうかは不明だが、イロウ=キーグを名乗る以上は何かしら知っている可能性が高い。イロウ=キーグはネアトリアハイム建国に携わっている魔術師である、しかしその正体は邪神だ。このことはエルザ達の祖先が残した書物が証明している。
もちろん建国に邪神が関わっていることを知られるわけにはいかないため、それらの書物は書かれた当初から禁書扱いとなっていた。しかし、真実は伝えていかねばならないため焚書にされることは無かったのだ。今まで外部に漏れそうになったことは何度かあったが、それらの書物の内容が漏洩するようなことは無かった。
となれば、イロウ=キーグの名を騙っている者は本物である可能性が非常に高い。だが、しかし今になって何故、という思いがエルザの中では強かった。もっとも、彼は邪神である。人の常識では計り知れない。
「クラウディオ、依頼文の内容を要約してもらえるか?」
「簡潔に言うと、魔術儀式を行うからその間の護衛を頼むとのことです。私の推測ですが……何かを呼び出すつもりなんじゃないでしょうか?」
「何かじゃわからん」
「同意です、何かを呼び出そうとしているのは間違いないとは思うんですがねぇ」
クラウディオは肩をすくめて見せた後、小さく溜息を吐いた。クラウディオの戦闘能力は直属部隊の中で最も低いだろう、だがその分彼は情報収集という役目を担っている。そちら方面の能力でいえば目を見張るところがあり、国内広しといえど彼に並ぶものはいないだろうと、買い被りかもしれないがエルザはそう思っていた。
加えてクラウディオには魔術や科学分野など多岐に渡って広範な知識を有している、その彼が分からないというのだから誰にも分からないことなのだろう。場に重い空気が流れ始めたが、それをストラスが払拭した。
「もしかしたらオラウスなのかもしれませんよ」
「我が祖を呼び出すだと? 確かに我が祖とイロウ=キーグに繋がりはあるが、何故そう思うんだストラス?」
「私が以前、オラウスの警護に赴いたのは当然知ってますよね?」
エルザとクラウディオの二人は頷いた。詳細はストラスの出した報告書で知っている。
「おさらいのようになりますが、あの時オラウスはキャスティンの門へと落ちていきました。その先がどこかは分かりませんが、おそらくは別の次元に閉じ込められたのではないかと私は推察します」
「ということはストラス。貴様はイロウ=キーグが別次元にいるだろう我が祖を助け出そうとしている、そう言いたいのか?」
ストラスは無言で頷いた。確かにその可能性は無いともいえない。過去、建国戦争の時にもオラウスが窮地に陥るたびにイロウ=キーグはその手を差し伸べていた。イロウ=キーグが現れた時期はオラウスがキャスティンの門に消えた時期と符合している。ストラスの言っていることは間違いとは言い切れないところがあった。
「ですがストラス君、状況から考えればその推察も成り立ちます。けれど本当にオラウスを助け出す、いや、呼び出す可能性といえばどのぐらいあるんでしょうか?」
「それは分かりませんクラウディオさん。ですが、イロウ=キーグがオラウスを見捨てるようなことをしないと私は考えます」
「三〇〇年前なら確かにそうだったでしょう。ですが今のオラウスはどう考えても、邪神……とまではいかなくとも人間以上の力を手にしています。そのオラウスが助けを必要とするでしょうか?」
「私は必要としているのだと思います。でなければどこかでオラウスの目撃報告がクラウディオさんの下に来るでしょう?」
「確かにそれは一理あります。ですが、オラウスに監視役を付けるようにはしていますが何度か撒かれていることもありますからね、まだ目撃されていないだけという可能性も――」
じっと二人のやり取りを静観していたエルザであったが、二人の会話は結論が出そうに無い。おそらくこのままやらせていても堂々巡りするだけであろう。エルザの年齢はまだ二一、若輩と罵られてもおかしくはないが直属部隊の長を務めているのだ。この場で何かしらの結論を下さなくてはならない。
「二人とも少し静かに」
エルザの言葉に白熱しかけていたクラウディオとストラスの会話が止まり、二人の視線はエルザへと向けられた。
「イロウ=キーグが何者であるかは現状ではまだ分からない。そうなんだろクラウディオ?」
「えぇ。諜報部隊をハーヴェン=フスに展開させてはいますが、何の情報も入ってきません。彼らが何の情報も得ていないか、最悪の場合だと全員始末されたという可能性もあります」
「なら、我々直属部隊。いや、真の歴史を知る御三家としてやるべきことは一つだろう」
「まさか、冗談ですよねエルザさん?」
ストラスが苦笑を浮かべながら言って見せたが、エルザに冗談を言っているつもりはない。ここで幾ら話し合ったとしても新たな情報が入ってくる気配はないのだ、ならばこの状況を好転させるために行うことは一つしかなかった。
「我々三人で直接ハーヴェン=フスに赴く。それ以外に方法はあるまい、このままネアトル=プトゥスに留まっていても状況は変化しないだろう。イロウ=キーグが本物なのかどうか、そしてイロウ=キーグが何を行おうとしているのか、我々には何も分からない。だが御三家としての使命は一つしかない。ネアトリアハイムを邪悪なるものの脅威から守り抜く、それだけだ!」
しばらくの間沈黙が続いたが、クラウディオがやれやれと溜息を吐いた。
「そうですね、エルザさんの仰るとおりです。我々がここでじっとしていても何も始まりませんしね、ストラス君も同意でしょう?」
「えぇ。オラウスの警護に失敗した汚辱をここで晴らしたいところです」
示し合わせたわけではないが三人とも同時に立ち上がり、円卓の部屋を後にした。依頼が出されたのはつい先日のことだが、急ぐのならば早いほうがいい。時刻は正午を過ぎており、出発する頃には夕刻になっているだろうがそんなことを気にしてはいられなかった。
早急に装備を整え、ハーヴェン=フスに向かう必要が三人にはあるのだ。
/3
イロウ=キーグが待ち合わせ場所として指定したのはハーヴェン=フスの港湾部に程近い一軒の宿屋、その名前は〈葵屋〉というらしい。変わった名前だなとクロエは思いながらその宿屋を探していた。
ハーヴェン=フスは東国の人間が作った街であり、そのせいか街路の作り自体が他の都市とは違う。一番の大きな点といえば町のいたるところに水路があるということだろうか。だが景観は爽やかとは言い難い。
水路には小船が幾艘も浮かんでおり、それらの小船には様々なものが積まれている。ある船には食べ物、ある船には飾り物が並べるようにして積まれており、行き交う人々にしきりに声を掛けていた。一種の露店のようなものらしい。
ネアトリアでは中々見かけない光景だが、東国ではこういった形態での商売が普通なのだろうか。クロエも何艘かの小船から声を掛けられたが、見る気は無かった。かといって興味がまったく無いわけではない。
見てしまえば興味が湧いてしまいそうだから見なかったのだ。ハーヴェン=フスに立ち並んでいる家屋は建築様式自体もネアトリアのものと異なっている。ネアトリアの家屋といえば、木造であったとしても土台の部分は石でがっしりと固めている場合が多い。しかし、このハーヴェン=フスの建物は全てが木造なのだ。
加えて、扉には何故か紙が張られており何やら紋様が描かれている。それが意味するところは分からないが、一種の魔除けなのだろうかとクロエは推察した。魔除けとして玄関や門に文様を施したり、飾りを付けたりすることは珍しくない。
ただ気になるのは、扉の紙に描かれている文様がどれも違うことである。魔除けの類ならば統一されていてもおかしくないのだが、もしかすると魔除けではないのかもしれない。では何だろう、と家々を眺めながら歩いていると前から歩いてきた人物とぶつかってしまう。
「すいません」
そう言いながら視線を前に戻すとネアトリアの標準的な格好をした男が立っていた。見慣れた格好をした人間がいることに内心で思わず安堵の溜息を吐いてしまう。ハーヴェン=フスは異国の人間が多く、ネアトリアの人間は少ないようなのだ。
耳に入ってくる声も異国の言語らしく、クロエには何を言っているのかてんで見当がつかなかった。そのせいでちょっとした不安に襲われていたのだ。
「その声は、クロエか?」
「はい、そうですか何故私の名前を?」
問いながら相手の顔を見るとすぐに誰か思い出した。傭兵のソーマである。彼とは以前、ソウルム=ヴァド近辺にある剣の森を共に探索したことがあった。そこで同じ怪異に遭遇している。
「もしかして、ソーマさんもですか?」
クロエの問いに彼は深く頷いた。やはり彼もイロウ=キーグの依頼を受けてここにやって来ていたらしい。剣の森でイロウ=キーグに遭遇したあと、あの依頼文を見てしまえば受ける以外に選択肢は無かったのだろう。
クロエがそうだった。イロウ=キーグが何者なのか非常に興味がある、その正体を探るには彼に近づくより他ない。とはいえ普段、彼がどこで何をしているのか一介の傭兵には調べようが無いため、こうやって依頼を受けて近づくしかないのだ。
「ところでクロエに問いたいのだが〈葵屋〉はどこにあるかもう見つけたか?」
「いえまだです」
首を振りながら答えるとソーマは落胆の溜息を吐いた。そういったことをしなさそうな人物なだけに、彼はよほど探し回っていたに違いない。
「そうか……実はかれこれ一時間以上ハーヴェン=フスを彷徨っているのだが、一向に〈葵屋〉が見つからん。宿屋らしいものはちらほらあるのだが、どれも違う店だった。道を尋ねようにも言葉の通じぬものが多くてな、商人はどうやらこちらの言葉を理解しているようだが、商品を買わない限り教えぬとの一点張りだ」
「それは大変でしたわね」
「あぁ。そこで商品を買って道を尋ねようとするとあきらかにぼったくりと思われる値段で売ろうとしてくる。商魂たくましいのは良いことだが、ここまでくるとがめついとしか言いようが無いな」
ソーマは苦笑を浮かべる。そのことにクロエは表情には出なかったものの僅かに驚いた。彼に表情が無いとは決して思っていなかったが、笑うことのない鉄面皮だとばかり思い込んでいたのだ。人とは意外なものである。
「そうなると困ったことになりますわ、私もまだ〈葵屋〉を見つけておりませんし。あなたの話を窺う以上、言葉が通じないのでは道を尋ねても無駄。さて、どうしたら見つけられるでしょう……」
「まったく見当がつかんな」
クロエは顎に指を軽く触れさせ、ソーマは腕を組んで往来のど真ん中で考え事を始めた。ソーマはどうやら金銭的に余裕がないらしいが、クロエは余裕がある。こうなったら商人から何か品物を買って道を聞き出すのが一番良いだろう。
「やはり商人から聞き出すのが一番ではないですか?」
「だがぼったくられるぞ?」
「大丈夫です。報酬は前払いでしたし、私は財布に余裕がありますから」
「だが――」
ソーマは何か言いかけていたがクロエは無視して今来た道を戻り、水路へと出る。ちょうど目の前に商品を積んだ小船が一艘やってきて、ネアトリアの言葉でクロエに品物を買わないかと言ってきた。
船の上に並べられている品物を見ると身につける飾り物ばかりである。どれも手の込んだ工芸品らしく、細部まで意匠にこだわっていた。これならば買ったとしても損にはならないだろう。といっても、買う前にすべきことがあるのだが。
「ねぇお兄さん、〈葵屋〉って宿屋知りませんか?」
「〈葵屋〉ぁ? う~ん、聞いたことがあるような名前だでなぁ。ここからそない遠くにゃあないってぇのは確かだで」
「本当?」
「あぁ、嘘ついたかて得するこたぁなんもねぇかんな。けれどただで教えるっちゅうのもなぁ」
小船の主は腕を組んで顔を背けた、だが眼はしっかりとクロエを捉えている。
「それじゃあ、その金色の白いお花がついた飾りを下さいな」
「お! ねぇちゃんお目が高いねぇ。こいつぁハーヴェン=フスで一、二を争う職人が作ったもんだで、中々手にはいらねぇんだわ。だからよ、ちょいと値が張るんだが良いかね?」
「えぇ、構いませんわ」
クロエが笑顔を浮かべると小船の主は欠けた前歯を見せて笑った。下品な笑い、確実にぼったくられると確信したが〈葵屋〉の場所がわからない限りはなにも始まらない。クロエが買おうとしているのは小さな髪飾りだ、意匠は凝っているものではあるがそう高いものではないはずだった。
「こいつぁ四〇〇セールになるが、良いかねねぇちゃん?」
これには思わず驚きの声を上げそうになった、四〇〇セールといえば今回の報酬とほぼ同額だ。しかし、それを何とか堪えて笑顔を形作る。これも元々は娼婦として働いていたからこそなせる技だろう。そうでなければきっと顔に出ていた。
「どうしたねぇちゃん? 買うんか、買わんのか?」
小船の姿勢を崩さぬよう、ゆっくりと商人は近寄ってくる。彼としてはクロエに髪飾りを売りたいのだろう。明らかに値段はぼったくりといえるもので、〈葵屋〉の場所を教えてもらうのに四〇〇もの金額を出すことは出来ない。
かといって他の商人や店に尋ねたところでぼったくられるのは同じだろうし、道行く一般人達はソーマの言っていたように言葉が通じない可能性があった。根気よく尋ね続ければいつかは言葉の通じる親切な人に出会うこともあるだろう。とはいえ出来るだけ早く〈葵屋〉に着いておきたい。あまり遅くなれば依頼人に迷惑を掛けることになる。
そしてクロエは決めた。
「じゃあそれを下さいな」
柔和な声でそう言うと商人は目を皿のように大きく見開いた。髪飾りに四〇〇も出すとは思いもしなかったのだろう。もしかすると値切り交渉を前提に出した価格だった可能性もあった。
だとすると損をしたのかもしれないが、クロエは髪飾りの意匠が気に入っていたところもあったし、実際にそれを髪に付けたら素敵だろうとも思う。それに元々この依頼を受けたのはイロウ=キーグに興味があったからで、報酬を目当てにはしていない。早速、金貨を取り出して小船に乗る商人に向けて差し出すが彼は動きを止めたままだ。
「どうしました? 早く髪飾りを下さいな」
「あ、あぁ……ちゃんと受け取ってくれなねぇちゃん」
そう言いながら商人はクロエに髪飾りを渡しながら金貨を受け取ろうとする、その手は震えていた。二人の間に流れている水の中に彼が髪飾りを落としてしまわないか不安になったが、幸いなことに髪飾りはちゃんとクロエの手に届く。早速、それを髪に付けた。
「似合いますか?」
「あ、あぁ。どえりゃ別嬪さんにみえるだで」
「それじゃ〈葵屋〉の場所を教えてくれますか?」
場所を尋ねると商人は顔を俯けながらクロエの背後を指差した。後ろを振り向くとソーマが立っており、彼の背後には一軒の宿屋がある。といってもこの通りには宿屋ばかりがならんでいるため、どこの宿屋を示しているのかいまいちはっきりとしない。
「あの、どれが〈葵屋〉なのかわからないんですが。私たち東の字が読めないもので」
「一軒だけ紺色の幟を出しとる店があるだぁ、そこが〈葵屋〉。あとねぇちゃん、その髪飾り交換させてもらっても良いかね?」
「え、何故です?」
「あんたみてぇに、人を疑いもしねぇ人間をだますのは気が引けただけだぁ。その髪飾りはぁよ、確かに一流の職人が作ったもんだとも。けんどその意匠には模倣だでよ、元があんのさ。その元のやつをあんたに売る、元のやつんだら本当に四〇〇セールの価値があるかんなぁ」
言いながら商人は漆塗りの小箱を取り出して蓋を開けた。中には紫色をした絹の布に包まれた髪飾りがある。箱の中の髪飾りは今しがたクロエが髪に付けたものと全く同じだが、違和感があった。ただ言葉に出来ない曖昧なものではあったが。
商人は何もいわず小箱からその髪飾りを取り出すとクロエに差し出してきた。仕方がないのでクロエは髪飾りを外し、買った髪飾りと小箱の髪飾りを交換する。手にした時に分かったことだが、小箱の中に入っていた髪飾りは魔力が込められていた。
思わず表情に出てしまったのか、今まで温厚そうに見えた商人だったが急に顔つきが変わる。
「そいつはよ、術師がお守りとして作ったもんだ。おらが持っててもしょうがねぇ、見たところねぇちゃんもお付の御仁も傭兵みてぇだかんなぁ。きっと役に立つと思う、そいじゃおらはここらで失礼させてもらうべ」
クロエはどういった術が髪飾りに付加されているのか聞きたかったが、それを聞くよりも早く商人は櫂を操って水路の流れに船を乗せて去ってしまった。後に残されたクロエはしばらく髪飾りをじっと見ていたが、それで何かがわかるわけでもない。
意匠は素敵なものだし、付けていても害はないだろう。そう考えてクロエは髪飾りを身に付けた。〈葵屋〉の場所もわかったことだし、これで依頼人と会えるだろうと思いながら後ろを振り返るとソーマが酷く申し訳無さそうな顔をしている。
「どうされましたか?」
「いや、君だけに出させてしまったのが悪いような気がしてな」
「別に構いませんよ。この髪飾りの衣装、私気に入りましたから」
すまなさそうに後頭部に手をやるソーマをみながら、クロエは笑いながら〈葵屋〉へと向かう。木に厚手の紙を張り付けただけの簡素な横開きの扉を開ける。中は静かで物音一つしなかった。
とりあえず玄関へと入ると建物内部の作り自体もネアトリアのものと大きく異なっていることが分かる。それぞれの部屋の扉も紙が張られており、もし内側で明かりを灯せば影が大きく映し出されることだろう。それにネアトリアの建造物と比べると木のにおいが強いような気がした。
クロエの後に続いて中に入ってきたソーマも人の気配のなさに不自然さを感じたようである。それとなく剣の柄に手が伸びていた。クロエも手にしている棍を握る手に力を込める。
普通の宿屋ならばここまで警戒はしなかったろう。しかし、イロウ=キーグがここにいるとなれば話は別だ。心臓の鼓動が高鳴っていく中、奥の方から慌しそうな足音が近づいてくる。
ソーマが剣の柄を握った、クロエも足の位置を変えていつでも棍を繰り出せるよう姿勢を整えた。だが、そんな必要はおろか心配することもなかったのだ。
奥からやってきたのは三〇代前半と思われる女性。東国の衣装に身を包んでおり、長い髪を頭の上で結い結んでいた。その女性はソーマとクロエの姿を見るなり膝を付いて深々と頭を下げる。
「これはこれはお客様、お越しになられたことに気付きませんで申し訳ありません。ですが、今日は予約でいっぱいになってしまっておりまして」
胸中でほっと溜息を付きながら棍に込めていた力を緩める。ソーマも同じ気持ちだろう、彼もまた剣の柄から手を放していた。
「私たちはイロウ=キーグという方に呼ばれて参ったのだが、そのようなお客はここにいるだろうか?」
ソーマが尋ねると女性は「あぁ、それでしたら」と言いながら立ち上がり、身振りで二人に中に入るように薦めてきた。足元にある段差に注意しながら中に入ろうとしたら、何故か女性はそれを止めてくる。
「すみませんが、履物はそちらの箱に入れてもらえませんでしょうか? うちは故郷そのままの様式を取り入れてますので、土足厳禁とさせていただいているのですよ」
女性の視線の先を追うと仕切りで区切られた四角い箱があった。そこには幾つもの履物が並べられている。その多くは藁で編んだサンダルのようなものばかりで、一般的に多く履かれている木靴や革靴の類はほとんどと言って良いほど見られない。
違う文化圏に接する場合は摩擦を防ぐためにも相手方の文化に接する方が良いだろう、そう考えてクロエもソーマも女性に促されるままに脱いだ靴を靴箱へと収めた。そして気になったのが武器のことである。
ネアトリアでは傭兵は一般的な職業として認められており、一般人が武器を携帯していようと咎められることは無い。だがハーヴェン=フスではどうだろうか。この都市もネアトリアの統治下にあるわけだが、東国の文化が支配しているように見受けられる。
もしかしたらネアトリアでは法律上認められていることでも、ここでは例外にされている可能性もあるのだ。そこで、武器の携帯が認められるのかどうかを尋ねてみたところ女性は快い返事をくれた。
「えぇ構いませんよ。私どもの国でもそうでしたし」
どうやらネアトリアだけでなく、海を越えた向こうにも傭兵の職はあるのかもしれない。海を隔てた違う文化圏でも自分たちの文化と多少なりとも似通ったところがあると分かれば不思議な親近感が湧いてきた。
女性の後に続いて建物の奥へ奥へと進んでいく。中々奥行きがあるらしく、一向に部屋へたどり着く気配がない。一体、どこまで進ませるのだろうかと思えば女性は立ち止まり「あちらの離れです」と言った。
たどり着いた先はおそらくは母屋の一番奥だろう、そこから渡り廊下が伸びており離れへと続いている。イロウ=キーグはそこにいるという。渡り廊下はそれなりに長く、離れで余程大きな声を出さない限りは母屋に聞こえないと思われた。
ということはイロウ=キーグは内密の話をしたいということである。依頼内容はただの護衛のようであったが、どうやらそうでないことがここに来て明らかになった。クロエは呼吸を整えて気持ちを引き締める。
ソーマもそれは同じようで、険しい顔つきになっていた。
/4
エルザ、クラウディオ、ストラスの三人は〈鷺屋〉という宿屋に部屋を取っていた。この宿はハーヴェン=フスの中でかなり上質の宿ということだが、エルザはいまいち気に入らない。なにが気に入らないのかといえば、床に敷かれているタタミというなにやら藁を編んで作られたと思われるものが今ひとつ好きになれなかった。
東国ではこのタタミの上に直に座るらしいのか、椅子の類は部屋の中に一切存在しない。文化の違いだから仕方が無いといえば仕方がないのだが、こうも落ち着かない気分にさせられるのならばもう少し出発を遅らせてネアトリア式の宿屋を探せばよかったと後悔させられる。
「不機嫌そうですねエルザさん」
そう言ったのはクラウディオだ。エルザも、そしてストラスもどこか落ち着かないのに対してクラウディオは寛いでいる様子である。脚の短い机に肘を付いて茶を啜っていた。
「相手は我が祖と繋がりがあり、そして我らが国の建国にも携わった魔術師……いや、正直に邪神というべきだな。そんなものが相手だ、落ち着くわけが無い。それにこの床に敷かれている草の編み物が気に入らん」
「畳がそんなに気に入りませんか? 私は結構気に入ってるんですがね」
「本当に変わり者だなお前は」
クラウディオは屈託のない笑みを浮かべる。彼の本質は騎士ではなく科学者であり探求者だ。異文化と接するのは彼にとってはこの上ない悦びなのであろう。しかし、これから相対すべきもの達のことを考えるとクラウディオの笑みが場にそぐわないものに思えて仕方がない。
かといって叱責するつもりはエルザにはなかった。クラウディオは、というよりもフェーエンベルガー家の全員に言えることだが彼らは常に科学者を、探求者を志していたのだ。しかし、建国に携わった英傑の子孫というだけでその道を挫かれ続けている。ある意味で呪われた家系であるといえよう。
そう考えるとエルザの生まれたウォルミス家もまた呪われているのかもしれない。ウォルミスの家に生まれた人間は必ず金の瞳と、耳の後ろに角にしか見えない突起物を持って生まれてくる。それらは明らかに人間の持つべき特徴ではなかった。
飛竜の血が流れているからそうなるのだ、と言われてもエルザには納得できないところがある。ウォルミス家の持つ特徴のせいで、エルザはどうしても自分がクラウディオやストラス達と違うものではないのかと思ってしまうのだ。
もしかすると心のどこかでオラウスやイロウ=キーグを憎んでいるのかもしれない。でなければハーヴェン=フスに来ることを決めていなかっただろう。
今しがた入ってきた諜報担当の騎士からの報告に寄れば、イロウ=キーグらしき人物はみすぼらしい一人の男を連れていたらしい。恐らくは生贄にするものと思われる。ストラスの報告と剣の森から帰還した傭兵、クロエとソーマの話を合わせて考えればイロウ=キーグの目的はただ一つだということは既に分かっていた。
キャスティンによって次元の狭間に閉じ込められたオラウスを救い出す。それこそがイロウ=キーグの目的であろう。オラウスは騎士団に協力する素振りを見せはしないが、ネアトリアに対して敵対姿勢を取っている真実の教団支部を壊滅させたことなどを考えると、少なくともオラウスはネアトリアに対して悪いことはしないはずだ。
というよりも、ネアトリア建国に携わり剣王ヨアキム一世の友でもあり自らの祖であるオラウスがネアトリアに害となるようなことをするとはエルザ自身が思いたくなかった。
会話が止まり、部屋の中には重たい空気が流れ始める。エルザは座り心地の悪さを解消するためにも何度か態勢を変え、クラウディオは茶を啜りながら片手でタタミの感触を楽しんでいるようだった。
ストラスはといえばイリジアの槍以外にも持参してきた自らの剣を入念に磨いている。その目は真剣そのものであり、必ず戦いが起こると確信しているようにも見えた。
溜息を付きたい気分だったが、エルザは国王直属部隊の指揮官なのである。クラウディオやストラスは同じ御三家ということもあり、幼い頃からの付き合いもあるのだがそのような姿は見せたくなかった。
「なぁクラウディオ。イロウ=キーグはどこで儀式を行うか分かるか?」
沈黙を破ってエルザが尋ねると、彼はユノミと呼ばれる茶の入っていた器を静かに机の上に置いた。そして顎に手を当てて僅かに顔を俯ける。
「情報が入ってきてないんですか?」
ストラスが聞くとクラウディオは顎に手を当てたまま頷いた。諜報活動を行っている騎士との接触は全てクラウディオに一任しているため、どのような情報が入ってきていたのか全ては知らない。何故ならクラウディオが二人に伝える前に取捨選択を行っているのは確実であるからだ。
「一応、可能性のありそうな場所はあるんですよ。少しいったところに大樹の生えた丘がありましたでしょう?」
「あぁ、あったな」
「あそこ、誰かの墓らしいんですよ。ハーヴェン=フスで魔術儀式を執り行うならそこが一番だと思うのですが……」
何故かそこでクラウディオは言い淀む。
「何かあるんですか?」
ストラスの問いにクラウディオはまた頷いた。
「どういったものが仕掛けられているのか見当は付きませんが、諜報活動を行っている騎士からの話によりますとね、あそこで暴れるようなことをしたものは皆闇に呑まれるというのですよ」
その言葉にエルザは思わず失笑してしまった。何故ならイロウ=キーグは闇に呑まれることなど恐れはしない。イロウ=キーグ自身が闇であり、一種の混沌である。そのような存在が闇を恐れるはずがない。
「笑い事ではないですよエルザさん。騎士は闇と言っていましたが、本当に闇かどうかは裏づけがとれていないんですから。邪神にだって恐れるものはあります、例えば――」
クラウディオの視線が壁に立てかけられているイリジアの槍へと向いた。
「あの槍なんかが良い例でしょう。エルザさんが夢の中で授けられたという魔を断つ刃の術も、おそらく彼らは恐れるはずです。それらは旧き神が創ったものですからね。彼ら邪悪なるものと対抗できるのは旧き神。もしその闇が旧き神のものだとすれば?」
「イロウ=キーグは近づきもしませんね」
「そうです、ストラス君の言うとおり」
「ではどこになると思うんだクラウディオ?」
「分かりません」
言いながら彼は両腕を大きく広げると、そのまま後ろに倒れこんだ。本当にお手上げ状態らしい。倒れたままの姿勢でクラウディオは言葉を続ける「けれど、全く見当が無いというわけでもないはずなんです」
そしてクラウディオは起き上がり、真剣な眼差しをエルザへと向けた。
「相手はイロウ=キーグです、妙に芝居がかったことを好むことは文献に記されている通り。予想でしかありませんが、彼は私たちが来ることを知っているはず。というよりも望んでいるはずです。必ず私たちの目に付くところで行動を起す、私はそう考えています」
「そういえばそんなことが建国戦争回想録にも書いてありましたね」
「ストラスもクラウディオの意見に同意か。実を言うと私もそう思っている、ネアトリア建国記、建国戦争回想録、ワグニムス日記・一巻、どれを読んでもイロウ=キーグに関することは共通しているからな。やつが派手好みなのは間違いなかろう」
そうなってくると御三家の三人がとれる行動は一つとなる。装備を整えて待つしかない。
イロウ=キーグが三〇〇年前と変わりなく、芝居じみた大げさな行動を取るとするのならば必ず諜報部員達が動向を知らせてくるだろう。その時に初めてエルザ達三人は動くことができるのだ。
「結局は待つしかないということか……」
エルザが小さく呟くとクラウディオは「そうですね」と言いながらまた茶を啜り始める。手の平で踊らされている、唐突ではあるがそのような感覚にエルザは襲われた。
/5
〈葵屋〉の離れの中にいた人物は二人。二人とも男だった。
一人は明らかに下層出身者であると思われ、襤褸切れとしか思えないような服を着込んでいる。ただ、どこかで湯浴みでもしたのか髪型は整えられており、垢に塗れたような肌をしてはいなかった。
そしてもう一人は黄衣を纏った青年。彼が着ている服は紛れもなくイロウ=キーグの着ていたものと同じであり、一瞬ではあるがクロエは彼がイロウ=キーグだと思いそうになった。
しかし、イロウ=キーグは木乃伊のような手をしており顔は蒼白の仮面で隠してはいたが、手が木乃伊であれば全身がそうなのだろう。だがここにいる青年は銀髪でありきめ細やかな白い肌をしている。手を見れば手袋はしておらず、貴族のような綺麗な手をしていた。
「失礼だが、イロウ=キーグ殿はどちらにおられるのだろうか?」
ソーマが離れの二人に尋ねると、黄衣の青年が「私ですよ」と柔和な笑みを浮かべて答えた。どことなくその笑顔に邪悪なものを感じはするものの、人の良さそうな笑顔である。剣の森で会ったイロウ=キーグとは似ても似つかない。
「本当に貴方がイロウ=キーグなのか?」
「そうですよ、私がイロウ=キーグです。以前は仮面を付けていたのでわからなかったかもしれませんが、これが人としての私の素顔です」
青年の声はイロウ=キーグと同じものである。となれば彼が本当にイロウ=キーグなのだろうが、クロエは信じることができそうにない。ソーマもそれは同じようであり、眉間に皺を寄せていた。
「証拠はあるのですか? できれば見せていただきたいのですが」
クロエの言葉にイロウ=キーグを名乗る青年は「やれやれ」、と言いながら面倒くさそうに立ち上がり手の平に二人の前に突き出した。何の変哲も無い手の平だが、それが一瞬にして水分を失い木の枝のような木乃伊の手に変わる。
その手は以前見た手袋を外した時のイロウ=キーグの手だった。突然の出来事に唖然としていたが、変化はそれだけではない。いつの間に付けたのか、イロウ=キーグと名乗る青年はフードを目深に被っており蒼白の仮面を見に付けていた。仮面の奥から爛々とした瞳が二人を見ている。その輝きは紛れも無く、以前会ったことのあるイロウ=キーグのものであった。
「本当、でしたのね……」
「信じていただければ結構ですよ」
イロウ=キーグは背を向けて部屋の隅へと移動し、座った。その時にはもう容姿の整った銀髪の青年の姿になっている。いつの間に姿を変えたのかクロエには分からなかった。しかし、こうも不可思議なことを立て続けに経験するとこのぐらいのことでは驚かないものだ。
ソーマもクロエもイロウ=キーグが瞬時に姿を変えたことにはどうとも思わなくなっていたが、部屋にいるもう一人の男。襤褸を纏った下層の男は明らかに怯えている様子である。そういえば何故この男はイロウ=キーグと共にこの離れにいたのだろうか。
「あの、こちらの男性はなぜここにいるのです?」
クロエはイロウ=キーグに尋ねてみたが、彼はその質問には答えなかった。答えたくないのか、答える必要を感じなかったのか、彼がどのような理由で答えなかったのかはまったく見当が付かない。
だが質問に答える代わりに、イロウ=キーグは部屋の片隅に置いていた大きな袋から二つの品物を取り出した。一つは対になっている剣だった、鞘に収められてはいたがその形からソーマが使用しているものと同じく切っ先が取り払われていることが分かる。柄には連結具らしきものが付いていた。
もう一つは棍である。長さも太さもクロエが使用しているものと同じだったが、材質が違っていた。クロエの使っているものは標準的な棍がそうであるように木製であるが、イロウ=キーグが取り出したのは金属性である。
表面には文字が刻まれていた、読むことは出来なかったが何らかの魔術言語であることだけは分かった。少なくともテオドラス式のものではない。
「これは貴方達への贈り物です。報酬が少ないと思いましたので、別にこれらを用意させていただきました。遠慮なく受け取ってください」
彼が何故こんなものを用意したのか、そしてどうやって用意したのか疑問に思ったが以前にイロウ=キーグは「可能な限りの施しを用意する」と言っていた。もしかするとこの品がその施しなのかもしれない。
クロエは躊躇うことなくイロウ=キーグに近づき、彼の手から金属製の棍を受け取った。かなりの重量があると思っていたのだが意外なほど軽く、今使っている木製の棍と重さは変わらない。中身が中空なのだろうか、だとすると困る。
「あの……これ軽いんですけれど?」
「軽いのはご不満ですか?」
「いえそういうわけではありません。ですがこう軽いと、質の方が気になりまして」
「あぁ、質ですか!」
何かに気付いたかのようにイロウ=キーグは両手をぽんと叩いた。
「そのことに付いてはご安心くださいクロエさん。それが軽いのは見ての通り、一種の魔術を施してあるから軽いのですよ。本当ならそれはもっと重たいものですが、重量があると使いづらいだろうと思いましたので魔術を付与させていただきました。さっ、ソーマさんも剣を受け取ってください」
イロウ=キーグに手招きされて、しぶしぶとソーマは剣を受け取りその柄を握り締めた。そのまま鞘から剣を抜き放って見聞するだろう、クロエはそう思ったのだがソーマは柄を握ったまま手を止めて視線だけをイロウ=キーグへと向ける。
「何をしたのか尋ねても良いだろうか?」
「クロエさんに渡したものと同じことですよ」
黙ったままソーマは剣を抜き放った。やはりソーマの剣と同じく、イロウ=キーグが彼に渡した剣も切っ先が無く長方形の板のように見える。そしてクロエの棍と同じく、ソーマに渡された剣にも魔術言語らしき言葉が剣身にびっしりと刻まれていた。
それをじっくりと眺めた後ソーマは剣を鞘に収める。彼には何が書かれていたのかその意味が分かったのだろうか。聞いてみたいところではあったが、今のこの場で聞くのは躊躇われた。
「渡すものも渡したことですし、お二人に頼みたいことについてのお話に参りましょうか」
「ちょっと待って欲しい。私はこの男について聞きたい」
ソーマは鋭い視線を襤褸を纏った男へと向けた。彼はソーマの眼力に恐れおののいたのか、僅かに体を震わせながら後退していく。どうもソーマは襤褸の男を警戒しているらしい。クロエも彼のことが気になって仕方が無かった。
イロウ=キーグが出していた依頼文には、魔術儀式を行う間邪魔が入らないように護衛してくれ、とあっただけであり他に同行者がいることは記されていなかったのだ。何かの考えがあるからこそイロウ=キーグは彼を連れてきたのだろうが、その考えは知りたいところである。
クロエからは切り出しづらかったので、ソーマが尋ねてくれたことに対し胸中で礼を述べた。
「その男ですか。魔術儀式に必要なものですよ、ですので一応……護衛対象ということになるのでしょうか」
「人ではなく、ものですか」
意識せずにしたクロエの呟きだったが、それを聞いた男は途端に血相を変えた。ついさっきまで血色の良かった顔から、どんどん血の気が引いていき青ざめていく。自分が何をされるか気付いたらしい。
可哀想に、と思うところもあるが己の責任だとも思う。おそらく彼の出身はムール=フスか、そこでなくともどこかの大都市外縁部に存在する貧民街だろう。大方、イロウ=キーグの甘い言葉に誘われて付いてきたのだろうが、それは彼自身が選んだことだ。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ旦那! あんたもしかしてオレのこと!」
冷淡な瞳でイロウ=キーグは男を見ていた。その目つきはどう考えても人間を見る目ではない、明らかに物を見る目つきだ。おそらく、最初からイロウ=キーグは彼を人間としてではなく物として扱っていたに違いない。だが、男の方がそれに気付かなかったのだろう。
男は急に恐慌をきたし、わけのわからないことをわめき始めたがこの場に彼の言葉に耳を貸そうとするものはいない。彼は推測ではあるがイロウ=キーグの行う魔術儀式に供される生贄なのだろう。そうでなければ高級そうな離れにこんなみすぼらしい男を連れてくるわけが無い。
「これも守った方がよろしいでしょうか?」
既に守るべきものであると聞かされてはいたが、クロエはあえて彼の事を“もの”と口にすることによって彼を人間扱いするのをやめようと試みた。イロウ=キーグはそれに気付いたのか意地悪そうな微笑を浮かべる。
「えぇ、そうです。クロエさん、ソーマさん、ぜひそれを守ってくださいな。といっても守りが必要になる頃にはそれは使い終わった後でしょうが」
「わかりました」
ソーマはどこか軽蔑するような目でクロエを見ていたが意に介さなかった。クロエの考えでは彼は好き好んでこの状況に身を置いたと思っている。彼が生贄となったのは彼の責任だ。
とはいえ、一応は人間である。どうしても憐憫の情が湧きそうになってしまうが割り切ってしまうほうがいい。そっちの方が楽にいられる。とはいえ、ソーマはクロエほど割り切ってはいないようで複雑な表情を浮かべていた。割り切ってしまえば楽なのに、クロエはそう思ったが口にはださない。
「お、おい! あんたらオレを助けようという気はないのかよ!?」
彼はクロエとイロウ=キーグの二人が既に彼をモノ扱いしていることを悟り、ソーマへと泣きついた。ちょうどそれがクロエに対して背中を向ける形になっている。ソーマは指示を求めてかイロウ=キーグに視線をやっていたが彼は楽しそうにその光景を眺めているだけだった。
仕方なくクロエは貰ったばかりの金属製の棍で彼の後頭部を打ち据える。綺麗にみすぼらしい男の意識は刈り取られ、彼は静かにその場に倒れた。「結構なお手前で」そう言いながらイロウ=キーグは賞賛の拍手を送ったが、嬉しいと思えない。
どうにもイロウ=キーグはクロエがこの男をモノとして扱ったことを嬉しく思っているようである。彼の正体がなんであるかは分からないが、少なくとも常人の尺度で物事を測っているわけでは無さそうだ。キチガイと言っても良かった。もっとも、それは彼が人間だったとしたら、という仮定の上に基づいている。
ソーマがどこか疲れたように腰を下ろし、クロエも腰を下ろした。イロウ=キーグは微笑を浮かべたまま倒れている男に視線をやっている。何を考えているのか気になるところではあったが、どうせはぐらかされるか理解不能な答えが返ってくるだろうと思い尋ねることはやめにした。
イロウ=キーグは依頼の詳細について話し出す様子が一切無く、ソーマにも依頼について切り出しそうな気配は見えない。クロエはといえば、気を失っている男のことで気がめいってしまって依頼のことを聞こうとも思わなかった。必要な時になればイロウ=キーグが話すだろうと考えていたせいもある。
そしてそのまま時は過ぎていった。ソーマは俯きながら腕を組んで考え事にふけっているようであり、イロウ=キーグは未だ気を失っている男を見ながら指を回している。その行為に何か意味があるのだろうか、それとも無いのだろうか。
もし、彼が普通の人間ならばそんなことを気にもしなかったのだろう。しかし、イロウ=キーグは普通の人間ではない。見たことも聞いたこともない高度な魔術を操ってみせるのだ、彼のちょっとした行動でも何らかの意図があるのではないかと勘繰ってしまう。
それはソーマも同じようで、よくよく注意してみれば彼は俯いて考え事をしているように見えるが、イロウ=キーグの動作を注視していた。どうしてもイロウ=キーグの行動が気になってしまうらしい。
日が暮れかけた頃になってイロウ=キーグは「さて」と言いながら立ち上がった。クロエに打ち据えられた男は未だ目を覚まさない。金属の棍で後頭部を強く打ったものだから、もしかしたらこのまま死んでしまったのではないだろうかという不安に襲われた。これはイロウ=キーグが行おうとしている魔術儀式に必要なものなのである、もしそれが必要な生命を失ってしまったとしたら。
色々な考えがクロエの頭の中を駆け巡ろうとしたが、それより早くイロウ=キーグは男を蹴りつける。それで気が付いたのか、うめき声を漏らしながら男は目を覚ましてゆっくりと立ち上がろうとしながら辺りを見渡した。
そして自らの置かれた状況を再確認し、再び恐慌に陥りそうになったがイロウ=キーグの手がそっと彼の頬に触れると男は白目を向いて再び倒れてしまう。
「やれやれ、手の掛かる生贄だ。ソーマさん、すみませんが彼を運んでもらえませんか」
「分かった」
短く応えてソーマは彼を肩に担いだ。いかにもな襤褸切れを身に纏っているせいか、こうやって担がれている場面を目にしてみると本当にもののようにしか見えなくなっていた。それとも彼をもの、とあえて口にしたからか。
なんにせよクロエにとってこの男は既に人間ではなく、イロウ=キーグの魔術儀式に必要なただのものとなっている。
「これからどこに向かうのですか?」
「桟橋ですよ」
「桟橋?」
クロエが尋ねると彼は「えぇ」と言って深く頷いた。桟橋に何があるというのだろうか。魔術儀式を行うというのだからてっきり寺院のような場所、祭壇のあるような場所に向かうのだとばかり思っていた。
「そこになにがあるのです?」
「海ですよ」
「海?」
これには首を傾げざるを得ない。彼は一体何をしようとしているのかまったく見当が付かなかった。ソーマが視線で「これ以上尋ねるのはやめろ」と言ってきたが、クロエには気になって仕方が無い。
「何故海が必要なのです?」
「海でなくても良いんですけどね、要は袋小路になってる場所だったらどこでも良いんです。ただ、周りが海に囲まれている方が広々としていて良いだろうと思いましてね」
「はぁ……」
やはりイロウ=キーグの言っていることはよくわからない。しかし、彼が依頼主である以上は彼の意に従うほか無かった。
/6
夕刻ごろになった時、僅かに開けておいた窓から一枚の折りたたまれた紙片が部屋の中に舞い込んできた。それをクラウディオは指で挟みこむと早速広げ「ふむふむ」と言いながら読み始める。
「情報が入ってきたのか?」
「えぇ、今一人が尾行している途中とのことです。何でも港の方に向かっているとか。イロウ=キーグは青年の姿をとっており、二人の傭兵と一人の貧困者らしい男を連れているとのことです。傭兵の特徴は、一人が男で二刀流。もう一人が女で棍を武器にしているとのことです」
「棍か……」
エルザの脳裏に二人の女性が浮かんでくる。以前、キャスティンから盗まれた魔術書を奪い返す時に雇った傭兵だ。一人はクロエ、もう一人はクレスという女である。二人とも棍を得物としており中々の手練だった。
「女の方の特徴は分かるか?」
「金の長髪、としか書かれていませんね。何か気になることでもあるので?」
「もしかすると厄介な奴かもしれんぞ」
「エルザさんが厄介というところ、始めてみましたよ」
ストラスが冗談交じりに笑いながら言ってみせたが、決して笑い事ではなかった。
「以前、金の長髪で棍を武器にした傭兵を雇ったことがある。そいつの魔術は水を沸騰させるというものだ、直に手で触れる必要があるということだったが……もし、そいつに触れられたらどうなると思う?」
しばしの間、誰も口を開かなかった。頭の中でそれぞれどうなるかを思い浮かべているのだろう。クラウディオはどこか楽しそうな目つきをしている、この男の悪い癖である。決して騎士として劣っているところは無いのだが、この好奇心の強さは問題だ。
大方、どうなるのか幾つもの状況を想定して色々と想像をたくましくしているのだろう。
一方、ストラスはといえば顔を青ざめさせていた。クロエに触れられるということがどのような結果を生むのか即座に理解したらしい。
「そういうことだ、絶対に触れられるなよ」
「分かりました」
ストラスは小さく呟いたが、クラウディオは対照的に「面白そうな方ですね」と笑いながら言ってみせた。大方、どんな魔術なのか実際にその目で見てみたいのだろう。
「ですが、今回はその魔術を見られないのが実に残念です」
「肉体が爆裂する瞬間など二度と見たくない」
言いながらエルザは立ち上がった。それだけで出立の合図となり、クラウディオとストラスもそれぞれの得物を持って立ち上がる。ストラスの武器は腰に刷いた長剣と、フェトゥン家に代々伝わるイリジアの槍。
そしてクラウディオの武器はといえば、腰の長剣と四丁の銃だった。銃は新式のものではなく、確実性を重視して火縄式のものである。新式の銃の作動率は九割を越してはいるが、それでもまだ一〇回に一回は不発が起きる場合があった。火縄を使うと臭いで感づかれてしまうが、銃は一度撃てばその音で居場所がばれるのだから関係が無い。
〈鷺屋〉を後にし、三人は港湾部へと向かう。簡素な鎧を身に纏ったネアトリアの正式な騎士が歩くのはハーヴェン=フスでは異様な光景らしい。すれ違う人々は皆三人へと視線を向けて、少し距離が開いたと思えば異国の言語でひそひそと話を始める。
ストラスとクラウディオの二人は会話の内容が気になるようで、それとなく聞き耳を立てていたようだったがエルザは気にならなかった。彼らが何を話していようとこれから三人がすることに関知されることが無ければ問題は無い。
〈鷺屋〉のある場所は港湾部からは遠いところに位置しており、〈鷺屋〉の周辺には人通りが少なかったのだが港に向かうに連れて往来が多くなっていく。さすがは港湾都市といったところか。
港に近づいていくに連れて人種もネアトリアの人間よりも東国の人間が多くなり始め、聞こえてくる言葉の多くはネアトリアのものではなくなり始めた。建物の作りもネアトリアのものとは違い、店の看板や幟に書かれている文字も東国のものである。
エルザは東国の言語に興味は無いのでなんと書かれているのか分からないが、異国の文化にも造詣のあるクラウディオはそうでもないようで視線をいたるところに向けながら歩いていた。ストラスはといえば完全な異国の雰囲気に飲まれており緊張しているようである。
二人とも困ったものだ、エルザはそう思うが何も感じようとしない自分はどうなのだろうとも思う。きっと、これが仕事ではなく休暇でこの都市に来ていたのならばクラウディオのように様々なものに興味を示したり、ストラスのように緊張していたかもしれない。
しかし、ハーヴェン=フスに来たのは仕事であり遊山のためではない。どうせなら仕事を早々に片付けて休暇にこの都市を訪れてみたいとは思う。だが、今日の仕事を片付けたとしても根本であるイロウ=キーグをどうにかしないと休暇はやってこない。
それにイロウ=キーグをどうにかしたとしても、まだ真実の教団の問題がある。そちらも片付けないことには御三家に安息の日々は訪れない。もっとも、それも片付けたら片付けたで新たな問題が浮上してくるだろうから、休めるような日が来ることはしばらくないだろう。
内心で溜息を吐きながら歩いていると潮の匂いが強くなり始めていることに気付いた。港はもうすぐそこだろう。日が沈み始め、酒場が賑わうだろう時間帯になり始めたが不思議と港へ近づくに連れて人の気配が少なくなり始めた。
こういう港街の場合、船員を主な客層とした酒場が港にほど近いところにあり、往々にして日が沈みだした時に賑わう傾向にある。だというのにこの街は違った。酒場が無いというわけでは決して無い。
東国の字が読めないエルザではあるが、雰囲気で酒を取り扱っている店かどうかぐらいは分かる。酒場は確かに存在している、中に客もいるのは気配で分かっていた。だというのに往来に賑わいは無い。
「そろそろ準備しますか?」
クラウディオが提案してきたがエルザは首を振った。まだイロウ=キーグは見つかっていない、射手としてクラウディオを隠すのはまだ早いだろう。そんな時にまたひらひらと折りたたまれた紙がクラウディオの元へと飛んできた。
早速それを受け取って読んだクラウディオは、読み終えるとすぐに紙を丸めてストラスへと投げて寄越す。彼が何を求めているのかすぐに察したストラスは紙を手におさめると、自身の魔術で即座にばらばらに切り裂いた。
「場所はどこだ?」
「このまま真っ直ぐで良いみたいですね。尾行は既に離れたみたいです、魔術儀式の準備は既に始まっているようですから急ぎましょう」
三人ともこれ以上は何も語らずに歩みを速めた。鎧や腰に刷いている剣が音を鳴らし、人気の無い街路に響き渡る。それと足音以外には何も聞こえてはこなかった。往来に人がいないのはイロウ=キーグの気配を察した人々の無意識が成せる業か。
そんなことを考えているうちに港湾部へと達した。どこを見ても人影はない、ただ一つ。桟橋を除いては。その桟橋の一番奥にイロウ=キーグがおり、彼の目の前には魔法陣が描かれていた。その中心に貧困層の出らしいみすぼらしい男が横たえられている。死んでいるのか意識が無いのか、ぴくりとも動こうとはしない。
手で合図を出すとクラウディオは物陰に隠れた。
「投降するよう促してみますか?」
ストラスの提案にエルザは首を振る。魔術儀式は既に始められており、向こうの傭兵も既にこちらの姿を確認しているらしい。剣士のほうは両手に剣を構え、視線をこちらに向けていた。棍を持った女性――予想通り、クロエ・ヴァレリーだった――も既に構えを取っている。
こうなってしまっては投降を促したところで無駄だろう。投降してくれるのがエルザ達三人にとってもっとも楽なことであるし、向こうにとっても生命の危険は生じないのだからそれが最善の道であることは確かだ。しかし、世の中そんなに上手くは動いてくれない。
「やれやれ」と胸中で呟きながら剣を抜き放つ。ストラスも槍を構えた。風が吹き、火縄の臭いが鼻をつく。クラウディオも準備を整えたようだ、向こうも既に体制は整っている。イロウ=キーグは踊るように回りながら呪文を詠唱していた。
やるならば早い方が良い、後方からはクラウディオの銃による支援もある。多少の危険は覚悟のうえでエルザは走り出した、その途端に平衡感覚が失われ姿勢を崩し頭から地面に倒れてしまう。
額を切ったらしく熱い感触がそこにあった。起き上がろうと両手を地面に付けたのだが、何故だか目が回ってしまい起き上がれない。首だけを動かして前を見据える。二人の傭兵は得物を構えたままこちらへと近づこうとはしなかった。
何故だか視界が歪んでいる。異常に気付いたストラスがエルザの側に近づき、小声で「大丈夫ですか?」と尋ねてきたがエルザは首を横に振った。言葉で返そうにも視界がグルグルと回り声が出せない。
しかし、何故ストラスは平気なのだろうか。クラウディオも発砲しないところを見るとエルザと同じ状況におかれてしまっている可能性が高い。そこで一つの可能性が浮かび上がる。おそらくこれは正解だ。
イロウ=キーグは呪文の詠唱に集中している、こちらに何かを仕掛けてくるとは考えづらい。出来たとしても彼の性格上それは行わないだろう。クロエにこのような術は無い。となればただ一つ、二刀流の剣士である。
歪む視界の中、必死に目を凝らして彼の口元を見れば小さく動き続けていた。呪文の詠唱をしているのは間違いない。そのなかでストラスだけが何故、彼の呪文の影響下に無いのかは槍の加護で説明が付く。
視界が揺れ動くせいで吐き気を催すが、何とか視線だけでストラスに合図を送った。気付いてくれるか不安だったが、流石というべきかそれだけで彼は全てに気付いたらしい。槍の構えを変えた。
片手で槍を持ち大きく振りかぶる、気合を込めた掛け声と共にストラスは槍を二刀流の剣士目掛けて投げる。投擲された槍を受け止めるためか剣士は両手に持った剣を眼前で交差させるが、そんなもので魔力の込められたイリジアの槍が止められるはずが無い。
剣は確かにイリジアの槍を受け止めた。そして次の瞬間、硝子が砕けるようにしてその剣身は砕け散り槍の穂先は剣士の腹部を貫き、彼を桟橋へと縫いとめる。剣士の口から血が溢れ出た。
それと共にエルザを襲っていた視界の歪みは無くなり、平衡感覚も戻る。やはりあの剣士が原因だったのだ。切り札の一つは失われたが、まだエルザが旧き神より授けられた術はある。
桟橋へと向かって駆けた。クロエが前に立ちはだかるが、エルザの眼中に彼女の姿は存在しない。背後からの銃声と共にクロエの体がくず折れた。腹に銃弾を貰ったらしく、片手で腹部を押さえながらももう片方の手で棍を握り締め、尚エルザの前に立ちはだかろうとする。
傭兵の矜持というべきものでもあるのか。その覚悟は天晴れというべきものだが、もう彼女に勝機は残されていない。背後からもう一度発砲音。今度はどこに着弾したのか分からなかったが、クロエの体に命中したのは間違いない。彼女は仰向けに桟橋へと倒れた。
走りながらも印を結び、呪文を唱え右腕に無限の熱量を秘めた魔力の塊を作り出す。
イロウ=キーグの名を叫びながら無限熱量を叩き込むべく右腕を突き出した。背中を向けていたイロウ=キーグが振り返る。形を変えぬはずの蒼白の仮面の口元が歪んだ笑みを形作った気がした。
背筋に寒いものが走ったが、止まるわけにいかない。旧き神の授けてくれた術がイロウ=キーグを滅ぼすことを信じ、ただ右腕を突き出す以外にやるべきことは他に無かった。
掌に作り出した無限熱量がイロウ=キーグに触れる、その直前でイロウ=キーグは瞬間移動でもしたのかと思うほどの速さで後ろに下がる。そしてイロウ=キーグのいた場所に門が現れた。エルザの作り出した無限の熱はその門に叩き込まれる。
目を閉じていても瞳を焼こうとするほどの閃光が辺りに放たれ、エルザは術が発動したことをその身で確認してから大きく後ろに跳んだ。閃光が収まった時、門はそこに何事も無かったかのように直立しており、両開きの扉がゆっくりと開き始める。
そこに広がるのは虹色の平面。その中から黒衣と黄色のマントを羽織った一人の男が、一振りの刀を携えてゆっくりと歩み出てきた。それが誰なのかをエルザは見たことがある。本人を見たことはないが、過去、多くの絵師達が彼の姿を絵に描いてきた。
門の中から現れた男、オラウスの持つ金色の瞳がエルザを捉える。そして彼はストラスと、二刀流の剣士に突き刺さっているイリジアの槍を一瞥するとまたエルザに視線を戻した。そして笑顔を浮かべる。父や母が子供に向けるような笑みだった。
何故かは知らないがその表情を見ていると安心してしまい、全身の力が抜けてゆく。オラウスはエルザに近寄り、その頭に手を置くとゆっくりと撫でた。そして笑顔のまま口を開く。
「よくやったな」
「ありがとうございます」
異様な状況下であるのは理解していたのだが、口が勝手に動いていた。そしてオラウスはエルザの頭から手を離すと背中を見せる。今の彼が味方なのか敵なのか、まったく見当はつかない。しかし、エルザは感動を隠せずにいた。
既に人外の、言ってしまえば化け物になってしまっているといっても過言ではないが、ウォルミス家の祖であるオラウスに会うことが出来たのが。どうしても心は昂ぶってしまう。
いつの間にか門は消えうせ、オラウスの背中越しに蒼白の仮面を付けたイロウ=キーグがいた。彼ら二人は申し合わせたわけでもないのに肩を並べて海へと歩き出していく。
「待ってください!」
エルザは手を突き出しながら叫んでいたが、彼ら二人の歩みが止まることは無かった。一歩、また一歩と進むたびに彼らの姿は薄くなっていき、最終的には完全にこの場から消え去ってしまう。どこに行ったのかは、まったく見当が付かない。
後に残されたのはエルザ達御三家と、魔方陣の中心で木乃伊と化している男、イリジアの槍に突き刺され既に事切れている二刀流の剣士、そしてクラウディオに撃たれ、未だにうめき声を上げているクロエ。
状況がどうなっているのかエルザには理解できていなかった。背後から二つの足音が近づいてくるが、エルザの視線はイロウ=キーグとオラウスの二人が消えていった海の向こうへと向けられている。
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