「
環境問題核実験国民紛争テロ……。
中でも国は鼠の異常増加に対する対策を練りあぐねている。
鼠の鳴き声は昼夜問わず耳元を駆け回り、残飯を漁る音、さらには厄介な
伝染病までもがこの国から絶える事は無い。
殺しても殺しても町から溢れるあぶくのように次から次へと現れる。
しかしそうなったのは当たり前の話だ。
長い間戦争に明け暮れたこの地は死体で溢れていた。
血で汚れた大地の上に建てられた城、腐った死体から襤褸を剥ぎ取って
生き残った人々、その死肉を食らい生きてきた鼠。
平和が訪れた事がこの国に今まであっただろうか?
じわじわと、腐った土壌に建ったこの城もきしみ崩れ始めている。
否、建ったその瞬間から崩壊が既に始まっていたのかもしれない。
大勢で復讐する鼠の群れを、一気に殲滅する。
規定以上の火薬を爆弾にこめて。
そもそも規定とは? 条約とは? 倫理とは? 罪とは?
一日に一体、どれくらいの数を?
ただ殺す。
時にまとめて捕らえ見せしめのために町につるされた状態で殺すという。
一体何の意味が?
だけど私の部屋には鼠は来ないし、鳴き声だって聞こえないくらい離れた場所にある。
私はいつものように絵本を取り出し、暖炉の前で温まりながら沢山の
お人形と一緒に童話の世界に夢を投じる。
いつだったか、父が連れて行ってくれたサーカスでは沢山の動物が玉に乗ったり
立ち上がったり火の輪を潜ったりしてとても楽しかった!
芸が成功するかどうか、その時打ち鳴らされる小太鼓や大太鼓、
シンバルのたたき出す音やドキドキ感は今でも心に残っている。
母がいつか私に教えた。
鼠は太鼓や小太鼓の音に合わせて踊るのだと。
太鼓が鳴るといつでも愉快に踊っていると。
世界は毎日パレードなのよと。
その音は私の部屋に、毎日かすかに聞こえる。
タタタン、と音が響くたびに鼠が踊るその様子を一度は私も見たいと思った。
だけど私は一度も両親にそれを見に行くことをせがんだ事は無い。
サーカス、パレード、舞踏会……。
『水が豊富で活気に溢れたこの若い星で、まだ生まれたばかりの陽を見つめて
お姫様はその眩しさに目を瞑りました』
まだ朝は早い。
早く目を覚ましたお姫様はもう一度眠りにつく。
明暗ほどしかわからない、全てが曖昧な夢の世界。
だから、きっとこれも夢。
どんな暑い日でも寒い日でも雨が降っていても
私の世界には色が無い。
母は笑うけど父は笑うけど犬は吼えるけど私には何か
感動を形容出来る言葉が見つからないの。
きっとどれも言葉足らずで伝えたい肝心な事は結局誰にも届かないから。
それは、もしかしたら自分の心にも。
『王子は、魔王をついに退治し、世界に平和が訪れました』
鼠の声は聞こえない。
いいじゃない、鼠、殺すなんてよくないよ。
生き物を殺すことは罪よ。
命を潰すことはわるいこと。
みんな、償え。
誰か一人でも、善意を持って何かと接しようと思えた人は居なかったのか。
でなければ、こんな残酷な方法で皆を陥れるような事なんて
絶対に起こらなかったのに。
『そうして二人は幸せに暮らしました……』
この世界がうそだとしたら。
眠っている私が見せる、長い夢。
そうだとしたら私はまだ、本当の世界がどんな色に満ちているのか
まだ知らない。
目覚めた後の気分も見当がつかない。
目を覚ました後に本当の世界が始まるのか。
霧の晴れたその先の向こう……空の上、そこから伝えてよ。
私がまだ幼く、母もまだ若かったころ、一度だけ鼠を見た事がある。
母はこう言った「鼠が黙るからリンゴを落としなさい」と。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
鼠にかじられる為のリンゴが地面へ落ちていく。
テラスから見下ろす景色はねずみ色。
沢山集まって喧しく何かを叫んで鳴いている。
地面に落ちたリンゴを彼らは食べたのかしら?
色の無い空から降る、真っ赤なリンゴを。
霧掛かって霞んだ、いつもと同じ空。
――こんな年でも鼠の赤ちゃんは沢山生まれたの。
だけど食べたリンゴは全て腐っていて全員死んでしまった。
――親鼠はリンゴを拾った事を後悔し、嘆いた。
そして自分が拾ってしまったその恥辱を噛み締め恨んだ。
チューーーッ ジジジッ。
私は小指を鼠に噛まれた。
そこから滴った色は、今までの世界に無かった色だった。
そう、その時初めて私にも聞こえた! 鼠の声が!
早く目覚めなくては。
目を覚まして、パレードを見に行かなくては!
目覚めた後の世界、世界、新しい、広い世界、美しい世界!
そこには暖かい紅茶があるのか、ケーキがあるのか、美しい景色が、
庭園が、眩しい光が、綺麗な水が、太鼓の音が、血が、襤褸が、鼠が
童話の絵本の紙の匂いが、暖炉の薪が、紅茶が、ケーキが
――回転する。
回転する色。
わからない、ここには何も無い。
知っているのに何も知らない。何も見ていない。
あの戦争と殺戮と罪は本物なのに、私は白痴を気取ってまた
別の現実を信じて夢を見たいのね。
だから世界は私を拒んだ。
だからハーメルンの音は私をそっちに連れて行かなかった。
だから私の世界とあの夢のパレードは歓声を上げてさよならを告げた。
霞んだ青い空と私の庭。
世界は徐々霧に包まれついには色を失っていく。
目を開くとそこには天井の代わりに真っ暗な宇宙があった。
これが、天体、これが星……ここはどこか。
私は自由のきかない小さなカプセルに足を折りたたんだ
胎児のように納められている。
これが罪、これが罰。
パレードの観衆の大歓声とともに私はあの国から打ち上げられ、
それが遠ざかっていくとき、私は本当の意味で戦争も殺戮も罪からも主義や主張、
理想からも無関係になった。
私は宇宙をどれくらいのあいだ漂流したのだろう?
あれから戦争はどうなったのだろうか。
その間に伸びた手足はカプセルにおさまりきれず、もう感覚も失っている。
かすかに動く小指は痛い。
――ヒメはハクチだ
そう、そうよ。
そうやって何も分からない風を装い自分を護ること、
何も学ぶことなど無かったけれど、そこには父も母も
お城も熱いスープも何でもそろっていた。
だけど私にとってはどちらの世界のことも曖昧で、
何かを考えようにもやっぱり分からない。
只一つ、私はこの機械の数字の表示されたパネルの意味を理解した。
機械によれば、後一年間漂流してこの先の銀河に何もなかったら、
私は酸素も無意味に供給される点滴も失って死んでしまうのだ。
……いいえ。
何かがあったとしても、きっと通り過ぎるだけでどこにも辿り着けなどしない。
私の腐った小指からじわり血が滲む。
ただ、ただ苦しい。
カプセルが大きく回転すると私は上下左右を再び失い、この宇宙で今、
上に居るのか下に居るのかもわからなくなる。
生まれる事の無い胎動のように。
ああ、一年後。
私は一人終わる。
真っ暗なこの空間で。
宇宙には音も光も無い。
真っ暗でここは寒い。
長い眠りの間に私の知っている星座はどこにも居なくなっている。
さそり座も北極星も。
今見えるあの赤い星を通過するのは後何日後だろう。
私は、私の死はどこに向かっているんだろう。
小指が痛い。
プシューッ、プスッ。
酸素の消費される音。
シタ、シタ……。
腐り往く私の肉片。
チューーッ、ジジジッ。
機械を動かす「ネズミ」の音。
「鼠」だなんて。
母がお城の外で喧しくしているのはおなかを減らした鼠達だというので
私はテラスの上から鼠のためにリンゴを落とした。
不思議な事に、今でもそれが私の最善の慈悲で倫理なんだから。
「パレード」はついには大きな暴動に変わり私たちの存在は否定され、
王が護り継いで来た国の名前だけが残った。
全てが焼き払われた後、私は処刑法の一つであったこのカプセルに
押し込まれ宇宙へ飛ばされた。
私が聞いたのは、戦争の終わりに歓喜する民衆の歓声ではなく、
象徴の処刑とともに新しい時代を迎える事に対しての歓喜だった。
チューージジッ。
機械は何かにぶつかって破壊されない限り動き続けるから、きっと
私の体は腐った後もこの宇宙を永遠にさ迷う事になるでしょう。
数十年、もしくは数百年以上の間を。
超新星、粒子、ブラックホール……。
宇宙の果てには何が待っているのだろう。
風船のように宇宙は膨張しているという学者の説が正しいのなら
この宇宙もいつしか破裂して消えてしまうのだろうか。
考えても考えても分からない。
私が中心で、私しかこの宇宙には存在しない。
法律も宇宙も秩序も何もかも、拘束される理念も倫理も哲学さえ私は知らない。
だから願う。
願い、あの星から見上げる空を夢見る。
霧の空
もう一度、夢を見よう。
泣いても叫んでも逃げ出すことは出来ない暗くこの孤独な世界から、
私の願いを、悲しみを、きっと届けよう。
辿り着くならまだ青く、若い星がいい。
霧のような空が広がる海には小さな島が浮かび、私はその砂浜で一人踊り続けるの。
長い、長い、一人の時間を。
春が来るなら春雨を浴び、夏が来るなら時雨を浴びる。
太陽があるなら美しい朝に感謝し、月が昇るならその月を愛でよう。
私の贖罪の旅は、霧が晴れた時にきっと終わる。」
彼女の故郷が滅んだずっと後、太陽系が乱れて月の軌道がそれはじめた頃、
機能が停止して浮遊するようになっていたカプセルは一つの隕石と衝突し、
青い星に到着した。
凍りついた体も悲しみも苦痛も、新たな星に落下して、ついに彼女は
星の女王となりました。
(終)
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中学生のときに書いた古い小説。