生きてやる。
たとえ、誰からも愛されなくても、認められなくても、それで死んでしまうような弱いやつには、俺はならない。
俺は違う。生き残ってやる。
2009年、惟人(のぶと)16歳の、夏。
雨がやまない。7月に入って、一旦明けた梅雨がまたぶり返したように、ここ数日は空から地上に雨粒が降り注いでいる。惟人にはこの雨にもう終わりが無いように思えてきた。
コンビニに傘も持たずに入り、パンと水を買った。
パーカーのフードをかぶり、継ぎ目だらけのアスファルトの窪みに出来た水溜りをよけながら、跳ねるように路地を渡る。根城にしている雑居ビルの、薄汚れた階段に差し掛かる入り口で、ポケットの中の小銭を掴み取り出した。あるのは数百円だけだった。
惟人は拳を握りしめ、小銭を再びポケットに押し込めると、狭い階段を駆け上った。
すすけた建て付けの悪いガラスのドアを押しのけるようにして入る。「ネットカフェときめきランド」。ドアガラスには、そこだけ場違いに真新しいポップなカラーのシートが貼り付けられている。惟人くらいの年頃の、まともな子供ならまず寄り付かないような場所に惟人は身を置いていた。
「おかえり」
入ってすぐにあるL字のカウンターに、両腕をつっぱるようにして立つ店長に声を掛けられた。
店長、と言っても他に従業員の姿はほとんど見かけない。サービス業にもかかわらず、その顔にはいつも表情が無い。長く黒い髪を後ろでひとつにまとめ、ひょろりと痩せこけた体で、覇気なくカウンターの向こうで暇をつぶすように、日がな一日雑誌を読んだりケータイをいじりながら過ごしている。
それでも眼を合わせてみると、浅黒い肌の中でギョロリとした眼の白と黒が目立って見えて、どこか野生的な鋭さを感じさせた。
惟人は立ち止まり、店長を向いたが何も言わずに「自室」に向かった。
「ときめきランド」は個室を備えたネットカフェで、連泊すればホテルのようにも使えた。共用だがシャワーもトイレもある。ネットも使い放題で、都心にもかかわらず一日3800円という破格の値段だ。
途中、「隣人」に会った。
隣の「5」の部屋に惟人より先に居ついているここの「住民」の、惟人と同じか、少し上の年頃の少女だ。雑誌に載っている流行りのブランドの、スタイルを残してそのまま安っぽくしたような服を着て、まるでアイデンティティを記号化したように、目元を精一杯飾ったメイクをしていた。
少女は、明らかに自身とは不釣合いな初老とも言える年恰好の男を連れていた。 惟人は視線をそらし、ふたりと狭い廊下をすれ違った。
惟人は自室「4」に戻るなり、パソコンの前に腰掛け、買ってきたパンをつまみながら作業を続けた。
キーボードからコマンドを入力し、エンターキーを押す。思った通りのレスポンスが来た。成功だ。惟人は入力を進める。画面に目的のファイルの名前が浮かび上がった。「社外秘」の文字に心が躍った。
長いコードの羅列。その一文一文にくぎ付けになる。周りの世界が研ぎ澄まされ、ふと暗くなる。惟人の、惟人だけの、秘密の閉じた世界。惟人は時を忘れ、現実の世界でここが場末のネットカフェの一室であることさえ忘れて−−没頭した。
ブランニュー・ワークス。もうどの位経つのだろう。この企業のサーバーに不正にアクセスを始めてから少なくともひと月以上になる。
さすがにもうアシがつくからやめよう、と思いながらもやめられずにいた。
きっかけはとあるIT系サイトに寄稿されたコラムだった。そこには「執筆者:ブランニュー・ワークス CEO 多嘉辺幸弘(たかべゆきひろ)」と書かれていた。そのウィットに富んだ文章と、情報技術に造詣の深い内容が惟人の心を捉えた。そして、その興味はCEO個人から企業の方へと広がっていった。
ブランニュー・ワークスは情報技術産業界の新進気鋭のベンチャー企業だった。
まず目につくのは独創的なアイデア。そしてそれを現実のものとする高い技術力だった。
この双方を兼ね備えた企業というのは珍しい。それもここまで高いレベルで。惟人は、この企業の内部に思いを巡らせた。どんな人間が、どんな組織がこんな仕事を成しえるのか。次に考えている事は何なのか。
知りたいという欲求が実行に移るのは時間の問題だった。惟人は不正アクセスに手を染めた。
※※
深夜2時を回ったころ、惟人はカウンターに出向いた。カウンターの上のカゴにはスナック菓子が並べられ、その横のスチールラックには、魔法瓶といくつかの種類のティーパック、インスタントコーヒー、紙カップが置かれていた。 菓子は有料だが、スチールラックの飲料は無料だった。惟人はインスタントコーヒーの蓋をひねると、濃いめのコーヒーをカップに作り山ほど砂糖を入れた。
「おい」
何も言わず去ろうとした惟人にカウンターごしに店長が声をかけた。
「座れよ」
カウンターには華奢で丸いパイプ椅子がひとつ置いてある。惟人は手に持ったカップをカウンターに置くと、黙って椅子に腰掛けた。
店長はカウンターにハムサンドをふたきれ差し出した。
「食えよ。サービスだ」
惟人は黙ってそのうちのひとつに手を出した。夕方のパン以来、何も食べていなかった。歯切れの悪いハムの塩辛さと、マーガリンの人工的な油が口の中に広がった。
「あといくら、持ってるんだ?」
店長の言葉に惟人は手を止め、咀嚼を止めた。
「バイト……するか?」
沈黙を破り店長がつぶやくように言った。
「どこまでやるか、やらせるかは、お前次第だ。お前が決めていい」
「その気になれば……稼げるぜ。お前なら」
**
「お金、無くなっちゃったんだあ……」
部屋に戻ると、5の部屋のドアにそこの「住民」の少女がもたれかかっていた。薄いグレーのだぼっとした部屋着を着て、棒付きの飴を頬ばっていた。
「ま、しょーがないよね」
少女は肩をすくめて、眉を寄せて微笑んだ。と、言っても化粧を落としたその顔には、眉らしきものはほとんど見当たらず、盛り上がった肉の周囲に皺が寄っているだけだった。 その顔は派手な化粧をしている時に比べ随分青白く、病人のように見えた。
「でもさ、あたしたちって、エライと思わない?」
少女は、惟人の手を取り続けた。
「売ってるのはジブンだよ?誰にもメーワクかけてないじゃん?人のモノ、盗るよりマシだよね?」
そう言う少女の声は妙に、甘ったるくはしゃいでいて、惟人の鼻についた。少女はふいに、「そうだ待ってて」と言いながら5の部屋に消えると直ぐさま出てきて再び惟人の手を握った。
「あげる」
手に何か薄っぺらいものを握らされた感覚があった。
手を開くと1つにちぎったコンドームだった。
「ジブンの身はジブンで守るんだよっ」
少女は甲高い声で「あはは」と笑った。
**
「12、21:00」
目覚めたら、薄く鉛筆でそう書かれた紙が、ドアに挟まっていた。
あれから昨日はほとんど眠れず、夜を明かした。朝になって、ようやく眠って、目覚めると時刻はもう午後を回っていた。
今にも消え入りそうなメモの数字を、小さな部屋の中で惟人は見つめた。となりの5の部屋の少女が、惟人には不思議でならなかった。体を売って、どうしてあんなにあっけらかんとしていられるんだろう。
自分は違う。やったら取り返しがつかない。自身への取り去れないが嫌悪が、死ぬまで付きまとうだろう。
そうまでして、生きる意味があるのだろうか。
ふいに惟人の脳裏に母の最期がよみがえった。地面にうつ伏して、倒れた薄い背中。乱れて散らばる長い黒髪の毛先。
惟人はその像を振り払う様に首を振った。
俺は違う。世界と自分への憎悪にむしろ愛着を持ち、決して手放さず、その中で酩酊しながら溺れるように死んでいった母とは違う。惟人は拳を強く握りしめた。
生きること、生きることの−−
意味なんていらない。死を選択しないだけだ。
そこまで思うと惟人の中に訳の分からない怒りがこみ上げた。惟人はPCの画面を睨み付け、キーボードを打ち付けた。昨日の作業の、不正アクセスの続きを始めた。
「最重要機密」
画面に文字が浮かび上がる。ついにここまでたどり着いた。
惟人は今に至るまで、ブランニュー・ワークス社の実に様々な情報を盗み見ていた。
だがこの「最重要機密」とされたエリアは、各段にセキュリティが高く、思いのほか苦戦していた。それを今日ついに、突破することが出来たのだ。
その分内容について、期待が高まっていた。一体どんなことが書かれているのだろう。
惟人は、ファイルを展開した。ところが、そこにあったのは、惟人が予想だにしないものだった。
『虚粒子による思念の増幅、その活用について』
『虚粒子による思念の増幅を制御することができれば、情報技術は革命的な発展を遂げるだろう。たとえば、人々は互いに思うだけで、言葉無くして感情や思考のやりとりをすることが可能になる。
一方で、その制御・管理には課題も多く、使用を誤れば時として使用者の精神汚染を引き起こし、また、思念の増幅過多により、具現化した「思念体」の暴走を巻き起こす危険をはらんでいる。
その性質にはいまだ不明の点も多く、今後とも更なる研究が必要である。』
「虚粒子……思念の増幅……?なんだ、これ……」
21:00。小さくノックの音が響いた。
惟人は振り返り、立ち上がると、ドアを薄く開いた。ドア横の壁に腕を組んでもたれかかるようにした、無言の店長と目が合った。
相変わらず表情はないが、明らかに不機嫌な店長に、今行くから、と伝え、PCに向かった。ハッキングの証拠を残さないために、いつも、そのようにしていた。順調に片付いていく処理を目で追っていると、ふいに画面にメッセージがポップアップした。
Are You Ready For The Brand New World?
もちろん惟人の処理に、そのような文字の表示は含まれていない。惟人は瞬きもせずその一文を瞳に映した。
そして口をついて何かつぶやきそうになった時、2度目のノックが鳴った。
我に返った惟人は、PCの処理が終わったことを確認すると、部屋を出た。
**
12
そう書かれた白い小さなプレートのかかったドアを、惟人は開けた。
中には30代前半位の、スーツ姿の男がいた。男は所在なげにいじっていたケータイをおろし、惟人を見ると、目を丸くして笑った。
「へえ、聞いてたより、ずっといいね。16歳だって?」
惟人は答えず、横に向いて目を反らした。まともに対面できなかった。
男は構わず惟人に近づき肩を抱いた。
密着した汗ばんだ体と体温に悪寒が走った。その震えを悟られないように、惟人は体を硬直させた。
「かっわいいね〜その反応。いいよ、いいよ、実物見たら気が変わった」
男は惟人の顔を引き寄せて耳打ちした。
「金に困ってるんだろ?もっといろいろやらせてよ。そしたら、お金沢山あげちゃうよ」
耳に注がれる男の息と台詞に、惟人の心身の嫌悪感は一気に頂点まで登りつめた。
「ふざけんなよ」
惟人は、男を押しのけた。その瞬間、全身に強い痛みが走り、膝をついて倒れこんだ。
見上げると、男の腕の先で、バチバチと小さな稲妻が発光していた。スタンガンだ。惟人はうなだれて小さくうめいた。
「手荒なことはしたくないんだよ」
「でもさぁ、いくらなんでも、ノリが悪すぎるだろ」
朦朧とする意識の、上澄みに流れ込むように男の声が聞こえた。
「だいたいお前に選択権なんてないんだよ」
「警察に垂れ込むか?売ってる以上に売らされましたぁ、って? 恥をかくだけだぜ」
「誰がお前みたいな淫売の、いう事なんか聞くかよ−−」
これ以上、今の自分を言い表す言葉があるだろうか。涙が滲み、視界が歪んだ。
ああ、馬鹿だ。俺はたとえようもないほどの、馬鹿だ。
頭の中には、自分への罵りの言葉がぐるぐると回った。
ガタン
「はい、いま、中にいる人、動かないで。その場でじっとして」
突然、大きな音がして、張りのある声が響き渡った。
カフェ内は、複数の男の怒号が入り乱れ、12の部屋にも黒いスーツの若い長身の男が乱入してきた。
「はい警察です。そのまま動かないで」
「こちらに児童買春の斡旋の容疑出てるんで立ち入り捜査開始します」 そう名乗った男は、後に続いて入ってきた年配の男とともに、慣れた様子で逃げ場を塞いだ。
「俺はまだ何もしてない!」
惟人を襲った客の男は動揺し、叫んだ。
「それはこれから調べさせてもらいますんで。まず、身分を証明するものを出して」
男は早々に観念して、うなだれた。 惟人は、この二人組が刑事であると理解した。
年配の方が男の指先のスタンガンに気が付き、取り上げた。
「あんたね。年端もいかない少年に、こんなもの使って」
「未成年とは知らなかった」
「俺にはどう見ても未成年に見えるがね。ま、詳しい話は署で聞くから」
男は若い方に腕を掴まれ、せっつかれながら部屋を出ていった。
「おい、大丈夫か」
その場に残った年配の刑事はしゃがんで惟人の様子をうかがった。
惟人はゆっくりと、うつ伏せになった体を起こし、壁に背を預け足を投げ出した。心身がけだるく、それができることの精一杯だった。
「どこ、やられた?」
惟人の身体を確認するゆるゆると回る刑事のつむじに惟人は視線をぼんやりと落とした。
「あーこりゃ、派手にやられたな」
「脇腹、スタンガンの跡」
刑事が指し示す先を確認すると、シャツに2つの同じ大きさの丸い焦げた跡があった。めくりあげたら、同じ形のつぶれたように赤い火傷の跡があった。
「悪いが、そりゃ証拠だ。後で署で撮らせてもらうんでな」
それともし、と強調して刑事は続けた。
「お前が18歳未満なら条例違反。それに……それ以外の事は署で聞くから。いいな」
刑事は何やら無線で連絡をとっているようだった。その時、ドアの隙間から、廊下を駆け抜ける姿が見えた。薄いブルーグレーの部屋着。それは5の部屋の少女だった。
「待ちなさい、君!止まって!」
直後に刑事と思われる男の声が聞こえた。部屋にいた刑事も何事かと、ドアから半身を捻らせてうかがった。その隙をついて惟人はとっさに部屋から抜け出した。
「あっ、こら!」
刑事の声が背中に聞こえたが、無視して少女の後を追った。
進む先には、外の非常階段に続くドアがある。行き止まりのドアの前で、少女は必死にドアを押していた。
気配を察して振り返った少女はあっと叫んだが、それが惟人だと分かると、すがるような目で早口でまくし立てた。
「お願い、逃がして。捕まったら、また、連れ戻される!」
「あいつの元に戻る位なら、死んだ方がマシよ!」
少女の顔は恐怖にひきつり、目には涙が滲んでいた。
「待ちなさい君!」
角の先に刑事の足音と声が迫った。
「お願い!」
惟人は錆びたドアノブをひねると体を押し付けた。長い間開閉してなかったせいで、建付けが悪くなって、扉は枠に張り付いたように動かない。それでも2回目に強く力を込めると、バリリという音とともに、一気に開け放たれた。少女はその勢いに乗って飛び出すように外に出て、闇の中に溶けるように消えた。
惟人は扉を閉じると、直後に体を翻し、向かってくる刑事に体当たりをした。刑事はうめいてバランスを崩したが倒れはしなかった。
「このっ」
瞬時に反撃に出た刑事に惟人はその場で逆手をとられ、取り押さえられた。
うつ伏せに床に組み敷かれた惟人の目の先に、くたびれた革靴が見えた。
「こりゃ、聞くことが増えたぞ」
見上げると、そこには先ほどの年配の刑事のしかめっ面があった。
**
「高岡惟人。16歳。間違いないね」
ときめきランドから直接、管轄の警察署に連行された。目の前に座る刑事は、先ほどのふたりとは違う、30手前と言った所の、朴訥でぶっきらぼうな印象の男だった。刑事は軽く溜息をつき、机に書類を投げ置いた。うつむいた惟人の視界の端に、雑に扱われ散らばった白い紙の束が滑り込んだ。
これからどうなるのだろう。
売春も、ネットカフェでの違法宿泊も、たとえ問い詰められようと、どうでも良かった。行くあても、失うものもない。世間にとって自分は、捨てられないが置き所のない荷物と一緒だ。そのうちに、どこか目につかない片隅に、なんとなく放っておかれるだろう。
天涯孤独の、学歴もない虚弱な少年を守ることを社会の責任、とするのであれば、尚更だ。責任を共有しているということは、誰も責任を持たないという事に他ならない事を、惟人は知っていた。そんなことよりも、惟人の気がかりはただひとつ ―
4の部屋を出る前にPCの液晶画面に映し出されたあの文字列、
Are You Ready For The Brand New World?
アタラシイ セカイヘノ ジュンビハイカガ?
―だった。
あのメッセージが惟人の行っていた不正アクセスに繋がりがあることを惟人は確信していた。
自分に出来るなら、他の誰かも出来るだろう。勿論、相応の技術と労力があればの話だが。
ともかく、あのハッキングがブランニューワークス社の内部の人間、あるいは無関係の第三者にばれていたとして、あれは―
警告?それとも挑発か。
その両方か、それ以外か。
そして、部屋を出る時見ていた「最重要機密」。あれは、あまりにも他の情報とはかけ離れた内容だった。何かの冗談ではないかと疑うほどだ。脳波を使った通信ならば、実際に研究が進められているだろう。だが現時点でいわゆるテレパシーの様に、思考をやり取りするというのは飛躍しすぎている。それに思念の具現化、とはどういう事なのか。そもそも前提としている「虚粒子」というのは、一体何なのだろうか。
「ご苦労さん、後は引き継ぐ」
ドアが開くと同時に聴こえた、聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのはガサ入れの時の年配の刑事だった。
目の前の刑事はまた一つ、今度は大きな溜息をついて立ち上がると、「お任せします」と一言いい残し、ゆらりと惟人の脇を抜けていった。
「さてと」
入れ替わった年配の刑事は、どっこらせ、と座りながら机に置かれた資料に目を通した。
「惟人、って言うのか。【半跏思惟】の【惟】。よく考える、って意味だよな。いい名前じゃないか」
惟人が黙っているので刑事は続けた。
「それで?何回位売った?あの男は初めてだ、って主張してたがな」
さっきの刑事にも同じ事を聞かれたが、随分と柔和に聞こえた。声の響きに情の深さを感じた。
「……他人のものを盗るよりマシだと思った」
思いもかけない言葉が惟人の口をついて出た。
「他にあるだろう」
大げさとも思えるほどに、刑事は顔をしかめて惟人をたしなめた。
「それとあの、女の子、逃がした件。なんであんな事した。あの子とは、深い知り合いなのか」
なぜあの少女を追いかけ、そして逃がしたのか。説明できる理由はなかった。隣どうし、それなりの期間あのネットカフェで「暮らし」ていたものの、互いの接点は希薄で、話をしたのも唯一あのコンドームをもらった時のみだった。
彼女は無事、逃げおおせたのだろうか。ドアの前でみた、恐怖が張り付いた顔が忘れられない。名前も知らない、彼女が恐れていたものは、何だったのだろう。今となっては聞くことも叶わない。
「失礼します」
ふいに乾いたノックの音がして、ドアが開いた。年配刑事は立ち上がり、ドアに寄って行った。ドアの隙間から、先ほど出ていった刑事の横顔が見えた。何か小声でやりとりし終わると、年配刑事は戻ってきて、妙に神妙な面持ちで惟人に告げた。
「お前を引き取りたいって人物が来たそうだ」
**
一通り手続きを終えた後、惟人は、年配刑事と共に警察署の薄暗い廊下に出た。
そこにはスーツ姿の一人の男が立っていた。歳の頃は40過ぎ、やや小柄、やや丸っこい体型で、身なりはきっちりとしているように見えた。身に着けているグレーブラウンの落ち着いた光沢のあるスーツも、黄色を基調にした控えめな模様のネクタイも、派手ではないが、きっと高級品だろう。
スーツの男は、こちらに気が付くと、会釈しながらにこやかにこちらに向かってきた。
「多嘉辺と申します。突然にすみませんでした」
男はそう名乗り、洗練された見のこなしで名刺を差し出した。
「どうも」と言いながら刑事が受け取った名刺には、ブランニューワークスの文字、そして、CEO 多嘉辺幸弘とあった。 惟人は目を見張った。
多嘉辺幸弘 ― 目の前にいるのが、あの、多嘉辺幸弘、ブランニューワークス社の最高経営責任者だというのか。その名前を、どれだけの時間、液晶の画面越しに見ていたのだろう。
多嘉辺は、刑事とのやりとりを終え惟人に目をやると、屈託の無い笑顔を向けた。
**
「しかし驚いたな。まさか君みたいな若い子が」
先を行く多嘉辺がはしゃいだように言った。
「足元気を付けろよ。結構、ぬかるんでるからな」
警察署を出た。ゆるゆると吹く風が頬を撫で抜ける。惟人のTシャツの腕には少し肌寒く感じた。
雨は止んだのか。惟人は空を見上げた。
夜明けはまだ先の夏の暗い空は、雨上がりの湿気と、都会の塵と灯りが混ざった濁った色をしていた。そのオブラートの先に、本来の輝きを隠した月が、小さく丸く朧げに見えた。
多嘉辺は駐車場の端に停めてあった黒塗りの高級車に向かって歩きながらキーを差し出した。ヘッドライトが点滅し、静かにロックが外れた。
「さあ乗って」
「なんで」
少し離れた位置で立ち止まる惟人を多嘉辺は振り返り、そのまま向き直った。
「一体、俺をどうする気?」
惟人は不信を隠さぬ声で、多嘉辺に問いただした。
多嘉辺はしばらく黙ったままだったが、にやりと笑い、答えた。
「そうだな。君のやっていた事が、どれほどの罪になるのか、まずはゆっくり話でもしようか」
惟人はその声に答えなかった。多嘉辺は続けた。
「冗談だよ。そんな事なら、君をわざわざ迎えに来たりしない」
「わが社の機密情報に触れられたことは、重大な問題だ。……そうそう公に出来るもんじゃない、という事情もあるがね」
惟人は鼻で笑うと肩をすくめた。
「それじゃあ、これから俺は非合法に闇に葬られるってわけだね。やっぱり切札を用意しておいて良かった」
「切札?」
「俺がとあるサイトに24時間アクセスしなかったら、あんたの会社の機密情報が複数の巨大サイトのトップページに載る事になるよ」
多嘉辺は声を出して笑った。
「全くかなわないな。ますます彼は君に会いたがるだろう」
「彼?」
「俺を使いにやった男だ。彼が君に会いたいというから、俺は迎えに来たのさ」
「誰?」
「それは会ってからにしよう」
「勿体ぶった言い方だね」
虚勢をはったものの、闇に葬られるかもしれない、という思いは現実味を帯びたものだった。
目の前にいる多嘉辺は友好的に見えても、本心はどうであるかは分からない。セキュリティでも名の売れた企業の、機密情報の数々に不正にアクセスをしたというのだ。それも、あの得体の知れない「最重要機密」にまで―
―それについて先方は警察に訴えるわけでもなく、その犯人である自分をその事を内密にして引き取った。この先にどんな事が待ち受けているのか。想像を超える恐ろしいことかもしれない。
「君が警戒するのも、無理はないな」
多嘉辺は困ったように眉を下げた後、ウン、と肯いた。
「じゃあこうしよう。君がもし、乗りたくない、というのなら、それでもいい。ここでお別れだ。今回の不正アクセスについても、不問にする。だが次はないと思ってくれ。そしてもし、君が―
―君が我が社、いや「我々」に未だ深い興味を持ち、もっと良く知りたいと思っているのなら―
―是非、共に来てほしい。どちらにしても強要はしないよ。君が決めてくれ」
月明かりは遠く、街灯が複雑な影を織りなす暗がりの中、沈黙が流れた。
惟人の少し伸びた髪の毛先が小さく震えた。喉の奥が詰まったように重い。 今、惟人に迫られているのは、覚悟か、それができずに諦めるかの2つにひとつだった。
口を結んでこちらをまっすぐに見つめる多嘉辺の顔は、急かす事無く惟人の選択を待っている。
惟人は前を見据えた。そして、踏みしめるように一歩、踏み出した。
「着いたぞ、さあ起きて」
惟人は肩に触れた手を反射的に払った。まどろみの中目を開くと、運転席から身を乗り出した多嘉辺の姿があった。 その姿に、惟人の意識は一気に現実へと引き戻された。惟人はこんな状況で自分が眠っていたことに驚いた。今日一日、気力も体力もとっくに限界だったのだと思い知らされた。
それから何も言わず、唯一の荷物であるスポーツバッグの肩ベルトをつかんで車のサイドドアを開いた。外は先程より大分明るくなっていた。
「もうすぐ夜明けだ」
多嘉辺はたわいもなく言いながら「さあ」と惟人を導いた。進む先にはガラス細工をそのまま大きくしたような美しいタワービルディングが、 明け行く空を後ろに、夜の名残りの青い影色に染められて真っ直ぐにそびえたっていた。
「この時間は正面エントランスは使えなくてね」
ビルの脇を通り、たどり着いた裏口で多嘉辺はカードキーを差し込んだ。
そのまま中に入り、誰もいないひっそりとしたエレベーターホールに出てふたりしてエレベーターを待った。
惟人の背丈は少し多嘉辺を越していた。前に立つ多嘉辺をやや見下ろすような恰好で、惟人はその背中を黙って見つめた。
惟人は奇妙な錯覚の中にいた。意識が現実に追いついてこない。いまだにこれは夢の続きで、いつか、夢からもう一度覚めるのではないだろうか。エレベーターの階を表す数字の、点灯がだんだんと下がって来て、ドアが開いたとき、多嘉辺の背中も、この場所もすべて失われて、あの小さな部屋でただ一人、起き上がり誰ともなしに悪態をつくのではないか。
そんな惟人の気分とは裏腹にエレベーターは到着し、当然の様にドアを開いて中の小さな空間へと二人を誘った。
32階。エレベーターは静かにドアを開いて終着を知らせた。颯爽と進む多嘉辺に惟人は歩幅を合わせてついていった。廊下を通り抜けた先にある扉を、多嘉辺が軽くノックして開く。促されて惟人が部屋に足を踏み入れると、そこには夜明けの地上が広がっていた。
開けたフロアの壁一面がガラス張りになっている。まるで、空に浮かんで地上を見下ろしているようだった。
朝の光に、眠った街が命を吹き込まれるように、徐々にかがやき色づいていく。 惟人はその光景に素直に心を揺さぶられ、その場に立ち尽くしていた。
「夜明けとは素晴らしいものだな。この瞬間に感じるのは未来だけだ」
窓際に外を眺める一人の男が立っていた。朝の光を浴びて、その姿は黒いシルエットとなり、輪郭をかがやかせている。
「それで」
男は微笑んでこちらを向いた。
「Are you ready for the Brand New World?」
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自サイト及びこちらで公開しております創作漫画『レストア・ザ・ワールド』のスピンオフ(プロローグ?)短編です。肝心の本編漫画は遅々として進んでない(^◇^;)のですが、これ自体は完成させることが出来たので載せてしまいます。ジャンルは現代ファンタジー(ちょっと自信はありませんが)かと思います。
2015.5.31追記:直接的な描写はありませんが、非行・犯罪を取り扱う内容のため、R-15が適切かと思われます。