その部屋は、静寂に包まれていることが常であった。
部屋に通じる重厚なマホガニーの扉は、訪れる者に一種の緊張感を与えている。
その緊張感は、天井から吊るされたランプがずらりと並ぶ白い廊下の一帯にまで及び、よって鎮守府の中でも好き好んでここに近づくものはごくごく少数である。
提督執務室。鎮守府の主の仕事部屋だ。
艤装を身にまとい、海を駆け、人類の脅威たる深海棲艦と戦う少女――艦娘。
その司令官たる提督は、執務室の中で沈黙に浸りながら、壁に掲げられた大きな一枚の地図を見つめていた。執務室に出入りしている一部の艦娘は、その地図が一ヶ月前にかけられたことを知っている。それまでの主要な戦域である南洋諸島だけでなく、西方海域から中東にかけて広がり、地中海までも地図はその範囲を収めている。
提督は、一見したところでは年齢が分かりにくい。壮年の男性に見えるのだが、その目は、ときに若々しい精気にあふれたかと思えば、人生経験を積んできたもの特有の老成したまなざしを向けることもある。顔立ちはいたって平凡で、ありていに言えば印象に残らない。あえて言うなら、白い海軍制服が彼を定義づける外見的特徴であった。
その彼は、椅子から立って、地図に目を向けたまま、ぴくりとも動かない。
年齢のつかめないその顔はいま、鋭い猛禽の目つきとなっていた。
西方海域、カレー洋。
その北のベーグル湾。
湾から南方へ突き出した亜大陸。その南端に位置するリランカ島。
そしてその先、西へと移ると、欧州との連絡航路が通るステビア海に至る。
それらには色のついたピンが刺されている。提督の目は、何度もそれらのピンを見比べていた。さながら、脳内で兵棋演習を何度も何度も行っているように。
扉の方から、軽くノックする音が聞こえた。
彼は「入れ」と短く応え、視線は地図に向けたままである。
静かに扉が開き、一人の艦娘が入ってくる。長い黒髪を流し、凛とした面立ちで、その雰囲気はどこか武人のおもむきを感じさせる。
「――長門(ながと)か」
足音だけで誰か分かるのか、提督は振り返らずに短く言った。
「ああ。伝令からあずかってきた――大本営からの指令書だ」
返す長門の言葉もまた短い。一見、事務的で簡素なやりとりは、この二人の間では見かけだけの着飾った礼儀や、好かれるための美辞麗句は、不要だという証左でもあった。
長門の言葉に提督がようやく地図から目を離し、向き直る。
差し出された指令書を受け取り、提督はそれをざっと読み流した。
ものの数分とかからず、指令書を机の上に置いた提督は、口を開いた。
「――遠征中の全部隊を帰投させろ。外洋への演習もすべて中止。一線級の艦娘はただちに鎮守府待機。備蓄物資および装備の全点検に当たれ。二線級の者にも艤装を手配して状況プラン三号に基づく態勢に」
提督の言葉は、すらすらと淀みがない。あらかじめ用意していたかのように。
「あと――すべての艦娘を明日の午前十時に講堂へ集めてくれ」
長門がうなずく。彼と共に戦略情報に目を通してきた彼女もまた、なにごとが始まったのかを察知していた。それでも、確認せずにはいられなかったのだろう、こう訊ねた。
「いよいよか」
「そうだ――第十一号作戦を開始する」
予期していたこと。考えていたこと。準備してきたこと。
それでもなお、そう告げる提督の声には、緊張の色がにじんでいた。
「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。
それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。
戦いが隣り合わせの彼女たちにとって、海上護衛や警戒線哨戒、定期的な抑止作戦は、いわば日常であり平時であるといえた。
それでも、「戦時」と言える事態は確かに存在する。攻め込むと守ると、いずれにも関わらず、深海棲艦に対する大規模作戦。特定の海域に、特定の期間、集中的に戦力を投入することになるそれを、彼女たちはこう呼んでいた――「限定作戦」と。
講堂は鎮守府の主要施設のひとつだった。
他の建物が概ね赤煉瓦なのに対し、ここは格調高い花崗岩の石造りである。
内部に入ると、音響効果をよくするために和紙が貼られた壁はなめらかに白く、灰色の絨毯が敷かれた広々とした空間が形作られている。奥には一段高く演壇がしつらえられているが、その中央の演台に向かって設けられた小さな階段には、緋色の絨毯が敷かれている。この赤絨毯の階段を登れるのは、特別な者だけだ。
たとえばそれは、限定作戦での各部隊の旗艦を務める艦娘であったり、あるいは、作戦後の祝勝会で目覚しい功績をあげて勲章が授与されるものなどだ。「赤絨毯を踏む」とは艦娘にとって望外の栄誉なのである。
いま、その講堂には、鎮守府中の艦娘たちが集められていた。
艦娘の衣装には学生服を模したものも多い。遠目にみれば、それは女学校の集会に見えなくもなかったろう。無人の演壇を前に待機している状況で、ひそひそと話し声が聞こえることがますますその印象を強くしている。
なぜ、ここに集められたか、彼女たちの誰もが概ね検討がついていた。
昨日の時点で突然に提督から出された各種の指示。この鎮守府が「平時」から「戦時」の態勢へと変えるための命令だ。限定作戦の準備であることは容易に推測されたし、昨夜の夕食時などはそのことで話題はもちきりだった。
問題は、誰が行くのか、そしてどこで戦うのか、だ。
人類の藩屏として戦うことが艦娘の存在意義であるとしたら、大規模な出撃となる限定作戦は、待ちに待った晴れの大舞台のようなものだった。日ごろの訓練も、ルーティンの任務も、すべてはこのときのためといっていい。
たとえ、それが撃沈の可能性と隣り合わせのダンスステージだったとしても、だ。
落ち着かずに言葉を交わしているのは、駆逐艦や巡洋艦の艦娘が多かった。カテゴリー的に数が多い彼女たちにとって、出撃の「役」をもらえるのは熾烈な競争なのだ。
対して、戦艦や空母といった強力な艦娘はまだ平静な顔をしている。駆逐艦などからは格上とみなされている彼女たちは、限定作戦ではレギュラー陣であり、はずされることはまずない。危険な戦線正面や敵本隊への攻撃を担うことが多く、大舞台を前に心をはずませることもないのかもしれなかった。
「――静粛に。提督が入られる」
演壇の横で、長門が凛とした声を張り上げた。講堂に響き渡ったその一声で、それまでさざめいていた空気が水を打ったように静かになる。
奥の扉から、提督が姿を現す。
いつものように、白い海軍制服を隙なく着こなした彼の姿に、艦娘中の視線が集まる。
「突然に集まってもらってすまない――昨日、大本営より大規模作戦が発令された」
その言葉に、少なくない艦娘が、やはり、とうなずいた。
「本作戦は『第十一号作戦』と命名された。だが検討段階では、非公式にこう呼ばれていた――『グランドスピアー作戦』と。その槍が向かう先は西方海域だ……地図を」
提督の言葉に応じて、長門が天井に畳んでいた地図を下ろす。
そこに描かれていた範囲を見て、艦娘たちがざわついた。普段見ている作戦領域とはまるで違う、はるかに広い地域が示されていたからだ。西方海域のはるか先、中東のステビア海を収め、大運河を越えて地中海まで見えるのはどうしたことか。
「主要な作戦海域は、カレー洋であり、当面の攻略目標はリランカ島だ。かねてより深海棲艦の拠点となっている同島には、たびたび攻撃をしかけて敵戦力を押さえてきたが、今回は一時的な保持ではあるが、港湾の占拠を行い、打通作戦の拠点とする」
打通作戦、という言葉を聞いて、戦艦の艦娘ですら、何人かが思わず息を呑んだ。
「リランカはあくまでも中継目標にすぎない。最終目標はその先の航路を啓開し、ステビア海から深海棲艦を排除し、一時的にせよ地中海との連絡を繋げることだ――すなわち、今回の作戦のゴールは、深海棲艦出現以降、連絡がつかなくなった欧州とコンタクトを取ることにある」
事前の予想をはるかに上回る作戦内容に、艦娘たちがたまらずにざわついた。そんな彼女たちを提督が片手を上げて、じろりと見回す。ややあって、自然とざわつきは落ち着いた。静けさを取り戻した講堂に、提督の声が響く。
「本作戦は、カレー洋での威力偵察、洋上敵戦力の撃滅、リランカ島への補給戦遮断、同島への攻略本隊、そして拠点確保後の敵性海域への切り込み、と多岐に渡る。具体的には通常編成の部隊を三個、連合艦隊編成の部隊を三個、拠点攻略時の支援部隊を二個。計六個の部隊を展開することになる。後ほど、編成を発表するので、よく確認しておくように――なお、正当な理由なく作戦参加を拒否することは認められないので、心しておけ」
それを聞いて、艦娘の何人かが指を折って数えている。実に六十人かそれ以上の艦娘が動員される計算だ。かつてない規模の作戦だと言えた。
だが、艦娘たちの驚きはこれだけでは済まなかった。
「なお――本作戦に際して、新戦力がわが鎮守府に加わる。紹介しよう」
提督の言葉と共に、演壇の袖から五人の人物が姿を見せた。その姿を見て、講堂に集った艦娘たちが大きくざわめいた。
黒髪黒目ではない、というだけなら、鎮守府の艦娘にもいる。だが、その顔立ちはいかにもこの国ふうの容貌で、髪の色が多少目立っても、すぐに同胞だと分かる。
しかし、いま提督に呼ばれてきた五人は、金髪碧眼か、銅色の髪と目をしていて、なにより、その風貌が異国の顔立ちだった。高い鼻は明らかにこの国の艦娘ではない。そして着ている衣装も灰と黒を基調にした、より軍服らしいデザインだった。その腕に鉄十字の飾りがついているのが見てとれる。
「かなり前からこちらには来ていたが、事情があってこれまで内密にしていた。ドイツから来た艦娘だ。今回より戦線に加わることになった。この中の一人とは、過去に作戦を共にしたものもいるとは思うが――皆、それぞれ名乗りたまえ」
提督にうながされて、一歩前に出たのは、ひときわ長身の艦娘だった。
冷たい輝きの長い金髪を流した、どこか冴え冴えとした顔つき。黒い軍帽をかぶった彼女は、わずかにあごをそらして、つんと澄ました表情と声で高らかに名乗った。
「ドイツの誇るビスマルク級超弩級戦艦のネームシップ、それがわたし、ビスマルクよ。この作戦では縦横無尽に活躍してみせるわ――この国の子たちがどれだけできるかは概ね知っているけど、わたしに置いていかれないように気をつけることね」
流暢なこの国の言葉。しかし、自信に満ちた、高慢にさえ聞こえるそれに、艦娘の多くが眉をひそめる。不穏なざわめきが起きそうになるのを見てとって、ビスマルクの隣に立っていた艦娘が、やや慌てた様子で声をあげた。
「ああっ、皆さん、ごめんなさい――ビスマルク姉さま、ちょっとこういう場に慣れていないだけなの」
その彼女は、二つのおさげにまとめた蜂蜜色の髪に、快活そうな顔と声をしていた。浮かべた笑顔が愛らしく、人懐っこそうに見えた。
「はじめまして、アドミラル・ヒッパー級の三番艦、プリンツ・オイゲンです。前に一回だけある作戦でご一緒した子もいますね。正式に皆さんと戦えるようになれてうれしいです。頑張りますので、よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げて見せた彼女のおかげで、どうにか講堂の空気も落ち着いた。ビスマルクの時にはなかった拍手が、ぱちぱちと沸き起こる。
続く三人は、いずれも小柄だった。それぞれ、駆逐艦のレーベレヒト・マース、駆逐艦のマックス・シュルツ、そして潜水艦のU-511と名乗った。
ドイツ艦娘達の自己紹介を受けて、提督がうなずいた。
「本作戦では、ビスマルクとプリンツ・オイゲンが参加する。他の三人は鎮守府待機となるが、皆、練度は一級品だ。戦力として期待してほしい」
その言葉に、演壇の脇に控える長門も、大きくうなずく。それを見て、艦娘の大半は得心した――艦隊総旗艦の長門が請合うのなら、間違いはないだろう。
「作戦に向けての出発は明後日だが、その前の夜に壮行会を執り行う予定だ。無論、ビスマルクたちも参加する。作戦前にお互いに交流を図り、本番での連携がスムーズに行うように楽しんでもらいたい」
提督の言葉に、艦娘たちが、「おおっ」と歓喜の声をあげる。作戦に参加できない艦娘でも、壮行会には顔を出せる。パーティと聞いて、心が浮き立つ者は多いのだ。
しかし、そんな彼女たちに、提督は最後に爆弾をしかけていった。
「なお、作戦に際しては、通常の艦艇に乗り込み、俺もカレー洋まで出て行くつもりだ。普段よりも細かな指示を出せると思う。よろしく頼むぞ」
それは、まさに異例のことだった。提督は鎮守府にいて作戦は練るが、実戦の指揮は艦娘に任せることが常である。通常艦艇では深海棲艦に太刀打ちできない。やつらに対抗できるのは艦娘だけである。にも関わらず、彼はカレー洋まで行くと言うのだ。
艦娘たちが一斉に大きくどよめく。それを気にしたふうもなく、提督は背を向け、演壇から去っていった。代わりに演壇に立ったのは、長門である。
「静粛に、皆、静粛に! これから編成を発表する――」
テーブルの上に色とりどりの食事が並べられている。
あちこちでグラスを打ち合わせる音、そして歓談の声が、講堂には満ちている。
その賑やかさは講堂だけにとどまらない。外では艦娘の有志が屋台を構え、さまざまな食事や菓子をふるまっていた。さながらお祭りの様相を呈しているが、これが限定作戦出撃前夜の鎮守府の様子なのであった。
場合によっては、ここでの思い出が、鎮守府での最後の記憶になるかもしれない。
そう思えば、せめて楽しく賑やかにしたいのが人情というものだろう。
そんな壮行会の会場、講堂の中へ入ってきた艦娘が一人いる。
長い黒髪をポニーテールに束ね、「凛とした」と称するにはややとがった印象の顔立ちの彼女は、艦娘でごった返す会場を当惑顔で見回した。
「あの、ちょっといいかしら?」
ややハスキーな声で、通りがかった給仕役の艦娘をつかまえて彼女は訊ねた。
「あら、矢矧(やはぎ)さん。なんですか、お飲み物ですか?」
「いえ、人を探していて――大和(やまと)さん見なかった?」
問われた給仕娘は、はてと首をかしげてみせた。
「ええっと……さっき会場で見かけましたけど、どこにいったのかな」
「ここにはいないのかしら……」
「どうなんでしょう、大和さんも誰か探しているみたいでしたけど」
「わかったわ、ありがとう」
矢矧が手短に礼を言うと、給仕娘は軽く会釈して歩いていった。
(大和さんのことだから、てっきり食事しているものだとばかり思っていたけど……)
戦艦の艦娘は基本大食らいなのだが、大和は特に健啖家だった。矢矧は以前に大和と会食したことがあるが、注文した量のあまりの違いに唖然としたものである。
そのため、たずね人はどこかで何か食べているに違いないと思い、こうして回っているのだが、大和も誰かを探してうろうろしているとしたら話は違ってくる。
(もう、今夜しか機会がないのに……)
矢矧は入り口から離れ、手ごろに空いている壁際に移動すると、背をもたれさせた。
顔をうつむけ、目を閉じると、おもわずため息をついてしまった。
会場の喧騒が耳に入ってくるが、いまの矢矧にはそこに混じる元気はなかった。
しばらく、そうしてまぶたを閉ざして黙りこくっていると――
突然、頬に冷たいものを当てられ、矢矧はたまらず「ひゃあ」と声をあげた。
慌てて目を開けて見ると、はたして大和がグラスを手にしていた。
優美な長身。桜を散らした飾りが似合う、長く艶やかな黒髪。その顔立ちは端整というだけにとどまらず、美人の枠を超えた華のようなものを感じさせる。
矢矧を見つめる大和の顔は、少し心配そうだった。
「や、大和さん!? あ、あの、えっと、その」
不意打ちの形でたずね人が向こうからやってきて、矢矧は落ち着くのに数秒要した。
そんな矢矧を落ち着かせるように、大和がそっとグラスを差し出した。
「だいじょうぶ? なんだか疲れた顔をしていたから、気になって。よく冷えてるわ。飲むとちょっと元気が出るんじゃないかしら」
矢矧はおそるおそる受け取ると、一口飲んだ。ほのかに甘い炭酸が喉を潤す。
それでようやく彼女は、普段の平静さを取り戻すことができた。
「すみません――よかった、ちょうど会いたかったんです」
「わたしも。ちょっと矢矧に手伝ってほしいことがあって」
大和の言葉に、矢矧はきょとんとした顔をしてみせた。
「えっと、なんでしょうか?」
「じゃあ、わたしのお願いから先に言うわね――武蔵(むさし)の姿が見えないのよ。どうもあちこちで食事を食い散らかして回っているみたいなんだけど、なかなかつかまらなくって。ちょっと目を離すと、あの子ったら、もう」
大和が額に手を当て、やれやれと軽くかぶりを振ってみせる。
その様子に、矢矧はくすりと笑みをこぼした。
「お姉さんも大変ですね」
「まったくよ。まあ、武蔵も可愛いところがなくはないんだけど、基本の思考が野生動物なのよね――出撃前に長門さんに挨拶しておきなさい、ってあれだけ言ったのに、どこをほっつき歩いているのかしら」
やや鬱屈とした声で大和は言うと、ふっと表情を改めて、
「ごめんなさい、愚痴を聞かせちゃって――それで、矢矧の用ってなにかしら」
その問いに、矢矧はごくりと唾を飲み、しゃんと背を伸ばした。
「艦隊編成のことでご相談が――大和さんと組むことは、無理なのでしょうか」
矢矧のその言葉に、大和は目を丸くしてみせた。
「わたしが編成された連合艦隊に入りたいってこと?」
「はい。ようやく来た晴れの舞台、ぜひ大和さんのエスコートをつとめたいのです」
その声は、緊張から来るものか、やや硬かった。
「わたしが艦娘として練成に励んでこれたのも、今度こそ大和さんをお守りすると心に決めていたからです。『スペックだけの経験不足』『出番なしの永遠の新人』と言われながらも頑張ってきたのは、ひとえにその思いがあったからです」
そう言って、矢矧は敬礼をしてみせた。
サマール沖海戦。そして運命の坊ノ岬沖海戦。心の中にある記憶では、矢矧は大和に付き従い、彼女を守る存在だったのだ。鎮守府に着任して、大和がいると知った時のうれしさはいかばかりだったか。いつか、再びあの人と同じ海を往く――それは、矢矧にとっては執念に近い悲願だった。
大和はというと、眉をひそめて困った顔をしてみせた。ためらいがちに、
「えっと、提督や、長門さんには相談してみた?」
「いたしました」
「どう言ってたの?」
「……『今回は任せられない』と」
矢矧の声がしゅんと暗くなる。そんな彼女の肩に、大和は優しく手を置いた。
「今回は、ということは次があるじゃない。それに、あなたは作戦の先鋒、威力偵察部隊の旗艦を務めるんでしょう? 初めての限定作戦なのに、それはすごいことなのよ」
「わかっています。わかっていますけど――」
矢矧は敬礼を解いて、きゅっと拳を握り締めた。
長門から部隊旗を授かる時に、自分の姉妹が誇らしげな顔で見ていた。
実際に名誉なことだと思う。初の限定作戦にしては、思っても見ない大役だ。
それでも――大和の付き添いが務められるなら、一番槍の役目も、部隊旗艦の名誉も放り投げて、喜んではせ参じただろう。自分の衣装でさえ、大和に憧れて少しでも似るように手を加えたほどなのだ。
「――それでも、わたしはあなたと共に往きたい」
静かに駄々をこねる矢矧に、大和は諭すように言った。
「ねえ、矢矧。長門さんが駄目だって言ったら、たぶんわたしからお願いしても駄目だと思うわ。わたしが投入されるのは、作戦の大詰め。決戦の正否がかかる場面だもの。あなたの能力も練度も高いとは思うけど、まだベテランを超えるほどじゃないわ。提督たちにしてみれば、少しでも勝率を高めたいと考えるのは当然のことよ」
「……はい」
矢矧はうなずいてみせた。
理解はできる。大和が言うことはもっともだ。
だが――納得はいかなかった。理性が感情をなんとかねじ伏せようとして、心の中がもやもやするのを矢矧は感じていた。
矢矧の思いつめた顔を見て、大和は気遣わしげな目をしたがすぐにかぶりを振った。
彼女の肩に置いた手で、今度はその頬を撫でながら、大和はつとめて優しく言った。
「限定作戦じゃ無理かもしれないけれど、今夜はわたしに付き添えるわ。一緒に武蔵を探してくれないかしら。ね?」
大和のお願いに、矢矧は、かろうじて微笑んで応えてみせた。
「はい……わたしでよければ喜んで」
――どこかぎこちなく、心の曇りが晴れてないことが透けて見える微笑だったが。
ビスマルクとプリンツ・オイゲンは、鎮守府の艦娘たちに囲まれていた。
正確には、プリンツ・オイゲンに艦娘が集まっているのだが、その彼女がビスマルクのそばを離れようとしないのだ。
蜂蜜色の髪のドイツ娘は、人好きのする笑みを浮かべつつ、艦娘たちの質問に丁寧に答えていた。自分より小柄な駆逐艦の艦娘を抱っこしながら、にこやかに談笑している。
「そうなんだよ、ユキカゼとは前に作戦で一緒だったんだよ」
プリンツ・オイゲンはそう言って、胸元に抱えた駆逐艦娘をぎゅっと抱きしめた。栗鼠のようなくりくりした目のその艦娘――雪風(ゆきかぜ)は、猟犬に懐かれた小動物のように目を白黒させながらも、まんざらでもない照れ笑いを浮かべていた。
「へえ、雪風ちゃん、プリンツさんってやっぱり強いの?」
「はいっ、プリンツさんは射撃がすごいんです。スコールの中でも百発百中です」
「わあ、やっぱり海外の艦娘って装備も違うのかしら」
「よりけりじゃないかな。酸素魚雷なんかは初めて見たし。あれすごいよね」
プリンツがそう言うと、言われた艦娘は照れ笑いを浮かべてみせた。
「それなら、ビスマルクさんはもっとすごいんですか?」
艦娘の一人が手を挙げて、そう質問すると、プリンツは得意げな顔で、
「そうだよ、ビスマルク姉さまは、わたしよりもっとすごいんだから」
そう言って、プリンツ・オイゲンはビスマルクの方を向く。その顔は傍から見てもきらきらと輝いていて、彼女が向ける思慕の強さが感じられた。
つられて、艦娘たちの視線がビスマルクに集まる。
その視線を、ビスマルクは表情も変えずに受け流して、
「そうね。練度なら誰にも負けない自信はあるわ。もちろん装備も」
そっけなくそう言ったかと思うと、かすかに口の端を持ち上げてみせて、
「あなたたちがどれだけやれるのか、とくと拝見させてもらうわ――わたしをがっかりさせないでちょうだいよ」
高らかな声で、そう言い放つ。
ビスマルクの長身からすると、艦娘たちの背の方が幾分か低い。
否応なく、見下ろされる形になった艦娘たちが、たちまちむっとした顔になった。
「ああ、だめですよ、ビスマルク姉さま。そんな言い方しちゃ」
プリンツ・オイゲンがそう言うと、甲斐甲斐しく皿に料理を取り、
「もしかして、おなか空いてます? 召し上がります?」
そう言って彼女が差し出す皿に一瞥をくれて、ビスマルクはそっけなく言った。
「いらないわ。料理が口に合わないもの」
その言葉に、プリンツ・オイゲンが苦笑いを浮かべる。
「……せっかく、みんなで腕を振るった料理なのに……」
「……プリンツさんにあの言い方もないわ……」
「……なんだか、あの人、怖い……」
ビスマルクに対して艦娘たちが取る距離がまた一歩開く。小さな声でひそひそとささやかれる非難の声にも、ビスマルクは鉄仮面のごとく冷たい表情を変えなかった。
と、そこへ。
「ヘーイ、ゲルマンたち。パーティ楽しんでマスカ?」
独特のイントネーションの声で、ひときわ陽気な声がかけられた。艦娘たちが振り返ると、編みこんだ栗色の髪に、巫女装束を模した衣装の艦娘がどこか挑戦的な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。鎮守府では知らぬものとていない、戦艦の金剛(こんごう)だ。
艦娘たちが取った間合いはまるでビスマルクに対する結界のようだったが、金剛はそれを意に介した様子もなく、ずかずかと近づいていった。
目の前に立たれて、ビスマルクがじろりと金剛をねめつける。
その視線を金剛は平然と受け止めた。
「ドイツから来たと聞いて、ぜひお話したいと思っていたデス。欧州でも艦娘が戦っているのデスカ?」
その問いに答えようとしたプリンツ・オイゲンを、ビスマルクは目で制した。
ワイングラスを傾け、真紅の葡萄酒を飲み干すと、彼女は短く言った。
「戦っていた、というべきね」
「ホワット? 欧州では人類が深海棲艦を押しているのデスカ?」
「さあ、どうかしら。わたしたちが欧州を発ったのも割と前だから」
そう言うと、ビスマルクは冷たく笑みを浮かべてみせた。
「こちらは苦戦しているみたいね。艦娘のせいかしら? 司令官のせいかしら?」
嘲笑するようなビスマルクの言葉に、金剛は動じなかった。
ビスマルクの冷たい視線にひるむことなく、見つめ返し、にやっと笑って、
「この国では『千里の道も一歩から』といいマース。まあ、十歩くらいは歩いていると思いますケド、確実に前に進んでいるネ! 提督と、わたしたち艦娘の、両方が頑張っている証拠デース!」
そう言ってのけた金剛に、ビスマルクが虚をつかれたような顔を一瞬見せた。
金剛は、その名の通り、ダイヤモンドの心臓を持つかのごとく、堂々としていた。
周囲の艦娘たちの視線が、一斉に金剛とビスマルクに集まる。
誰かが「さすがは金剛さんだ……」と小さくつぶやくのが聞こえた。
「まあ、欧州がどうなっているか、打通作戦が成功すればハッキリすることデス。ワタシは機動部隊本隊の所属、アナタは護衛部隊の所属。リランカ島攻略部隊どうし、仲良くしまショウ」
そう言って、金剛が手を差し出す。
ビスマルクは――その手を握らなかった。
代わりに、真冬のように冷たい声で言った。
「打通作戦、うまく行くと思っているの?」
「アナタはテイトクの立てた作戦に疑問があるのデスカ?」
「そういうあなたは、アドミラールを信じているのかしら?」
打ち合う言葉のラリー。
ビスマルクの意地の悪いレシーブに、金剛は力強くスマッシュを返した。
「もちろんデース!」
胸を張り、声を大きく、一点のためらいもない宣言。
「テイトクは常にワタシたちにとって最善の指揮をとってくれるデース!」
金剛の打ち返した言葉を聞いて、ビスマルクはふっと表情を消した。
その顔を見て、金剛が軽くたじろいだ。
ビスマルクの顔は――深淵を覗いた者の顔をしていた。
「……提督は艦娘じゃないわ。人間よ」
ビスマルクの口から言葉が流れる。
低い声で紡がれるそれは、呪詛めいて響いた。
「人間である以上――嘘をつく、他者をだます、真実を隠す。うかつに信じないことね。信じすぎると、知ってしまった後の痛みがつらいわよ――死にきれないぐらいに」
それまで金剛と目を合わせようとしなかったビスマルクが、初めて彼女を見つめた。
その目に浮かんでいるものは、冷笑でも、高慢でもなく――憐れみだった。
金剛がまなじりを吊り上げて踏みとどまり、問い返した。
「ヘイ、それはどういう意味――」
「――エントシュルディグング。酔いすぎたみたい。夜風に当たってくるわ」
ビスマルクがそう言い残し、靴音も高く歩み去る。
「あ、ビスマルク姉さま、待ってくださいよ!」
プリンツ・オイゲンが声をあげ、慌てて後を追う。
残された形となった艦娘たちから、無礼なドイツ娘を非難する会話がささやかれる。
それを聞きながら、金剛はビスマルクの後姿を見送った。
その眼差しには、怒りと、困惑と、彼女を気遣う心配が入り混じっていた。
「大和、さん、見つけました」
矢矧がひときわ大柄な艦娘の腕をつかんで、大和のもとに引っ張ってくる。
曳航されてきた方は、いたって能天気に両手に抱えた戦利品を掲げてみせた。
「おう、大和。お前も食べるか? 外の屋台もなかなか食いでがあるぞ」
焼きそばに、たこ焼き。綿菓子、焼きとうもろこし。
その有様を見て、大和は軽く頭痛をおぼえた。これだけの屋台を出す有志の艦娘はたいしたものだが、まさかこの不肖の妹は全店舗制覇したのではあるまいか。
「あなたねえ。縁日の子供じゃないんだから」
「気にするな。どうせ今日は祭りみたいなものだからな」
そう言って、彼女――武蔵はにかっと笑った。
表情だけみると可愛らしく見えなくもない。だが、褐色の肌、鋭い目つき、たてがみのように広がる二つに束ねた白髪、そして、さらしを巻いた姿が主な衣装とあっては、よくいってどこかの番長、もっとありていにいえば黒鬼が笑っているようにしか見えない。銀の眼鏡こそかけているものの、それが一分子も理知的な印象に寄与していないのは、いっそ奇跡的とさえ言っていい。
全身からみなぎる何かが、大和と同じ強さでありながら、決定的に異なる。
大和が華としたら、武蔵は猛獣だった。たとえるなら、獅子や虎のような。
まさか、と大和は思った。妹はちゃんと代金を払ったのだろうか。この武蔵がよこせとすごんだらおとなしく差し出してしまうのではあるまいか。彼女に真正面からやりあえる艦娘は鎮守府でもそうはいない気がする。姉である自分でさえ手を焼いているのに。
「ほら、その抱えたもの、どうにかなさい。行くわよ」
「行く、ってどこにだ?」
「長門さんのところに挨拶によ」
「なんだ、それか。つまらん」
しらけた顔の武蔵を、大和はきっとにらみつけ、
「長門さんは攻略艦隊の総旗艦、そしてわたしたちが加わるステビア海啓開艦隊の旗艦なのよ。この作戦の間は直接の上官になるんだから、ちゃんと挨拶を――」
「――それなんだがな、大和。どうしてお前が旗艦じゃないんだ?」
「それは――」
「提督が決めたから? 長門の方がベテランだから? そんな言葉は飽きるほど聞いた。自分に任せてくれ、と言ったことがあるのか?」
畳み掛ける武蔵の言葉に、大和は唇を噛んだ。
武蔵が、銀の眼鏡を指で動かす。その拍子に、レンズがきらりと光った。
「大和、お前は勝負から逃げているんじゃないか? 都合のいい言い訳をして」
武蔵の言葉に反論しようとして、大和は言葉に詰まった。
この妹は自分の弱点を遠慮なしに突いてくるのだ。
長門が旗艦と聞いて、当たり前のように納得していた。
彼女が指揮を取るのなら、ふさわしいと思っていた。
――提督が、長門と特別な仲なのも、やむをえないと感じていた。
目をかけてくれた。面倒を見てもらった。ここまで育ててくれた。
長門は尊敬しているし、頼りにしている。
誇れる先輩であり、われらが艦隊総旗艦だ。
だが――武蔵の言葉に反論できないということが、つまり、大和自身、その称号を長門に譲っていることにどこか納得できていない証拠でもあった。
口ごもる大和を見て、武蔵が深々とため息をついた。
「なあ、大和。お前、もっと覇気を持ったほうがいいぞ。どうも何かに遠慮して生きているようにしか見えん。現にいま、わたしにだって言わせたい放題じゃないか」
あきれ半分の妹の言葉を聞いて、大和はわなわなと震えた。
「あ、あなたねえっ」
「――そこまでだ。大和型が姉妹喧嘩などしては講堂が壊れてしまう」
凛としてよく透る声が、二人に割って入った。
大和と武蔵が振り向くと、長門が静かに歩み寄ってくるところだった。
長門は、武蔵が両手に抱えた屋台物を見やると、愉快そうに、
「どうやら壮行会は楽しんでいるようだな」
「ああ。こんなのめったにないのだろう。ならば楽しまなくてはな」
「それはなによりだ――お前たち二人には、出撃前に言葉を交わしておきたかった。決戦局面で組むことになるだろうからな。大和型の実力、期待しているぞ」
長門の言葉に、大和がしゃんと背を伸ばし、
「はい。おまかせください」
それに対し、武蔵はにやりと笑いながら、
「存分に見せてやるよ。しっかり目を開いておけ」
妹のぞんざいな言葉遣いに、大和が小さく「ちょっと!」とたしなめる。
武蔵はそれを意に介した様子もなく、挑発的に長門を見つめていた。
対する長門はそれを真正面から受け止め、小揺るぎもしない。
むしろ、武蔵に向かって、薄く笑んでこう言ってみせた。
「やる気は買うが、無理をするな。武蔵は、本格的な実戦は初めてなのだからな」
その言葉に、武蔵が顔の半分をしかめてみせる。
「無理などしていないさ。無理をしているのは長門の方じゃないか?」
「ほう。どういうことだ?」
「作戦報告書には目を通しているが、深海棲艦の能力は日を追うにつれて上がってきている。長門の四十一センチ連装砲ではもうやつらに決定打は与えられないんじゃないか? それにわたしたちの戦術も高度化している。旧式の通信設備では荷が重いだろう?」
「……何が言いたい」
「大和型にその席をゆずるべきじゃないか、と言っているんだよ」
そう言って、武蔵は相好を崩した。猛獣が威嚇するにも似た笑みだった。
いつの間にか、三人の周囲に艦娘が集まってきている。
艦隊総旗艦と、大和型の武蔵――この間に漂う空気が剣呑としたものであれば、人目を引かずにはいられないのだろう。
長門は腕組みをして、すっと目を細めた。
「自信満々だな。だがわたしも簡単に譲る気はないし、実力を認めていない者に席を明け渡す気もないぞ」
「それなら、ひとつ、勝負をしようじゃないか」
武蔵がにたりとしながら、そう言った。
「作戦終局には、ステビア海を仕切る深海棲艦の中枢存在が出てくるはずだ。おそらく、棲姫か水鬼クラスのな。そいつを仕留めた方が、今後、“艦隊総旗艦”を名乗る――これでどうだ?」
「なるほど、わたしが賭けるものはそれか――で、そちらは何を出すのだ?」
「長門、あんたへの敬意だ。これで負けたら、二度とあんたの立場に異議は唱えない」
「――いいだろう。作戦で賭けを行うなど言語道断だが、それで、お前がやる気になってくれるなら、全体としてプラスに働くだろう。活躍に期待している」
そう言い置いて、長門はふっと微笑んだ。
その余裕の笑みを、武蔵は歯をむき出した笑みで、大和は目を白黒させて、受けた。
長門がきびすを返して歩み去っていく。
艦娘たちがしばし無言でその背中を見送り、その場は静まり返っていたが、
「――この、ばかっ。なんてことを言うのよ」
大和が涙まじりの声をあげて、手をふりあげた。
「痛い、痛いぞ、大和。頭をはたくな」
「よりによって長門さんにあんなことを……」
「心配するな。わたしはお前のサポートに入る。大和型が二人で当たれば倒せない敵などいないさ。敵中枢を仕留めるのは、大和、お前の役割だ」
その言葉に、大和は思わず息を呑んだ。
「あなた――最初からそのつもりで……」
「お前はわたしにとって尊敬できる姉であってほしい。旗艦の称号はお前にこそふさわしいよ――ずっと、そう思っていたんだ」
武蔵の目は、真っ直ぐで、純粋で、真剣で。
その真摯なまなざしに、大和はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
鎮守府中が壮行会で騒いでいるといっても、探せば静かな場所はある。
講堂と屋台の明かりを遠目に見ながら、ビスマルクとプリンツ・オイゲンはベンチに腰かけていた。プリンツ・オイゲンはというと、軽く頬をふくらませていた。
「もう、だめですよ、ビスマルク姉さま。壮行会ではあるけど、わたしたちの歓迎会でもあるんですから」
「……歓迎会、ね。どうかしてるわ。新兵器を迎えるのにパーティを開くだなんて」
ビスマルクは冷笑まじりの声で言った。
「それも、兵器が兵器を歓迎するのよ。ばかげているわ」
「――それは違う。君たちは“艦娘”だ。決して単なる兵器ではない」
静かな男の声が、二人にかけられる。
ドイツ娘たちが振り返ると、白い海軍制服に身を包んだ人物が歩いてきた。
「アドミラール。何をしにきたの」
「壮行会がどうなっているか気になってね。案の定、平穏無事ではすまない、か」
提督はあごをなでながら、穏やかに言った。
「君たちが本国でどう扱われていたかは知っている。ここでの待遇に戸惑うのも無理はない。だが、『郷に入っては郷に従え』だ。ここの流儀に従ってもらうぞ」
「ふうん。わたしたちにも人間ごっこにつきあえというの?」
ビスマルクの眼差しも声も冷え切っている。
「あなたの鎮守府は砂上の楼閣よ――夢と嘘で築いた。艦娘たちが事実を知れば、それは脆く崩れ去ってしまう。わたしから教える気はないけど、嘘はいつかばれるものよ」
そう言って、ビスマルクは、悲しげな笑みを浮かべてみせた。
「その時のことを考えたなら、今のうちにちゃんとした形で教えるべきじゃないかしら。あの子たちがどこから来たのか、本当は何物なのか」
「いつかは話す。だが、いまはその時ではない――時機が来るまで、この嘘はなんとしてもつきとおす。それが彼女たちに対するせめてもの誠意だ」
「誠意ね――そこまでして、あなたが守りたいものは何なの?」
「心だよ……彼女たちの心だ」
提督の言葉に、ビスマルクは「ハッ」と嘲るような声をあげた。
「ばかばかしい。わたしたちに本当の意味で心なんてないわ。これはにせものの模倣物。人間の感情と思考のエミュレーター。わたしたちが元の“素材”に戻ってしまわないようにするために人間が課した枷。そんなくだらないものなんて……」
「……人間のように考え、人間のように感じ、人間のように話すのであれば、それは人間と同じだよ。本物か紛い物かの区別なんてつきやしない――少なくとも、俺はそう考えている」
「おかしな人。あなたには、わたしも人間と同じだというの? わたしたちの正体を知っていて、それでもなお?」
「もちろん。でなければ――君がいま怒りの目で俺を見ている理由が説明できない」
提督の言葉に、ビスマルクが口ごもる。
代わって、提督に声をかけたのは、プリンツ・オイゲンである。
「アドミラールは、兵器に心が役立つと思うの? 迷いが? 悩みが? 悲しみが?」
「それだけじゃないさ、怒りも喜びもあるだろう。精神論だけで戦うことはできないが、精神を置き去りにして戦いを論じることもできない。俺が育てた艦娘たちにとって、その心は大きな武器となるはずさ」
彼がそう言い終わると、ビスマルクがくつくつと笑い声を漏らした。
すうっと細めた目で提督を見つめて、彼女は言った。
「面白い人ね、アドミラール。いいわ、それならわたしが自分の目で確かめてあげる――この作戦の中で、あの子たちの心が本物かどうかをね」
ゲルマンの魔女の笑みを、提督は無言で受け止めた。
鎮守府の港に、おびただしい数の艦娘が集っている。
戦いに赴く者は艤装を身にまとって桟橋から海へと足を踏み出していく。
見送る者は岸壁に集まって、旗や横断幕を掲げて、声をかける。
矢矧も、ビスマルクも、武蔵も、それぞれに見送る艦娘がいる。
そして、海へ乗り出すのは艦娘だけではない。
提督もまた、船に乗り込もうとしていた。
海軍が用意したヘリ空母。指揮通信機能にすぐれたこの船が、洋上の執務室となる。
タラップを登ろうとしていた彼を、呼び止めたものがいた。
「なんだ、長門か――君も出発したまえ、皆が待っているぞ」
「集合の指揮は大和に任せてある。こういう経験もいいだろう。心配するな、あなたが船に乗り込むのを見届けたら、わたしもすぐに海に出る」
「……言いたいことはそれじゃないだろう?」
「――本当にカレー洋まで出るのか、提督」
「直掩の艦娘は何人かつくし、他の護衛艦とも合流する。心配はいらないさ」
「あなたは艦娘にとって、“人類の象徴”なんだ。危険に身をさらしてほしくない」
「それは聞けないな。リランカ島から先はいくらなんでも遠すぎる。少しでも現地の情報を受けて、素早く判断できる位置にいたい――それに」
「それに?」
「向こうから届けられる“あれ”は、俺自身の手で受け取る義務がある」
「以前、話していた“例のもの”か」
「ああ。“あれ”が話どおりの代物なら、君たちが戦う必要はなくなる」
「それは――わたしたちにとって、幸せなことなのだろうか」
長門の真摯な問いに、提督は微笑んで答えてみせた。
「それはわからない。だがこれで、君たちの“戦後”を考えることができる」
提督の言葉に、長門は思わず息を呑んだ。
しばし、彼の目をじっと見つめた後、長門は言った。
「わたしは、あなたと共にある。あなたがどんな選択をしようとついていくまでだ」
「――ありがとう」
「礼を言うなら、この作戦が終わってからだな」
「うまくいくといいんだが」
「そんな弱気でどうするんだ。どしっと構えろ」
「俺は小心者なんだよ」
提督の軽口に、長門は目を細めて微笑んでみせた。
「あなたが立案し、わたしが指揮をとる戦いだ。だいじょうぶさ」
その言葉に、提督がうなずくと、タラップを駆け上がっていく。
それを見届けて、長門は桟橋へ向かった。
武蔵との勝負のことは、結局言わなかった。あのような児戯で提督の心中を騒がすこともないだろう。本当に大和たちが自分を超える力を見せてくれるなら、称号なぞいくらでも譲ってやる。
「ただし、おとなしく譲る気もないがな」
長門はそうひとりごちた。
ちょうど、“重くなった艤装”にも慣れてきた頃だ。
とっておきを使わないに越したことはないが、いざとなればやむをえまい。
長門はそう決心し、海へと足を踏み出した。
海面を滑るように駆け、仲間たちの元へ向かう。
いまは自分が艦隊総旗艦なのだ。
そう呼ばれる以上は、責務を果たさねばなるまい。
静かな決意を秘めて、長門の目は、まっすぐ前を向いていた。
迷いなく、躊躇いなく、そのまなざしは、まさに研ぎ澄まされた刀のようだった。
〔続〕
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ぶるんぶるんして書いた。やっぱり反省していない。
というわけで、艦これファンジンSS vol.34をお届けします。
本エピソードを含めて、全五部作で2015年春イベントを舞台にしたお話をお届けする予定です。
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