1.夜の姫
魔族の館の中で、日々は変わらず過ぎていった。サークシーズの庇護と惜しみない愛情の元、そして館の者全てのそれぞれなりの愛情の中で、アシェンは幸せな日々を過ごした。何の不安も、何の悩みもなく……。
そして八年。
アシェンは十二歳になっていた。背もぐんと伸び、サークシーズの腰にも届かない高さだったのが、今では胸の辺りまでの高さになっていた。長く伸びた月光の髪に縁取られたアシェンの顔立ちは、一切の苦労知らずの生活のせいもあってか、幾分幼く見える。しかし、美しさは確実に増していた。サークシーズが<月の娘>と呼んだに相応しく、アシェンの成長はまさに月の満ちていくさまを見ているようだった。
それは、魔族たちにとっては、あまりにも目まぐるしかった。サークシーズは不死、他の者たちでも人間とは比ぶべくもないほどの時を生きる。そんな彼らにとって、八年などたいした時間ではない。それなのにアシェンは……この館の愛すべき小さな宝は……。
人間とはなんと生き急ぐ種族なのだろうか。
館の者たちは改めてそれを感じていた。
そんなある夜のこと。
珍しくも、サークシーズの館の門の前に客が訪れた。
星空の冷たく冴え渡る初冬の夜、訪れた客も、まさに冬の夜空のような美の持ち主だった。
輝く黒髪が豊かに波打つ。白い肌ゆえにとても目立つ意思の強そうな黒い瞳、鮮やかな紅の唇。<夜の姫>……その形容が見事に当てはまる。
そんな客の後姿を見つけたのは、狩りに行っていて戻ってきたヴィストだった。
(こんな所に誰だ?)
眉を顰める。訪れる者など殆どいない、森の奥の館なのだ。以前は、ごく……ごくたまには、愚かにも魔族退治をしようとする者が来たには来た。勿論、彼らは一人残らず館の者たちの餌食となったのだが。
しかし、どうやら客は人間ではないらしい。匂いで分かる。ヴィストは謎の客に声をかけた。
「我らの館に何か御用か?」
客は振り向いた。そして、ヴィストの姿を認めると、鮮やかに微笑んだ。ヴィストは目を丸くして声を上げた。
「イ……イルゼナーラ様!」
ヴィストに来客を告げられたサークシーズは、客を自室に通した。応接室ではなく自室なのは、客が幼馴染だったからだった。
「急の訪問何か急ぎの用なのか?」
サークシーズは鷹揚にソファに腰を下ろし、そう言った。客に応対する主人らしい威厳を漂わせるその姿は、彼が魔族の公子であることを普段よりもずっと感じさせる。イルゼナーラは窓辺に佇み夜を眺めていたが、振り向いて鮮やかな笑みを浮かべた。彼女も威厳ではサークシーズにひけを取ってはいない。
「用がなければ、来てはいけないのかしら? 幼馴染の館なのに」
そのはぐらかすような物言いや、自分に勝るものなどこの世に存在しないとでもいうような余裕の笑みは、いかにもサークシーズが覚えているままのイルゼナーラだった。
「……変わらぬな、おまえは」
「あら、あなただって。何十年かぶりに会ったっていうのに、何か用か、だけなんですものね。いつも、丁重なだけだわ」
イルゼナーラは完全に向き直り、窓にもたれた。そして、くすくすと笑う。
「まあ、いいわ。ちょっと寄ってみただけなのよ。今からお父様の館に行くの」
「長か……久しくお会いせぬが、お変わりないか?」
そう、イルゼナーラは現在のティグニフィードラの長の一人娘なのだった。サークシーズは少年の頃に、長の元に身を寄せていたことがあった。彼がイルゼナーラと出会ったのは、そのときだった。もう、百年以上も前の話だ。
イルゼナーラは笑みを消した。そして、厳かに言った。
「ええ。でも……おそらくお父様は、もうすぐ魔界へ退くおつもりだと思うわ」
「退く!?」
思いがけない知らせに、サークシーズは思わず立ち上がった。
「まだ、はっきりとは分からないわ。でも、おそらく……。今回わたくしをお呼びになったのも、そのせいだと思うのよ」
「長が……」
サークシーズは考え深げに呟いた。
そのとき廊下でパタパタと足音がした。そして、明るく高い少女の声がした。
「待ってーっ、ヴィストーっ!」
アシェンの声だった。サークシーズは我に返った。
「こら、バカチビっ! サークシーズ様は来客中なんだぞ。廊下で騒ぐなっ!」
そう言うヴィストの声も充分中に聞こえていた。サークシーズは苦笑して、扉へ向かった。そして、取っ手を回し廊下へ出た。
「どうした?」
ヴィストが驚いて、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません! すぐに連れていきますから」
しかし、ヴィストが腕を掴もうとするより早く、アシェンはサークシーズに飛びついた。
「サーク、聞いて」
「どうした?」
アシェンを抱きとめるサークシーズの背後で、衣擦れの音がした。そして、アシェンは来客の姿を見た。
灰色の目と黒い目が合う。その瞬間、時が止まった。
綺麗……!
二人が同時に、互いをそう思った。そして、胸を締め付ける奇妙な感覚。ぴんと張り詰める空気。
アシェンは我知らず、サークシーズの衣を握り締めていた。目はイルゼナーラに釘付けになったまま。それは無意識の防衛本能だった。
サークシーズはアシェンの様子に気付き、ちらりとイルゼナーラを見ると、再びアシェンに目を戻して言った。
「アシェン、まずはお客様にきちんと挨拶しなさい」
再び時が動きだした。
アシェンはハッとしてサークシーズを見上げた。そして、身体を離す。
「ア、アシェンです。ようこそいらっしゃいました。廊下で騒いで、ごめんなさい」
アシェンはイルゼナーラに向かって、慌てて、しかし礼儀正しく挨拶をした。
「イルゼナーラよ」
イルゼナーラは答えはした。しかし、その声は冬の風だった。
サークシーズはふと、アシェンをイルゼナーラに会わせたくなかったと思っている自分に気付いた。理由は自分でもはっきりしない。しかし、いずれにせよ、今更遅かった。サークシーズは何気なさを装い、アシェンの顔を覗き込んだ。
「よし、それで、どうした?」
アシェンに笑顔が戻った。
「あ、あのね、あたし初めて、キュステにチェス勝ったの」
「ほぉ、偉いな」
「本当よ。本当に勝ったのよ。負けてもらったんじゃないんだから」
一生懸命にそう言うアシェンを見て、サークシーズは少女の頭に優しく手を置いた。
「分かっている。キュステはわざと負けてやったりする娘ではないしな。良かったな。また勝てよ」
アシェンの元気がパッと戻った。
「うん! 今度はヴィストとやるの」
ヴィストはピクッと顔を引きつらせた。これでは反則だ。この状況で断れるわけがない。ヴィストは恨みがましくアシェンを見たが、アシェンはにっこりと笑うだけだった。
「分かった、分かった。行くぞ」
諦めきったようにそう言うと、ヴィストはアシェンの腕を掴んで引っ張っていった。
サークシーズは微笑ましげにそれを見送った。しかし、イルゼナーラの目は暗い鋭さで、そんなサークシーズを、そしてヴィストと共に廊下の向こうへ消えていく美しく愛らしい人間の少女の背をじっと見据えていた。
2.冬の風
「失礼した。少々甘やかしすぎてな」
サークシーズは扉を閉めると、再びソファに身を沈めた。
イルゼナーラは暗い笑みを浮かべて言った。
「人間じゃないの。変わったものを飼ってるのね」
サークシーズの目が眇められた。
「そんな言い方はよせ」
「どうして? たかが人間でしょ。あなたって、今まで一度も人間を<下僕>にしたことがなかったけど、やっとあなたの目に適う人間がいたってわけよね。まあ、無理もないかしら。綺麗な子ですもの。まるで月の光みたい」
そういうことにしておけば良かったのかもしれない。しかし、サークシーズにはそれができなかった。嘘でもそんなことを口にできないほど、アシェンが大切だった。
「あの子はそのようなものではない」
「じゃあ、何なの?」
「あの子は……私の養女だ」
イルゼナーラは、さっきのアシェンへのサークシーズの目と声の表情を思い出した。あんなに優しそうな、あんなに愛情の込もった彼の表情。それは、イルゼナーラが見たことのないものだった。それを思うと、ひどく腹がたった。そして、なぜ自分がアシェンを見たときに、あれほどの敵意と密かな危機のようなものを、それも人間などに感じたのか、不意に理解した。
サークシーズがアシェンを愛しているからだ。この誇り高いサークシーズが、人間などが養女だなどということを隠したりしないくらいに。たとえそれがどんな形の愛情だとしても、あの人間の少女はそれを一身に受けているのだ。
しかし、イルゼナーラには切り札があった。
「サークシーズ。父上はね、次の長はあなたにしたいのよ」
「わたしを……?」
サークシーズは驚いた様子で訊き返す。イルゼナーラは鮮やかに微笑んでサークシーズの前に立った。
「そう、あなたを。あなたなら誰も反対する者はいないわ。勿論、あの人間の子がいなければの話だけれど。養女だと言ったわね。これを知ったら、皆何て言うかしら? わたくしたちティグニフィードラの恥だと激怒するわよ」
サークシーズは暗い目をイルゼナーラに向け、何かを考えているようだった。しかし、やがて無表情に、こう言った。
「わたしは別に、無理に長になろうとは思わぬ」
イルゼナーラは秀麗な眉を逆立てた。唇を噛む。これは自分にたいする侮辱だ。赦せない。しかし、恐ろしく高い自尊心が、彼女の声を荒げさせなかった。
「そうやって、わたくしをも否定するのね? 父上が次の長にわたくしを嫁がせるおつもりなのを、あなただって知っているはずですものね」
サークシーズは目を逸らせて答えない。それがまた、イルゼナーラには赦せなかった。
(なぜ、少しくらい言い訳しないの!?)
そうしてくれれば、少しは気が済んだのに。なのに、サークシーズは沈黙を守る。沈黙は、卑怯な肯定の意思表示だ。
「そんなに、あの人間が大切なの?」
イルゼナーラの声は冷静だった。しかし、よく見ると、握り締めている白い手が僅かに震えていた。
「たかが人間と全ティグニフィードラの長の地位を量りにかけられるほど? どんなに綺麗でも、あの子は所詮人間よ。いつかは衰え、死んでいく。それも、瞬く間にね」
「!!」
サークシーズはギクリと身を震わせた。それは、日々美しく成長していくアシェンを見守りながら、彼が無意識のうちにずっと見ないようにしてきた大きな問題だったのだ。
イルゼナーラはサークシーズに打撃を与えたことを悟り、ほくそ笑んだ。そして、更に言い募った。
「あなたはあの子を<下僕>扱いにはしたくないみたいだけど、それしか道はないんじゃなくて? そんなに気にすることじゃないじゃない。血を吸うっていったって、<食事>として殺してしまうわけじゃないんだし。。そんなに大事なら、さっさとやってしまいなさいよ。そうすれば、あなたは美しいままのあの子を永遠に傍に置……」
「イルゼナーラ!!」
イルゼナーラの言葉を遮り、サークシーズは怒鳴った。ビクッと身を竦め、イルゼナーラは口を噤む。サークシーズが声を荒げるなど、珍しいことだった。いや、イルゼナーラにとっては初めてのことだった。
屈辱に青ざめたイルゼナーラの顔を見据え、サークシーズは今度は低く言った。
「二度とそのようなことを言うな。たとえおまえでも容赦はせぬぞ……夜の姫」
口調こそ落ち着いている。しかし、サークシーズは動揺していた。その動揺が、彼の視線を恐ろしく尖らせていた。
暫しの沈黙が、その場を支配する。空気はずっしりと重いくせに、触れれば切れそうなくらいに張り詰めている。それを先に破ったのは、イルゼナーラの方だった。
「諦めない……」立ち上がりながら言う。「あなたはわたくしのものよ!」
その言葉を叩きつけると、イルゼナーラは部屋を駆け出していった。
サークシーズは床の一点を見つめたまま、遠ざかって行く靴音を苦い思いで聞いていた。
イルゼナーラは廊下を駆け抜けた。自尊心をひどく傷つけられた口惜しさに、唇を切れそうなほどに噛み締めて。そして階段を駆け下り、玄関広間を横切り、大きな両開きの扉をバンッと開く。
雪が降っていた。今年の初雪だ。それを見るために先に駆け出してきていたアシェンが、ふんわりとしたボタン雪を両手に受けながら、肩に羽織ったケープをはためかせて走り回っていた。傍にはキュステとウィフ、ダーム、ルルンもいて、少し離れた場所にはヴィストもいた。別に来たくなどなかったのに無理やりにアシェンに引っ張り出されたヴィストは、皆のはしゃぎようをあきれ返って眺めるともなく眺めていた。
そんなヴィストがいち早く、イルゼナーラが出てきたことに気付いた。
「イルゼナーラ様、もうお帰りになられるのですか?」
ヴィストの言葉に皆は玄関に目を向けた。しかし、イルゼナーラはアシェンだけを見つめていた。イルゼナーラはヴィストには答えずに雪の降る中をスタスタと歩み、アシェンの前に立った。そして、じっと見下ろす。
(本当に綺麗な子。たかが人間のくせに……)
激しい嫉妬。そして、その「たかが人間」などに嫉妬している自分に、更に苛立ちと屈辱が募った。そして、その激しい怒りが自尊心の衣を着て、それは一見静かな、しかし氷の刃の視線だった。
アシェンは見上げて冷たい黒い目を見つめ返したが、そこに込められたものに気圧され、一歩二歩と後じさる。
少女が怯えていることにいくらかは満足して、イルゼナーラはフッと微笑んだ。しかし、それは明らかに敵意の微笑。キュステと、そしてヴィストまでもが、アシェンの身を守ろうと全身を緊張させたほど。
しかし、イルゼナーラは苦々しく、こう言うだけだった。
「あなたなんかに、サークシーズはあげないわよ」
「え……?」
目を丸くするアシェン。イルゼナーラはもう一度敵意たっぷりに微笑んでから、アシェンの横をスッと擦り抜けた。そして更に、茫然としている館の者たちの間を抜けてから、そこで忽然と姿を消した。
「帰っちゃったよ」
イルゼナーラの消えた後を見つめながら、ウィフが呟いた。
「あーあ、せっかくあの方の泊まる部屋、整えておいたのに」
その言葉で、皆我に返った。
「そういう問題かぁ?」
ダームが少々引きつった様子で腕を組む。
「そうよ、ウィフって鈍感!」
ルルンが横目でウィフを睨んで、ツーンと言った。
「あれはねー……」
「あらあら、大変なことになっちゃったわねー」
キュステがルルンの台詞を遮り、面白がっているように言った。
「あんな綺麗なひと、敵にしちゃって。気をつけないと、あの方は手強いわよー」
「おい、バカなこと言うなよ」
ヴィストが顔をしかめた。
「全く……イルゼナーラ様もどうかされてるよ。こんなチビ相手に……」
皆が好き勝手なことを言い合っているのを聞きながら、アシェンはイルゼナーラが消えた場所を見つめていた。
(何……? このヘンな不安……)
アシェンは我知らず、わが身を抱き締めた。その細い肩に、労るようにそっと雪が舞い降りていた。
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人間に<魔物の森>と呼ばれる深い森に、ある日幼い少女が、実の母親によって再婚に邪魔だという理由で捨てられた。
少女の名はアシェン。まだ、たったの四歳だった。
その夜、この森の奥の館の主であるサークシーズとアシェンは出会った。
サークシーズは魔族の最高位<ティグニフィードラ>の一族――吸血妖魔だった。
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