No.771271 アルドノア・ゼロ mico spei EPISODE.032015-04-15 15:34:33 投稿 / 全10ページ 総閲覧数:1043 閲覧ユーザー数:1043 |
アルドノア・ゼロ mico spei EPISODE.03
「アルドノアドライブを持たない地球軍が火星まで攻め入ることは航続距離的に不可能。なのに何故、月面基地に必要以上にちょっかいを出してくる? 何の価値がある?」
月面基地付近のサテライトベルト地帯の小隕石の陰。オレンジ色のKG-6スレイプニールの機体の中で界塚伊奈帆で目を閉じながら静かに左目と会話していた。
「地球軍の補給船とその護衛部隊を襲撃したのは白い機体。過去のデータと照らし合わせてスレイン・ザーツバルム・トロイヤードのタルシスで間違いない。だが、臨時政府の首班が何故こんな所で自ら戦場に立つ?」
左目のアナリティカルエンジンに問い掛けてみるものの合理的な回答は返ってこない。
火星で貴族制の廃止を推し進める革命政権が樹立しつつあることは地球でも十分に知られ渡っている。スレインはその臨時政府の首班。皇帝にレムリナを戴いているとはいえ、彼が現在の火星の最高権力者であることは誰の目にも明らかだった。
その最高権力者がまだ平定終わらぬ火星を放っておいて、月面で輸送船をチマチマ襲っているのは如何にも不合理だった。少なくとも左目の義眼は満足の行く答えを出さない。
けれど伊奈帆自身は合理性では説明できないスレインの行動の理由に見当が付いていた。
「ウミネコは僕との決着を付けたがっている。そういうことだろうな」
伊奈帆は目を開いてスレイプニールの大型ライフルを照準を合わせ直す。これまでの襲撃パターンから次の強襲ポイントを伊奈帆は事前に割り出していた。
伊奈帆のオレンジ色のスレイプニールを隊長機にして地球軍カタフラクトKG-7アレイオン11機が同じ方向にライフルを構えている。
予定通りの時刻に地球軍の輸送船3隻がサテライトベルトの陰から出てきた。更にその輸送船に隕石の合間を縫って高速で接近する白い機体。スレインの駆るタルシスに違いなかった。伊奈帆の読み通りだった。
「撃て」
伊奈帆は冷静に部下たちに指示を下しながら自らも発砲する。回避能力がずば抜けて高いタルシスに致命傷が与えられるとは思っていない。事実、タルシスは12機のカタフラクトから撃たれた砲撃を全て神懸かり的な動きで躱してしまった。
だが、輸送船に向かって高速で接近していたタルシスが今度は反転して遠ざかっていく。タルシス襲撃に遭って輸送船が無事だったのは今回が初めてのことだった。味方機から歓声の通信が入ってくる。
逆に慌てたのは火星側だった。ステイギスⅡ5機が隕石の陰から現れてタルシスを取り囲むようにして護りに入る。その行動を見て伊奈帆は唇の端をわずかにあげてみせた。
「小回りの効かないステイギスⅡが周りを取り囲んではタルシスの離脱力は半減する」
伊奈帆は再びタルシスに向かってライフルを構える。
「第二射発射」
地球軍のカタフラクト12機は再びタルシスに向かって砲火を浴びせる。タルシスには当たらない。けれど、護衛に回っていたステイギスⅡの1機に被弾、中破させた。
それにより今度は他のステイギスⅡが被弾した1機を曳行し、タルシスが砲撃しながら後退する陣形に変わった。タルシスたちは隕石群の中へと身を隠していく。撤退速度は確実に落ちていた。
部下たちからは追撃を上申される。けれど、伊奈帆はそれには応じなかった。
「タルシスが無双できる地帯への追撃は許可できません。それよりも彼らの退路から母艦の位置を割り出します。計器を常に確認して彼らの位置の捕捉に努めてください」
攻撃を止めてタルシスたちがどこに逃げていくのか確かめることにする。タルシスは部下の機体を庇いつつ幾度か伊奈帆の観測機にその足跡を残しながら去っていった。
「わざと、か……?」
伊奈帆はスレインの行動にどこか作為的なものを感じながらも火星軍の艦艇の位置を割り出しに掛かっていた。
月面基地地球軍への牽制の勅命から5日。スレイン率いる航宙艦隊5隻はカタフラクト隊の行動半径に月面基地を捉えながら密かに潜行していた。乗組員たちが出撃準備を進めている中、スレインはアセイラム姫の元に出撃前の挨拶に来ていた。
「これより地球軍の補給船を襲撃して参ります」
片膝をついてアセイラム姫に出撃を告げる。その姿は懺悔しているようにも見えた。
「スレインさまが地球軍と戦う姿は姫さまが最も見たくないものだと思いますよ」
装置の裏側にいたエデルリッゾが出てきて小声で述べた。ここ数日、少女はスレインにとても素っ気ない。目も合わせてくれず怒っているのは明白だった。
「姫さまはスレインさまに地球のことを教わり、地球が大好きになられたのです。そのスレインさまが地球軍と戦う様を見て喜ばれるはずがありません」
「僕はこれまでに何度も地球軍と戦ってきましたよ。地球軍のカタフラクトも輸送船も数多く撃墜してきました」
「昔と今とでは立場が違います。今のスレインさまはヴァースの最高指導者。戦いに赴かないことも、和平を取り付けることもまた選択できるはずです」
スレインがエデルリッゾのキツい言葉を聞くのは久しぶりだった。アセイラム姫が地球に降下する前のような冷たい態度に精神的に堪えるものがある。眠れる姫君がもし目覚めていたら本当にこんな態度を取るのではないかとも想像してしまい余計に辛い。
「今回の牽制任務はレムリナ陛下の勅命。皇帝陛下からの直々のご命令ですよ」
何とか格好つけに掛かる。けれど、そんな取り繕いは彼を長い時間側で見てきた少女には通じなかった。
「その皇帝陛下を裏から操り好き放題にしているプレイボーイさんはどなたでしたっけ?」
「プレイボーイって……」
エデルリッゾはフンっと鼻を鳴らしながら部屋を出て行ってしまった。
「あらっ。あなたの大切なお姫さまに随分と嫌われてしまったようね」
入れ替わるようにしてレムリナが入ってきた。こっそり立ち聞きしていたらしい。しかもニヤニヤ笑っているのだから困った趣味だった。
「僕が心からお慕いする姫君はレムリナ陛下。あなたです」
クールに敬礼してみせる。けれど、今更そのポーズが通用する相手でもなかった。
「なら、私と結婚していただけますか?」
「陛下。一体何を仰って……」
過ぎるイタズラにスレインは対処に困る。けれど、レムリナは止まらない。
「一国の姫が若き政治指導者と政略結婚するのは普通のことと思います。クーデターの黒幕であるスレインが、傀儡の皇帝である私と結婚して政権基盤をより盤石なものとする。ハークライトも納得済みですよ」
スレインの顔を上目遣いに覗き込んでくるレムリナは楽しそうな表情を浮かべている。やり辛くてわずかに目を逸らす。
「ですが、私はレムリナ陛下にもっと自由に恋愛して頂いて構わないと思います。もちろん、それなりに制約は付くでしょうが」
「父が自由に恋愛した結果、生まれた子が私であることを忘れないでください。先代ザーツバルム卿が取り立ててくれませんでしたら私は今頃間違いなく餓死していたと思います」
餓死と平然と述べる皇帝陛下の言葉が重い。スレインはザーツバルム伯爵に連れられて初めてレムリナを見た2年前の時のことを思い出した。
レムリナはヴァース本星貧民街の汚い家屋の暗い室内の片隅で震えていた。アセイラム姫の腹違いの妹と聞かされていたが、スレインにはとてもそうには思えなかった。
けれど、軍服姿のスレインを見て声もなく震えている彼女を見て、自分にとてもよく似ていると思った。クルーテオ伯爵をはじめ多くのヴァース人に暴力を振るわれその度に震えていた昔の自分に。
スレインの場合は嘘の笑顔を貼り付けて誤魔化すことで生きてきた。相手が気持ち悪いと思うことで暴力を止めさせる。レムリナの場合はそんな処世術を働かせる知恵もなくただ単にいつまでも震えていた。
スレインはこの日、レムリナにどんな言葉を掛けたのかよく覚えていない。色々話し掛けてはみたものの彼女は体を震わすばかりで少年の言葉を全く聞かなかった。
交渉は上手く行かず、結局ザーツバルム伯爵はレムリナを強引に連れ去ることにした。スレインが抱えたがその時に感じたのは彼女の軽さだった。手足は骨と皮ばかりだった。
食事も満足に摂っていないのは明白だった。そして栄養失調が原因なのかは不明だったが彼女は既に自分の2本の足で立てない身になっていた。
皇族と言われてもにわかには信じられないほど日陰暮らしを強いられていた少女。それがスレインとレムリナとの出会いだった。
「…………あなたが憎んでいるものはヴァースからもうすぐ消えてなくなります。それでレムリナ陛下の苦しみがなくなるわけではないでしょうが」
幼いころの過酷な日々により今も心には大きな穴が空いている。その穴を塞ぐことができないとわかっているのに復讐に足掻いて生きている。他に道標がない。囚われている。
レムリナと自分はよく似ている。スレインはそんなことを考えた。
「スレインにとって私との結婚は政略結婚なのでしょう。ですが、私にとってあなたとの結婚は恋愛結婚になります。とても幸せな恋愛結婚です」
レムリナの言葉に胸の中に暖かさが広がる。そして同時に痛みで締め付けられた。
「スレインはあの暗くて埃っぽくてかび臭くて痛くてひもじくて苦しかったあの部屋から私を連れ出してくださいました。初めて会ったあの日からスレインは私の特別な男性です」
「…………そう思って頂いて光栄です」
深く頭を下げながらスレインは考えてみる。
レムリナはあの日の出会いを今となっては嬉しいことと記憶している。
けれど、自分がレムリナをあの薄暗く汚い部屋から抱えて連れ出した時に感じたことは何だったか?
それは確か、少女を救い出せた嬉しさではなく彼女をこんなにも追い込んだヴァースへの怒りだった。
『我がヴァースを変えねばならぬ理由はこれだ』
ザーツバルムはボロ屋を離れながら怒りを表した。いつか復讐を遂げると心の中で誓っていた相手の言葉なのにスレインの胸の中に違和感なく深く入り込んた。
ザーツバルム伯爵が唱え続けてきたヴァースの変革。それが、スレインの中でも1つの具体的な追求すべき目標になったのはこの時からだった。
「僕はアセイラム姫の理想を実現するために邁進してきたはず。でも、本当は……」
ずっと追い求めてきたものがアセイラム姫の理想と一致しているのか自信がなくなる。本当はザーツバルム、そしてレムリナの怒りをアセイラム姫の理想と勝手に思い込んでいるだけのような気がしてならない。
アセイラム姫が眠る前に何を考えていたのか段々思い出せなくなってきている。
エデルリッゾに数日前に指摘された通りに結局自分は姫を貶めているだけ。本当は姫のことなど何も考えていないのかもしれない。いや、それは最初から気付いている。自分の行動を正当化するためにずっと見て見ぬフリをしていただけ。
ここ数日間、ふと湧いては全身を締め付ける焦燥感がまたスレインに生じていた。
「スレインはお姉さまと結婚したいのですよね?」
新皇帝からの不意打ちの質問は動揺していたスレインに更なる打撃を与えた。
「…………僕如きが敬愛するアセイラム姫殿下の伴侶になるなど恐れ多いことですよ」
否定しながらも胸が苦しくて仕方ない。
元々は身分が違い過ぎて決して手が届くことのない存在だった。
でも、今は違う。
偉くなった代わりに姫殿下にとって極めて有害な存在になってしまった。
理想を踏み躙って争いと憎悪と悲しみを拡大させる危険過ぎる存在。
だからもう近付けない。近付いてはいけない。
けれど、ずっと慕ってきた姫を完璧に諦めることもまたできない。
だから、アセイラム姫に近付くことができる界塚伊奈帆の存在が許せない。
「では、エデルリッゾを娶るのですか?」
袖を引っ張って訊くレムリナの質問に我に返る。力なく首を横に振って答える。
「エデルリッゾさんにはもう嫌われてしまっています」
「スレインは女心に疎いので当然の結果ですね。あんないい子、なかなかいないのに」
「仰る通りです。僕はいつも大切な女の人を泣かせてばかりで少しも守れない無能です」
レムリナの言葉に気落ちする。スレインにとってエデルリッゾはこの世界で唯一権謀術数を張り巡らせる必要がなく心穏やかに接することができる少女だった。その彼女を怒らせてしまっている。
エデルリッゾの信頼を失ってしまっていることはスレインの心を追い詰めていた。
「では、スレインは私と政略結婚するのが一番幸せだと思います。光の道を歩む女性はあなたには眩し過ぎるのでしょう」
クスっと笑うレムリナのその言葉はスレインの心を少しだけ軽くしてくれた。
「スレインは思い詰め過ぎる傾向があります。この度の任務も気を楽に出撃してください」
レムリナはそれだけ告げると車椅子を操作して出て行った。
「思い詰めることなんてありませんよ……僕はただ、界塚伊奈帆を倒したいだけですから」
一人きりになった室内で小さく呟く。
自分に夢があるのかわからない。アセイラム姫の理想を追求しているとはもう胸を張って言えない。
元々、言えるはずがなかった。虚構の楼閣を大切なものを次々と失いながら築こうとしていることには最初から気付いていた。アセイラム姫が覇権の上に成り立つ仮初めの平和を尊ぶはずもない。全ては欺瞞。弱い心が生んだ復讐劇の正当化。
そしてアセイラム姫が目覚める可能性はほぼ0であることは何度も嫌になるほど聞かされてきた。スレイン自身、アセイラム姫が再び目覚めるとは実のところ思ってはいない。
思ってはいない。だが、いつか目覚めると自分を必死に鼓舞して騙してアセイラム姫に渡す世界の構築だけは進めてきた。自分の信じていない世界のために這い上がってきた
その世界はもうすぐ完成する。目を瞑って黙って座っていても完成するところまで来ている。だが、だからこそ焦りがスレインを一層掻き立てていく。
受け皿となる世界が完成しつつあるのにアセイラム姫は目覚めない。何のために義父を謀殺し、ヴァースの根幹を破壊し、自分を慕う者たちを裏切ってまで国盗りをしたのかわからない。矛盾と不合理と後ろめたさに潰されてしまいそうになる。
そんな中でもたった1つだけ、自分だけの願望を見つけてしまった。誰も望まない夢。だが、その良くない夢だけはスレインが唯一叶えられる可能性を持っていた。
スレインは月面基地付近に対して連日出撃しその回数は既に5回を記録していた。
その間に彼が沈めた輸送船の数は9隻。撃墜したカタフラクトの数は16機に及ぶ。それはただの牽制の域を超えた大胆な攻撃だったが、地球軍はタルシスの襲撃ポイントを掴めなかった。
補給の滞る地球軍は界塚伊奈帆を哨戒部隊の隊長に任じてタルシスの迎撃に当たらせた。その結果、伊奈帆はタルシスの発見に成功してこれを遠方射撃で退けることに成功した。
スレインの機体は無傷だったものの初めて至近距離を掠めていく攻撃を受けた。そのせいで目標としていた輸送船を撃ち漏らした。
スレインは6度目の出撃にして伊奈帆の登場という大きな壁に直面することになった。
スレインは母艦のブリーフィングルームで次回の出撃計画をひとりで纏めていた。そこにエデルリッゾとレムリナが血相を変えて駆け込んできた。
「あの人……伊奈帆さんが前線に出てきた以上、この宙域で牽制を続けるのは危険過ぎますっ!」
「私もエデルリッゾの意見に賛成です。地球の例の彼と戦ってスレインにもしものことがあれば、私たちもヴァースもおしまいです」
伊奈帆とのニアミスは既に知られていた。2人はスレインに対してこの宙域から離脱することを代わる代わる唱えた。そんな少女たちに対してスレインは静かに対応してみせた。
「心配なさらずとも、界塚伊奈帆が超能力者でもない限り我が軍の襲撃ポイントを連続で当てるなんてできませんよ」
「ですが、伊奈帆さんは超能力者以上の分析力と操縦技術を駆使して、圧倒的不利な状況下でヴァース軍を次々と打ち破ってきました。スレインさまもよくご存知のはずです」
エデルリッゾは地球での逃亡生活時に伊奈帆と行動を共にしてきた。そして彼が起こした奇跡と呼べる逆転勝利を数多く目撃した。そんな彼女にとっては伊奈帆がスレインの出現場所を察知するぐらいは朝飯前の事柄にどうしても思えてしまう。
伊奈帆の力を信じきる少女を見てスレインは少し寂しい気持ちになった。
「界塚伊奈帆に発見されて戦いになれば……僕は撃墜されるですよ、ね」
エデルリッゾの全身が激しく震えた。瞳にうっすらと涙が浮かび上がる。
「そっ、そんなことは考えていません。スレインさまは絶対勝ちます。ですが……」
「あなたの身を案じている女の子を虐めるのは悪趣味ですよ」
レムリナがスレインを諌める。新皇帝の口から大きなため息が漏れ出た。
「伊奈帆という彼への執着。どんな嫌なことにも面従腹背して上り詰めてきたスレインらしくないですよ」
スレインは普段通り華麗に片膝をついて敬礼姿勢を取ってみせた。だが、その口から出たのは普段とは全く違う内容だった。
「恐れながらレムリナ陛下。僕は陛下が見抜いておられる通りに、アセイラム姫殿下に優しくなかったこの世界に復讐を誓い、界塚伊奈帆に個人的な怨恨を抱いております。それが、僕をここまで突き動かしてきたものです。逆に言えば、ただそれだけの男です」
2人の少女は小さく息を飲んだ。
「…………伊奈帆さんに嫉妬しておられるのですか?」
伊奈帆をよく知る少女の問い掛けに少年は小さく頷いてみせた。
「はい。僕はとてもつまらない人間です」
作戦会議室内に嫌な空気が立ち込める。スレインは頭を下げたまま動かない。エデルリッゾは言葉が出掛かる度に飲み込んでいる。
「私とて個人的な怨恨で祖父を殺し皇帝位を簒奪し、憎き貴族が跋扈するヴァースを壊したつまらない人間です。私とスレインはよく似ていますね」
レムリナは小さく笑ってみせた。
「…………えっ」
スレインは恐る恐るという表現がピッタリなほど自信なく顔を上げる。そんな少年を出迎えたのは少女の優しい笑みだった。
「つまらない人間。私はいいと思います」
少年の目が大きく開かれる。体が震えた。視界が滲んでいく。
「けれどスレインは伊奈帆を討ちお姉さまが誰の手にも渡らなくなってからこの世界を全て渡すつもりですね。罪人となってしまった自分は消えて。つまらない自分が許せなくて」
スレインは指摘に何も答えなかった。ただ、何かに耐えながら顔を伏せていた。
「スレインさま……」
エデルリッゾは口に両手を当て、瞳を左右に激しく揺らして心を掻き乱している。
「私も、エデルリッゾも、ハークライトもあなたのことを大切に想っているのに。あなたの作る世界を熱望しているのに。それでもあなたは私たちを置いて消えたいのですか?」
スレインからは何の反応もない。レムリナは車椅子の中で姿勢を正し直した。そして右手をスレインに向かって伸ばしながら凛とした声で告げた。
「ヴァース帝国皇帝として命じます。スレイン。あなたが界塚伊奈帆と交戦することを一切禁じます。これは個人的な命令ですが勅命です。破れば重い罰を課します」
「………………陛下の仰せのままに」
しばらくの逡巡の後、スレインはレムリナの言葉を承諾した。
「これより我が軍はこの宙域に潜伏中の味方残存部隊を回収しつつ撤退します。そしてハークライトの国内平定が済み次第地球とは休戦協定を結びます」
レムリナが初めてみせた皇帝らしい采配だった。
「わかりました。そのように全艦に通達致します」
スレインがレムリナの命を受け入れて立ち上がったその時だった。
若い兵士が1人ブリーフィングルームに駆け込んできた。
「陛下、スレインさま。大変ですっ!」
兵士は慌てて敬礼姿勢を取る。
「そんなに慌てて何があったのですか?」
せっかく落ち着き掛けた空気が再び掻き乱されることに不快感を覚えながらレムリナは尋ねた。兵は敬礼姿勢を取りながら緊張した声色で答えた。
「デューカリオンを旗艦とする艦隊が多数のカタフラクト部隊を伴って月面基地を出航。我が艦隊が停泊する方角に向かって航行中です」
レムリナはその報告に目の前が暗くなった。
「界塚伊奈帆が僕たちの艦艇の場所を割り出して向こうから仕掛けてくるとは……」
スレインの呟きにレムリナとエデルリッゾの全身が震える。
「この宙域から全艦艇離脱します。発進を急いでください」
レムリナが檄を飛ばす。一方スレインは新皇帝に対して敬礼姿勢を取りながら上申した。
「今からだと追い付かれる可能性が高いです。僕が迎撃して撤退までの時間を稼ぎます」
レムリナの中に大きな葛藤が生じる。けれど、彼女は皇帝であって軍人ではない。取れる選択肢は持っていない。
「わかりました。けれど、私たちはあなたを絶対に生きて回収しなければいけません。あまり敵陣に深入りしないでください。そして、界塚伊奈帆との直接戦闘は避けてください」
スレインの言葉に従うしかなかった。
「御意」
スレインは一礼すると兵士とともにブリーフィングルームを足早に去っていった。
「どうして、上手くいかないんですか? 後、少しだったのに……」
レムリナは車椅子で思い切り叩いて怒りを露わにした。大きな音が鳴り響く。
「お姉さまはそんなにもスレインを独り占めしたいのですか。死ぬまで、手放さないつもりですか? 何もかにも持っているのに……それでもスレインまで欲しがるのですか」
「スレインさま……駄目、ですよ」
レムリナもエデルリッゾもとても大きな喪失感に陥っていた。
この地球軍の攻勢はヴァースの命運を大きく転換させることになることをまだ誰も気付いていなかった。
「地球軍はデューカリオンを旗艦に大小合わせて艦艇18隻。現在展開が確認されているカタフラクトの数は70機以上です」
「我が軍の3倍の戦力か。やはり物量戦となると地球が圧倒的有利ですね」
スレインは整備ハンガーに入り、ブリッジから侵攻中の地球軍部隊に関する情報を聞いて思わず苦笑してしまった。
「……界塚伊奈帆だけおびき寄せる。そう上手くはいかないということか」
周囲の兵たちに気付かれないように独り言を発する。
撤退時に痕跡を残すことで伊奈帆を誘い出す罠を張ったまでは良かった。けれど食いついてきた魚が予想外に大き過ぎた。海老で鯛を釣るつもりが気が付けばサメが近寄ってきていた。狙われているのはこちらとなってしまっていた。
「けど、敵がどれだけいようとこの艦にはデブリ一つ当てさせはしない」
スレインの表情に凄みが戻る。この船には護るべきものが多い。出撃への意欲が高まる。
現在調整中で動かせない黒い大型の機体から使い慣れた白い機体へと目を移す。
「カタフラクト隊の任務は我が軍の艦艇が地球を1周して加速し戻ってくるまで地球軍を引き付けておくこと、か」
これからの作戦の内容を復唱する。
ヴァースの宇宙艦艇は地球付近という“狭い”空間ではその性能をなかなか発揮できない。初速は地球軍の艦艇と変わりがない。地球を1周する程度の距離の加速を付けることで地球軍の艦艇では追い付けない速力を得られるようになる。
スレイン軍艦隊の今回の撤退ではサテライトベルトの外側を1周して推進力を得てから火星側に向けて退く予定になっている。
すなわち、①足止め、②サテライトベルトへの潜伏、③合流地点への移動、④地球を一周して戻ってきた艦艇に回収というミッションになる。ヴァース最高責任者のスレインが迎撃に出る以上回収は必至でありそのために複雑なミッションとならざるをえない。
そして迫ってくる地球軍が大規模であるために多くの損害が予想されている。スレイン自身、タルシスがあるとはいえ生きて帰れる保証はない。
「月周辺の残存部隊が空になった月面基地を攻撃してくれれば地球軍は撤退する。けれど、それを望むのは難しいか」
月面基地付近にはいまだ10機を超えるカタフラクトが点在して潜伏している。彼らが動けば月面基地に大きな損害を与えることができ、地球軍も艦隊の追撃を止めて慌てて退却するに違いなかった。
しかし、月面基地を奇襲したカタフラクトを回収する手立てがない。見殺しにされるのと同義なのでわざわざ敵前に姿を見せるとも思えなかった。
全滅もあり得る圧倒的に不利な状況下。それでもスレインは今の状況を内心で喜んでいる自分を理解していた。
「スレインさま……」
いつの間にか格納庫にエデルリッゾがやって来ていた。少女は不安気な瞳で少年を見上げている。
「軍事作戦発令中の格納庫に来ては危険ですよ」
スレインはエデルリッゾの肩を取って移動する。整備兵たちが慌ただしく動いている区画を離れて人のいない四隅に立つ。少女はなおも不安気な瞳で見上げてくる。その瞳が何を言いたいのかはよくわかった。
「大丈夫です。界塚伊奈帆と戦うことになるでしょうが……僕は負けませんよ」
表情を明るくしながらエデルリッゾに誓ってみせる。けれどその答えは少女を満足させてはくれなかった。
「私が望んでいるのはスレインさまの生還です。勝ち負けではありません」
少女は暗に伊奈帆との戦いに執着するなと訴えている。この撤退戦を伊奈帆と決着をつける良い好機だと考えていることを見抜かれている。
「………………ください、ませんか?」
エデルリッゾは俯きながら小声で呟いた。スレインにはよく聞こえなかった。
「あの、今何とおっしゃったのですか?」
少女はゆっくりと顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。
「アセイラム姫さまのために死ぬのではなく、私のために生きてくださいませんか?」
今度の声はハッキリと聞こえた。スレインは胸を締め付けられる痛みを表情に出さないように必死だった。
「私が姫さまに比べて何の魅力もないただの小娘であることは重々承知しています。スレインさまの瞳はいつだって姫さまばかりを見ていたのも知っています。ですが、スレインさまを想う気持ちなら……私は姫さまに負けていません」
強い意志を宿した瞳がスレインに向けられる。その一途な瞳にはどこか見覚えがあった。アセイラム姫が眠る容器が鏡となって映る自分の瞳にそっくりなのだと悟った。
想われている。それをハッキリと感じる。
そして全身が熱くなると同時に心が冷えていく。
「ありがとうございます。だけど、僕にはそんな価値はありませんよ……」
少女から目を逸らす。自分の半生を振り返ると辛い記憶ばかりが蘇る。蔑まれ叩かれて震えて、それでもヘラヘラ笑っている。他人が嫌いで自己嫌悪が付きまとって離れない。
そんな辛いばかりの記憶の中で異彩を放つのがアセイラム姫と過ごすひと時だった。幸せになれるあの暖かさがあったからこそクルーテオ卿の拷問にも耐えぬくことができた。
けれど、最近はアセイラム姫のことを思い出すと辛くなるばかりとなった。アセイラム姫を慕っていて良かった愚かで無力だが純真だった自分はもういない。姫を悲しませるだけの人間が姫を想うのはそれだけで不遜な行為。自縄自縛に陥っている。
「スレインさまにとって姫さまがそうであるように……私にとってはスレインさまが光り輝く希望なんです。価値がないなんて言わないでください」
エデルリッゾは真摯な瞳を向けている。
その一途な瞳を見て、スレインはこの少女が地球から帰還して以来、戦意に燃え選民思想に囚われたヴァースにもう馴染めなくなっていたのを思い出した。
生粋のヴァース生まれで貴族ではなくてもそれなりの家庭で育った少女は地球を体験したことで物の見方が大きく変わった。
一度は地球側として戦に身を投じた彼女が、この戦争を見せ続けられたのは大変な苦痛だったに違いなかった。故郷とはいえ地球にいた時のことをほとんど思い出せなくなっている自分よりもよほど辛いかもしれない。
「僕はいつもあなたに元気をもらっているのに悲しませてばかりで……本当にすみません」
スレインがわずかに目を伏せる。
アセイラム姫を陥れた者たちへの復讐を誓って以来、スレインにとって安息とは眠り姫の前でのエデルリッゾとの会話を意味していた。今になって思えばそのちょっとした語らいにどれほど救われてきたかわからないほどだった。
「悪いと思うのなら……絶対に生きて帰ってきてください。絶対にです」
エデルリッゾの言葉にいつになく重みを感じる。簡単に頷いてしまいたいのにそれができない。
「ですが、戦に絶対はありません。数で言えば敵は3倍。練度も高い精鋭部隊。楽な戦にはなりません」
「それでも、無事に帰ってきてください。私も、レムリナ陛下も、アセイラム姫さまもみんなスレインさまの生還を望んでいます」
少女は必死になってスレインから死の影を取り除こうとしている。そんなエデルリッゾが可愛らしく思えた。
「今からスレインさまが無事に帰ってこられるおまじないをしたいと思います」
「おまじない、ですか?」
「はい。私のこの組んだ両手がよく見えるように屈んでください」
「あっ、はい」
言われた通りに屈んでみせる。少女の頭の方がわずかに高くなった。
「スレインさま……どうか、ご武運を」
祈願の言葉と共にエデルリッゾは顔を寄せてきて、スレインの頬にそっと触れる程度のキスをしてみせた。予想外にストレートな愛情表現にスレインは呆けてしまう。
「レムリナ陛下とアセイラム姫さまと3人でお帰りをお待ちしています。どうか、お気をつけて」
エデルリッゾは深く頭を下げると小走りに去っていった。スレインが言葉を発する間もなかった。
けれど、そのメッセージが伝わっていなかったわけではなかった。
「………………生きて帰る。その優先順位を上げないと彼女にまた怒られてしまいますね」
伊奈帆を発見し決着をつけるための単身敵陣突撃プランを見直すことにした。
「さあ……戦争だ」
スレインは戦端が開かれたのを愛馬タルシスのコックピットの中でモニター画面の一つが赤く染まり上がるのを見て知った。タルシスのモニターが捉えたのは地球軍の予想進路上に設置しておいた機雷群が大爆発を起こした光景だった。
スレイン軍は今回の撤退戦で古典的な罠を張る戦術を採用した。
すなわち、①地球軍の艦艇が通りそうな箇所に機雷を多数密集させて撒いておく。②艦艇が近付いてきたところでサテライトベルトに潜む友軍機が機雷を射撃。誘爆を起こす。③サテライトベルトの中を伝って逃走する。④他の機体が次の機雷群を誘爆させる。
ヴァース軍はカタフラクトの圧倒的性能を過信してこれまで策を講じたことがほとんどなかった。ヴァースの慢心こそが地球軍に完全勝利できないでいた最大の原因だった。
スレインはその慢心をあっさりと捨てた。自軍が劣勢であることを認めて搦め手を使うことにした。
だが、満身を捨てればそれだけで勝てるという単純なものでもない。ヴァース軍はトラップの素人であり、地球軍の界塚伊奈帆は戦術の天才だった。
つい先ほど爆発した機雷群も地球軍艦艇の進路からはかなり離れたところで燃え上がった。地球軍の艦艇の速度は落ちていない。足止めに失敗している。
機雷群は進路上にまだ6つ仕掛けてあるものの足止めになるかは怪しかった。三次元に移動できる宇宙空間の中で相手の通過地点を正確に予想するのは困難なことだった。
だからこそ、機雷を運任せで運用することはできなかった。
「各機に通達する。起爆担当を除いた全機僕に付いて来てください。囮となって地球軍艦艇の進路を誘導します。なお、極力戦闘は避けてください」
部下たちに命令を告げると共に隕石の陰から飛び出していく。スレインの後ろに続いたのは8機の高機動型カタフラクト。
艦隊の護衛用に10機置いてきた。罠の発動に7機割いている。その結果スレインに従うのはわずかに8機のみ。
タルシスは1度に10機以上の地球軍カタフラクトを相手にできる。ステイギスⅡも3機は可能。だが、その性能差を加味しても地球軍は圧倒的な戦力を有している。正面切って戦えば敗北は必至だった。
「これより敵戦力の誘導に入る」
タルシスとステイギスⅡは3機ずつ編隊を組みながら地球軍艦艇の側面を突くように飛行していく。地球軍よりも遥かに高機動力を有する迎撃部隊はその懐、と呼ぶには遠いが射程内に艦隊を捉える。
「一斉射撃。撃てっ!」
スレインの合図で合計9機のカタフラクトからレーザー砲が地球軍艦隊に向かって放たれた。
地球軍艦艇のアウトレンジから攻撃を可能とする超長距離レーザー砲や光学バリアはヴァース軍が誇る超テクノロジーの産物だった。
だが、人類がアルドノアの力を手にしてからまだ30年。その技術運用はまだ低レベルでレーザー砲もバリアも完璧ではなかった。バリアには隙間が存在し、レーザー砲は細かい照準補正が効かない。超長距離からのレーザー射撃は威嚇には有効だが直撃は望めない。だが、今のこの攻撃は威嚇を狙ったものだったのでそれで十分だった。
「左陣の艦艇の速力が落ちたのを確認。これより離脱する」
地球軍の陣形がわずかに乱れたのを見て急速離脱を開始する。地球軍のカタフラクト隊との交戦を避けるためには同じ場所に留まることは許されない。
追ってくるアレイオンを振り切りながら後退していく。その際に2つ目の機雷群が爆発を起こす。機雷は今回もまた艦隊から遠い場所で大爆発を引き起こした。
爆発自体は地球軍に被害を与えなかった。だが、艦隊全体が陣形を組み直すために速度を下げた。先行するヴァース艦艇との距離を引き離すためにそれは好ましい行動だった。
カタフラクト部隊を引き離しては地球軍艦艇に牽制攻撃を仕掛け、更に機雷を爆発させて進撃を遅らせる。それを何度も繰り返したことでヴァース軍艦隊は安全圏と呼べる距離を確保しつつある。
だが、その成功は地球軍の攻撃目標がヴァース艦隊からカタフラクト殲滅に切り替わる結果を生んだ。
70機以上の地球軍カタフラクト部隊がサテライトベルトの中に潜伏するスレインたちに襲い掛かってくる。
「最初からこれが界塚伊奈帆の狙いだったのか……諮られた」
地球軍の狙いは艦隊ではなくはじめからタルシス。それに座乗する臨時政府首班のスレイン。
彼がそれに気が付いたのは逃げ込んだ先の隕石密集地帯の先で伊奈帆のスレイプニルが伏兵して待ち構えていたのを発見した時だった。
『ヴァース革命政権の首班スレイン・ザーツバルム・トロイヤードを捕らえるだと?』
現在は地球軍の手に渡った月面基地のブリーフィングルーム。界塚伊奈帆中尉は月面基地の全戦力を投入する作戦の目的について説明したところ司令官に大きく驚かれていた。
『はい。スレインさえ捕らえてしまえばこの戦争の終戦協定は地球側に有利に運ぶことができます』
伊奈帆はこの作戦の有用性をクールに訴えている。だが、作戦会議に参加していた界塚ユキ准尉は弟が私情を深く挟んだ作戦を熱く推進していることが見て取れていた。
「あの白い機体に以前スレインが搭乗していたことは私も知っている。だが、今も同じパイロットだという保証はあるまい。火星の最高権力者が前線に自ら出てくるのか?」
『はい。この左目のアナリティカルエンジンを使ってタルシスの動き方を分析したところ、99.99%の確率で搭乗者は以前と同じであるという結論に達しました。間違いなくスレイン・ザーツバルム・トロイヤードです』
伊奈帆は努めて冷静に見せている。けれど、スレインを強く意識しているのは間違いなかった。
ユキはスレインという少年最高権力者についてはあまりよく知らないが因縁は深い。
行動を共にしたアセイラム姫に地球について教えた地球生まれの少年。種子島でわだつみがファミーアン伯爵に攻撃を受けて苦戦していたところを救援にきてくれたこと。ザーツバルム伯爵の揚陸城攻防戦で伊奈帆を撃ち、アセイラム姫を連れ去ったらしいこと。
特にロシアでスレインと伊奈帆の間に何があったのかは伊奈帆本人が全く話そうとしないためによくわかっていない。だが、この1件で伊奈帆はスレインに非常に強い執着を示すようになった。それはきっとスレインがアセイラム姫の行方を知っているに違いないからだとユキは確信している。
伊奈帆が今も戦っているのは地球連合の勝利というよりもアセイラム姫捜索のため。軍人でいることがその最も近道であると考えているからだと姉は弟を分析している。
『確かに、スレインを捕らえることができれば火星から大幅な譲歩を引き出すことも可能だろう。だが、苦労してようやく奪取したこの月面基地の防備を手薄にするほどの動員が必要なのかね?』
伊奈帆は大きく頷いてみせた。
『これまでの出撃規模から、スレイン軍の部隊はタルシスとステイギスⅡが25~30機ほどと推定されます。タルシスはアレイオン10機分以上、ステイギスⅡは3機分ほどの戦力です。スレインを確実に捕らえようとすれば、カタフラクト90機、艦船は敵の3倍は必要となります』
『月面基地のほぼ全ての戦力が必要というわけか。う~む』
司令官は思案顔を浮かべている。ユキでなくても司令官の悩みはわかる。伊奈帆が言っていることは極めてハイリスク・ハイリターンな賭けだった。
スレイン軍の他にも別働隊が潜んでいたら。基地を空けた隙に奪われ返されてしまえば地球軍は再び衛星軌道上まで押し返されてしまうことになる。そうなると終戦協定で月は火星サイドのものとされるかもしれない。一つの戦闘以上の大きな意味を持ってしまう。
『戦争は今やどう終わらせるかの局面に入っています。今こそ最善を尽くして最高の未来を勝ち取るべきかと思います』
それは姉から聞けば全く弟らしくない言葉だった。軍人らしくはあるが伊奈帆らしくない臭さに溢れている。弟が内実でとても焦っていることが姉にはよくわかった。
『わかった。終戦後も火星人に大きな顔をされないためには最後にもう1度大きな勝利を挙げておかんとな』
司令官は結局折れて伊奈帆の提案を受け入れることにした。こうして、月面基地のほぼ全ての戦力を投入してスレイン・ザーツ・トロイヤードを捕獲する作戦が発動されることになった。
『ナオくん。ちょっといい?』
デューカリオンに戻る通路の途中、ユキは前を歩く伊奈帆を呼び止めた。
『何?』
振り返った伊奈帆はポーカーフェイスだった。けれど、ほんのわずかだけ目が泳いだのをユキは見逃さなかった。
『今回の作戦提案。ナオくんらしくないわ』
『どうして?』
伊奈帆は冷静を装っている。けれど、それが装っているだけのものであることはたユキが一番良くわかっている。
『大掛かりな作戦が実行されれば、勝っても負けても多くの犠牲が出るわ。そういうの、ナオくん嫌でしょ』
『僕は軍人だよ。勝利を追求するのは当然のこと』
弟はまだ認めようとしない。なので弱点を突くことにした。
『韻子ちゃんやライエちゃんを危険に巻き込むのはナオくんらしくないって言ってるの』
伊奈帆は目を床へと落として黙った。ユキは大きく息を吐き出した。
『スレインを捕まえて姫さまの居場所を知りたいんでしょ』
『………………そういう目的がないわけでもないよ』
伊奈帆はとても曖昧な認め方をした。けれどそれが弟の全面的な肯定の返事であることを姉は知っている。
『戦争が終わってからじゃ駄目なの?』
伊奈帆は表情を固くした。
『僕の勘がそれじゃあ遅いと告げている』
『一番大事なところは勘、なのね』
理屈の塊のような弟の不合理な回答に思わず苦笑してしまう。けれど、伊奈帆の言い分もわからなくもない。
『でも、あのレムリナって新皇帝はお姫さまが亡くなったって言っていたものね。お姫さまの現状はわからないけれど、きな臭い状況なのは確かね』
『レムリナという子がセラムさんの替え玉を務めてきたのは音声分析から間違いない。そこにどんな事情があるのかはわからない。けれど、確かなことはこの2年間セラムさんは表舞台に出てきていないということ』
『…………それって、姫さまはもう……』
伊奈帆の説明を聞いていると、アセイラム姫はもうこの世にいないのではないかという気がしてくる。
ヴァースに戻った後のアセイラム姫は火星人の戦意を焚き付け選民思想にどっぷり浸かった過激派となっていた。
伊奈帆の言う通り、あのアセイラム姫がレムリナが影武者を務めたものであったなら。本人にとっては極めて不本意に違いなかった。その状況がもう2年間も続いている。
それは、アセイラム姫が文句を言えない状態になっていることを意味する。死んでしまったと考えるのが一番しっくりくるのは確かだった。
『スレインが僕に執着して月までやって来るぐらいだからセラムさんは生きているのだと思う』
伊奈帆はヴァースの最高権力者が前線に出てきている理由を自分への執着だと語った。しかも大真面目に。
本来であれば一笑に付する場面。けれど、伊奈帆は確信を抱いている。そして、揚陸城の戦いで弟は実際に死に掛けた。伊奈帆にしかわからない何かがあっても不思議とは言えない。少なくとも姉としてそう考えている。
『それじゃあ、姫さまは幽閉でもされていて自由がないってこと?』
『わからない。だからこそタルシスを鹵獲してスレインを捕まえないといけないんだ』
伊奈帆は表情こそほとんど変化がないものの、その言葉はいつになく熱かった。やはり地球とヴァースの終戦交渉のことは二の次三の次だった。そんな伊奈帆に安心すると同時に別の不安も込み上げてくる。
『でも、タルシスを捕まえるなんて本当に可能なの?』
ユキにとっての最大の疑問。それは勘に基づいて発案されたこの作戦に勝機があるのか怪しいことだった。
『スレインはナオくんと仲良くしたいわけじゃないんでしょ?』
『わざわざ平定が終わらない火星を抜け出して僕を殺したいと思って月まで来るぐらいには仲が悪いとは思うよ』
伊奈帆の回答はこのミッションの達成が困難であることを間接的に物語っている。
『けれど、スレインが手勢しか率いずに月までやって来たんだから勝機はあるよ』
伊奈帆の声は自信に満ちている。
『僕たちの攻撃目標がスレインではなく艦隊であると誤認させれば敵は戦力を分散させて艦隊を護りに掛かる。そうすればスレインを丸裸にできる』
『ミスリードを誘うための総攻撃なのね』
『そう。セラムさんを救う手掛かりを得るのは今しかないんだ』
ユキはそれ以上の質問はしなかった。しても意味があるとは思えなかった。
伊奈帆の立てる作戦には一見間違いがないように思う。ただ、弟は肝心な点には答えていない。追い詰めたタルシスを鹵獲できるのかという問題に対して伊奈帆は何も口にしていない。
そしてユキにはサテライトベルトで無敵の強さを誇るタルシスを相手にしてはたとえ数十機で取り囲んでも勝てるとは思えなかった。ただ1つのやり方を除いて。
『……ナオくんが危険な目に遭っても誰も喜ばないのよ』
弟は自らタルシスを捕らえるつもりに違いなかった。伊奈帆が地球軍で最も優秀なパイロットであることは間違いない。けれど、それでもスレイプニルではタルシス相手には分が悪い。弟が無事に生還できる可能性は低い。
だから結局、この作戦は伊奈帆が焦って上申した無茶なものであると結論付けるしかなかった。
『……でも、大丈夫。お姉ちゃんがナオくんを守ってあげるからね』
ユキは大きく息を吸い込んだ。
『……僕はユキ姉の方が心配なんだよ』
弟の呟きは姉には聞こえなかった。
伊奈帆の作戦は総じて順調に運んでいた。スレインは艦隊の守護を優先しカタフラクト隊を2つに分けて自ら出撃してきた。
スレイン軍は機雷を仕掛けてくるなど予想外の行動を取ってきたが、自ら艦隊と護衛のカタフラクト隊を分離してくれた。結果的にその行動は地球軍にとって好都合となった。
スレイン軍のカタフラクト部隊は後退しながらサテライトベルトの中へと逃げ込んでいく。そして、艦隊出撃前に既に先行して潜伏していた伊奈帆率いる別働隊の元まで自ら進んで行った。全て伊奈帆の読み通りだった。
だが、伊奈帆が読めたのはここまでだった。これより先の泥臭い死闘の展開がどうなるかはアナリティカルエンジン搭載の義眼を持つ天才戦術家の少年でもわかっていなかった。わざと考えないようにしていたと言うのが実際のところだったが。
「ユキ姉に怒られるかな、これは」
次々に撃墜されていく味方機を見ながら伊奈帆は艦隊最後尾の護衛に回した姉の顔を思い出して唇を噛み締めた。
スレインの戦い方が伊奈帆が予想したものとは2点違っていた。
まず、武装が普段とは異なっていた。今のタルシスは2本のビームライフルを装備して隕石帯に潜む地球軍カタフラクトに接近戦を挑みながら1機ずつ撃破している。かつて伊奈帆が地球で倒したアルギュレやディオスクリアが装備していた光の剣を今はタルシスが装備していた。そして、タルシスの高速機動により生み出されるその剣技は剣舞と呼ぶに相応しい華麗でかつ恐ろしい物だった。
そして2点目。スレインは伊奈帆のオレンジ色のカタフラクトを認識しているのに戦いを挑んで来なかった。包囲網を敷いている地球軍カタフラクトを1機ずつ削っていた。それは、スレインが伊奈帆と雌雄を決するために月面基地までやってきたはずなのを加味すると一貫性を欠く行動だった。直接対決を避けるスレインの戦い方は伊奈帆の計算を大きく狂わせる結果になった。
「味方の撃墜数は既に9。火星軍の被害は4。このままじゃあ……逃げられる」
伊奈帆は既に火星軍カタフラクトを3機撃墜している。地球軍の戦果をほとんど1機で上げている。だが、伊奈帆がステイギスⅡしか狙えないでいる間に別働部隊は戦力が半減してしまった。包囲網は既に崩れ掛けていた。
「やはり……虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」
味方の撃墜数が11に達し、伊奈帆が4機目のステイギスⅡを撃墜したところで伊奈帆は方針を変えた。
大型ライフルを捨てて連射が速い中型のライフルに持ち変える。機体が宇宙空間に漂流しないように固定していたワイヤーを解く。サテライトベルトに流れる激しく不規則な風に乗ってタルシスへと高速で接近していく。
「行くよ……ウミネコ」
12機目の味方機撃墜を目論んでいたタルシスに向かって発砲を開始する。姉が見ていれば絶対に許さないであろう近接戦。
残り3機まで減っているステイギスⅡからビーム砲撃を受けるものの無視して更にタルシスへと接近する。そして砲撃を続けながら捕虜から聞き出した火星軍の軍用周波数に無線を合わせて大声で叫んだ。
「セラムさんを……アセイラム姫をどこにやった。コウモリっ!!」
タルシスが攻撃目標をアレイオンからスレイプニルへと変え2本の電光の刀を振り回す。
「お前には関係ない……オレンジ色っ!!」
タルシスの動きは伊奈帆の機体を無視してきた時とはまるで別物だった。直線的で荒々しい猪武者の動きだった。
だが、冷静さを欠いているという点では伊奈帆も同じだった。伊奈帆はかつてないほどに激しい怒りと焦りに駆られていた。自分が律せない。律する気にも端からならない。
「関係があるから僕はここにいるんだっ!!」
迫り来るタルシスに向かって一心不乱に銃撃を続ける。ステイギスⅡが横から攻撃してくるのにも気付かないほどに集中して。
ビームの直撃を受けてスレイプニルの左足が吹き飛ぶ。だが、伊奈帆は気にしない。タルシスと距離を取りながら射撃を続ける。
「アセイラム姫はどこにいるっ!? 何をしているっ!?」
「うるさいっ!! 地球人風情が姫殿下と少し親しくしたぐらいで思い上がるなっ!!」
「それはお前のことだろうがあっ!!」
伊奈帆の射撃がより一層激しいものになる。そんなスレイプニルに向かってステイギスⅡ1機が死角から回り込んでコックピットに狙いを付ける。だが、砲撃を開始する直前にアレイオンの攻撃によって爆発四散した。
タルシスはスレイプニルとの距離が激しい砲撃のせいで詰められない。業を煮やしたのかタルシスはビームソードの内の1本をスレイプニルに向かって放り投げてきた。
予想外の攻撃に伊奈帆も一瞬反応が遅れた。ビームソードはスレイプニルの横を掠めて飛び去っていったが左腕を抉られた。爆発の危険があったので自ら切り離してタルシスへと蹴り飛ばす。爆発によりタルシスの左足に傷がつく。
タルシスは空いた右腕で今度は実弾を放ってきた。近距離での2機の壮絶な撃ち合い。だが、未来予知により回避能力に長けたタルシスと義眼の力で銃撃を正確に読み取れるスレイプニルはどちらも当たらない。
だが、いつか届くと信じて2機のカタフラクトは撃ち合いを止めない。
「アセイラム姫殿下は僕が護る。そして僕が全ての悪を排除して姫殿下にもう誰も苦しまないで済む理想の世界を実現してもらうんだぁあああああああぁっ!!」
スピーカー越しに聞こえるスレインの声は絶叫。というか、どこか狂気に陥っていた。伊奈帆がスレインと対話したのはこれが3度目。
種子島上空で会話した時は常に敬語調だった。ザーツバルム伯爵の揚陸城で話した時はとても冷たい声だった。そして今回、彼は鬱屈した感情をあらん限りに吹き出させていた。
「やはり君がセラムさんを傀儡にしているのか」
伊奈帆は自分では冷静な切り返しをしたと思った。けれど、その声は怒りに満ちたものだった。アセイラム姫が関わると伊奈帆は静かに、だが確実におかしくなる。
「黙れぇええええぇっ!!」
「君の操り人形にされたんじゃアセイラムさんは絶対に幸せにはなれない。君の存在は彼女を不幸にする」
「そんなこと……お前に言われなくてもわかっているんだぁあああああああぁっ!!」
タルシスの銃撃が照準を合さずにただ乱射してくる。だが、意図が見えない射撃の方が伊奈帆にとっては嫌なものだった。予測も計算も立てられないのだから。
タルシスの銃撃が数発命中して機体の一部に穴が空く。だがそれでも伊奈帆は退かない。感情の爆発の仕方が違うだけで伊奈帆もまた狂っていた。自分の命が惜しいと全く思わなくなっている。伊奈帆も至近距離で砲撃を続けてタルシスの機体に傷を付けていく。
「セラムさんの幸せを思うならお前は今すぐ彼女から手を引けっ!! これ以上彼女を政争に利用して貶めるなっ!!」
「貴様に偉そうに説教されずとも、姫殿下を害する全ての敵を消し去れば……僕も消え去るだけだっ!!」
「簒奪した火星を放って置く気とは大したヴァース最高責任者さまだな」
スレイプニルの右腕が吹き飛ぶ。これで伊奈帆は全ての武装を失ったことになる。もはや伊奈帆にスレインと戦う力はない。だが──
「死ね、界塚伊奈帆っ!!」
「僕はね、コウモリ。君と1対1で戦っているわけじゃないんだ」
伊奈帆は戦闘力を失った機体の中で不敵に微笑んだ。そしてその言葉は単なるハッタリではなかった。
いつの間にか地球軍カタフラクトの本隊が戦場に到着していた。総勢80機を超すアレイオンの長距離ライフルはタルシスと2機のステイギスⅡに狙いを付けていた。
「堕ちろ……タルシス」
全方位からの一斉射撃が3機の火星軍カタフラクトに向かって間髪入れずに放たれた。
「クソぉっ! 後1歩だったのにぃっ! どうして僕は……いつもこうなんだぁあああああああぁっ!!」
2機のステイギスⅡは雨あられと降り注がれる弾丸を食らって一瞬にして爆発四散した。
だがタルシスは未来予知の能力をフルに発揮して一斉射撃を避けた。何発か被弾したものの機動力は失われていない。逆にビームサーベルを構えて囲みの薄い部分に向かって突撃を仕掛けてきた。
だが、地球軍の大カタフラクト部隊の銃弾の嵐に遮られ動けない。身動きを完璧に封じられようとしている。タルシスの逃げ場はもはや存在しない。
伊奈帆は勝利の確信を抱いていた。
「えっ? 全軍に、撤退命令…………?」
緊急退却を告げる緑色の照明弾を目にするまでは。
照明弾によって包囲に綻びが生じる。タルシスはその隙間を縫って急速離脱していく。
「どういう、こと、だ?」
逃げていくタルシスを呆然と見上げる伊奈帆。
信じられないその突然の撤退命令は目と鼻の先まで近付いていた伊奈帆の勝利を水泡に帰してしまうものとなったのだった。
地球軍艦隊最後尾の警戒任務に当たらされていた界塚ユキはアレイオン機内で不貞腐れていた。
「ナオくんったら、私に怒られると思ってわざと一番遠いところに配置したわね」
弟は艦隊の遥か前方で潜伏中。スレインの乗るタルシスが罠に掛かったらすぐに強襲することになっている。
「帰ってきたら、みっちりお説教してあげないと」
作戦終了後に姉を邪険にした弟をお説教する場面を想像する。少しだけ気分がスッとする。けれど、冷静になるほど不安が押し寄せてくる。
「タルシスを捕まえるなんてそんなこと……本当に可能なの?」
伊奈帆は無茶な作戦を提案していた。その提案を成功させるには伊奈帆が無茶をしなければならない。
幾ら最優秀なパイロットとはいえ、タルシスと戦って伊奈帆が無事に生還できる保証はどこにもなかった。
「ほんと、ナオくんが帰ってきたらキツイお説教が必要だわ」
伊奈帆の生還を素直じゃない表現方法で祈る。だが、祈っているだけではどうにも不安が収まらない。
「どれ。ナオくんがどんな状態か確かめさせてもらいましょう」
伊奈帆の機体内音声を本人に秘密で拾えるように細工しておいた。未成年者の保護者ということでマグバレッジ艦長を説き伏せたのだった。その細工の成果を今見せてもらうことにした。
『アセイラム姫はどこにいるっ!? 何をしているっ!?』
『うるさいっ!! 地球人風情が姫殿下と少し親しくしたぐらいで思い上がるなっ!!』
『それはお前のことだろうがあっ!!』
いきなり2人の少年の激昂した音声が流れ込んできた。伊奈帆がスレインと戦闘状態に突入しているのはまず間違いなかった。
「ナオくん……無事に帰ってきて」
聞いているのが怖くなって通信を切りながら膝を抱えて両手を組む。震える身体で弟の無事を必死に祈る。
あんなにも感情を爆発させた伊奈帆の声は聞いたことがなかった。伊奈帆は激情に身を支配されている。普段と違う弟が無事に帰ってこられるのか祈って縋るしかなかった。
だが、哨戒任務中の彼女には祈りを捧げている暇もなかった。
アレイオンのセンサーは物体の接近を感知して大きな警告音を鳴らした。我に帰ったユキはすぐにモニターで照合に掛けた。
「何よこれ? 地球から多数の火星軍機体が宇宙に上がってきている?」
モニターに映った正体不明の反応は1つではなかった。100以上の赤い点の反応が映っている。地球上の至る陸地からヴァース軍が宇宙へと上がってきていることを示していた。
「デューカリオン。応答してください。地球から多数のヴァース軍が宇宙へと上がってきています!」
当然デューカリオンのセンサーもこの事態を捉えているはずだった。だが、何故突然こんな事態になったのかは理解ができない。
地上の地球連合政府もこの事態に気付いたようでミサイルを次々に発射して宇宙に上がろうとするヴァース軍を撃ち落としに掛かっている。
撃墜している機体もあるようだが、多数は宇宙空間へと上ってきている。そして上がってきた輸送機を中心とするヴァース軍はみな一様の進路を取り始めた。
「この連中は月面基地に向かっていると言うの? 防備が薄くなっている基地が狙われたら一大事だわ」
何度計器を見返してもヴァース軍の数だけなら大部隊は月面基地へと向かっている。早急な対応が求められているのは明らかだった。
司令官が月面基地防衛のために全軍撤退を命じたのはこの1分後のことだった。
「地球軍全軍の撤退を確認。スレインさまは無事です」
スレイン艦隊の旗艦内のブリーフィングルーム。兵士の報告を聞いてエデルリッゾは心の底から安堵の息を漏らした。そして同時にスレインの命を救う機転を効かせた人物に深い感謝の念を抱いた。
「レムリナ陛下のおかげでスレインさまのお命が救われました。本当にありがとうございます」
エデルリッゾはレムリナに向かって深く頭を下げた。
「スレインはこれからのヴァースにとって必要不可欠な人物です。救うのは当然です」
レムリナは軽く目を閉じた。
「たとえ、何百名の生命と引き替えにしても」
「それは……」
少女皇帝の一言にエデルリッゾの心は再び沈み込んでしまう。
レムリナの思い付いたスレイン救出のための奇策。それは地球上のアルドノアドライブを再活性化することだった。
レムリナがアルドノアを停止させたことにより地球上のヴァース軍は一部の地域を除いて壊滅状態に陥っていた。ほとんどの貴族が討たれ軍組織としてはほとんど機能していない。だが、地球内にいまだ多くの兵が潜伏しているのも事実だった。彼らの中には多少の戦力を隠し持っている者もいる。レムリナが目を付けたのはそんな者たちだった。
少女皇帝は地球上のアルドノアドライブを再起動させ、火星への帰還を望む者は月面基地に結集するように勅令を発した。
アルドノア回復からわずか数分で100を超える輸送機が地上から宇宙へと上ってきていた。また、宇宙まで飛ぶ足を持たない者の中には地上で地球軍と交戦を始めた者もいる。地上も宇宙も大きく混乱していた。
だが、総じて言えばヴァース軍は既に揚陸城も専用カタフラクトも指揮官である貴族階級も失い烏合の衆と化している。だからやがては鎮圧される運命にある中での混乱だった。
「月面基地は地球軍に占領されています。幾ら防備が手薄になっているとはいえ、輸送機と戦車程度で落ちる基地ではありません。月まで辿り着けたら地球軍に投降するように後で伝えておいてください」
「かしこまりました」
兵士はレムリナに向かって一礼すると作戦室を出て行った。
「完全武装した地球軍の大部隊と鉢合わせして月まで辿り着ける者はどれほどいるでしょうかね?」
レムリナの声はサバサバしていた。エデルリッゾは身震いして答えられない。
「元々見殺しにすると決めた者たちです。私という大罪人が彼らの生き死にをまた弄んだところで何も変わりません。私は既に許されざる者ですから」
エデルリッゾはレムリナから何か諦念のようなものを感じた。とても深い哀愁を感じてしまう。就任したての新皇帝とは思えない影を纏っている。
「私にとってはスレインの命が何より大切なのです。だから彼を守るためにどんな悪名が轟こうと構わない。そんな私をあなたは軽蔑する?」
レムリナの挑発的な瞳。より正確には挑発的と見せ掛けて戸惑っている瞳がエデルリッゾを捉えて放さない。
「………………私にレムリナ陛下を非難することはできません。どんな手段を使っても良いのでスレインさまには助かって欲しいと願っていました。でも、私にはその方法が浮かびませんでした。だから、私は陛下の御知恵の深さに感服しています」
皇帝付き侍女は背筋を伸ばしたまま頭を深く深く下げた。
「……あ~あ。私はやっぱり損な役回りなのね」
レムリナはエデルリッゾの肩を強めに叩いた。
「……後は、頼みましたよ」
「えっ? レムリナ陛下?」
レムリナはエデルリッゾには答えずに大きく背伸びをしてみせた。
「さて、スレインはもうすぐ帰ってくるわけですから……彼に対する罰を考えてないといけませんね」
「罰、ですか?」
エデルリッゾは大きく首を傾げた。
「勅命を破って界塚伊奈帆と死闘を繰り広げた件です」
「…………あっ」
侍女少女の顔が再び曇る。
「エデルリッゾも一緒に通信は聞いていたでしょ。スレインが伊奈帆という彼とそれは熱心に戦っているのを」
「…………はい」
エデルリッゾは小さく返答した。2人はスレインと伊奈帆のやり取りを最初から最後まで聞いていた。エデルリッゾにとっては頭がおかしくなりそうな瞬間だった。最も見たくなかった戦い。そして、2人が争う理由が余りにも身につまされた。
「スレインもあの伊奈帆もお姉さまに夢中ね」
「はい」
「…………私たちって一体何なのでしょうね?」
「………………わかりません」
エデルリッゾは涙が零れそうになるのを必死に耐える。
「スレインも最初はよく自重したと思うわ。あなたのお願いをよく聞いていた」
少女は答えない。必死に耐え続けている。
「でも、伊奈帆が回線に割り込んできたら駄目だった。お姉さまが話題に登ったらもう興奮しっ放し。スレインのあんな怒鳴り声、初めて聞いたわ」
「私も、です」
スレインとは知り合ってもう4年以上になる。落ち込んでいる姿なら、悲しんでいる姿なら何度も見てきた。でも、怒り狂う姿は見たことがない。
伊奈帆を相手にしてアセイラム姫が話題になった時にしかずっと鬱屈を続けてきているに違いない心からの怒りを露にはしない。
少女にとってそれは自分相手では怒る価値もないと言われているようで嫌だった。
「そしてスレインは事がなったら死ぬつもりなのを崩してない」
エデルリッゾは思わず皇帝から目を逸らしてしまった。一番嫌だった点を指摘されてしまった。
出撃前の懇願をスレインは受け入れてはいない。死にとり憑かれたまま。
少女の気分はどこまでも重くなる。今回の出撃ではレムリナの機転で生き延びることができた。けれど、次にまた伊奈帆と戦うことになれば。スレインが自分の命よりもヴァースの未来よりもアセイラム姫への執着を優先する可能性は十分考えられた。それはとても悲しくて悔しくて腹立たしい思いを掻き立てる。
「…………お姉さまは本当にずるいわ」
不覚にも、レムリナの呟きにエデルリッゾは同意してしまった。
「ねえ、お姉さまってどんな方なの?」
エデルリッゾはレムリナと共にもうすぐ帰還するスレインを出迎えるべくアセイラム姫が眠る格納庫へと移動していた。移動した先でレムリナは切なそうに姉を見上げながら尋ねてきた。
「私は、起きているお姉さまとは一度も会ったことがないからどうしても気になるの。替え玉までしてるのにお姉さまのことを何も知らない。おかしいわよね」
「すみません」
いたたまれなくなってエデルリッゾは頭を下げた。
姉妹と呼ぶにはあまりにも歪な関係。アセイラム姫について振る舞い方を指南したのが自分であることが今更ながらに重くのしかかる。
「あなたは先代ザーツバルム伯爵とスレインの言い付けを守ってきただけ。悪いことは何もしていない」
「ですが…………」
「彼らが求めたのはお姉さまの立ち居振る舞い方の習得。ザーツバルム伯爵もスレインもそれぞれの理由でお姉さまの人柄や性格には触れて欲しくなかったんでしょう」
私もです。エデルリッゾは心の中で付け足した。
少女にとってアセイラム姫の影武者はあくまでも偽者でなければなかった。
もしレムリナの中身まで姫と似てしまったら。本物のアセイラム姫がどこにもいなくなってしまうようなそんな怖さをずっと感じていた。
だからエデルリッゾが話すアセイラム姫の人柄はどこか偶像化掛かっていて人間味を感じさせないものばかりだった。それはレムリナに姉への反発を増幅させたのかもしれない。
「スレインにとってお姉さまが特別な存在の理由って何かしら? どうしてお姉さまのために全てを捧げられるの?」
エデルリッゾは溶液の中で眠り続けるアセイラム姫を眩しく見上げた。アセイラム姫が地球に降りる前の一場面が思い出される。スレインが地球の話をし、アセイラム姫が楽しそうに質問する光景。
「それは多分……スレインさまにとってアセイラム姫さまがたった1人の友達。だったからだと思います」
レムリナは目をしばたかせた。
「友達、なのですか? 恋人ではなく?」
エデルリッゾは小さく頷いてみせた。
「当時のスレインさまは私も含めたヴァースの全員に嫌われていました。身寄りもなくとても辛い生活を送っていました。そんな中、たった1人だけスレインさまを大切に思い親しく接していたのがアセイラム姫さまでした」
ヴァースに極度の地球蔑視感情を植えつけたのはアセイラム姫の父であるギルゼリアだった。だが、その娘は父の思想とは全く真逆の地球観を持っていた。地球から来たスレインに親しく好意的に接していた。それは不思議なことであり、当時のヴァースの関係者には不都合な関係だった。エデルリッゾも嫌悪感を丸出しにしてよく怒られた。
「2人の関係は確かに友達でした。スレインさまはそんな姫殿下の中に生きる希望を見出していたのだと思います」
もし当時からスレインにほんの少しでも好意的に接していたら。スレインは全く違う人生を歩んでいたのではないか。少なくとも血塗られた覇道を歩むことはなかったかもしれない。そんなことを考えて少女の気は更に重くなる。
「スレインにとってお姉さまは初恋の人、なのよね?」
エデルリッゾは少し困った表情を浮かべた。
「実はその辺も曖昧かもしれません。傍から見れば恋なのだと思います。でも、スレインさまがどう認識していたのかはわかりません。スレインさまにとって姫さまはこの世界で唯一心を寄せることができる方。愛情とか友情とか忠義とか分けられなかったと思います」
「…………そんな風に心を寄せられる方が1人でもいたなんて。スレインが羨ましいわね」
レムリナはとても寂しそうな表情を浮かべて容器を軽く叩いた。
「それで、お姉さまはスレインのことをどう想っていたのかしら?」
アセイラム姫がスレインについて語っている時のことを思い出す。姫の楽しそうな笑顔が脳裏を過った。
「…………仲の良い友達。それが一番しっくり来る表現だと思います」
「お姉さまに恋愛感情はなかったと?」
「それはわかりません。もし、スレインさまが恋慕の情を伝えていたら……姫殿下も答えていたのかもしれません。でも、あのおふたりは、やっぱり恋とか友情とか未分化の関係なのだと思います」
エデルリッゾは言及しなかった。アセイラム姫が伊奈帆に向ける感情はもう少しわかり易く恋愛寄りであることを。
「私やあなたはそんなお姉さまに2年経っても勝てない。ということなのね」
エデルリッゾは返事をしなかった。すれば辛くなるから。
「私はやっぱり、お姉さまを心からは好きにはなれそうにありません」
レムリナは寂しそうに俯いてみせた。
「そろそろ、スレインがここに戻ってくるころね」
「そう、だと思います」
エデルリッゾは生命維持装置のモニターの時計を見ながら返答した。
結局、今回出撃して帰ってくるのはタルシスとサテライトベルトに隠れていたステイギスⅡが4機だけ。11機が撃墜された。
そして、地上から宇宙へと脱出を試みている者たちの損害も考えると死者はもっと多くなる。やり切れない気持ちが胸を締め付ける。
「…………では、賭けを、しましょう」
レムリナはエデルリッゾの手を握ってきた。突然の提案に戸惑いがどうしても顔に出てしまう。
「賭け、ですか?」
「そう。私がスレインの一番になれるかどうかという賭けです」
エデルリッゾの手を握る力が強まる。
「それは……でも……」
エデルリッゾは遠回しにレムリナには勝ち目がとても薄いことを伝えようとする。けれど、少女皇帝は無邪気そうに笑ってみせた。
「それじゃあ賭け金として……私とお姉さまの命を賭けましょう」
「えっ?」
侍女少女はレムリナの言葉の意味を吟味する暇がなかった。両足が宙に浮き後方へと飛ばされたのだから。尻もちをついて床の衝撃を脳で感じてからようやくレムリナに突き飛ばされたのだと気が付いた。
「皇帝陛下?」
何故レムリナが自分を投げ飛ばしたのかわからない。理不尽に投げられた怒りよりも疑問が先に湧き出た。
一方でレムリナはエデルリッゾを突き飛ばしたことに関しては説明せず、生命維持装置を管理するパネルの前へと移動する。そしてタッチパネルに指を触れながら宣言した。
「今からお姉さまの生命維持装置を停止させます」
レムリナの宣言にエデルリッゾは驚愕した。
「な、何をご冗談を言っておられるのですかっ!?」
「冗談でこんなことは言いません」
レムリナは幾つも光っているアイコンの内の1つを指で押してみせた。アイコンの光が消え、それに連動して脈拍を測るモニターが停止する。
更にレムリナは幾つものアイコンを押していく。次々と消えていくモニターと室内の電灯。暗くなっていく室内はアセイラム姫の命の終焉を感じさせた。
「やっ、止めてくださいっ!!」
エデルリッゾが形相を変えながら身体を割り込ませてレムリナを止めに掛かる。だが、レムリナは妨害を受けながらもアイコンを押していく手を止めない。
「私にとってお姉さまは憧れでした」
「えっ?」
「美しくて、心優しくて、人々に愛されて。私が持っていないものを持っていて」
レムリナは淡々とした声で慈しみの表情をもってアセイラム姫を見上げている。
「じゃあ、何でこんなことをするんですか!? 装置を止められたら姫さまが死んでしまいますっ!!!」
エデルリッゾは全身に力を込めて車椅子を押し返そうとしながら必死に訴える。レムリナは、光っているアイコンが1つだけになってしまったパネルを押す手を止めて暗くなった容器を見た。
「お姉さまと本気で勝負をするためです」
「本気で勝負って……?」
エデルリッゾにはレムリナが何を言っているのかわからない。けれど、レムリナはもう自分の行動を迷わなかった。
「お姉さま……勝負です」
レムリナは最後に残った中央のアイコンに向かって手を伸ばす。
「それだけは、しちゃいけませんっ!!!」
エデルリッゾはレムリナを押し戻そうと懸命に皇帝少女の身体を押す。だが、体格に劣る少女ではレムリナの勢いに抗えない。
レムリナの白く細い指が最後のアイコンを──
触れようとしたところでレムリナの身体は車椅子ごと斜め後ろに向かって吹き飛んだ。
床に叩きつけられるレムリナ。その腹部からは大量の血が流れ出している。
「えっ? えっ? ええっ?」
エデルリッゾには何が起きたのかわからない。けれど、レムリナから流れ出る大量の血が単に床に叩きつけられて傷付いたものでないことを理解する。
恐る恐る振り返る。
そこには、スレインが無言で俯いて立っていた。その右手にまだ硝煙の臭いを発する拳銃を握った状態で。
「私の……勝ちですね……お姉さま…………っ」
レムリナは血だらけの上半身を必死に起こしながら自分を撃ったスレインを見て満面の笑みを浮かべていた。
EPISODE.03 界塚伊奈帆
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