No.770502

艦これファンジンSS vol.31「蒼穹に叢雲」

Ticoさん

くもくもして書いた。やっぱり反省していない。

というわけで、艦これファンジンSS vol.31をお届けします。

叢雲さんの改二が実装されましたね! 初期艦が叢雲な提督としてはうれしい限りです。

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2015-04-12 08:31:56 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:992   閲覧ユーザー数:988

 その部屋は、壁も床も天井も、一面のっぺりと白い。

 空間把握がおかしくなりそうな部屋の片隅に、少女は膝を抱えて座っていた。

 抜けるように白い肌、長いさらさらとした銀の髪。

 顔からは一切の表情が消えうせ、赤みがかった橙の瞳は、うつろだった。

 あばらが浮いて見えるほど身体にぴったり張りついた白い服。

 折れそうなほど細い足を包む黒いタイツ。

 あまりにも華奢に見えるその身体に、金属質の無骨な機械がまとわりついている。

 そして、その首には、黒光りする大きな首輪がはめられていた。

 それだけではない。両の手首にも、足首にも、枷がはめられている。

 手足の枷からは太い鎖が伸び、壁面に固定されていた。

 少女がかすかに身じろぎすると、鎖がかすかにじゃらりと音を鳴らす。

 そのたびに彼女は思うのだ。

 ――ああ、彼らはこれほどまでに、自分が怖いのだ、と。

 この身を包む服も、身にまとう金属の装備――艤装も、彼女を繋ぎとめる枷なのに。

 それでも、なお、目に見える形で拘束しないと、人間たちは怖くて仕方がないのだ。

 首の枷は、万が一の場合には電流が流れ、彼女を昏倒させる仕組みになっている。

 殺すなどということはしない――彼女は貴重なサンプルだった。

 少女は、自身が受けている仕打ちが非人道的なものだと承知していた。

 それも仕方がないのだ――彼女は、人ではないのだから。

 人の姿をしながら、人にあらざる力を持つ、人ではないもの。

 ありていにいえば、それは化け物だ。

 化け物を繋ぎ止めようとするのは、自然な心理だろう。

 もう百回以上は繰り返しているそんな思考が、ふっと途切れたそのとき。

 白い壁にすっと筋が入った。扉が開けられたのだ。

 入ってきた人物の服は白かったが――いつも目にする白衣ではない。

 それが軍隊の制服だと彼女は知識で知っていた。

 顔をわずかにあげ、その制服の人物の顔を見る。

 壮年に見えたが、目の光は若々しく、しかし老人のようにどこかくたびれている。

 そんな印象の男だった。

 彼は、そっと彼女に歩み寄ってきた。

 その足取りには、怯えも躊躇いもない。それが少女には意外ではあった。

 彼がひざまずき、彼女の手をそっと握った。

 そして、もう片方の手には――鍵がある。それを手首の枷に差し込む。

 ぱちり、と音がして枷がはずれた。はずれた枷を彼は手に取り、静かに床に置く。

 そうして、もう片方の手も、そして足首も、それぞれ枷をはずしていった。

 その様子を、少女はかすかに目をみはりつつも、されるがままになっていた。

 男が何をしようとしているのか、すぐには理解できなかったのだ。

 ただ、その手つきが、優しく、彼女を気遣っていることは感じ取れた。

 彼の手が、少女の首枷に伸びる。

 そして、やはり、ぱちんと音がして、それがはずされる。

 ひざまずいていた彼が立ち上がり、そして身をかがめて、そっと手を差し出す。

 少女は、その手を見つめ、しばし呆然としていたが――自分の手を伸ばした。

 手を握ると、彼がしっかりとした力で、少女を引き起こした。

 戸惑い気味に立ち上がった彼女を見つめて、彼は言った。

「――はじめまして、というべきかな」

 たしかに、初めて会う人物だった。

 礼儀で言えば名乗るべきだろう。だが、自分の名を何と言えばいいのか。

 自分に与えられたのは、ただの番号にすぎないのだから。

 だが――そんな考えを見透かしたのか、彼は言った。

「さすがに、甲種検体七〇四号では呼びにくいな」

 そう言って、彼はふわりと笑んでみせた。

「だから、君に名前をあげようと思う。勇敢で、そして美しい名前だ」

 彼の声は、とっておきを贈るような、どこか弾んだ響きだった。

「君の名前は――」

 続く言葉を聞いて、うつろだった少女の瞳に、確かな光が宿る。

 思えば、あの時、自分はようやく“艦娘”として生まれることができたのだろう。

 駆逐艦、「叢雲(むらくも)」。

 それが彼女の艦娘としての名前である。

 

 「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。

 それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。

 階級の区別がない艦娘たちにとって、鎮守府にどれだけ古くからいたか――古参であるかどうかは、先輩後輩の区別をつける以上に重要なランクづけだった。にもかかわらず、最古参といえる「初期艦」が艦娘たちの話題に上ることは少ない。それは、提督自身がそう望んでいたことであり、その意を受けて一部の艦娘が工作した結果であり、そしてなにより、彼女自身が求めたことでもあった。

 

「――叢雲ちゃん、叢雲ちゃんってば」

 名前を呼ばれて、彼女は、はっと我に返った。

 海を駆けながら、ふと空を眺めているうちに、ぼうっとしてしまったらしい。

 顔を向けると、先頭を行く旗艦の艦娘が心配そうな顔で寄せてくるのが見えた。

 お団子にまとめた黒髪、くりくりとよく動く大きな目。

 身にまとった制服はいささか装飾過剰でステージ衣装のようだ。

 アイドルを自称する彼女からすれば当然のデザインなのかもしれないが。

「だいじょうぶ? どこか具合でもわるいの?」

「なんでもないわよ、那珂(なか)」

 ややむすりとした声で叢雲は答えた。呆けていたのが自分らしくもない上に、それをこともあろうにこの子に見とがめられるとは、いささか不本意だ。

「ちょっと――そうね。昔のことを思い出していたのよ」

「空を見ながら?」

「ええ、こんな空を見てたらね」

 そう答えると、不思議そうな顔をしながら、那珂が頭上を見上げた。

 叢雲もそれに続いて、空を見上げる。

 春先なのでそれほど色濃くはない蒼穹。

 その青空にレースのカーテンを敷いたような高層雲。

 雲と雲の隙間から空の青がこぼれてくるようで、日の光はどこか穏やかである。

 まるであの時の空のようだ――そう思っているうちに、記憶に溺れていたらしい。

(いけないいけない、この艦隊の次席なのに、しっかりしなきゃ)

 叢雲がそう言い聞かせていると、

「空を見て昔を思い出す――うーん?」

 那珂が難しい顔をしながら腕組みをしてみせる。

「叢雲さんの昔ってことは相当前ですよね」

「わたしたちが鎮守府に来る以前か」

「なんたって鎮守府最古参ですからね、年季が違いますもん」

「……提督の言えない過去とか知ってそう……」

 後ろに続く部隊のメンバーが口々にそうさえずる。

 叢雲はやや頬を染めて、こほんと咳払いし、ぱんぱんと手を叩いた。

「ほら、そろそろ鎮守府よ。しゃきっとする!」

 そう言うと、後続の子たちが揃って「はーい」と返事し、次いでくすくすと笑った。

 空を見て呆けていた叢雲が、いつもの鬼軍曹っぷりを見せたのがおかしいのだろう。

 ふうと息をついた彼女に、並進する那珂が言った。

「それにしても急な帰投命令ってなんだろうね。任務切り上げられたのはいいけど」

「知らないわよ。鎮守府に帰ったら分かるんだから、いま考えても仕方ないでしょ」

 

 鎮守府の桟橋に戻ってきた叢雲たちは、意外な人物が出迎えに来ているのを認めた。

 潮風になびく長い黒髪、凛とした顔立ち、身にまとう武人の雰囲気。

 遠目からでも、その気迫が伝わってくるようである。

 艦隊総旗艦の長門(ながと)だ。

 那珂をはじめ、続く艦娘が思わず背筋をしゃんと伸ばした。

 叢雲はというと、眉をひそめながら、

(長門が出迎えに来るなんてめずらしいわね)

 と思っていた――が、長門の目がずっと自分に向けられているのに気づいて、

(なるほど。わたしのお迎え、ってわけね)

 そう考えると納得がいく。

 まったく、あの艦娘は、あの時以来、自分に対する礼を欠かそうとしないのだ。

 叢雲たち一行が桟橋までたどり着いた。

 横一列に整列し、揃って敬礼をする。

「第四艦隊、ただいま任務より帰還しました」

 那珂が真面目な声でそう報告するのに、長門が敬礼を返し、一言、

「ご苦労だった」

 短くそう言い、敬礼を解く。

 それを見て、艦隊の皆がほっと息をつき、ぞろぞろと桟橋に上がり始めた。

「長門さん、報告書はいつもどおり、今日中でいい?」

 那珂がそう訊ねるのに、長門は無言でうなずいてみせる。

 それを見て、那珂が艦隊の子たちを振り返って、満面の笑みで、

「じゃあ、みんな、甘いものでも食べにいこっ! 那珂ちゃんがご馳走しちゃうよ」

 その言葉に、艦娘たちがわっと歓声をあげる。

 あんみつだ、みたらしだ、アイスだ、と賑やかに声をあげて歩いていく少女たち。

 それを、叢雲は、黙って見送った。

 ちらと那珂が振り返ったが、手で合図してみせると、心得たようにうなずく。

「――あの子、能天気だけど、こういう察しがいいのは助かるわね」

 そうつぶやくと、長門の方を向いて、叢雲は訊ねた。

「それで? わたしに用なんでしょう?」

「はい。正確には提督が叢雲どのにご用なのです」

 普段の長門を知っている艦娘なら、その言葉遣いに驚いたことだろう。

 叢雲は眉をひそめて、やれやれと頭を振ってみせた。

「あのねえ。前から言ってるけど、そんなに改まらなくていいわよ? わたしはただの初期艦で最古参ってだけで、格で言えば戦艦のあんたの方が上なんだから」

 その言葉に、長門が困ったような顔をしてみせる。

「初期艦で最古参という艦娘に、“ただの”という言葉が合うとは思えません」

 長門が、じっと叢雲を見つめる。その眼差しを見て、叢雲はふうと息をついた。

 共に深淵を知る者どうしだ。

 教えたのは叢雲で、教わったのは長門。

 その関係は、師弟にも、あるいは姉妹にも似たものかもしれない。

「まあ、いいわ。それで、提督はいつもの部屋で書類と格闘中かしら?」

 そう言って、叢雲は髪をかきあげた。

 波しぶきのついた銀の髪から、海水の雫が玉のように散った。

 

 

 「マホガニーの扉」。

 提督執務室の別称でもある。

 ひときわ重厚で立派なその扉の向こうの部屋は、普通の艦娘には敷居が高い。

 ここに呼ばれるということは、ある意味、艦娘にとってろくでもないことだからだ。

 だから、執務室に来いと言われた艦娘は、大概が部屋の手前で息を整える。

 しかし、叢雲にはそんな準備など無用の行為だった。

 ごく自然な足取りで長門と共に歩いていき、音高くノックをする。

 部屋の中から返事があるのを聞いて、叢雲は気負った様子もなく扉を開いた。

 磨き上げた飴色の床に、毛足の長い青い絨毯が敷かれている。

 その端に、重厚な黒い執務机があり、その上には書類の山脈が築かれ。

 そして、その紙とインクの尾根の向こうに、白い制服に身を包んだ男が座っている。

 提督。鎮守府の主、艦娘たちの司令官。

 その姿を認めて、叢雲はにやりと笑みを浮かべた。

「相変わらず『書類を主敵として余力を以って深海棲艦と戦う』状況ね」

 その言葉に、提督が手にしていた書類をぽんと机の上に置き、

「いっそ放っておいたら、そのうちどこかに消えてなくならんかな」

「はあ? なに言ってるの。あんたが片付けないで誰が片付けるのよ」

 提督の返しに叢雲がまなじりを吊り上げて言うと、提督がふっと笑んだ。

「それもそうだ――元気そうだな、叢雲」

「おかげさま、かしらね」

 そう言って、ようやく叢雲が敬礼をしてみせる。

 提督も敬礼を返し、それを解いてから、表情を改めて、

「ここに呼んだのは他でもない――君の第二次改装の計画がある」

 その言葉に、叢雲が怪訝そうな顔をした。

「わたしの――再改装?」

「そうだ。大本営から提案という形をとった、命令でな」

 叢雲の表情が曇った。その眼差しが棘を含んだものになる。

「あんたも知ってるでしょう? わたしは初期艦。普通の艦娘とは普段から負荷のかかり具合が違う、って。そこに再改造なんてしたら、心身がもつか分からないわ」

「わかっている。だが、大本営の意向に正当な理由なく抗議する事はできない」

「あら、わたしが危険だっていうのは正当な理由にならないのかしら」

「――駆逐艦がひとつ、失っても代わりは効く、という判断だ」

 叢雲は提督をにらみつけ、ぎりと歯を噛み鳴らした。

「――魂が、耐え切れるわけないじゃない」

「……それも含めて、上層部は実験してみたいらしい」

 その言葉に、叢雲は軽くめまいを覚えた。

 記憶が瞬く。

 何度も腕に刺された注射と、さんざん悩まされた薬の副作用。

 鋼の艤装から流れ込む情報と、自身の精神が軋みあう苦痛。

 そして、白い部屋に繋がれ、次の実験を待つ日々。

 この人は――そこから助けてくれたはずなのに。

 よろけそうになる身体を支えたのは、心に残っていたプライドだった。

 うめくように、叢雲は言った。

「守って、くれないんだ……」

「いまの俺には――守るべきものが、多すぎるんだ」

 そう答えた提督は、くたびれて見えて。

 その姿に叢雲は、怒りと同時に――哀れみも、感じた。

「…………まあ、わかったわ。やってみないとわからないでしょうし」

 しばしの沈黙のあと、叢雲はようやく言葉を搾り出した。

 提督をにらみつけると、彼はまっすぐに叢雲の視線を受け止めた。

 叢雲の鋭い視線にひるんだ様子もなく、彼は言った。

「改装は明後日の予定だ。それまでゆっくりしているといい」

「そうね……これが鎮守府の見納めになるかもしれないものね」

 吐き捨てるように叢雲は言った。無言で敬礼し、無言のまま部屋を出て行く。

 その後ろ姿を――提督と長門が見守っていた。

 ドアの向こうに叢雲が消え、しばらく立ってから、長門が提督をじろりと見た。

「……これで本当によかったのか、提督?」

「彼女は強い。これぐらいではつぶれたりしないよ」

「そうではなくてだな」

「君に話した通りだよ、長門――いまはこれでいい」

 そう言って長門に向けた彼の目は真剣そのもので。

 その眼差しを見た長門は、あきれたように首をかすかに振った。

 

 翌朝。日が昇った直後の岸壁に、叢雲は来ていた。

 総員起こしにはまだ早い。

 昨夜は結局、寮の自室に戻るや、すぐにベッドに潜り込み、寝込んでいたのだ。

 頭から布団をかぶりながら、提督に向けての悪態をさんざんついていた。

 悪態をつくうち、だんだん悲しくなって、泣き出した後に寝てしまったらしい。

 泣きじゃくって、夢も見ずに泥のように眠り、起きると、不思議と心は平穏だった。

 今日が最後の一日なら、まず朝焼けの海を見ておこうと――そう、思ったのだ。

「――あれ? もしかして叢雲じゃない?」

 快活そうな声がかけられて、叢雲は振り返った。

 クーラーボックスを肩から提げ、バケツと釣り竿を携えた艦娘が歩いてくる。

 短めの茶色い髪、素朴な明るさを感じさせる顔立ち。

 黒いインナーを着込み、その上から巫女に似た衣装を身につけている。

 航空戦艦の伊勢(いせ)だ。戦艦では最古参で、叢雲とはつきあいも長い。

「おひさしぶり。相変わらずの太公望ね」

 叢雲がそう言うと、伊勢は隣にやってきてクーラーボックスを下ろし、

「いやー、さっぱり魚が釣れないんだけど、代わりに艦娘は釣れるんだよね」

「なによ、それ」

「なんか悩みを持った子によく会うってこと」

 伊勢はそう言うと、クーラーボックスを開けて、ラムネを一瓶取り出した。

「まあ、作ったラムネが捌けていいけどね――ひとつどう?」

「いただくわ」

 叢雲は伊勢からラムネの瓶を受け取り、栓代わりのガラス玉を押し込んだ。

 口をつけ、呷る。爽やかな炭酸が喉を潤し、流れ込んでくる。

「良い飲みっぷりだねえ――どうよ、遠征部隊の方は?」

 伊勢の問いに、叢雲はラムネから唇を離して、答えた。

「三段階評価なら“良”ってとこかしら。部隊の規律は相変わらずゆるいけど、那珂が前に引っ張ってくれているから、雰囲気はそんなに悪くないわね。あの子、結構、気を遣って頑張っているのに、頑張っているように見えないのが不器用よね」

「それ、那珂には言ってあげたの?」

 にやにやと笑みを浮かべながら訊ねる伊勢に、叢雲はつんとすまして、

「言ったら言ったで調子に乗るんだから、ダメよ」

「おー。最古参殿は手厳しいねえ」

 伊勢が大げさに肩をすくめてみせる。

 叢雲はそんな伊勢を横目でちらと見やって、訊いた。

「……悩みがある、ってわかるの?」

「分かるというか。なんだか、そういうめぐり合わせみたいなのよ」

 そう言って、伊勢はぽんと叢雲の肩に手を置いた。

「なんかあるなら聞くよ。解決できるかわからないけど」

「――第二次改装を受けることになったの」

 叢雲のその言葉に、伊勢はぎょっと目をみはった。

「それって……あなたの場合、無理なんじゃないの? 初期の艦娘は艤装の調整がタイトすぎて、改装の余裕なんてないって聞くよ? わたしだって航空戦艦になってから再改装の話なんてこれっぽちも出てこないし」

「そうね。無理に改装を受けたら、心か、体か、どっちか壊れちゃうかもしれない」

「そんな……」

「だから、今日は、鎮守府をゆっくり見て回るつもり。最後の思い出にね」

 そう言って、叢雲は笑ってみせた。

 伊勢は笑わなかった。顔をうつむけ、その体からは、ゆらと怒気が立ち上っている。

「……ちょっと提督のとこに行って話つけてくる」

 そう言って、伊勢は叢雲の手からラムネをひったくった。逆さにして中の炭酸水を全部ぶちまけると、空き瓶をぎゅっと握り締めて鈍器にする。殴りこむ気満々だ。

 叢雲は慌てて伊勢の袖をつかんだ。

 硬い表情で振り返る伊勢に向かって、ふるふるとかぶりを振って、言った。

「いいのよ、あの人が決めたことなら、わたしは受け入れようと思う」

「いや、だって、そんな……」

「お願い。なんとか決心はつきそうなの。今日一日、静かにいさせて」

 叢雲の声は静かながら、有無を言わさぬ迫力があって。

 伊勢は、不承不承、いからせた肩をおろすと、無言で叢雲の肩をぽんぽんと叩いた。

 

 朝食の時間はとうに過ぎたが、食堂には行かず、叢雲は敷地内をぶらついていた。

 艦娘たちがあわただしく、賑やかに行き交う。

 出撃に向かうもの。遠征任務に就くもの。

 訓練に向かうもの。雑用をまかされたもの。

 その彼女たちの活気を全身で感じながら、叢雲はどこへ行くでもなく、歩いていた。

「ずいぶん騒がしくになったものね……」

 そう、ひとりごちる。

 自分と提督、二人きりで始めた頃に比べれば雲泥の差だ。

 あの頃は静かで、鎮守府に人影はほとんどなく、まるで幽霊の棲家だった。

 そう、前の方から歩いてくる、あんなにかしましい艦娘もいなかったのだ。

「ほら、雪風(ゆきかぜ)、先に行くよ?」

「待ってよ、時津風(ときつかぜ)ちゃん」

「あなたたち、この天津風(あまつかぜ)を置いて先に行かないで」

 会話から聞こえる名前に覚えがある。駆逐艦の子たちだ。

 そっと叢雲は通りすぎようとして、しかし。

「あ、叢雲さん! おはようございます!」

 どことなく栗鼠を思わせる面立ちの雪風が、気づいて声をあげた。

「おはよう、雪風。元気そうね」

 そう挨拶を返すと、連れ立った二人が不思議そうな顔で見てくる。

「誰? あまり見ない子だね」

 子犬のような印象の時津風が首をかしげると、

「そうね、もしかしたら新入りの駆逐艦かしら」

 ちょっと澄ました感じの天津風がそう言う。

 それを聞いて叢雲は少しカチンとも来たが――同時に感心もしていた。

 自分の顔を知らない艦娘もいるのだ。たしかに、普段は遠征任務に出ていて、鎮守府に戻ることは滅多にないのだが、それでも鎮守府最古参の初期艦が誰なのか分からない子がいるというのは、叢雲にとってなかなか嬉しい驚きだった。

「ちょっと、だめだよ、二人とも。叢雲さんは最古参のベテランなんだから」

 雪風がそう言うと、

「えっ、そうなの?」

「最古参の駆逐艦って――あら、もしかして初期艦なの?」

 時津風と天津風が目を丸くして声をあげる。

 雪風が背筋を伸ばしてぴしっと敬礼してから、まだ驚いている二人をつつき、そこでようやく三人揃って敬礼をしなおす。

 そのやりとりがおかしくて、叢雲は思わず「ぷっ」と吹き出した。

「ばかねえ、そんなに堅苦しくしなくていいわよ。ちょっと古株なだけ。それに普段は遠征任務でドサ回りばかりだし――みんなは、艦隊決戦のメンバーでしょう?」

 叢雲のその言葉に、雪風たちが敬礼を解いて、顔を見合わせ、笑みを浮かべる。

「そうです! 連合艦隊のメンバーです!」

「あんたはレギュラーよね。あたしと時津風は準レギュラー」

「雪風に、追いつけ追い越せ、なんだよ」

 そう言って、三人が「いえーい」と声をあげ、手を掲げてぱんと打ち合わせる。

(仲良し三人組、ってところかしら)

 叢雲は、思わず顔をほころばせた。

 こうやって後輩が育っているのを目の当たりにできるのは、実に喜ばしい。

「雪風たち、これから訓練なんです――あの、叢雲さん、よろしかったら」

 栗鼠のような丸い目をきらきらさせながら、雪風が言った。

「わたしたちの訓練、見てもらえませんか?」

 どうしようかな、と叢雲は一瞬考えて――それも悪くない、と思った。

 後輩が練成に励む様子を目に焼き付けておくのも、良い思い出だろう。

「いいわよ、わたしのチェックは厳しいから、覚悟なさい」

 にやりと笑んで言った言葉に、雪風たちはわっと歓声をあげた。

 

 陸の上では艦娘はただの女の子かもしれない。

 だが、艤装を身につけて海に足をつければ、まるで見違える。

 素晴らしい快速で滑るように波間を駆け抜け、自在に機動するのだ。

 それが駆逐艦ともなれば、なおさら軽快で、素早い。

 号令をかけながら海を駆ける雪風たちは、叢雲の想像以上の出来栄えだった。

(悔しいけど、うちの子たちより上ね)

 那珂が旗艦を務め、叢雲が次席に入っている部隊は、遠征任務専門である。

 時には危険な海域にも出るので、決して練度が低いわけではない。

 それでも、半ば決められた任務をルーティンでこなす部隊と、艦隊決戦用に日ごろから研ぎ澄ましている艦娘とでは、こうも違うものか。

 それは、とりもなおさず、鎮守府が擁している戦力層が厚くなっている証左だった。

(やっぱり、見に来てよかったわ)

 叢雲が目を細めて、雪風たちの機動を見守っていると、

「――おっ、チビどもが訓練か。熱心で実によいことだ」

「もう、そんなこと言って。あなたもこれから訓練でしょう、武蔵(むさし)」

「分かっている分かっている、ほんとに大和(やまと)は口やかましいのだな」

「なんですって?」

 そんな会話が聞こえて、叢雲は振り返った。

 すらりとした長身。抜群のスタイル。そして四十六センチ砲を備えた巨大な艤装。

 鎮守府に知らぬものとてない、決戦戦力。大和型の二人である。

「こんにちは」

 叢雲がそう挨拶をすると、大和の方がはっと息を呑んで、

「こんにちは――って、もしかして叢雲さんですか!?」

「鎮守府最高戦力に名前を覚えられているとは光栄ね」

「そ、そんなことありません、気がつかなくてすみません!」

 大和が恐れ入った様子で頭を下げる。その様に叢雲が苦笑していると、

「なんだ? 見ない顔だな。はじめまして、になるか。戦艦、武蔵だ」

 そう言って、武蔵が笑ってみせる。歯を見せての、威嚇めいた笑いだ。

 並みの駆逐艦なら、それだけで圧倒されてしまったかもしれない。

 だが叢雲は、その程度で動じるほど、小さな心臓ではなかった。

 腕組みをし、つんとあごをそらして、圧力を跳ね返すように強い声で、

「あなたが武蔵ね。噂には聞いているわ。頼りにしているわよ」

 そう言うと、武蔵が口を閉じ、表情を変えてにやりとしてみせた。

「ほーう。駆逐艦にしては良い度胸じゃないか。どこでその肝っ玉拾った」

「ちょっと武蔵、頭を下げなさい!」

 横に並ぶ大和が肘で武蔵をつつきながら言う。

「この人は叢雲さん。鎮守府最古参、大先輩なのよ!」

「……ほーう」

 大和の言葉に恐れ入った様子もなく、武蔵が無遠慮に叢雲をじろじろと見た。

「こんなに小さくて細いのがねえ。昔の提督は苦労してたんだな」

「ちょっと、武蔵、あなた!」

「古参だなんだと関係あるか。艦娘は実力主義で行くべきだ」

 そう言って、武蔵がにらみつけてくる。

(ものすごい気迫ね……無駄撃ちの気もするけど)

 大和が華なら、武蔵は獅子か。

 ただならぬ気配は共通しているが、感じさせる印象はまるで異なる。

 武蔵の眼力を、叢雲は正面から受け流し、さらりと言ってみせた。

「実力主義というなら、それにふさわしい練度を身につけてからになさい。生まれ持ったスペックに頼って戦っているようじゃ、まだまだひよっこよ」

 その言葉に、武蔵の表情が変わる。

 どことなくからかいが混じっていたような顔が、ふっと静まり返った。

「……おい、そんだけ言うからには覚悟があるんだろうな」

 武蔵の大きな手が、叢雲の華奢な肩をつかむ。

 その握力の強さを感じつつも、叢雲は内心で愉快だった。

 これだけ血気盛んな艦娘がいる。しかも、あの大和型だ。

 数少ない駆逐艦と軽巡の艦娘だけで、鎮守府近海をひいひい言いながら啓開していた頃に比べていまはどうだ。

 本当に、この鎮守府は大きくなった。

(――もう、わたしがいるべき理由なんて、ないのかもしれないわね)

 そう思って、叢雲がふっと寂しげな笑みを浮かべてみせると、

「……おい、なんだ、その目」

 武蔵が呆気にとられた顔でつぶやいた。

 言われてから、叢雲は、しまった、と思った。

 普段は見せない顔。深淵を覗いた目。それを表に出してしまったらしい。

「武蔵、いいから行くわよ。すみません、叢雲さん」

 大和が平謝りしながら、武蔵を引っ張っていく。

 武蔵はというと、振り上げた拳が空を切ったような、唖然とした顔をしていた。

 叢雲はふうと息をついた。歩き回って少し疲れているのかもしれない。

 訓練を見終わったら、どこかで休もう――そう考えていると、

「あの、叢雲さん!」

 だいぶ離れたところで、大和が手を振って、声をあげていた。

「あとで、お時間いただけますか? お訊ねしたいことがあります」

 そのお願いに、叢雲はこくりとうなずいてみせた。

 

「――隣、よろしいですか?」

 ベンチに腰かけて、叢雲がしばしぼうっとしていると、そんな声がかけられた。

 顔をあげると、長門がベンチのそばに立っていた。

 手には竹の皮の包みを二つ、持っている。

 叢雲は少し端に寄ると、隣のぽんぽんと叩いてみせた。

 長門が頭を下げ、そっと腰かける。そうして、包みのひとつを叢雲に手渡した。

「昼食を一緒にどうか、と思いまして」

 叢雲のおなかがきゅうと鳴った――そういえば、朝から飲まず食わずだ。

「いただくわ」

 そう言って、叢雲が包みをあけてみると、塩むすびにたくあんであった。

「……昼餉にしてはシンプルすぎるわね」

「申し訳ありません。不調法なもので」

「まあ、いいわ。空腹は最高の調味料っていうし」

 そういって、叢雲はおむすびをひとつ手に取り、かじりついた。

 ほんのりとした塩味が、白米の美味しさを増しているようだった。

 噛むたびにほのかな甘みが口内に広がっていく。

 ひとしきり咀嚼して、ごくりと飲み込み、叢雲は言った。

「なかなか良い塩加減じゃない」

「恐縮です。そこは鳳翔(ほうしょう)さんに教えて頂きました」

「ああ、あの人の直伝なら間違いないわね――って、これ自作?」

「ですから、不調法と申しました」

 どこかはにかんだような長門を、しげしげと見つめて、

「ひょっとして、提督にも作ってあげているの?」

「……毎日、差し入れしています」

 長門の頬がほんのり艶めいたように見えたのは気のせいだろうか。

 ひとまずは、叢雲は目の前のおむすびを平らげることに集中した。

 時折、たくあんをかじりながら、おむすびをひょいひょいとつかんでいく。

 隣の長門も、無言で食べていた。

 食べ終わると、見計らったように、水筒を差し出された。中身はお茶らしい。

 それを飲んで、おむすびをすっかり胃に収めると、叢雲はうなずき、

「なかなか美味しかったわ。ちょっと物足りないけど」

「召し上がって頂けて、なによりです」

「そうね、ステップアップがほしいところね。おかずを作ってみるとか、おむすびに何か具を入れてみるとか」

「挑戦はしているのですが……なかなか思うようにいきません」

「あんたならできるわよ」

「そうでしょうか。戦いのことにしか能がない艦娘です」

「あら、料理ぐらいこなせなきゃ。それが良い艦娘ってものよ」

 叢雲はそう言うと、ふっと目を細めてみせた。

「わたしたちはただの兵器じゃないんだから」

「そう……ですね」

「あと、長門」

「なんでしょうか」

「その言葉遣い、止めてくれると嬉しい。わたしにだけかしこまって、変よ」

「それについてはお譲りしかねます」

 長門の返答は、実にきっぱりとしていた。

「あなたに対しては、精一杯の礼を尽くそうと決めたのです――あの日、あの時、あのことを、あなたから告げられたときに、そう考えたのです」

「……そんなたいしたものじゃないわよ。呪いみたいなもんだし」

 叢雲はそう言って、視線をついとある方向へ向けた。長門もそれにならう。

 視線の先、艦娘の一団がバレーボールに興じている。体力づくりの一環だが、レクリエーションも兼ねているのだ。黄色い歓声が、何度もあがっていた。

「――あの子たちは、自分が何者か疑問に思うことはないのかしらね」

「この鎮守府にいる限りは、艦娘は人間と同じように扱われます」

「そう扱ってくれるのは、提督と、自分たち自身でしょう――それにしても、賑やか」

 穏やかな、優しい声で叢雲はささやくように言った。

「よく鎮守府をここまで大きく育てたわね、長門」

「わたしの力ではありません。提督のお力です。それに、芽吹かせたのはあなたです」

 その言葉に、叢雲はふるふるとかぶりを振ってみせた。

「わたしの顔を知らない艦娘が何人もいたわ。鎮守府がそれだけ大きくなって、艦娘がそれだけ増えた証。それを束ねてきたのは、長門、あなたの力よ」

「わたしは――ただ、懸命にこなしてきただけです。特別なことはしていません」

「皆を引っ張ってきたんでしょう。やっぱり、わたしの目に狂いはなかったわ――思った通り、あなたは提督の隣を歩いていける艦娘ね」

「そうでしょうか……」

「あの人は――提督は、わたしにとって、生を授けてくれた父であり、見守ってくれた兄であり、それでいて、駆け出しの頃はあぶなっかしい弟みたいなもので、その成長を見守ってきた息子のような存在」

 そう口にしてから、叢雲は、優しく、だが寂しげに言った。

「でも、あの人の伴侶にはなれない。それはもっとふさわしい艦娘が担うべきなのよ」

「……提督にとっては、わたしは複数の中の一人なのかもしれません」

 長門が左手をかざす。その薬指にはめられた銀の指輪。提督との特別な絆の証。長門は最初にそれを贈られた艦娘だが、唯一というわけではない。

「何を弱気になっているの。しゃんとしなさい、“艦隊総旗艦”どの」

 叢雲はそう言って、長門の背中をぱしんと叩いた。

 長門は、笑みを浮かべて、

「わたしにそんなことをしてくれるのは叢雲どのぐらいですよ」

 そう言って、長門は表情を改め、訊ねた。

「……改装の件、本当によろしいのですか?」

「わたしの命は、彼からもらったもの」

 レースのカーテンのような雲が広がる空を見上げながら、叢雲は言った。

「だから、彼が差し出せと言ったら、しょうがないわ」

 

 

 沈みかけた日が、空を茜色に染めている。

 叢雲が寮へと戻る足取りを止めたのは、たたずむ一人の艦娘が視界に入ったからだ。

 優美な長身。整った顔立ち。日傘を差しかけたその姿からは華を感じさせる。

「……大和?」

 叢雲がそう言うと、大和はこくりとうなずいた。

「……お時間、よろしいですか?」

 そう言って、大和がちらと横の倉庫をうかがう。話はそこで、ということだろう。

 大和の表情からは、ただならぬ真剣さがうかがえた。

 それだけに、叢雲には、大和がしようとしている話が予想できた。

 大和の左手の薬指に輝く銀の指輪――彼女もまた提督に選ばれた一人ということだ。

 叢雲は肩をすくめると、大和について倉庫の中へと入った。

 夕暮れの時間ともなると倉庫はすっかり暗い。

 ただ、窓から差し込む夕日が、大和と叢雲をかすかに照らしている。

 身長差から言えば、大和の方が叢雲よりずっと背が高い。

 見下ろす形になっているにも関わらず、大和は気圧されていた。

 叢雲が、じっと大和を見つめている。

 赤みがかった橙色の瞳が、夕日を浴びて透き通り――その底は、計り知れない。

 話に聞いていた、深淵を覗いた者の目。これがそうか、と大和は唾を呑んだ。

 それでも、大和は目をそらさなかった。

 そらしたが最後、叢雲は何も話してはくれまい。

 慎重に言葉を選び、大和が発した言葉は、

「わたしたち、艦娘は、どこから来たのですか?」

 その問いを聞いてなお、叢雲の目は深淵の深さをたたえたまま、

「……普通の艦娘なら、訊ねることはない問いね。どうしてそんなことを?」

「武蔵の建造に立ち会いました――意識のない身体が先にあって、それと艦の記憶がリンクするのなら、その身体はいったい何処から来たのですか? わたしが、わたし自身だと思っているこの身体は、いったい何なのですか?」

「そんなことを知ってどうするの?」

 叢雲の瞳の奥は、吸い込まれるかのように昏い。

 大和は、深海棲艦に挑むとき以上の勇気を振り絞って、言葉を続けた。

「ただ知りたい、というだけではいけませんか」

「ねえ、『好奇心は猫を殺す』とか、『知らぬが仏』って言葉は聞いたことある?」

「そうであったとしても、わたしは知りたい――いえ、知らなくてはならないんです」

 大和は、きゅっと両の拳を握った。

 恐れの感情に流されそうな自らを、錨で留めるかのように。

「わたしたちは、あまりに自分たち自身を知らなさすぎます。どうやって生まれるのか。建造とはどういうことなのか。疑問に思って当然のことなのに。まるで、知ろうとしないようにあらかじめて仕向けられているように――」

 そこまで言って、大和は、はっと口元を押さえた。

「――ひょっとして、まさか、そんな」

「……大和。あなたは人類をどう思っている?」

 叢雲が、そう問いかける。ささやくように発せられたその言葉が、まるで倉庫中に響いたかのような重さに、大和には聞こえた。

「よく考えてみなさい。わたしたち艦娘は人類を深海棲艦から守る存在。でも、その守るべき人類って、どんな価値と意味があるのか――むかし、あの子も……長門も同じような疑問を抱いて、そうしてわたしに訊ねてきたのよ」

 叢雲がふっと目を閉じた。顔に浮かんだ表情は、凪のように穏やかだった。

「わたしは明日、改装措置を受けるわ。初期艦のわたしはその負荷に耐え切れないかもしれない。でも、そうね。もしそれをなんとかやりすごせて、そして、あなたがさっきの問いに自分の答えを見つけられたのなら――」

 そう言って、彼女は目を開いた。その瞳には、光が戻ってきている。

 大和を見つめるその眼差しは、迷い子を見守る聖母のようだった。

「――そうしたら、そのときにあらためて考えてあげるわ」

 

 昼におむすび数個で、夕方にあのような重い会話。

 くたびれてすっかり空腹の身体で、叢雲は食堂へと入っていった。

 そうして、入るや否や、

「あ、来た来た。叢雲ちゃん、こっちこっちー!」

 この能天気な明るい声。聞くだけで誰か分かる。

「那珂……いったいどうしたのよ」

 叢雲は唖然として、食堂の一画を見つめた。

 いつもの遠征部隊の面々が、テーブルをひとつ占拠している。

 並べられた食事は、普段出されるものではある。

 だが、テーブルの真ん中に置かれたケーキはなにごとなのか。

 呆気にとられた叢雲を、那珂が手を引いてテーブルへと連れて行く。

 近寄ると、ケーキに載せられたチョコレートカードに、

『叢雲ちゃん、改装おめでとう!』

 と書かれてある。

「へへーっ、聞いちゃったんだ。叢雲ちゃん、明日、改装受けるって!」

 那珂の声は、いつもどおりに能天気で、底抜けに明るい。

「だから、みんなでお祝いしようと思って! 一日早いけど良いよね?」

 その言葉を聞いて、ケーキと、それを囲む部隊の面々の姿がぼやける。

 涙が、こみあげてきて、目にあふれそうで、視界が曇るのだ。

(なによっ、なんでこんなことをするのよっ)

 今日一日、鎮守府を巡って。

 いろんなものを確認できて。

 そうして、ようやく覚悟を決めたのだ。

 その覚悟を、那珂は、ケーキひとつでひっくりかえしてしまった。

 これだから――桟橋で別れてから、この子のことは考えないようにしていたのに。

 那珂の明るさと、その前向きさは、思い出すだけで離れがたいものだから。

「な、なんでもないわよ!」

 叢雲は手の甲で涙をぬぐうと、むんずとテーブルの上のケーキナイフを手にとった。

「切り分けはわたしにまかせなさい。ちゃんと六等分にしてあげるから」

「えーっ、那珂ちゃんが切りたかったなあ」

「あんたにまかせたら大きさバラバラになるでしょうが」

 叢雲が目尻を釣り上げて発する言葉に、

「よっ、ケーキ奉行!」

「叢雲が切るなら計ったように正確だな」

「それも形が崩れないんですよ」

「さすがは鬼軍曹……ケーキにも厳しい……」

 部隊の面々が好き勝手にさえずる。

 それを聞きながら、叢雲は涙をぬぐいつつ、笑っていた。

「叢雲ちゃん、泣いてる?」

 覗きこんでくる那珂に、叢雲は噛み付くように言った。

「泣くわけないでしょ!」

 そう言って、橙の目から、雫をぽろぽろとこぼした。

 

 いつもの服を脱ぎ去り、一糸纏わぬ姿になってから、術衣に袖を通す。

 つん、とかすかに消毒液のにおいがして、叢雲は顔をしかめた。

 見回す壁も床も天井ものっぺりと白い。

 据えつけられた施術台と、そこに伸びる数々のケーブル。

 ケーブルに繋がった無数の機器と、そして、艤装。

 そしてそれらを点検する艦娘の姿がなければ、空間把握がおかしくなりそうな部屋。

 工廠。いまではここはそう呼ばれている。

 そして――かつて、叢雲が、叢雲でなかった頃は、研究所と呼ばれていた。

 ここは変わらない。いや、変えようがなかったのだ。

 艦娘の誕生に深く関わるここは、その機能を活かしたままにするしかなかったのだ。

 たとえ――その腹の奥に、数々の忌まわしい記録を抱えたままであったとしても。

「はい、それじゃあ、施術台に横になってくださいね」

 機器を点検していた艦娘がそう言った。ピンクに似た輝きの、赤い髪。かつては叢雲と同じ番号を振られていたもの――工作艦の明石(あかし)である。

 うなずいて、叢雲は施術台に横たわった。

 昨夜のケーキから、ずっと、心は落ち着かないままだった。

 皆と離れたくない。消えてなくなるのはいやだ。

 いっそ、提督に頼み込もうかと思ったが、その勇気が出なかった。

 ならば――改装に耐えるしかない。

 施術台で横になり、目を閉じて、叢雲はそう決意した。

「それじゃ、麻酔打ちますね。チクッとしますから、我慢して」

 そう言って、明石が近寄ってくる足音がする。

 その一歩一歩が、ずいぶんとゆっくりなように叢雲には聞こえた。

 左の腕に、かすかな痛み。

 不快感にこらえながら、叢雲は自分に言い聞かせた。

 眠ってしまえば、あとは身を任せるしかない。

 そう、眠ってしまえば――

 だが。

 いっかな、意識が闇に沈み込むことはなかった。

 おそる、おそる、叢雲は目を開けた。

 明石がちらとこちらを見る。その顔に驚いた様子はない。

 叢雲が目を覚ましていて当然だという表情だ。

 明石は、真剣な眼差しで、制御盤を指で叩いていた。

 時折、モニターを見ては、うなずく。

「これでよし――叢雲さん、もう起き上がってもいいですよ」

 あっけらかん、と明石は言った。

「施術時間は二時間の予定でしたから、しばらくこの部屋の中です。ちょっと我慢してくださいね。飲み物は――まあ、水くらいなら用意できます」

 叢雲は、目をぱちくりさせながら、訊ねた。

「これは……どういうことなの?」

「さっき打った注射はただの栄養剤です。ごめんなさい、注射するところまでは録画データの差し替えができなかったから、省くことはできなかったんです」

 明石はにっこりと微笑んでみせた。

「これから、新しい艤装に、叢雲さんの精神連結情報を欺瞞するための作業を行うところです。といっても、データは既に用意してあって、艤装に刷り込むのを待つだけなんですけどね――あ、服はそちらに着替えてください。デザインは改装後のものですが、改装前の叢雲さんに合うように仕立て直しています」

 そこまで明石が言って、ようやく叢雲にも得心がいった。

「改装したふりを……したの?」

「艤装は新しいものですよ。少々タイムラグを感じるかと思いますが、叢雲さんの腕と、普段の遠征任務なら支障をきたさないと思います」

「どうして、こんなことを……明石、あなたの独断?」

 その問いに、明石はかぶりを振ってみせた。

「提督が長門さんにお話になって、長門さんがわたしに話をしただけです。表向き、提督は知らないことになっていますが、つまりはそういうことです」

 その言葉を聞いて、叢雲は脱力感のあまり、施術台からずり落ちそうになった。

「最初から、そのつもりだったの……?」

 呆然と口にした途端、叢雲は昨日の自分を思い出して、顔が赤くなるのを感じた。

 施術台から降り、たんと床を蹴りつけて、

「なによ、なによ、なによっ。それじゃ丸一日かけて心の準備してたわたしがバカみたいじゃない。提督だって、最初から言ってくれれば、こんな――」

「――言えない事情があるんですよ……鎮守府に大本営のスパイがいます」

 明石の言葉に、叢雲は、はっと息を呑んだ。

「これは長門さんの受け売りですけどね……大本営は、鎮守府の手綱をもっと強めたいと考えています。艦娘はあまりに多く増え、その戦力は大きくなりすぎました。そして、叢雲さん、あなたがご存知のように、“本質的に艦娘は人類の味方じゃありません”」

 施術室に響く明石の声は、どこか乾いていた。

「大本営は、“わたしたち艦娘が本来は何物であるか”知っています。知っているがゆえに、万が一に艦娘が人類に反抗した時のことを恐れています。だから、いろいろと鎮守府の運営に無理を言ってきては、手綱を強化する隙をうかがっています――であればこそ、あなたの改装命令にも、表向きは従ってみせる必要がありました。断ることで、大本営に弱みを見せたくなかったのです、提督は」

「……それじゃあ、あの人はわたしを守るために、こんなことを……」

 呆然とつぶやく叢雲に、明石はふっと優しい眼差しで言った。

「提督は長門さんにこうおっしゃったそうですよ。『叢雲の枷をはずしてやった時から、俺の心はとっくに決まっているんだ』って」

 それを聞いて、叢雲の目にたちまち涙があふれた。

 頬に一筋、雫を流して、かつて「甲種検体七〇四号」と呼ばれた少女はつぶやいた。

「……なによ、あの男も、ずいぶんとずるくなったものね……」

 

「ああ、曇っているな。青空だと申し分なかったんだが」

「空……雲……?」

「こうして見上げるのは初めてか。頭上に一面、おおいかぶさっているのが雲、その隙間から見える青いのが空だ」

「あの雲は――なんという雲なのかしら」

「高層雲という。またの名前を、叢雲、とも」

「叢雲……わたしと同じ名前だわ」

「そうとも。君の名前はかつて戦場を書けた軍艦から取られているが、その軍艦の名前の元になったのが、あの雲というわけだ」

「きれいね……」

「気に入ったかい、艦娘のお嬢さん」

「……かん、むす?」

「ああ。“甲種検体”だなんていかにも実験動物扱いで可哀相だ。だから、君たちのことは艦娘と呼ぶことにする。艦の名前と記憶を持つ女の子だから、艦娘だ」

「じゃあ……あなたは何と呼べばいいかしら」

「うーん、お情けで特務大尉の地位はもらっているんだが……」

「――それじゃあ、“提督”と呼ぶことにするわ。気に入った?」

「おいおい、いきなり大仰だな」

「そんな小さいことでどうするの……艦娘になる子はわたし一人じゃないんでしょう? その艦娘たちをあなたは率いることになるのだから、階級がどうであれ、提督よ」

「そうか、提督か。慣れるまで時間がかかりそうだな、ははは」

「……なによ、なにこっちみて笑ってるのよ」

「いや、君をあの部屋から連れ出して正解だった」

「…………?」

「いま、とても良い顔をしている――素敵だよ」

「ば、ばか言わないでよ!」

 

 あの時と同じ、空には高層雲が広がっている。

 それを見上げながら、叢雲はかつてを思い出していた。

 あの時点で、彼は、彼女が何物か知っていたはずなのだ。

 知っていて、あのような行為に及んだ。

 常識で考えれば、自らの命を落としかねない、危険なことだ。

 だが――彼は、彼女を解き放ち、最初の“艦娘”にした。

 あるいは、ほんの気まぐれだったのかもしれない。

 研究所の中に押し込められていた成果に、日の目を見せたかったのかもしれない。

 だが――彼女は予想以上の戦果を上げ、かくして艦娘計画が始まったのだ。

 叢雲は、視線を落とした。

 そこには煉瓦作りの建物がいくつも建ち並ぶ。

 建物の向こうには港が築かれ、外洋へと通じている。

 そして、この鎮守府の敷地の至る所、そして海の上に艦娘の姿はあるのだ。

 かつては、一面の荒れ野だったというのに。

 本当に大きくなったものだ。

 そして――すべては、ここから始まったのだ。

 “本質的に、艦娘は人類の味方ではない。”

 事実を知る者にとっては、それは自明のことだ。

 そのことに怯える人間など、叢雲にとって守る価値はない。

 だが――彼のためならば。

 彼女に、名前と、命と、自由をくれた、“提督”のためならば、自分は戦える。

 艦娘として、“人類の守護者”となって、戦えるのだ。

 たとえ、できることが遠征任務で海上護衛戦ぐらいだとしても。

 それが、再び、いや、“みたび”、生を受けた自分の存在意義なのだから。

「――叢雲ちゃーん!」

 自分を呼ぶ声に、彼女は顔を向けた。

 那珂が、艦隊の面々を引き連れて走ってくる。

 それを見て、叢雲は、軽く自分の頭をこづいた。

 過去にひたるのも、深淵を覗いた顔をするのも、もう収めないと。

 あの子の前では、自分は小うるさい鬼軍曹が役目なのだから。

「ほら、慌てて走らないの! ずっこけたらどうするのよ!」

 そう声をかけた矢先、言ってるそばから那珂が足をもつれさせて地面を跳ねる。

 それを見て、叢雲は吹き出し、やがて、愉快そうに笑い出した。

 その表情は、たしかに、見た目相応の感性を持ち合わせた、少女の顔だった。

 

〔了〕

 


 
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