No.76983

倩女(せいじょ)のいとま―蓮華遊魂―

『倩女離魂』という民話があります。

倩女という女性は、ある男と相思相愛になりましたが、彼女の親が許してくれません。
やむなく二人は駆け落ちしました。
やがて二人の間に子供もでき、もう許してもらえるだろうと郷里に帰ると、なんと家にはもう一人の倩女が寝たきりになっています。

続きを表示

2009-06-03 00:33:30 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:8544   閲覧ユーザー数:6763

 

 大陸を南北に分ける大河・長江。

 その雄大な河の流れを下る船は、なにも軍船ばかりではない。

 

 たとえば商船。長江のほとりに点在する街や邑などを往来し、様々な物品を積んでは降ろし、降ろしては積み、長江の水面(みなも)を忙しなく駆け回る。

 

 その積荷は、食料、衣類、家具、武具、骨董、宝物、家畜、……そして人間。

 

 この時代、多くの人が旅をした。

 乱世であるにもかかわらず、いや、乱世であるからこそ人は出世栄達を夢見て、あるいは滅びた故郷を追われ、広い山野を流浪する。

 そういう人たちにとって長江の大線は、船でゆく大きな街道だった。大河の上を船で滑っていけば、山野を足で踏み越えるより ずっと早く進むこともできるし、また山賊やトラに怯えなくともよい。

 

 商船は、そんな人々を乗せていく。

 元々 商船とは商い品を運ぶための船だが、それがいつも積荷が満載されるわけではない。ことによっては積荷少なく、船体に余裕ができることがある。そういう時は港をウロウロしている旅人を捉まえては交渉し、値が折り合えば乗せてやる。

 積荷を満タンまで載せられなかった分の補填、開いた空間を利用して人間を乗せていくわけだから、行き掛けの駄賃というやつだった。

 

 しかしそういう事情の船だから、その環境は旅人たちとって けっして良いわけではない。

 客船ではないから人を快適に乗せる設備など整っているわけがないし、船室も積荷に占領されて狭い。

 本来であれば、人は 人を専門に乗せる客船に乗るべきであろう。それでも人々が窮屈な商船に便乗するのは、その渡し賃が客船よりずっと安いからだった。

 積荷を運ぶついでで人をも運ぶ、格安の貨物船。

 そういう船に乗り込む人々の種類は、自然に知れる。

 つまり、多くの財をもたない貧農や流民だった。

 

 

 ……………。

 

 

 

「……………ん……ぅ」

 

 暗い船室の中で、蓮華は寝返りを打とうとして……、できなかった。

 誰かが彼女の肩を抱きとめている、そのせいで体を裏返すことができなかった。

 

「…………ん?」

 

 ぱちり、と蓮華の目蓋が開く。目の前は暗い、いまだ日の出には まだ間があるのだろう。しかし、だんだんと目が慣れていくうちに、自分の目鼻の先に誰がいるのかがわかった。

 

「……一刀?」

 

 彼女の目の前にいるのは北郷一刀だった。いや、彼女と枕を並べて眠っているのは、というべきか。

 同じゴザの上に、同じ毛布を掛け合って眠っているのが北郷一刀。息を忘れるほどに近くにある彼の顔に、蓮華は思わず驚きの声を上げる。

 

「きゃあッ?」

 

 毛布を跳ね上げ飛び起きる蓮華。

 なんで一刀がこんなに近くに?というか なんで私が一刀と一緒に寝ているの?

 というか ここはどこ?と蓮華は周りを見渡す。まったく見覚えのない場所だった。………ここは一体、どこだ?

 

「………ん?…ん~、…蓮華?」

 

 今の大声で一刀も目を覚ましたようだ。眠たげに目を擦りながら、

 

「ろうしたんだ蓮華、寝ぼけらか?」

 

 一刀こそ寝ぼけているのか、呂律の回らない薄ぼんやりした声で言う。

 

「かか、一刀……、あの……」

 

「…ん、まだ夜も明けてないじゃないか、ダメだぞ蓮華、他のお客さんの迷惑になるだろ」

 

 一刀は蓮華を、軽く たしなめるように言った。

 他のお客さん?と蓮華は訝しんで周りを見渡す。先ほどから さらに目が慣れたのか、蓮華は自分たちの寝ていた船室を、より明確に見通すことができた。

 壁に空いた穴から差す月明かりに、船室の床を埋め尽くすようにして眠る乗客たちの姿が浮かぶ。

 そのうちの何人かは、蓮華の叫び声に反応して身を起こしていたが、何事もないことがわかるとすぐに毛布を引っかぶって再び寝息を立てる。

 

(あ……、そうか………)

 

 蓮華は自分が今いる状況をやっと思い出すことができた。

 一刀が言う。

 

「ホラ……、もう一回 寝るぞ蓮華、夜明けまでまだ時間があるだろうし」

 

「あ、あのでも……、どうして私たち こんな近い………?」

 

「蓮華が、こんな沢山の人の中で雑魚寝するのが初めてって言うからだろー?俺が近くにいれば怖くないよ、……さ」

 

「きゃ…」

 

 一刀は力任せに蓮華を引っ張ると、彼女の華奢な体を腕中に絡め取り、二人まとめて繭のように毛布に包まった。

 全身のいたるところに一刀の体が触れている。蓮華は、眠気も吹っ飛ぶほどに顔を赤く上気させるが……、

 

「…別にどうってことないだろ、俺たちは夫婦なんだから」

 

 一刀が眠りに落ちる中に言ったのへ、蓮華は落ち着きを取り戻した。

 自分が今、この腕の中にいることが、ごく自然なことであると思えた。

 

「……そうだったわね、私たちは今、夫婦だったわね」

 

 そうして蓮華も再び眠りの中に落ちた。一刀の体温と、一刀の心音を肌で感じながら。

 

 

 

 かくて夜空に浮かぶ月は長江の流れを遡って西の山間に沈み、東の下流からは太陽が昇る。

 

 

 暁が大空を朱に染め、谷間に沈殿する霧を吹き払う頃、船室で眠りを貪っていた乗客たちは ぼつぼつと甲板に出始める。

 目の前に広がるのは海のような大水と、その大水を左右から挟む断崖の仙墨たる風景。

 その景色は一個の水墨画のようであり、山間には白猿が隠れ住み、川底には蛟がひそむ、という趣だった。

 

 今この船は、どの辺りを通っているのだろう。

 

 長江を下り、江陵から夏口を経て、赤壁をも過ぎた辺り、それでも呉の都である建業はまだ遠い。

 そんな、いまだ先の長い船旅に何を思うのか。蓮華は甲板に腰を下ろしたまま、ぼんやりとしていた。ユラユラと揺れる地面、視線の先には流れ行く風景。

 船の積荷となって進む旅は、船に揺られる以外これといって することがない。だから蓮華も背を壁にもたれさせたまま、外の景色を眺めること以外にやることがなかった。

 

 こんなにゆったりした時間を過すのは何年ぶりだろう。

 いや、生まれて初めてなのではあるまいか?

 

 その隣で、一刀が何やら もぞもぞとしている。

 

「……よし、蓮華、糒(ほしいい)が戻ったぞー」

 

 一刀は朝食の用意をしていたようだ。

 糒(ほしいい)とは、蒸した米を天日に干して固めたもので、この時代にはもっとも標準的な携帯食だった。携帯して何日も持ち歩くことができ、必要となったらお湯、もしくは水にひたし、柔らかくしてから食べる。

 

 蓮華と一刀は、水で戻した糒を二人並んでぼそぼそと食した。

 ……一刀がブツブツと言う。

 

「しかし、この糒ってのは 米を一番マズく食う方法だよなぁ…。なんかこう、水にふやけきった ご飯みたいで……、せめてお湯で戻せれば、もう少しご飯に似た食感になるんだろうけど……」

 

 それに答えて蓮華が言う。

 

「贅沢言っちゃダメよ一刀。船の中じゃ火はおこせないんだから糒は水で戻すしかないわ。また何処かの岸に留まったら、釣った魚と一緒に路火で炊いて、暖かいご飯を食べましょう」

 

「それもいつのことになるのかなあ……」

 

 一刀は、揺れぬ大地がさも恋しいというように呟いた。

 

「………ん?」

 

 そして、ごはんを咀嚼する蓮華を眺めて ふと気付く。

 

「?、どうしたの一刀?」

 

「蓮華、頬っぺたにご飯粒 付いてる。ホラここ……」

 

 と一刀は、ご飯粒が付着しているのであろう蓮華の頬を、ペロリと舌で舐める。

 

「~~~~~~~ッ!?」

 

 蓮華は その一瞬の出来事に顔を真っ赤にして狼狽する。なにしろ、一刀が舌を這わせた その頬は、限りなく唇に近かったから。

 

「かかかかか、一刀!いきなり何するのよ、人目もあるのに!」

 

「…いや、両手が塞がってたもんだから」

 

 一刀は右手に持った箸と、左手に持った糒入りの椀を示す。

 

「だからって!よりにもよって口で!」

 

 蓮華が激昂して何か言い出そうとした、その時だった。

 

 

「仲のいいことだねえ……」

 

 

 しわがれた その声に、蓮華も一刀も、何事かと訝しんで振り向く。

 その視線の先には、一人の老婆がたたずんでいた。大荷物を椅子代わりにして腰を降ろし、松の木の曲がりくねった杖に顎を乗せて、若い男女を微笑ましく眺めている。

 

 商船の乗組員に老いた女性などいるわけがないから、彼女も乗客の一人なのだろう。

 百姓の生まれなのか、老いに縮まった五体は日に焼けて黒く、枯れ木のように細い体からはカクシャクさが漲っている。皺にゆるんだ目蓋に押され、糸のように細くなった瞳をショボショボさせる様は、どこか人懐っこさもあった。

 そんな老婆が、一刀に向かって言う。

 

「アンタ、嫁を甘やかしすぎちゃいないかい?」

 

「よめッ?」

 

 聞いて蓮華が激しく狼狽する。

「そんな花のような娘をもらって嬉しい気持ちはわかるがねえ、嫁ってのは厳しくしてナンボだよ、日頃からしっかり躾けておかなきゃあ夫を敬う気持ちが育たないってもんさ」

 

「いやっ、……あの、……そのッ!」

 

 老婆を相手に、蓮華は真っ赤に照れて、両手をブンブンと振った。まるで嫁などと言われるのに まったく慣れていないかのようだった。

 その様子を見て、乗客の老婆は訝しげに眉を動かす。

 

「……なんだい、違ったのかい?」

 

 二人の仲睦まじさを見て、てっきり夫婦だとばかり思っていた老婆だったが。

 

「いいえ、夫婦ですよ」

 

 一刀がキッパリと言い繕った。

 

「もっとも つい先日 式を挙げたばかりで、コイツも呼ばれ慣れてないんですよ。俺が向こうの……」

 

 と、川の上流を指差す。

 

「……ずっと先にある邑の生まれなんですが、何年か前に、揚州で孫家の人たちが天下を目指して挙兵したって噂を聞いて、『俺も一旗上げよう』なんて邑を飛び出したんです」

 

「ほほう、それで?」

 

 興ありげに老婆が促す。

 

「ですが俺には武才ないらしく、槍を握って いくさ場 駆けずり回っても何の功名も得られませんでした。ならばと次に商売に手を出してみたんですが、こっちが そこそこ実を結びまして、小さいながらも建業の隅に商店を出すまでに至りました。………それで俺も『身の固めどきだな』と見極めまして、一度郷里に帰り、幼馴染のコイツを貰い受けて、今 都に戻る途上です」

 

 そこまで聞いて老婆は破顔する。

 

「そりゃスゴイ、その若さで一財築き上げるなんざ立派なもんじゃないか。アンタも いい男に見初められたじゃないかい」

 

 と蓮華に話を振るが、彼女はまだ照れているのか、うつむいたまま黙っている。

 それを一刀が助けるように、

 

「許してやってください、コイツも初めての船旅で色々戸惑っているんです。なにせ こないだまで邑の中から一歩も出たことがないなんてヤツですから。…しかしこれでも、普段は邑一番の器量よしで通ってるんですよ?」

 

「あ、……アナタがっ」

 

 蓮華が頑張って声を出す。

 

「アナタがそうやって いつも大袈裟なことを言うから、私は恥ずかしくて何も喋れないんじゃないッ!」

 

 蓮華が真っ赤になって叫ぶと、それを傍から聞いていた老婆は目を丸くして、その後 弾けるように呵々と笑った。

 

「いいねえ!こりゃ初々しい、退屈な船旅になるかと思ったら、アンタらさえいれば岸に付くまで ずっと愉快でいれそうだ!」

 

 と無遠慮に大笑する お婆さんに、蓮華どころか一刀まで赤面するのだった。

 老婆は気が済むまで笑うと、

 

「いや…、しかし初々しい、新婚なんて誰でも そうなのかねえ。アタシも自分の頃を思い出しちまったよ」

 

「お婆さんの、ですか?」

 

 蓮華が尋ねると、

 

「そうさ、…そりゃ もちろん、顔がこんな皺くちゃになっちまう前のことさ。ウチのダンナは、アンタのより ずっと無口でぶっきらぼうだったがねえ、さすがに式のときは浮かれてたよ。ワザワザ遠くの街まで行って、アタシのために真っ白な木綿を一反買ってきてねえ、アタシはそれで自分の花嫁衣裳を作った」

 

 老婆は、遠い昔を懐かしんで訥々と語る。

 

「それから、アタシのひい祖母さんの代から受け継がれてきた装飾品を身に着けてね。式の時は大いに盛り上がったもんさ。ダンナは仲間どもから飲まされて大酔いして、式の最中にひっくり返っちまった。アタシは潰れた亭主をかついで寝台まで運んでやった。その背中に向かって客どもが冷やかして言うんだ」

 

「……なんて?」

 

 いつの間にか、蓮華は話に引き込まれていた。

 

「『おやおや この夫婦は、カミさんが夫を閨へ引っ張り込むぞ』ってね、アタシャ顔から火が出るほど恥ずかしかった。ちょうど さっきのお前さんみたいにねぇ」

 

 それに蓮華は声を出して笑った。

 以後も老婆は、連れ合いと二人並んで歩いた日々を思い出しては、蓮華と一刀、二人の若夫婦に語って聞かせた。

 

 二人で初めて開墾した田に 苗を植え、収獲まで力を合わせた苦労話。

 初産の時に、夫が山を越えて医者を連れてきた武勇伝。

 夫婦ゲンカの末に実家に帰り、一ヶ月も根競べをした若気の至り。

 収獲の少なかった年、一杯の粥を家族で分け合ったりもした。

 

 それらの話の一つ一つが、老婆の顔に皺となって刻み込まれているような気がした。人というのは そうやって年輪を重ねて行くのか。

 

「あの、それで、ダンナさんは今どうしているんですか?」

 

 一刀が横合いから、ごく気軽に尋ねた。だからだろうか、老婆の方もごく気軽に答えた。

 

「死んだよ」

 

「えっ?」

 

「前の天子様のときに賦役に取られてねえ、北の国境に引っ張られて それっきりさ。きっと匈奴とやりあって おっ死んじまったんだろうねえ」

 

 時の流れによる記憶の風化がそうさせるのか、老婆はなんでもないことのように、連れ合いとの死別を語った。

 それまでの、辛くとも暖かい夫婦の思い出話を聞いてきただけに、その結末は蓮華や一刀の心を少なからず揺さぶった。それはあまりに悲劇的な結末ではないか。

 同じ死別でも、天寿をまっとうしたわけでも、偶然の事故でもなく、賦役という国の命令で戦地に駆り出され、見知らぬ土地で、伴侶に看取られることもなく世を去るとは。

 

 そんな蓮華の様子に 老婆は気付いたのか、すまなそうな顔つきで、

 

「悪いね、こんな話 新婚さんにするもんじゃなかった。でもね、そんなに気落ちしないでおくれ。アタシャあの人とは最期まで共にいれたわけじゃないが。あの人は逝くまでに色んなもんを遺してくれた」

 

「思い出とか、ですか?」

 

「それもあるが、一番大きいのは やっぱり種さね。一人娘だが、立派に育てたよ」

 

「娘さんが いらっしゃるんですか?」

 

「ああ、その娘はうだつが上がらないが、ソイツが腹を痛めて産んだ娘が、どういうお天道様の巡り合わせか呉の将軍になったとかでね。あの人の種もなかなか捨てたもんじゃないよ」

 

「将軍ですか、スゴイですね……!」と一刀。

 

「娘の娘、……お孫さんですか?」と蓮華。

 

「ああ、小さい頃からお転婆のジャジャ馬で、将来はどうなるかと母親ともども心配しとったんだが、それが今じゃ将軍閣下だから世の中わからんよ。それで都にお屋敷まで建てて、両親も住まわせておるから今度はお婆ちゃんもおいで、と誘われてね。こうして この歳で長江を下っておるわけじゃ」

 

 と、老婆は満ち足りた顔つきで言った。

 

「な?あの人の命は とうに消えてしまったが、あの人の遺した種は、こうして実を結んでおる。娘さん、アンタも人の妻となったからにゃあ早う子を為しなさい、そうすれば、何かあったとしても後悔せずに済む」

 

「………はい」

 

 蓮華は深く頷いた。

 その神妙な姿に、老婆はまたも呵々と笑った。

 

「なぁに心配なぞいらん、アンタみたいに大きくて形のよい尻をもっとりゃ、丈夫な子の五人や六人ポンポン生めるわ。旦那さん、それだけでも こりゃ いい嫁ぞ、たしかに故郷に帰って貰い受けるだけのこたぁある!」

 

「でしょう?蓮華はもう、尻だけ見ても三国一の花嫁ですから!」

 

「だから!そういうことを言わないでよ一刀は!他のお客さんたちが こっち見てるでしょう!」

 

 それから先も、若夫婦と老婆の会話はどんどんと弾み、話題の尽きることはなかった。

 良妻賢母の心得、夫婦喧嘩のときの折れ方、出産育児の苦労話、人生の先輩から窺う教えは常に多い。

 

 そうして話が続くうちに、長江の下流から顔を出した太陽も、流れを遡って上流に沈み、天空には再び月が浮かぶ。

 その間、船は一度も岸に付いていない、一体あと何日すごしたら この船は陸地に辿り着くのか。

 

 

「…………蓮華、ここにいたのか」

 

 一刀が蓮華を見つけ出したのは、もう誰もいなくなった甲板の上だった。満点に輝く星空を見上げて蓮華は言う。

 

「今日は本当に楽しかった、…いい人ね、あのお婆さん」

 

「そうだな、何故か知んないけど、初めてあったような気がしないし」

 

 言いながら、一刀は若妻の隣に寄り添う。

 

「夜は冷えるぞ、もう少し俺にくっつきな」

 

「もう、新妻は甘やかしすぎちゃダメだって、お婆さんに叱られたばかりでしょ?」

 

「それでも俺が蓮華を大事にしたいのは、性分なんだから仕方ないさ」

 

 一刀は手に持っていた外套を、蓮華の肩にかけた。そのためだけに船室から持参してきたものだろう。本当に気の利く旦那様だ、と蓮華は感心した。

 

「………ねえ一刀」

 

「ん?」

 

「船、進んでるわね」

 

「そりゃね、川の流れに従ってるんだから」

 

「建業まで、あと何日ぐらいかかるかしら?」

 

「最低でも三日はかかるんじゃないかな?気になる?」

 

「気になるわ、だって、建業に着いたら………」

 

 

 

 再び自分は、呉主・孫権に戻らねばならないのだから。

 

 

 

 …………姉が夭折し、呉主に就いてから しばらくの月日が経ったある時、蓮華はある政治的な問題から、荊州へと出向かなければならなくなった。

 荊州は、蜀・魏の両方と国境を接する、政治的にも軍事的にも重要な拠点地区である。そこで起きたある問題を解決するために、どうしても孫権みずからが出向き、交渉せねばならない状況ができてしまった。

 

 しかも極秘裏に。

 

 劉備、曹操に気付かれることなく荊州入りすることが求められた蓮華は、そのための一策として身分を隠し、一市井の民に化けて移動することを決定した。

 護衛もごく少数に絞込み、そのたった一人に抜擢されたのが北郷一刀だった。思春などは最後まで『自分が行く』と抗議したが、市井民に化けて移動する以上、女の二人連れの旅はいかにも怪しいし、反対に一刀ならば むしろ夫婦と思われて少しも怪しまれる恐れがない。

 それに、蓮華が荊州に行く目的が交渉ごとであったものだから、ますます思春よりも一刀の方が適任とされた。なぜか一刀は、交渉ごとになると驚くほどの能力を発揮すると、今では全員の一致する評価だった。

 

 そうして蓮華と一刀は誰にも知られず荊州入りし、現地の魯粛とともに とある交渉を無事成功させ、事なきを得た後に戻る呉都への帰路が、今のこの船旅であった。

 

 この船が建業に着くまで、蓮華と一刀はいまだ商家の若夫婦でいることとなる。

 

「……でも」

 

 蓮華は思い出して笑った。

 

「一刀が、こんなに舌三寸が巧みだったなんて意外だわ。建業に店を出したとか、郷里の幼馴染を迎えに行ったとか、よく次々とウソが浮かぶわね?」

 

「浮かんだわけじゃないよ、出発前に冥琳が書いてくれた設定を使ったの。…覚えるの大変だったんだからな」

 

 そうだったの、と蓮華はクスクスと笑った。

 自分と一刀が、名もなき山村の幼馴染で、若夫婦。そんな言葉に、何故か胸がときめいてしまう。

 

「ねえ一刀、下々の者は、こういう風にして小さな恋に胸を焦がしているのね」

 

「…恋をすることに、大きいも小さいも、上も下もないよ」

 

「そうね、でも……」

 もし自分が本当に、呉の主ではなく、ただの一人の娘として、一刀と結ばれていたなら。

 昼間の老婆の話のように、ささやかな花嫁衣裳を着て一刀に嫁ぎ、灯火のような恋の果てに その結晶を授かり、たとえ夫に先立たれようと、遺された種を大切に育み、死別したことすら大切な思い出にすることができる。

 そんな人生を、一刀と……。

 

「憧れる、そんな人生に?」

 

 一刀が尋ねる。

 

「憧れてないと言えばウソになるわ。でもね、私、別のどこかでは ちゃんと理解しているの。そうした人々の、一つ一つの小さな幸せを守ることこそが、王としての私の仕事なんだって」

 

 王の眼差しをした蓮華が、外套をギュッと握り締めた。

 あのお婆さんの話にもあった、彼女の連れ合いは、賦役のために死んだのだと。その賦役を発したのは、前の天子の御世というからには腐敗した漢王朝。腐敗した政治は、いたずらに民を苦しめ、ゆえなく殺す。そのような理不尽をなくすためにも、王は誠実で、仁愛に富まなければならない。そんな王の座に今いる者が、他でもない蓮華なのだ。

 

「一刀、…今 私の魂は、この長江の水面で遊んでいるわ」

 

 そしてこの流れが建業へ至った時、蓮華の魂は孫権の肉体へ戻らなければならない。王としての勤めを果たすために。

 

「私は この河を下って孫権になる、孫権になって王の使命を果たす。あのお婆さんのような人が、一人でも多く、その生を満足にまっとうすることができるために、好きな人と添い遂げられるように……」

 

「蓮華なら、できるさ」

 

 一刀が、後ろから蓮華を抱きしめる。

 

「俺も、できる限りの協力はする。市井の人たちと形は違うかもしれないけれど、それでも精一杯 蓮華のことを愛してみせる。使命か、恋愛か、どっちか一つだけ選べなんて、ケチなことはさせない」

 

「ありがとう、一刀」

 

 蓮華は抱きしめる一刀の手に、自分の手を重ねた。

 

「でもね、この船は、まだあと何日かは長江の上にいるわ」

 

 蓮華はイタズラっぽく舌を出して、笑った。

 

 

 

 蓮華の魂は長江の流れを下り、いずれ孫権の肉体へ帰る。

 

 

 

「それまでは ずっと、私をアナタの、可愛い新妻でいさせてね」

 

 終劇


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
119
7

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択